tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

「京都は卒業したので奈良に来ました」という方が増えています。奈良県には古代も中世も近世も。ぜひじっくりと巡ってください!

田中利典師/随想随筆(4)拝観講座を主催

2016年06月26日 | 奈良にこだわる
金峯山寺長臈(ちょうろう)の田中利典師が中外日報(宗教・文化の専門紙)に4回連載された「随想随筆」の最終回(6/3付)を紹介する(第3回は、こちら)。師のブログ「山人のあるがままに」に掲載された。
※トップ写真以下3枚の写真は、「りてんさんといく拝観講座」で撮影(4/29~30)

今回の見出しは「拝観講座を主催/世間にアクセス積極的に」。先日開催された「りてんさんといく拝観講座」(私も参加した)をマクラに、金峯山寺宗務の第一線から退かれて以降の活動についてお書きである。しかし師のブログには

中外日報で連載している拙稿「随想随筆」全4回の最終回です。少々甘い最終章になりましたが、まあ、とんがらないでつれづれに、いまの心象をしたためています。よろしければご覧下さい。

実は今回の原稿執筆は大ちょんぼをしていまして、字数制限を勘違いしたまま書き上げました。依頼されていたのは12字×79行でしたが、私が書いたのは17字×79行。

なんと3割も多く書いたので、削るのに大変苦労をしました。少し舌足らずな感が残ったのはそのせいもあります。またなにかの機会で元原稿をアップしたいと思います。

とあった。つまり新聞に掲載される前に「完成稿」があったのだ。私は、そのモト原稿を拝見したいとムリを申し上げた結果、このほど原稿をお送りいただいた(師のパソコンがウイルスに冒されたので、お送りいただくのが遅くなった)。以下にモト原稿を紹介させていただく。文字数調整後の原稿は、中外日報の紙面でご覧いただきたい。



本山宗務の第一線から退いて、今までとは違う比較的自由な立場でいろんなことに関わっているが、この春、「りてんさんといく金峯山寺拝観講座」を企画した。Facebookやブログなど、SNSでの告知を中心に、20名限定で募集して、有り難いことに最終21名の参加者を得た。

内容は吉野山の宿坊に宿泊して、修験道講座、宿坊夕座勤行、食事作法付き食事、蔵王堂夜間拝観、夜の交歓親睦会、そして翌日の朝からは蔵王堂勤行、朝食、蔵王堂秘仏拝観案内、本地堂法話会、お別れ昼食会と、午後3時から翌日のお昼過ぎまでびっちりと予定を組んで、ご一緒した。普通の講演会なら、4回分くらいはしゃべったかもしれない。

おおよその参加者の意見は、来て良かったというものであった。次はいつやりますか?と催促も受けた。そんな研修会を主催して感じたのは、自分たちが思う以上に僧侶の世界、お寺の世界に対して一般の方々が興味を持っているのだということだった。「こんなに身近にお坊さんと会うことはないです」と何度も言われたりしたし、「一杯、接したことが嬉しい」と何人もの参加者に言われたのだった。逆に言えば、私たち僧侶が思う以上に普段は一般の人々から僧侶が遠ざかってしまっているということだろう。そのこと自体を私たちは深く自覚しなくてはいけない。



4回にわたり本稿で紹介した、地元綾部でのコミュニティラジオの出演も、Amazonの僧侶派遣業の問題も、寺社フェス向源のことも、更には「りてんさんといく拝観研修」も、私にとっては同根から来ている。宗教から遠ざかった人々に少しでも寄り添う試みが大切なんだという思いである。幸い私の周りには「たなかりてんを若い人に近づけようプロジェクト」というような動きをしてくれる人々もいて、この5月、6月だけでも地元綾部での講演会や奈良町での法話会など、8つの催しが企画されている。

初詣に行き、お盆には墓参りをし、神社や教会で結婚式を挙げ、クリスマスも祝い、人生の終焉には大方が僧侶を呼んで葬儀をする…そういう日本人が無宗教であるはずがない。宗教者側が、もっと積極的に世間に対しいろんなアクセスをする必要があると私は思っているが、思っているだけではだめなので、まず出来ることから始めることとしたのである。

宗教を取り巻く状況は決してよいとはいえない。政教分離の問題もあるし、オウム真理教事件以降はここ20年、宗教といえば禁忌される風潮さえ漂ったままである。スキャンダラスに取り上げられる宗教事例ばかりが氾濫して、宗教の持つ良さや尊厳性にあまり目が向けられない現状もある。そこを打破する努力がこれからは一層、問われていくのだと思っている。

まさに修験の教えで言う「山の行より里の行」を自分なりに体現しなければならないと思うばかりである。さてさて、本稿も約束の紙面が尽きた。私に何が出来るのか、たかがしれてはいるが、最後に、私なりにこの道を進めることをお誓いして、筆を置くこととする。徒然なる文章に最後までお付き合いいただき感謝申し上げたい。


この写真は利典師のFacebookから拝借

「りてんさんといく拝観講座」について、「おおよその参加者の意見は、来て良かったというものであった」とお書きの通り、私も参加して本当に良かったと思っている。お坊さん、しかも修験道のお坊さんたちと身近に接し、一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだり。なかなか普段はお聞きすることのないお話も聞くことができた。夜間や早朝に蔵王権現さまの前でのお勤めに参加できたのも、得がたい経験だった。

しかし何より素晴らしかったのは、田中利典師というスゴい方と四六時中顔をつきあわせることができたということ。ご講話以外は別のお坊さんに任せることもできたと思うが、師はそれをせず、常に付き合っていただけたということが、何より有り難かった。

「日本人が無宗教であるはずがない」は、この随筆の第3回で紹介させていただいた。英語の「religion」を「信仰」ではなく「宗教」と訳したことから「私は無宗教で…」などという日本人ができあがった。分別のつくトシになって、全く信仰心を持たない日本人など、いるのだろうか?

「宗教を取り巻く状況は決してよいとはいえない」は、残念ながらその通りである。オウムの昔もあれば、最近はイスラム過激派によるテロ事件があいついでいる。私の身近で、こんなこともあった。湯川遥菜さんや後藤健二さんの拉致事件が起きた2014年頃、国内のある銀行が「ハラール」(イスラム法で許されたもの)に関するセミナーを企画し公表した。訪日外国人観光客が急増する中、インドネシアやインドなどからムスリム(イスラム教徒)がたくさん来られているので、その対応を学ぼう、というものだが、それが公表後、突然中止された。

それは「イスラム教徒=過激分子」という誤った思い込みがあったのだろう。世界で最も人口の多いのがキリスト教徒で、2番目がイスラム教徒だ。おそらくそんな事実も知らずに思い込みだけで中止したのだろう。ウチは幸い実施できたが、やはりこの裏には「宗教=危険なもの」という誤った刷り込みがある。

以前師は『月刊住職』に、こんなことを書かれた。昭和の終わり頃、金峯山寺の知名度が低かった時代の話だ。《「薬師寺の高田好胤さんみたいな人が金峯山寺から出なあかんな」といわれたのです。薬師寺には橋本凝胤和上もおられたが、その弟子の好胤さんが出たことが再興につながった。立派な仏様や伽藍があっても、現実には人を介してしか伝わらない。(中略)そこで不肖、自分は高田好胤にはなれないけれど田中利典にはなれる、と》。利典師は一念発起し、金峯山寺の再興に取り組まれたのである。蔵王権現像の特別ご開帳も、利典師が企画された事業の1つだ。

最後に師は《私なりにこの道を進めることをお誓いして、筆を置くこととする》と書かれている。人生80年の時代にあって、還暦をお迎えになったばかりの師は、まだまだこれからが正念場だ。利典師、今後ともよろしくお願いいたします!

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奈良ものろーぐ(3)会津徳一/奈良と会津 つなぐ仏縁

2016年06月25日 | マスコミに紹介されました!
奈良のスグレモノやゆかりの人物を紹介する「奈良ものろーぐ」(奈良日日新聞に毎月第4金曜日掲載)、今回(6/24)紹介するのは会津の「徳一(とくいつ)」という平安初期の法相宗のお坊さんである。地元では今も「徳一菩薩」として尊崇されている。

私は今年の4月23日(土)~25日(月)「会津の愛にふれる旅」に参加して会津を訪ねた。往復とも伊丹から飛行機で訪ねたのだ。「奈良と会津1200年の絆実行委員会」事務局長の末村誠規さん(NPO法人 奈良まほろばソムリエの会会員)にお誘いいただいた。

ツアーのメンバーには末村さんはじめ西山厚さん(同会委員長、帝塚山大学教授)や高次喜勝(たかつぎ・きしょう)さん(徳一研究家、喜光寺副住職)、それに五十嵐公子さん(日本メークアップアーチスト学院講師)もいらっしゃり、とても豪華な3日間の旅となった。そこで徳一のことを学んだ。

ツアー中にはシンポジウムが開かれ、その様子が福島民友新聞(4/25付)に《『仏都会津』源流を探る 「奈良と会津1200年の絆」シンポジウム》として、大きく掲載された。全文を紹介すると、

約1200年前に奈良から会津に赴き、仏教文化を伝え「仏都会津」の礎を築いた高僧「徳一(とくいつ)」を懸け橋に、両地域のつながりを考えるシンポジウム「奈良と会津1200年の絆」は24日、会津若松市で開かれた。来場者は徳一の人間性や会津の文化を踏まえて"仏都会津"の源流を探り、会津と奈良の一層の交流促進を誓った。

 復興を支援しようと、奈良の学識経験者や仏教関係者らでつくる「奈良と会津1200年の絆」実行委員会の主催、会津の有志でつくる「会津と奈良いにしえの絆継承委員会」(上野利八会長)の共催、福島民友新聞社の特別後援、県立博物館などの後援。これまで奈良市で2014(平成26)年、15年と2回開催、3回目の今回は本県で初めて開かれた。

 第1部では、徳一が学んだ法相宗(ほっそうしゅう)の大本山・薬師寺(奈良市)の研究員で僧侶の高次喜勝(たかつぎきしょう)さんが「徳一ぬきには語れない仏都」と題して基調講演。高次さんは徳一の人物像を伝える史料や奈良時代の仏教界の状況を解説しながら、「菩薩(ぼさつ)と称された徳一は民衆布教や地域先導、救済事業を行った。人々に手を差し伸べる『利他』の活動で、地域に根差したことを忘れてはならない」と語った。

 第2部では、民俗学者の赤坂憲雄県立博物館長、大和川酒造店(喜多方市)の佐藤弥右衛門会長、帝塚山大(奈良市)の西山厚教授がパネルディスカッションを行い、会津と奈良の「過去、現在、未来」を語り合った。冒頭、上野会長があいさつし、シンポジウムに参加している奈良などからのツアー一行約30人を歓迎した。シンポジウムには福島民友新聞社の五阿弥宏安社長が出席した。


前置きが長くなった。おしまいに、今も地元で敬愛される徳一菩薩のことを書いた「奈良ものろーぐ(3)」の全文を以下に紹介する。

会津徳一/奈良と会津 つなぐ仏縁
徳一(とくいつ)という僧をご存じだろうか。「尋常な学僧ではなかった。〝会津徳一〟などとよばれて、平安初期の仏教界で畏(おそ)れられる存在だった。さらには、日本史上、最大の論争家でもあった。その点、論争べたな日本人のなかで、かれは奇蹟のような存在として歴史のなかで光芒(こうぼう)を放ちつづけている」(司馬遼太郎『街道をゆく33』朝日文芸文庫)。徳一の論争の相手は、最澄と空海だった。

徳一は法相宗の僧侶で、若い頃に奈良(おそらく東大寺)で修行し、その後、東北へ移った。会津(福島県)で慧日寺(えにちじ)などを開き、今も地元では「徳一菩薩」と敬愛されている。徳一が創建したと伝わる寺は、東北から北関東にかけて約二百とされるが、徳一に関する資料は少なく、最澄や空海と交わした書簡に手がかりが残る程度である。

徳一は、とくに最澄と激しく論争した。万人が仏性(仏になりうる性質)を持つ、という最澄の主張に徳一が旧仏教を代表するかたちで反論したのである。温厚な最澄にしては珍しく、自著のなかで徳一を「麤食者(そじきしゃ)」、つまりまずいものを食べている者・良質の学問を学んでいない人間、とののしっている。

「徳一は、奈良朝後期の大権勢家だった藤原仲麻呂(706~64)の子という説があるが、よくわからない。ともかくも、弱冠にして会津にゆき、慧日寺(恵日寺)をおこし、奥州と関東の一部におそらくはじめて正統の仏教をひろめた。みずからサトリをひらいて、他を利したという点、空海が〝菩薩〟とよんだのも、あながち過剰表現とはいえない」(同)。弱冠とは、20歳のこと。

徳一が仏教を広めたことが契機となって、会津は今も「仏都」と呼ばれる。その会津17市町村が申請した「会津の三十三観音めぐり~巡礼を通して観た往時の会津の文化~」は、平成28年度の「日本遺産」に認定された。

文化庁のホームページによると「東北地方で最も早く仏教文化が花開いた会津は、今も平安初期から中世、近世の仏像や寺院が多く残り『仏都会津』とよばれる。その中でも三十三観音巡りは、古来のおおらかな信仰の姿を今に残し、広く会津の人々に親しまれている」。

徳一を縁に、会津と奈良の絆をもう一度深めようという取り組みが始まっている。中心は「奈良と会津1200年の絆実行委員会」(委員長 帝塚山大学教授・西山厚氏)だ。「会津からの片思いに、奈良もこたえよう」をモットーに、またいまだ傷の癒えない東日本大震災復興支援のお役にたとうと、これまで奈良と会津で計3回のシンポジウムや会津を訪ねるツアーなどが行われた。会津に開いた仏教の華、徳一を手がかりに思いを致していただきたいものだ。


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グリル ヨシダ(御所市栄町)の超弩級!チキン南蛮セット

2016年06月24日 | グルメガイド
最近よく「鶏のむね肉が体に良い」という話を聞く。《タンパク質を豊富に含む重要な供給源であり、健康維持に有用な食材です。また、脂質含量が極めて低いことから、ダイエットにも適しています。 鶏むね肉には、アンセリンとカルノシンというイミダゾールジペプチドが豊富に含まれています。このペプチドは、発ガンや老化に対する予防効果が期待される抗酸化作用や抗疲労効果をもっています》(日本医科大学Gのホームページ)。


お隣は「おけいちゃん」(葛城の峯G級グルメコンテストで優勝)

もも肉の陰に隠れてあまり陽が当たらなかったむね肉だが、もともと安くてローカロリーだし、抗酸化作用や抗疲労効果があるとは有り難い。そこで思い出したのが「グリル ヨシダ」(御所市栄町60-23)である。ここは鶏むね肉を使った超弩級(ちょうどきゅう)の「チキン南蛮セット」(1,080円)が人気である。先日(6/1)、近くを通りかかったので、チャレンジしてみた。



お店は御所市役所の近くであるが、住宅地の中にあり目立つ看板がないので、とても分かりにくい。お隣りが、2011年に開催された「葛城の峯G(ごせ)級グルメコンテスト」で見事優勝した「おけいちゃん」なので、この店の看板を探した方が早い。


店舗外観。この写真のみ、株式会社ホウワのホームページから拝借

私が訪ねたのはちょうどお昼どきだったので、店内はほぼ満席。かろうじてカウンターだけに空席があった。市役所の職員だろうか、若い男女が多い。総じて「常連さん」然としたお客さんばかりだ。見ていると「チキン南蛮セット」(ライス、味噌汁、ドリンクつき)だけでなく、平日限定の「日替わりランチ」(同 850円)や「MIXフライ定食」(同 1,350円)を食べている人もいる。それにしても料理は皆、すごいボリュームである。


なお最近よく、食べ物のボリュームが多いとき「ボリューミー(volumy)」という人がいるが、この英語は服装や髪型で「量感がある」という意味で、食べ物には使わないそうなので、ご注意を。まあ免許証の「更新」などの意味で使う「リニューアル(renewal)」という英語が「リニューアルオープン!」などとして使われているので、「ボリューミー」も次第に市民権を得るのかも知れないが…。



運ばれてきたチキン南蛮が上の写真である。揚げたて、あつあつ。想像を絶するボリュームで、これは完食できるだろうか。ナイフを入れてみると、柔らかくてスッと刃が入る。断面はこんなに分厚い。タルタルソースがまたうまい。

肉はやや水っぽく感じられた。むね肉は酒と塩をもみ込むと柔らかくなるが、その水分で水っぽくなるのだろうか。しかし食べても食べても減らない。うーんこれは私としては珍しく、食べ残してしまった、美味しいのに残念だ。ランチを食べ残したのは、何十年ぶりだろうか。



ドリンクもついていて、私はホットコーヒーを注文していた。カウンター越しに眺めていると、ちゃんと1杯ずつサイフォンでいれている。料理も作り置きせず、注文を聞いてから作り始めるそうで、やや待つ時間が長いが(急いでいる方にはお薦めできない)その分、美味しくいただける。

ここは駐車場がお店の前と隣地にあるが、キャパが少ないのでご注意を。御所市役所近く、おけいちゃんの隣の「グリル ヨシダ」、ぜひお腹を空かせてお訪ねください!
※食べログは、こちら
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真田丸(24)滅亡

2016年06月23日 | 奈良にこだわる
NHK大河ドラマ「真田丸」、日曜日(6/19)は「第24回 滅亡」、つまりは北条氏滅亡の話だった。NHKのHPから「あらすじ」を拾うと、

信繁は沼田裁定で競り合った本多正信、板部岡江雪斎から頼まれ、北条氏政の説得に向かう。降伏するように説くが、氏政は容易には受け入れない。やがて徳川家康、上杉景勝、そして昌幸が氏政の元をひそかに訪れる。東国でしのぎを削った強敵同士として、秀吉に許しを請い生き延びることを勧める。実力を認め合う者たちの言葉に氏政の下す決断は―。

信繁は北条氏政に降伏を促すため、城に潜入。捕らわれながらも説得を試みるが、これは空振りに終わった。前回同様、高嶋政伸(北条氏政)の真に迫った演技が光る。こそのあと徳川家康、上杉景勝、真田昌幸が勢揃いし、氏政を説得するシーンが見ものだった。説得に応じない氏政に、昌幸が言い放つ。「死にたければ死になされ。されど、生きておればまだまだ楽しいものが見られますぞ。このまま秀吉の天下が来るとは到底思えぬ。もう一暴れ、したいとは思いませんか?」。これに対して氏政は「おぬしらの働きぶり、あの世でしかと見物させていただこう」。そして、やはり氏政の最後は、汁かけ飯…。

このあたりの展開、本当にあったのだろうか。検索してみると、三谷幸喜のこんな文章がヒットした。朝日新聞デジタル(6/16)「最新の歴史研究が支えに(三谷幸喜のありふれた生活:805)」に、こんなことを書いていた。これはなかなか手がこんでいる。


大河ドラマ「真田丸」。今週と来週は豊臣秀吉の小田原征伐。北条氏の滅亡をじっくり描いている。今回は時代考証の話。「真田丸」には黒田基樹さん、平山優さん、丸島和洋さん、佐多芳彦さんという戦国史の専門家が時代考証・風俗考証のスタッフとして加わっている。皆さん、その道ではトップクラスの人たちだ。

直に言って、僕の歴史知識は一般レベル。「賤ケ岳の七本槍(やり)」を六人までは言えるけど、平野長泰が思い出せない、その程度だ。そんな僕が書いた台本を、時代劇に精通したプロデューサーたちと時代考証スタッフの面々が、がっちりサポートしてくれる。最新の学説を元に、既成の概念を打ち破る戦国ドラマを作ろうと、皆さん、気合満々。

僕は台本を書きながら、歴史的に分からないことがあったら、プロデューサーに相談。例えば、関ケ原の合戦の時、石田三成の挙兵の知らせはどうやって真田昌幸に伝わったか。伝令が走ったのは想像出来るが、この時、昌幸は上杉征伐に向かっている最中。どこにいるか分からない相手に、緊急の密書を送る時、当時はどうしていたか。小説なら「昌幸の元に三成から密書が届いた」の一行で済むが、ドラマは具体的なことがはっきりしないと、何も書けない。

書き上げた初稿を元に、考証会議が行われる。僕は次の回を書いているので、参加はしない。先生たちのチェックが入り、さらにそれを元に第二稿を書く。その作業を何度も繰り返しながら、決定稿に近づけていく。

ドラマでは真田信繁は秀吉の馬廻(うままわり)衆(いわゆる護衛)を務めている。専門家から歴史の捏造(ねつぞう)だと指摘されたが、これは決して僕の創作ではない。馬廻をしていた事実は、つい最近になって分かったこと。歴史は日々成長している。

小田原征伐で、信繁を活躍させたいと思った。この戦に参加しているのは確かだが、どんな役目を果たしていたかは、定かではない。そこで、「北条氏政に降伏を促すため城に潜入」というエピソードを思いつく。だが実際は降伏の交渉をしたのは黒田官兵衛。史実は曲げられない。

官兵衛は秀吉の命を受けたオフィシャルな交渉係。その裏では、徳川家康らも密(ひそ)かに開城交渉をしていたらしい。官兵衛とは別に、信繁は家康の命令で非公式に氏政に会うというのはどうか。考証の先生たちの意見を踏まえ、プロデューサーが考えてくれた。

では、なぜ家康は信繁に託したのか。そこからは僕の仕事。その前の回で、秀吉の前で信繁と舌戦を繰り広げた、北条の外交担当板部岡江雪斎と、家康の軍師本多正信を思い出す。信繁の知恵と度胸に惚(ほ)れ込んだ彼らが動いたことにしよう。こうしてようやく物語が動き出す。そんな感じで毎回やっています。

複数の交渉が同時に行われていたことは、あまり知られていないので、官兵衛ファンの方は、信繁が手柄を横取りしたとお怒りかもしれませんが、そうではないのです。描かれていないだけで、ちゃんと官兵衛も頑張っているのです。


なるほど、こんなやりとりをしているのだ。最近「三谷幸喜の台本が遅れまくり?」という記事が出ていたが、頑張っていただきたいものだ。では最後に、藤丸タダアキさんのブログを紹介する。藤丸さん曰く「歴史は繰り返されるとともに、個人の事歴は子孫まで残ってしまいます」、これは深い言葉だ。


約20万の豊臣軍と小田原に籠城している約5万の北条軍。小田原攻めは籠城戦でもあり、そんなに戦闘はなかったでしょう。なので、史実にはなくても多くの外交の駆け引きがあったでしょう。しかし、高島政伸の氏政役は真に迫っていますね。板部岡江雪斎も良い雰囲気です。

氏政の考えは家康・伊達政宗との共同戦線による東国統治だったでしょう。伊達150万石、徳川150万石、北条250万石で、550万石となります。しかし、この当時、もう秀吉の臣従地域は1000万石を超えています。その勢力で戦っていたとしても結局は強者秀吉に飲み込まれていたでしょう。

結局は大は小を兼ねることが社会の宿命です。より大きい構想がある方がより多くの人を惹き付けます。北条の構想力は秀吉の構想力に勝てませんでした。真田丸24話滅亡は北条家の滅亡です。

さて、秀吉は約束を破り、氏政は切腹します。秀吉はもう国内は制圧したということで信義を破ります。秀吉や家康に共通する事ですが、史実に残ることを計算していません。天下統一という事業はその後も永遠に続くように支配者は思っていたでしょう。しかし、24話において、滅亡するのは北条だけでなく豊臣家の信義でもあるでしょう。

家康も大坂の陣で豊臣家を散々だまして、滅亡させます。しかし、それは260年経った、幕末以降に徳川家に結局は影響を与えます。歴史は繰り返されるとともに、個人の事歴は子孫まで残ってしまいます。

北条氏政と小田原北条氏はこれにて滅びます。息子の氏直は高野山に登った後にすぐに亡くなります。しかし、北条家は5男の氏規の子孫が残ります。大坂河内狭山藩にて明治まで存続し、今に至っています。

板部岡江雪斎はこの後、秀吉に仕えます。戦後のさまざまな決定は宇都宮で行われました。宇都宮評定です。東北は伊達がようやく中央部を征した頃でした。他は小さな大名ばかりでした。伊達政宗と片倉小十郎景綱が出てきます。実は片倉景綱の息子の重長の嫁は信繁の娘です。これは大阪の陣でのエピソードがあります。それを待ちましょう。

真田丸も24話目にして、秀吉の統一がほぼ完成しました。これは同時に信繁の青年期の戦いの終わりを意味します。何故なら、これ以降関ケ原まで東国には戦争がほぼないからです。紛争は少し東北で起きました。これからは豊臣家が滅亡に向うようになっていきます。真田丸24話滅亡の感想でした。
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土倉庄三郎翁を語る/奈良まほろば館で、7月10日(日)11:00から!(2016 Topic)

2016年06月22日 | お知らせ
2か月に1回(奇数月)に奈良まほろば館(東京・日本橋三越前)で開催している「まほろばソムリエの深イイ奈良講座」、7月は私の出番である。今年、百回忌を迎えた日本林業の父、土倉庄三郎翁を語る。同館のHPには、
※トップ写真は、見事な吉野杉の人工美林(川上村)

まほろばソムリエの深イイ奈良講座
平成28年7月10日(日)11:00~12:30
「日本林業の父 土倉庄三郎~百回忌に知る!翁の生涯~」

NPO法人奈良まほろばソムリエの会より講師にお出でいただき、奈良の魅力を色々な切り口で楽しく語っていただきます。

今回のテーマは、吉野が生んだ偉人・土倉(どぐら)庄三郎翁。「森と近代日本を動かした男」とも呼ばれ、今年は百回忌を迎えます。NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の主役・白岡あさのモデルとなった廣岡淺子女史の日本女子大学設立を支援したことでも知られています。土倉翁のすべてが90分で分かる今回の深イイ講座。ぜひ、ご参加ください!

1.日  時:平成28年7月10日(日)11:00~(1時間半程度)
2.演  題:日本林業の父 土倉庄三郎~百回忌に知る!翁の生涯~
3.講  師:鉄田 憲男 氏
       NPO法人奈良まほろばソムリエの会 専務理事、奈良佐保短期大学 講師
4.会  場:奈良まほろば館2階
5.資料代等:500円(※当日受付にて申し受けます。)
6.定  員:70名(先着順)
7.申込方法:
  ・ハガキまたはFAX
   必要事項(講演名・講演日・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、
   奈良まほろば館までお送りください。
  ・ホームページ
   「申込フォーム」からお申し込みください。
お問い合わせ先
奈良まほろば館 【開館時間】10:30~19:00
〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F
電話03-3516-3931 / FAX03-3516-3932

※聴講券等の発行はいたしません。定員に達し、お断りする場合のみご連絡いたします。
※キャンセルされる場合は事前にお知らせください。



6月19日(日)には、川上村で「土倉庄三郎没後100年記念事業 百回忌と記念式典」が開催された(私は、ソムリエの会の総会があったので欠席)。式典を仕切った田中淳夫さん(森林ジャーナリスト)のブログによると、

土倉庄三郎没後100年記念事業、百回忌と記念式典、終わりました。燃え尽きました……。

百回忌法要に続いて会場を移り、リレー対談相手と打ち合わせ。基調講演、それが終わるとすぐにエントランスで『樹喜王 土倉庄三郎』販売顔見せ。そしてすぐにリレー対談。終わると本の販売(とサイン)。来賓や関係者と撮影。土倉家の子孫と面談。気がつけば撤収……。会場のホールは満席で階段に座る人も。さらに100人ほどがホール外エントランスにいたという……。さすがに初めての経験。

内容も、まずまず。リレー対談では私も知らない土倉翁の逸話が結構出たし、展示会場でも貴重な初見参の資料が並んだ。来賓挨拶などで押した15分も、私の絶妙の仕切りで(^o^)、きっちり時間内に終わらせるという技を見せたし。


ホールが満席で、100人がエントランスにいたとは、大盛況である。この催しに備え、私は6月1日(水)、川上村のホテル杉の湯で土倉翁の話をさせていただいた。少しはお役に立てただろうか。

なかなか機会のない土倉翁の話である。配付資料も充実している。東京圏の皆さん、ぜひお申し込みください!
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