徘徊老人のひとりごと

地球上を徘徊する75歳のボケ老人のひとりごと

徘徊老人のひとりごと 熱海日乗(平成26年9月9日)

2014年09月13日 | 日記
     朝、起きて散歩にでた。
     今朝はいつもと違うコースで小川町という方面に行った。
     歩いていると、散歩している三人の若い女性に挨拶された。
     その前に、会話している言葉が中国語だったので
     「おはようございます」
     「早上好」と答えた。
     え~~っという顔をしていた。
    後で家で訊くと、釜石でも中国人が加工工場などで働いているとのことだ。
    小川町には釜石の酒造があるというので、そこを目指した。
       
       「浜千鳥」というブランド名の「浜千鳥」という会社だ。
     昔はこの辺一帯は今の新日鉄の「工員社宅」だったところだ。
    かく言う、ワタシの実家
       
       本邦初公開!(笑)屋号は「翁堂」
       小佐野駅前(釜石駅のひとつ手前の駅)だ。
       裏は昔は新日鉄の「職員社宅」や「野球場」があった。
      野球場では昔はプロ野球も開催されたし、富士製鉄時代に
      都市対抗でいいところまで行ったころは、夏になると大学の
      野球部が合宿にきたりしたものだ。
      高校野球の地方予選の会場になったこともある。
      だから、昔、ここで暮らしたり、訪れたりした人にとっては
      「ランドマーク」(目印)でもある。
     薄汚れた家屋になったが、なんとか細々と頑張っている。
     震災以降、かつてここで暮らしたことのある人が震災状況を見るため
     釜石に来ると、立ち寄る人がいるらしい。
       
        家内工業で手作りだ。
     今日は久慈までゆくことにした。
     釜石と宮古を結ぶ山田線はまだ復旧していないので、バスで
     「道の駅 やまだ」まで行き、乗り変えて宮古に向かう。
       
       津波さえなければ、風光明美な景色だ。
       
       「道の駅 やまだ」
       
       関東地方は天気がよくないらしいが、ワタシが行くところは
       天気がよい。
     宮古の到着し、すぐ「三陸鉄道」の駅に行くと、電車が発車するところ
     だった。久慈まで片道1800円(高け~~)。
     往復でも割引なしで3600円。
     まあ、三鉄に寄付するつもりで切符を買った。
       
       
       平日だが車内は混んでいるし、TVカメラマンも乗って来た。
       なんだなんだ?!
       
       
       
       景色がいいね~。車掌さんが時々、ここは「アマちゃん」の
       なんとかバッパがアマちゃんが上京する時の大漁旗を振った場所
       とか解説してくれる。
       団体さんも、バスだけで移動するのではなく、「三鉄」に乗るのも
       組み込まれているようで、盛況だ。
   久慈では
       
       まめぶ汁だべよ!ってことで
       
       具は「ひっつみ」とほぼ同じで、「まめぶ」は団子のようなもの。
     まあ、これだけでは足りないので
       
       駅でラーメンを食べた。さっぱりしていた。くどくなくてよい。
     「アマちゃん」関係のいろいろな見ものがあるようだが、
     2時間ほどぶらぶらして宮古に戻った。
       

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徘徊老人のひとりごと 熱海日乗(平成26年9月8日) 大槌へ

2014年09月13日 | 日記
   今回の母の葬儀には、母方の親戚が多く集まってくれた。
   3年前の東日本大震災で亡くなった親族は4人だと思っていたのだが
   話を聞いてみると、なんと10人も亡くなっていた。
   「忌明け会食」の後、甥っ子の車で大槌に向かった。
   3年もたつのに、まだまだ復興は進んでいないかのように見える。
   進んでいないかのように見えても、土地が広大だからで、あちこちで
   ショベルカーが動き、トラックが行き交い、復興にむけて頑張ってくれている。
       
       甥の家があったところは、大槌町町役場に近いところだ。
       右側の隅に見える建物がその役場だ。
       100メートルもない距離だ。
       
       旧大槌町町役場。役場前のお祈りするところに置かれた
       賽銭箱が何者かによって何度も賽銭箱が盗まれる被害に
       あっている。
     あたり一面、夜になると人がいないからだが、
     盗むヤツはどんな気持ちで盗んでいるのだろうか?
       
       役場の時計は4時20分で止まっている。
       つまり津波がやってきてもしばらくは動いていたということだ。
       この役場の屋上に逃げた人は助かったが、
       玄関先で会議をしていた町長はじめ20人が津波で犠牲になった。
       その犠牲者の中にも親戚がいた。
  甥っ子は盛岡に住んでいたので、津波の犠牲にはならなかったが
  両親と妹の旦那が亡くなった。旦那はすぐに身元が分かったが
  両親はなかなか見つからなかった。
  震災の日から日曜日ごとにここにやってきて両親を探した。
  玄関先の歩道に
       
       みんな待てるよ
       
       どごにいだの?(どこにいたの?どこにいるの?)
     甥っ子のあきらめきれない気持ちが伝わってくる。
     津波から約4ヶ月後の7月1日、身元不明の遺体安置所を訪れ
     探したが、それらしき人もいないと今日もダメかと引き返そうとしたが
     なんとなく胸騒ぎがして、黒こげに焼けた手首だけの遺体(?)に
     目をやると、僅かに布の切れはしが付着していたのに気が付いた。
     「オヤジ」が着てたシャツではないだろうか?!
     早速、DNA鑑定を依頼したのだ。
     その結果、8月2日に95%間違いがないと判明したというのだ。
     発見されたのは手首だけだけれど、一応のアキラメがついたという。
     大槌の津波は第一波は波だけだけれど、その後は火災が発生し
     重油が燃え、さながら火の海だったと言われる。
     「伯父」の死はそれを物語っている。
     火災で焼かれれば、骨も残らないだろう。
     これまで探して見つからなかったんだから、
     「散骨」したと思うしかないだろう。
     「伯母」も当時で84歳だった。
     甥っ子は盛岡から帰ってくると、自宅があったこの場所と
     隣近所の玄関付近に花を添え、水をまいてきれいにする。
      
     隣近所の人たちもみんな流されたりして死んだという。
    大槌には鉄筋で建てられた建物が少なかったので、津波の威力を少なく
    することが出来なかった。
    釜石の場合は、頑丈な建物があったので、ある程度津波の威力を弱める
    ことができたのだ。
    三陸地震と津波は明治29年の時は釜石をマグニチュード7.6の
    地震で釜石の人口6500人のうち約4000人が死んだ。
    当時は頑丈な建物などない時代だったから大打撃を受けたのだ。
    もっと悲惨なのは昭和8年のマグニチュード8.3の地震では
    田老町500戸のうち高台の10数戸だけが無事という大災害がおきた。
   これらを教訓に、大槌の場合は、山際にある江岸寺の本堂に避難すれば
   助かると思われていた。ところが本堂は避難者で溢れ、裏の山に建つ
   墓地に避難した人は助かり、江岸寺は津波に飲みこまれた。
       
       その墓地に建てられた石碑。
   今、被災地はブルトーザーが走りまわり、トラックが走り、
   盛り土をしているが、盛土をしてもそれが建物の土台となるまでは
   まだまだ年月がかかるだろう。
       
     このような事情を考慮して、
     仮設住宅入居期間に延長が認められているが狭い仮設住宅で
     暮らすのも大変だ。
   甥っ子の自宅のあったところから、上記の仮設住宅に行った。
   ここには、別の伯父が住んでいる。運よく、伯父は家は失ったが
   命はとりとめた。だが、娘の旦那が亡くなったし、旦那の父親が亡くなって
   年老いた母親だけが残された。
   だから、娘が二世帯の面倒をみている。
   大変だな~という言葉しか思い浮かんでこない。

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