おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

赤羽自然観察公園。味の素フィールド西が丘。・・・JR赤羽駅下車。その2。

2014-06-01 19:53:43 | 鉄道遺跡

 緑道公園の真向かいにあるのが「赤羽自然観察公園」。線路跡はこの公園の中に消えてしまうのか? 
 こういう広くてよく整備された公園があるとは知りませんでした。そこで少し寄り道。(冒頭の写真の花は「ウツギ」の花。)

新緑がまぶしい公園。

 赤羽自然観察公園は元自衛隊十条駐屯地として使用されていた土地の一部に整備された公園です。
 当該地は谷状の地形を有し、湧水が存在しており、この湧水の保全・活用をするため、北区では従来タイプの公園づくりではなく、「自然とのふれあい」をテーマに新しい公園づくりを目指しました。
 もともと自衛隊用地として使用されていた経緯から、緑の多い空間ではありました。しかし、本来この地域に形成される植生の回復のため、在来種に馴染まない樹木は撤去し、この地域に本来生息する植物もしくは生息していた植物を植栽し、長期的に自然の回復を図っています。「自然保護区域」及び「自然観察区域内の湿地部分」などでは、放置を前提とした植生管理をしています。
 また、園内には「多目的広場」や「バーベキューサイト」も整備されており、自然とふれあいながら楽しめる公園となっています。 
HPより)

注:「元自衛隊十条駐屯地として使用されていた」とありますが、現在、「自衛隊十条駐屯地」はJR十条駅の南に位置していて、こことはかなり離れています。
 敗戦後、各地にあった旧日本軍の広大な軍事基地は、そのまま米軍基地として強制的に収用されるところが多くあり、この地域も北区、板橋区にまたがって、広く点在して数箇所に及ぶ土地がそのまま米軍の管理下に。(「TOD」と総称されていました。)

 米軍が去った後、ただちに返還された地域もありましたが、ここは「自衛隊」の管理下に。区民の反対運動などの高まりによって返還された、という歴史を持っています。

《TOD・東京兵器補給廠: Tokyo Ordnance Depot)》

 第二次大戦後、東京都北部(北区・板橋区)の板橋・十条・王子・赤羽近辺のアメリカ軍によって接収された旧軍用地で、「東京兵器補給廠地区」及び「東京造兵廠地区」、また各地区はさらに複数の地区に分かれる。
「東京兵器補給廠地区」は1958年12月23日(その後、陸上自衛隊十条駐屯地となる)、「東京造兵廠地区」は1971年10月15日に日本に返還された。

 これらの地区はサンフランシスコ平和条約(1951年4月28日締結・1952年4月28日発効)により連合国軍は条約の効力発生後90日以内に撤退するよう定められていたが、接収地については発効の90日後にあたる外務省告示第33号及び第34号(1952年7月26日)によってその扱いが公開され、TOD地区は無期限使用施設とされた。

 しかし、1960年代末頃より始まった東京近郊の都市化の拡大、日本社会党・日本共産党推薦の美濃部亮吉東京都知事就任及びベトナム戦争に対する反戦運動の激化から米軍施設の集約移転を行うことについて日米双方で合意し、その結果TODの未返還地区についても返還されることとなった。

・十条駐屯地(旧・TOD第4地区)CIC - 戦前の砲兵工科学校分校の後、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所。返還後は板橋区立板橋第五中学校。現在の板橋区板橋4丁目。

・TOD第1地区 - 米軍兵器補給廠が設置された。戦前の東京陸軍兵器補給廠。返還後は小企業信用保険公庫宿舎、警視庁宿舎、陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区の一部。現在の板橋区清水町・北区西が丘3丁目。

・TOD第2地区 - 米軍戦車練習場が設置された。返還後の陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区(旧・陸上自衛隊武器補給処赤羽支処(陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区分屯地)・陸上自衛隊補給統制本部赤羽西地区)の一部他。
 後に赤羽自然観察公園と、ナショナルトレーニングセンター陸上競技場となる。現在の北区赤羽西5丁目。

・TOD第3地区 - 赤羽ハイツ(米軍住宅)が設置された。戦前の陸軍被服本廠。返還後、公団赤羽団地、北区立赤羽台中学校、北区立赤羽台西小学校、北区立赤羽台東小学校となった。現在の赤羽台1丁目、2丁目。

・TOD第4地区 -極東陸軍地図局・第29工兵大隊が設置された。戦前の銃包製造所、戦中に東京第一陸軍造兵廠十条工場。後にASA地区・第64部隊地区を併せる。1958年に北側の一部を返還した後、1961年よりキャンプ王子と呼称。1966年に部隊ハワイ移転のため閉鎖されたが、返還されず、1968年にベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)が開設される。1969年12月病院閉鎖。返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となった。
 中央公園文化センターは旧東京第一陸軍造兵廠本部で後に米陸軍司令部として使用された建造物。現在の北区十条台1丁目・王子本町三丁目。

・TOD第5地区 -米軍板橋射場が設置された。現在の板橋区加賀・北区十条台2丁目・上十条3丁目。

・稲付射場 - 戦前の工廠稲付射場。返還後は北区立梅の木小学校他。現在の北区西が丘2丁目。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 ・・・一方で、沖縄にある米軍基地を早期に返還させ、県民の生命と暮らしを豊かにする施設に変える、そう県民の望むことがまったくかなわない現状にも思いをはせます。
 沖縄だけではない。「日米軍事同盟」強化を目指すための「集団自衛権」に躍起になっているアベ政権の現下の情勢では、岩国、厚木などの基地周辺住民や関係自治体に、米軍、自衛隊の機能強化によって、戦争に巻き込まれる危険性と基地公害がいっそう増すのではないか、と。・・・


 遊歩道も整備され、歩きやすい。ただ人工的な印象は否めない。もともとすでに自衛隊用地として自然のままに用いられたわけではない。跡地利用として「里山」をイメージして造成され、今もまだ進行中といった感じ。樹木の伐採、下草刈りなどボランティアの方なのか複数見かけた。

 HPにも「本来この地域に形成される植生の回復のため」とあるように、今もこの地にある「里山」の「保存」ではないことに気がつきます。そういう点では批判的な意見もあるようで、ネットではつぎのような投稿が目にとまりました。4年前の記事ですが。

 私が赤羽自然観察公園へ行かなくなった訳。2010年1月11日 ...
(「m4s.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/2010111-3376.html」より)
 
 赤羽自然観察公園の名称に自然観察とあるが自然観察には不向きな公園だ。自然の多様性は貧しく、皮肉にも普通の公園の方がはるかに自然豊かだ。この公園は古民家と田圃、野外炊事施設と運動場がある都市中公園と思ったが良い。・・・

 この方は、具体的な体験をつづり、写真も多く取り入れて当時の公園の憂うべき状況を報告しています。

 4年前からその後どのように公園が変わっているか知るべくもありませんが、こうした意見なども随時取り入れつつ公園管理に当たっているようにも感じました。
 自然を「観察する」要素も大事ですが、自然を「体験する」、自然を「味わう」という視点も大事ではないか、とも。

 葛飾区にある「水元公園」は、もともと広大な水辺の自然が残っていたところを生かしながら、市民の憩いの場としての都市型公園(アスレチックやキャンプ場、運動広場・・・)です。



大きな溜池。この公園には湧水もあるようだ。この池は昔のまま?

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「溜池」と記された池か?

田んぼとその奥に古民家。

旧松澤家住宅。江戸時代後期。ここに移築され、保存されている。

昔懐かしい農家の庭先。

 今度は、ゆっくりと来てみましょう。今回は、先を急いで。

公園の西門付近。線路は公園の北側・境付近を西に向かっていた。現在、その跡は、公園事務所などの建物になっている。左側の建物が線路跡に建っているものと思われる。

広い通りをわたった向かい側にある「区立若葉福祉園」は跡地に建っている。歩道橋から望む。


1970年代頃のようす(「同」より)。まだ廃線跡が整地されていない。カーブして進んでいたことがわかる。現在は、宅地化されてしまい、痕跡は見当たらない。建物によって分かるくらい。線路に沿っていた道は、現在も一部残っている。


2010年代のようす。線路跡に建物。




航空写真上からはこの建物が線路跡に建っていると思われるが。

もう少し南に行ったところ。右側の建物(「凸版物流」の敷地西側の一部)が線路跡。線路沿いの道が左。

左が団地。境界線のフェンスをはさんで右のマンションが線路跡に建てられたものらしい。

正面が味の素フィールド。そこまで線路は続いていた。

通りから振り返る。左手のマンションが線路跡。その左隣は古い民家(上の航空写真にも写っている)。

この奥の方まで線路は敷かれていた。

すっかり面影は見当たらない。
コメント
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