おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西郷隆盛。その誕生から終焉まで。(鹿児島。その1。)

2014-06-17 23:26:23 | 歴史・痕跡
 5年ぶりの鹿児島。新幹線が開通し、鹿児島中央駅も様変わり。といっても、鹿児島空港だったので、駅前を通ってみただけですが。改めてホテルから見た「鹿児島中央駅」。正面が新幹線ホーム。在来線とちょうどT字になっています。駅ビルの屋上には、観覧車。
 この鹿児島中央駅。かつては「武駅」、その後、「西鹿児島駅」と駅名が変わった。市電はかつてのまま。ずっと前に来たときは、たしか「西鹿児島駅」だったような・・・。

 来る機会もそれほどないので、一日泊まって半日「西郷」どんの世界を探索。
 
 鹿児島中央駅 ≫ 維新ふるさと館前 ≫ ザビエル公園前 ≫ 西郷銅像前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 城山 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 南洲公園入口 ≫ 仙巌園(磯庭園)前 ≫ 石橋記念公園前 ≫ かごしま水族館前(桜島桟橋) ≫ ドルフィンポート前 ≫ 天文館 ≫ 鹿児島中央駅

 上が、「シティービュー」バスのコース。約1時間でぐるりと観光名所を一周。大人190円でバスの中から名所を眺める、という趣向。もちろん、そういう観光客はいないようで、一日乗り降り自由の乗車券(¥600)を買って乗る人がほとんど。

 そこで、小生もそれに乗ってぐるりと、というのもつまらないので、途中まで乗って行って、後は歩いて回ろうという算段。朝方の雨雲もなくなって、薄日が差すちょうどいい。中央駅前のバス停を9:30発。「西郷洞窟前」で下りてさっそく歩き出しました。
 いつものように駆け足の感じ。そして、帰宅してインターネットで後追いして、あそこもあったか、近くまで行ったのに残念! そんな思いがまたしてきました。
 同じ事を何回繰り返したら改まるんでしょう。
 
 西郷隆盛南州洞窟→隆盛終焉の地→鶴丸城址→黎明館→市役所→かごしま水族館→中央公民館→山形屋→天文館通り→鹿児島中央高校→高麗橋→共研公園→甲突川→中央駅

 約3時間くらいの行程でした。見落としもたくさん、脈絡があまりなそうな歩きぶり。はてさて・・・。意外な発見もありましたが。
 まずは、鹿児島中央駅前から。

「若き薩摩の群像」。どえらく大きいモニュメント。
 
 薩英戦争において西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は鎖国の禁を犯し絵1865年藩士17名の留学生を英国に派遣しました。一行は・・・帰朝後には黎明日本の原動力となり各分野で不滅の業績を残しました。・・・

 ちなみに何となく知っていた名前は、森有礼。寺島宗則。五代友厚くらい。もちろん小生が知らないだけで他の人たちも立派な業績を成し遂げた人も多い。
 「尊皇攘夷」の旗頭であった薩摩藩は、この戦争をきっかけに「富国強兵」策に転じ、倒幕運動をいよいよ鮮明にしていった、らしい。我々郷土の先輩が「薩長土肥」による倒幕、さらに明治維新後の近代日本を担った、という強烈な郷土愛あふれるモニュメントではある。


 そこで、今回は隆盛さんをメインで。
「誕生地」。甲突川左岸。

 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。
 隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。
 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。
 明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。(以上、「Wikipedia」参照)

「西郷隆盛君誕生之地」碑。脇には、明治22年に建立された由来碑が置かれている。裏に銘記された使命は「大山巌」をはじめ、明治元勲の名がずらり。


 これらの記念碑は石造りのかなり大きなもので、下を岩を積み重ねて盛り上げてある。少し上流には、「宿敵」大久保利通の誕生地の碑がある。

「無二の友を敵としても」との説明板。

 明治6年の政変で西郷らを失脚させた大久保利通は、内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」「殖産興業」政策を推進した。
 大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれ、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
 明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。
 明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。その後、自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
 明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年49。

西郷洞窟。

「おはんらにやった命」との説明板。
 
 ―西南戦争 最後の司令部―
 1877年(明治10年)9月24日、西郷軍が立てこもる城山に「政府軍の総攻撃が始まり、死を決した西郷は夜明けを待って5日間過ごしたこの洞窟を出ました。・・・2月15日挙兵、熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも近代兵器の前に敗退、7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。・・・

 「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな  勝 海舟」
 との歌が載せられている。

洞窟の裏山。

南国特有の深い緑に覆われた森が続く。

城山の展望台方向。

「敬天愛人」。「西郷洞窟」から少し下ったところ、鹿児島本線トンネル入口に掲げられたもの。隆盛の座右の銘。

右手側(「鹿児島駅」に向かう線路)のトンネル上部にある。

隆盛終焉の地。鹿児島本線沿線にある。
「南洲翁終焉之地」碑。

 「晋どん、もうここらでよか」

 城山洞窟を出てわずか300㍍、650歩でついに途は閉ざされた。
 ・・・西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下あの豪傑だった。残念なのは翁をここまで追い込んだときの流れだ」と語った、という。

西郷銅像。中央公民館広場から。
スケールの大きさに驚くが、どこかの個人崇拝に徹する国のものに比べればおとなしいものだ。
 「身長 5.257㍍、5.7頭身」。平成19年、県立鹿児島工高の女子生徒4名が実測した結果だそうだ。

 しかし、さすが明治維新の立役者を生んだ土地柄。「おらが街」にはこんなたくさんの偉人が生まれ育った、とう誇りがあちこちに「記念碑」として存在します。通りすがりの小生には見落としばかり。

大山巌。

牛島満。

 「元帥」「大将」・・・、軍人さんの多いところです。島津家関係の石碑もたくさん。・・・
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