おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

永青文庫。和敬塾。蕉雨園。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その4。)

2014-06-13 22:23:15 | 歴史・痕跡

永青文庫
 1950年(昭和25年)、第16代当主細川護立(1883年 - 1970年)によって設立された。護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。
 文庫の所在地は細川家の屋敷跡(現在は敷地が分割されているが、新江戸川公園、永青文庫、和敬塾の敷地まで細川邸であった)であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である正伝永源院(建仁寺塔頭)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
 日本・東洋の古美術を中心とした美術館で、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の収集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。理事長は18代当主の細川護煕(元首相)。
 なお、熊本県立美術館が「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示しているほか、 東京国際空港第2旅客ターミナル内にある「ディスカバリーミュージアム」でも所蔵品の一部が企画を替えながら展示されている。

黒き猫 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館に寄託)

収蔵品
 [国宝]
太刀 銘豊後国行平作(古今伝授の太刀)
短刀 無銘正宗(名物庖丁正宗)
短刀 銘則重(日本一則重)
刀 金象嵌銘光忠 光徳(花押)生駒讃岐守所持(生駒光忠)
柏木兎螺鈿鞍(かしわみみずく らでん くら)
時雨螺鈿鞍
金銀錯狩猟文鏡(中国・戦国時代)
金彩鳥獣雲文銅盤(中国・前漢~後漢時代)

 [重要文化財]
絵画絹本著色細川澄元像 狩野元信筆
紙本著色長谷雄草紙
紙本著色洋人奏楽図 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画芦雁図(伝宮本武蔵筆) 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画鵜図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画紅梅鳩図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本著色落葉図 菱田春草筆 六曲屏風 1909年(熊本県立美術館寄託)
絹本著色黒き猫図 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館寄託)
髪 小林古径筆 絹本著色 1931年(熊本県立美術館寄託)
彫刻石造如来坐像(中国・唐)
石造菩薩半跏像(中国・北魏)
銅造如来坐像 台座に元嘉十四年五月一日韓謙造像の銘がある(中国・劉宋)
陶磁宋白地黒掻落牡丹文瓶(そう しろじくろかきおとし ぼたんもん へい)
唐三彩花文大盤
唐三彩花文盤
刀剣武具太刀 銘守家造
破扇散鐔 無銘林又七
春日野図鐔 銘城州伏見住金家
毘沙門天図鐔 銘城州伏見住金家
牟礼高松図鐔 銘利寿(花押)
白糸威褄取鎧 兜付(しろいとおどしつまどり よろい かぶとつき)

(以上「Wikipedia」参照)

奥に見えるのが、「永青文庫」の建物。


正面。


案内板。

 北側にある建物が、「和敬塾」。男子学生寮。

和敬塾本館(旧細川侯爵邸)

 細川家第16代細川護立侯により昭和11年(1936年)に建てられた、昭和初期の代表的華族邸宅です。
昭和30年(1955年)、旧細川侯爵邸の敷地約7000坪および邸宅を同家より購入し、敷地内に学生寮を建設しました。
和敬塾では、本館を塾生(寮生)の教養講座の活動の場として活用する一方、外部の有識者を招いてのシンポジウム・講演会を開催し、塾生の知育、徳育の場として積極的に活用をすすめながら、文化財として保存してまいります。なお、和敬塾本館では、不定期に一般公開を実施しております。
(以上「」HPより)



1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央部分が「旧細川邸」。南から「新江戸川公園」、「永青文庫」、「和敬塾」。「胸突坂」をはさんで南から「関口芭蕉庵」、「蕉雨園」。その東一帯が「椿山荘」。

ほぼ同じ場所の1880年代のようす(「同」より)。西側の○が「細川邸」、東側の○が「山縣邸」、↑が「芭蕉庵」。「胸突坂」がその西側。


蕉雨園
正面。

  椿山荘、野間記念館に隣接する6000坪の敷地に建つ元田中光顕邸(1897年築)。1919年、田中光顕はこの邸宅を渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲り、その後、1932年に講談社創業者の野間清治が購入。現在は講談社の所有。
 非公開だが、茶会やドラマ(華麗なる一族、鹿男あをによし、どんど晴れ、富豪刑事など多数)の撮影などに使用されている。命名は、邸宅を訪れた諸橋轍次が詠んだ「芭蕉葉上孤村の雨 蟋蟀聲中驛路の塵」から「蕉」と「雨」の二文字をとり芭蕉庵と五月雨庵にちなみ、蕉雨園と名づけられた。

田中光顕
 天保14年(1843年)、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
 土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒して、土佐勤王党に参加した。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。
 薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
 慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
 維新後は新政府に出仕。岩倉使節団で欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)、伯爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
 晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘にて97歳で没した。(以上「Wikipedia」より)

 明治から昭和初期にかけての政界の黒幕といった感じですか。

「胸突坂」を登り切った辺りから。左手が「蕉雨園」。

塀越しに見える母屋の豪壮な屋根の一角。

「胸突坂」脇に見える屋敷の一角。

 折があったら、見学してみたいところではあります。でも、お茶会などには全く無縁ですからそんな機会には・・・。しかし、この辺りは立派なお屋敷と文教地区。
 帰りは、「目白通り」を西に向かって歩き、「田中邸」「日本女子大」「学習院」と横目で見ながらJR山手線「目白駅」まで(約2㎞)。
コメント
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