575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「 忘れられない人 」⑷ ー 画家 三岸節子 ー 竹中敬一

2020年07月07日 | Weblog



仏ヴェロン村で 。アトリエの前の庭でスケッチする三岸節子氏 ( 当時84 )
平成元年 筆者 撮る 。


私は定年近い平成元年、日本の女流洋画界の草分け 三岸節子の半生を描いた

ドキュメンタリー 「 赤い魂 〜 画家 三岸節子の軌跡 〜 」を制作しました 。

私は以前から愛知県尾西市出身の三岸節子を取り上げてみたいと思って

いたところ、耳寄りな情報を得ました 。

当時、三岸さんはフランス ブルゴーニュ地方の寒村ヴェロンに住んでいました

が、突然、「 日本に永住したい 」と言い出し、20年余り居たフランスを離れる

というので番組を企画したのでした 。

台本に残る波瀾万丈の半生について語る彼女の話の中から、いくつかの例を

出来るだけ忠実に再録しておきます 。

〇 大正9年 ( 1920 )名古屋の淑徳高女時代、毛織物業を営んでいた実家の

吉田家が倒産、この事を姉から聞かされます 。

「 庭石一つ我が家のものではないというのです 。その姉は大変、悲観的な話し

方をする人でして 。この話を聞いて、姉はそのショックで病気になり、2年後

に亡くなってしまいました 。

しかし、私はその話を聞いた瞬間に何者かになってやろう、と思ったんです 。

我が家の名誉を回復しようと思ったわけ 、生意気なんですね 。」

〇「 何者かになってやろう 」と決意した節子は16歳の時、両親の反対を

押し切って、尾西から上京 。今の女子美術大学の前身、女子美術学校へ 。

この頃、画家を志して札幌から上京したばかりの三岸好太郎と出会い結婚 。

「 彼の家へ行きましたの。そうしたら、6畳一間にお母さんと姉と3人で

暮らしているんです 。

感動しちゃったんです 。貧しいということが どういう事かわからなかったの 。

貧しいことに感動しちゃったの 。それが きっかけでした 。」

ここから、三岸節子さんの苦悩の道が始まリます 。 つづく



ドキュメンタリー 「 赤い魂 〜 画家 三岸節子の軌跡 」より
ヴェロン村のアトリエ
コメント
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