森林ジャーナリストの裏ブログ

表ブログに書けない、書く必要もないドーデモ話をつらつらと。

宮沢賢治

2007-10-30 00:33:17 | 森林モノローグ

先週、丹波から岩手を回る旅をした。家を出たときは雨で、丹波もかなりの大雨。
少しずつ止んできたかな、と思う夕方、飛行機で仙台に飛んだ。すると、またもや大雨。夜は濡れながら歓楽街を歩いた(;O;)。
そして翌日は岩手南部の一関。小雨。雨の移動とともに私も北上している気になる。それでも野外講演中は晴れる。ホッと一息。
夜は盛岡。翌朝から岩手北部の葛巻。やっぱり小雨。雨雲の移動とともに私も動いているんだから、仕方ないか。笑っておこう。

 

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち
欲はなく 決して瞋(いか)らず
いつも静かに笑っている

 

宮沢賢治の詩が頭に浮かんだ。そうそう、岩手は宮沢賢治の世界だった。

実は、私は学生時代に東北を一周する旅をしている。野宿も交えた貧乏旅行だったが、その際のモチーフというか、テーマの一つが宮沢賢治だった。

 

宮沢賢治には熱烈なファン?マニア?がいるが、私はそこまで入れ込んでいたわけではない。しかし、気になる存在ではあった。とくに賢治は、実社会では農業技師であり、科学的な思考を身につけている。
実際、訪れた一関にも在籍して、地元の石灰岩から石灰を作って肥料にする計画を押し進めている。また作品「グスコーブリの伝記」では、冷害に苦しむ農民のため、火山を噴火させて二酸化炭素を排出させることで農作物の稔りをよくするというアイデアが登場する。その是非を論じるのではなく、企画力が大切だ。

 

そんな思考と、ファンタジーな作品群が同居した人物に魅せられたのだ。

 

日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい

 

この最後の一行に魅せられた、のかも。

(写真は、猊鼻渓)


屋久島全景

2007-08-29 17:15:58 | 森林モノローグ

この写真、実は屋久島から送ろうとして失敗したもの。 携帯からの発信は、時々難しくなる。

でも、屋久島の全景は意外と見にくい。なぜなら船はジェットホイルなもので、甲板に出られない、席もほとんど立てないから。かろうじて波しぶきかかる窓から撮るしかなかった。屋久島の山は、なかなか日本離れした景色が多いから、一度、飛行機で屋久島に行って、空から全景が見たいな。

 

屋久島行については、ブログ『だれが日本の「森と木と田舎」を殺すのか』を読んでください。

 


時ならぬ紅葉

2007-07-18 12:14:33 | 森林モノローグ
庭のカエデが、部分的に紅葉した。

原因は、やはり剪定だろう。伸びすぎた枝をズバッと伐り落としたが、その切り口の周辺の葉が赤くなっているのだ。植物はストレスがかかると紅葉することがある。あまりよい印ではない。

とはいえ、夏の庭にミスマッチな美しさもある。

随分前だが、冬の杉林が赤く染まっているのを見て、何か枯れる原因があるのですか、と森林組合の人に聞いたら、「冬の間は水分が少なくて赤くなるものだ」と教わったことがある。恥ずかしかった(^^;)。

アジサイ

2007-06-30 17:09:20 | 森林モノローグ

庭のアジサイがようやく咲いた……と言っても、写真を見ればわかるとおり、貧弱である。いや、むしろ哀れな咲き方でもある。

 

これには理由がある。我が家の庭は、モッコクなどが大きく育ちすぎて昼でも薄暗くなっていたのを、大家さんが植木屋に頼んで伐ってくれた。モッコクの他、カエデやサンショウ、ヒサカキなどもばっさり。
おかげで庭は明るくなったが、気がつけば、林床の低木や草は踏みにじられている。その一つがアジサイで、枝はずたずた、もう生きてないのではないかと思うほどだった。他にも伸びていたミョウガなども折られてしまった。

植木屋は、樹木を伐るのはうまい。どの枝を落としても大丈夫か考えている。ところが、その下の草花にはとんと関心がなかったようだ。スイセンなどの葉もみんな踏まれた。樹木に目が向く人は、草花への関心は低いのではなかろうか。逆も言えるかもしれない。

かくして、我が家のアジサイもぼろぼろになったのである。

 

それでも、少しは咲いてくれたことに感謝。おそらく、数年のうちに回復するだろう。


月下美人

2007-06-23 11:08:10 | 森林モノローグ

昨夜、月下美人が咲いた。

雨の中、大輪が開き、ムッとする甘い香りをふりまいている。月は見えねど、華やかな花である。夜しか咲かないのに、これほど自己主張の強い花というのは。

月下美人が種子をつくらないことはご存じだろうか。
花は咲いても稔ることはない。不稔性らしい。おそらく日本に持ち込まれた、たった一株の月下美人が、挿し木で増やされ全国に広がったからだとされる。雌雄異性体であり、異株と出会わなければ、受粉しないのだ。

異性のいない、異国の地で、夜だけ花を咲かせる美人は薄命……。

身につまされる、人いる?

 

ブログだれが日本の「森と木と田舎」を殺すのか』 もよろしく。


タイムスリップ

2007-06-16 23:50:13 | 森林モノローグ

今期のテレビドラマの中では、「プロポーズ大作戦」がお気に入り♡

好きだった幼なじみが他人と結婚する式で、タイムスリップを繰り返しつつ自分が告白して結婚を止めようとジタバタする……。ドラマとしては、そんなに出来はよくない。ご都合主義だったり、無理なすれ違いを描いたり。ただ、「あの時ああすれば」と思わせる青春時代のイタい思いを感じさせるから、つい目が離せなくなる。

 

で、何の関係もなく、静岡に行ってきました。
訪れたのは現・静岡市清水区の三保。富士山が見事に横たわる。緑の松原が映える。青い空に青い海。舞っているのは黒い鳥(トビ?)だったが。
黒鳥は悲しからずや空の青……なんて。

 

静岡大学生時代にも、三保には幾度か訪れたことがある。たいていデートだったように思う。あの時は、どこで何をしたか、つい回想してしまう。
翌日は、同じく静大林学科出身の人に送ってもらい、大学内も車で回ってキャンパスを眺める。林学科もすでになく、講師陣もほとんど入れ代わっているのだが。
町も大学も、少しずつ変化している。ファッショナブルな女子大生も見かけた。覚えのある店が今も残っていたり、あるいはすっかり変わってしまっていたり。

とくに驚いたのは、並木の生長具合だった。記憶では、さして高くもなかったアメリカフウやケヤキなどの並木が、今や高木として林立し、学内の道を緑のトンネルのようにしている。それが時間の経過を如実に感じさせた。

 

私がタイムスリップしてあの時代にもどったら? とりあえず、失敗したり恥ずかしいエピソードを消すことに全力を尽くすかな。でも、未来は何にも変わらないだろうな。

 


里山がコンセプト

2007-05-05 13:36:33 | 森林モノローグ

昨夜飲みに入った大阪の居酒屋は、「里山をコンセプト」にしているとのことだった。

まあ、街角でもらった割引券付きチラシを見ただけだから、詳しい意図は知らない(あるのか?)が、ともかく入ると、多少インテリアが民家風で雑木を飾りつけしていたり、メニューに田舎風料理がある程度のもの。チープな感は否めなかったが、少なくても「里山風」という言葉に引かれて入ったのだから、この言葉には客を呼び寄せる力はあるようだ。

実は、昨日の昼は、生駒山の中に開店した手打ちうどんの店を訪ねていた。ハイキングコース?沿いとはいえ、決して観光地でもないところの元農家の建物を改造したうどん屋がオープンしたのだ。なんでも、大阪で修業した職人さんだとか。
訪れると、満員で、私は庭のテーブルで一人うどんをすすった。が、そこは農家の裏に隠れた棚田が見える、なかなかの特等席だった。お客も、ハイカーばかりではなく、わざわざ車でやってくる人も多そう。

その後に寄った知り合いの森の中の陶芸家のところでも、お客さんはその環境を喜んでいる。単なる陶芸教室ではなく、森の中にあるということに価値があるようだ。

かつては里山とか雑木林とか田舎には、あんまり優れたイメージはなかったように思う。しかし、今やブランドなのだ。時代の風は吹いているなあ、と思う。

でも、最後に私は、生駒の住宅街にある隠れ家的なバーに寄って、シングルモルトをなめていました。田舎や里山ばかりでは、やっぱり寂しいのよ(^o^)


獣害列島

2007-04-25 00:33:56 | 森林モノローグ

日曜日は、統一地方選…で、騒がれていたが、実は私が、その晩テレビで見ていたのは、開票速報ではなく、NHK教育のETV特集「獣害列島」である。これは見応えあったねえ。

クマ、イノシシ、シカ、カモシカ、サルなどの獣害に悩まされる各地を立松和平がレポートしているのだが、私の心に引っかかったのは、宮城県のサル害。
そこで日本サル学の大家・伊沢紘生氏(元宮城教育大学教授)。

「獣が人に追われているなんて、ウソ。冬は食べ物がないから樹皮をかじっているというのも違う。彼らは、その時々の環境に合わせて何でも食べ、生きていくんだ

そのような意味のことを言っていた。伊沢氏は、野生サルの群にボスザルはいないことや、海岸まで下りて海草を食べるサルがいることを発見した第一人者である。我が意を得たり、だった。

私も、野生動物は人に追われて生息域を狭められているから人里に出てくるんだとか、食べ物がないから人里に出てくるという意見は、うさん臭く感じていた。山に食べ物があっても、人里の田畑を狙うし、樹皮も美味しい餌のはず。冬の山では生きていけないような見方は、彼らの生命力を馬鹿にしているような気がしていたからだ。

そのことを一番よく知っているのは、山里に住む人々ではないだろうか。登場した一人は、「いくら柵を作っても、ケモノの方は、今度はあそこを破ってやろうとか、2、3日はおとなしくしておいてやるかと相談しているんじゃないか」と笑っていた。

最大の原因は、人が獣とのつきあい方を忘れたことにあるのではないだろうか。獣を見たら追う。常に警戒を怠らない、という戦前まで続いた文化が途切れたことが、獣害を生み出したような気がする。


吉野の桜と土倉翁

2007-04-12 00:38:57 | 森林モノローグ

生駒の桜は今が満開である。

そこでラッキーガーデンにスリランカカレーを食べに行く途中に車のラジオを付けたら、今日は吉野山の桜も満開宣言が出たという。
それは下千本で、今後山を登って、中千本、上千本、そして奥千本と花爛漫の日々が続くだろう。

そこで思い出した。吉野山の桜を救ったのが、土倉庄三郎である。

明治初年は廃仏毀釈運動もあって、寺院はどこも運営が苦しかった。吉野山に訪れる人もいず、吉野山の名刹もご多分にもれず、桜の維持もままならなかったらしい。
そこで、大阪の商人が、吉野山の桜を500円で買い取ることになったという。おそらく薪にするつもりだったのだろう。当時薪は重要なエネルギー資源だからだ。また桜の大木もあるから、木材も多少は得られたかもしれない。

その後にスギやヒノキを植えるために、苗を調達しようと土倉の元に吉野山の総代が訪れた。
それを聞いた庄三郎は、即座に500円を手渡して吉野山の桜は私が買うと言ったらしい。そして保存するように言った。「今は吉野山の桜を見に来る人もいなくなったかもしれないが、やがて世界と日本がつきあうようになれば、西洋人も遊びに来るだろう」

かくして、吉野山の桜は守られた。

そのほか吉野山の寺院にもかなりの援助をしている。如意輪寺には2万円、現在の価格なら3~4億円にもなる寄付をしている。土倉なくして現在の吉野山はなかったかもしれない。

さて、私は桜の木の下でスリランカ料理を食べ、それから森遊び研究所でタケノコを探した。そして今年の初物3本を掘る。

今晩は、ワカメと煮るほか、木の芽味噌和えを作った。


日本の美林

2007-03-24 00:48:20 | 森林モノローグ

非常に懐かしい人から電話があった。雑誌の編集者なのだけど、今はフリーでライター稼業もやっている。

その人からの質問。
スギ林でも楽しく遊ぶ方法はあるか」

森遊びをする場合、たいてい対象は雑木林になる。しかし、山林を購入するなり借りるなりしようと思うと、すでに植林地の場合が多い。しかも手入れ不足だろう。そんな森で楽しめるのか、楽しむ方法はあるか、という質問である。

私が、とっさに応えたのは、「美しい森林づくり」である。まるで安部内閣のスローガンみたい(笑)。ともあれ荒れた植林地を美しくすることが、もっとも楽しい森遊びじゃないか、というわけである。だから下刈り、間伐をするのだ。

とは言っても、一般人を納得させるには理論武装が必要だ。
そこで私が授けたのは、「そもそも日本人にとっての美林は、針葉樹林である」という理論だ。日本三大美林と言って、木曽檜林、秋田杉林、吉野杉林、ほかに青森のヒバ林とか高知の魚梁瀬杉林などを入れることもあるが、いずれも針葉樹の森林である。また写真などで美しい森林を選ばせると、見る前には原生林がよいと言っている人も、人工林を選ぶことが多い。

植林針葉樹林は、まっすぐな幹が林立し、下部の枝は払われているし、下草も刈られている。適度な間伐は見通しもよくする。そうした光景を美しいと感じるのだ。

さらに理論武装としては、適切に管理された人工林ほど、天然林よりも生物多様性が高いという調査結果(たとえば速水林業の森)を示す。

美しくない森林を、自らの手で美しくする。これこそ夢ある森遊びだし、汗を流して作業すれば、達成感はあるし、その思い出が、森を美しく感じさせる。

これで納得して、荒れた杉林を購入して、美しくする森遊びが広がればいいんだけどね。

 


木の根橋

2007-03-21 00:57:20 | 森林モノローグ

もう昨日になるが、兵庫県の丹波を訪れた。例の森林ビジネス塾に関する謀議を開き、ついでに?講演してきたのだが、この地域の名所が、写真の「木の根橋」。

そのままだが、ケヤキの大木の根が、川をまたいで橋のように架かっている。天然記念物にもなっているが、なるほど、不思議だ。

さて、この根は、どうして川をまたいだのか。枝じゃあるまいし、地面に触れずに空を伸びることはなぜできたのか。

が、おそらく正解は、根が川の上を伸びたのではなく、根の下の地面が水流でえぐられて川となったのではないか。それが自然現象なのか、何らかの意図があったのかわからないが、根と川の主客が逆転してはいけない。

同じような現象は、兵庫県村岡町でも見た。「水を生み出す桂の木」である。
その場所を訪れると、たしかに巨大な桂の根っこから水が湧きだしており、そこを源流とする小川が流れていた。

が、これも考えてみると、桂の木が生えたから水が湧いたのではなく、水場に桂が芽吹き、やがて大木となって湧き口を覆ったのだろう。桂だけではなく、ブナは水を呼ぶともいうが、理屈は簡単。湿気の好きな桂やブナは、水辺や地下水位の高い土地に生えやすいのである。

案外、現象を逆転して見ていることは多いのではなかろうか。

 


山は壁か

2007-02-14 02:05:50 | 森林モノローグ

先日の生駒山系のフォーラムだが、そこでは歴史の専門家と緑化と都市計画の専門家による講演が行われた。

そこで気になったのは、いずれも山(生駒山)を壁と捉えていることだ。奈良と大阪の間に立ちふさがる障壁であり、都市の中心から離れて俯瞰する高見であり、登るのは大変で危険もあることを前提に語られた。

たしかにフォーラム参加者からすれば、山は異世界であり、畏れを持つから宗教世界も広がるのだろう。

ただ、吉野帰りの私(笑)からすると、視点が違ってくる。

古代、山こそ文化の誕生の場であり、交通の要衝だった。平地は見通しが悪く、川や湿地が移動を妨げ、決して暮らしやすい地域ではなかったはずだ。高低差のある山の斜面こそ、焼き畑に始まる農耕地であり、尾根と谷を結ぶ道が延びる地だったのだ。
事実、どこの地域でも、最初に人間が住み始めたのは山である。そして山伝いに人は移動し、交易したのだ。

そう考えると、生駒山だって、奈良と大坂の文化を生みだした揺籃地と言える。

平地からの視点ではなく、山地からの視点の日本史を描くと、山は壁にはならない。


花粉症怒りの矛先

2007-02-06 17:03:59 | 森林モノローグ

記録的な暖冬のせいだろうか、山のスギは花の膨らみが目立つような気がする。
量はともかく、開花は早く、花粉の散布も早まるかもしれない。

花粉症の人には辛い季節だろう。そこで、この辛さの恨みをどこにぶつけるのか。

かつて拙著の読者から来たメールは、花粉症に関して私の記述への反論であった。細かな部分は省くが、ようするに花粉症の原因はスギ花粉が増加したことであって、山村より都会の方が花粉が舞いやすいのは、地面が舗装されているから。だからスギが悪い、というものである。

別に私は、花粉症の原因物質がスギ(またはヒノキ)花粉ではないとは書いていない。直接症状を引き起こすのは花粉であって、アレルゲンはスギ花粉であることは認めている。ただ、その陰にディーゼル微粒物質やら、寄生虫防護反応過敏などがあるかもしれない、と紹介しただけだ。問題は、原因物質が何かということよりも、その怒りの矛先をどこに向けるか、である。

一般の人は、直截にスギに向ける。そしてスギを伐るべきだ、とのたまう。先のメールでも、山元には結果責任があるのだからスギを伐るべきだと主張していた。
ほかにも、植林政策を進めた国の責任を追求するものも多い。

だが、それなら、こうした矛先はどうだ。

①花粉症になる体質であるあなたの遺伝子と身体が悪い。

②ちゃんと研究して特効薬を開発しなかった医学・薬学界が悪い。

③都会にコンクリートとアスファルト舗装をした政策。舗装を剥がすべきだ。

先のスギおよび山元責任説を④、国の政策説を⑤として、さあ、あなたならどれを選ぶ?

私? 私は①だ(笑)。これは神が人類に与えた試練である。
ちなみに、私も花粉に無傷ではない。春先は、いつも目がかゆい。


飛鳥時代の自然破壊

2007-01-26 13:35:58 | 森林モノローグ

今、治山学者の対談をまとめているが、彼が力説しているのは、日本の歴史の大部分は森林が荒れていた、ということだ。

飛行機から見ると、緑がつながって広がっている現代のような景色は、ほんの30年前に成立した、それ以前は禿山だらけだったという。そして証拠となる戦後すぐや、明治時代の写真や土地利用図を見せてくれる。明治以前は絵画だが、それまた見事に木のない景色である。

たしかに、全国どこでも、見事に禿山だったようである。木がある山も、たいてい松林。つまり痩せ地に生える木だ。当然、水害も頻繁に発生する。江戸、明治は大災害時代でもあったのだ。

このような景色にしたのは、人間である。とにかく木を伐りまくった。
それはいつの時代からかというと、飛鳥時代なのである。大阪の河内王朝時代もあるだろうが、まだこの頃は人口集中も少なく、天皇が変わるたびに都も移転していた。しかし飛鳥、そして藤原京を建設した頃から地域が固定されていく。すると古代と言えども都には人口が集中し始め、それは周辺の山から緑を奪う結果となった。

……と、ここまで原稿を書きながら、飛鳥時代に石の文化が広まったことと、何らかの関係があるのではないかと思い至った。飛鳥の宮は、緑が失われる序章だったのである。だから石の遺跡が多いのか?

その後、平城京では大仏建設も含めて、大規模な森林破壊が進む。平安京も同じだ。しかし、その過程で、石の利用を減らして再生可能な木の文化への転換が図られた可能性がある。
森林破壊が問題なのに木の文化?と思われるかもしれないが、石と金属の文化を維持するより、木を使う方がよほど木の消費量が少なくて済む、という逆説がある。石を割ったり金属を溶かすには、莫大な薪が必要だからである。

それでも人口が増え、生活を向上させたい欲望の中で森林は失われていく。
それにストップをかけたのは、まず江戸時代前期の育成林業の出現だ。ただし、これは吉野など全国でもいくつかの林業地だけで十分に広がらなかった。各藩でも治山や砂防に力を入れる為政者が登場するが、森林減少を止めるまでに至らない。

本格的なストップは、やはり明治30年代になってからだ。西洋式の緑化・砂防技術と植民地からの木材調達、そして輸入のおかげで、かなり森林減少を遅らせることができた。しかし、まだ反転はしない。

3度目の正直は、戦後である。政府の大造林政策と、燃料革命。薪や木炭から石炭石油への転換、そして化学肥料の登場によって禿山化が進んでいた里山に緑がもどり、伐りまくった奥山を人工林化を行えた。結果的に、日本史上始めて、森林率が逆転することになったのだ。

明治時代の森林率は、約45%。それが今や67%なんだから、すごい上昇だ。治山こそ森林率を上げた立役者なのである……。

というように、対談はまとめよう(^o^)。

でも、上に記したことは、『「森を守れ」が森を殺す!』や、『だれが日本の「森」を殺すのか』に書いてきたことばかりだよ。オレッテ、スゴイ 
詳しく知りたい人は、森コロを読んでね(^_-)。

 


世界遺産暫定登録

2007-01-25 13:31:23 | 森林モノローグ

富士山が、世界遺産に暫定登録されたニュースが流れていた。

が、気をつけてほしい。登録したのは文化遺産の方である。富士山の自然は、自然遺産にするほど価値がないし、ゴミだらけでなれそうにない、ということらしい。
本当は、山麓の火山洞窟群など、世界的に貴重なものもあるのだが、マイナーか。

ところで自然物を文化遺産する先例は、奈良にある。春日山原始林は、春日大社とともに世界文化遺産なのである。ここも原始林としては、さほど珍しくない(市街地に隣接していること以外は)し、実は結構人の手が入っているので、文化遺産の方が似合っているだろう。

そして奈良と言えば、今回「明日香村」「藤原京」などの遺跡が同時に暫定登録された。すでに日本最多の3つの世界遺産を持っている奈良としては、「全県世界遺産計画」を進めているのである(笑)。

ただ興味深いのは、明日香村の遺跡は、石造りが多いことだ。石舞台など数ある前方後円墳(玄室だけでなく、かつて表面は石張りだった)、有名な亀石(写真)や亀形石、酒船石、そして遺産とは関係ないが、棚田百選に見られる石垣など、妙に石造物が目立つ。
日本の古代文化は、石の文化を育んでいたことは間違いない。それなのに、いつしか消えてしまった。すでに平城京では、目立つ石造物がない。

いつ、日本文化は、石を捨て、木の文化に移行したのか。

そして、木の文化の開花が、いかに森林破壊を進めて全土を禿山にしたか……そこから森林が復活したのはコンクリート文化が開花した戦後になってからであること……と連想していくと、日本森林史と治山史が描けそうな気がする。

世界遺産から、ここまで連想した。治山問題は、もう一度改めて。