おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新江戸川公園。旧細川家下屋敷庭園。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その3。)

2014-06-12 22:53:37 | 歴史・痕跡

「新江戸川公園」入口。

左手にある建物が、「松聲(声)閣」
 大正時代の建物。元細川家の学問所だったところ。以前は集会所として貸し出しをしていましたが、現在、老朽化のため、安全管理の面から利用休止中。

 「歴史性を活かしつつ、区民に親しまれる利用しやすい公園施設として整備することとしました」と区の広報にもあるように、全面改築がなされるようです。

「松声閣」正面。

新江戸川公園


 細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。
 池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地があり、ベンチが置かれています。
 もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました
 大きな池を中心として、その周囲の園路を歩きながら、広がりのある池や背後の山並みなど様々な風景の移り変わりを観賞出来るように計画された庭園の様式の一つです。新江戸川公園では、門から入り大泉水への視界が展開されます。そして園路を進むにしたがって、池や背後の山並みの眺めの移り変わりを、また振り返った時、池を借景とした「松声閣」の眺めを楽しむことが出来ます。
 また樹林の中の山道をしばらく登った時、樹間から眺められる大泉水の眺めが印象的です。そして園路にそって池を一周し、最初に見た風景を振り返るように設計されています。
 毎年11月下旬になると、池畔にある5本の松の枝を都会の水分を多く含んだ重い雪から守るため、わら縄で枝を吊る作業を行っています。張られた縄が、きれいな傘形になっていく様子は見応えがあります。
HPより

 当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。
 1960年に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園。1975年、文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。(以上、「Wikipedia」より)

門から入ると、目の前に大泉水への視界が開ける。広がりのある池と背後の高台の森を山並みに見立てている。

池の端。鯉や亀がたくさん。


背後には「松声閣」。

 
湧水。

湧水の流れに沿うように野草。


「松声閣」。 


  
手入れの行き届いた庭園。

池沿いの小道の歩みを進めるうちに、次第に変化する景観を楽しむ趣向。
池も背後の「山並み」も池を前に広がる木々のバランスも見事。高低を生かしたつくりになっている。


振り返ると、池の向こうに「松声閣」。
山道からの大泉水(池)。

北東の斜面を登ると、「永青文庫」に着きます。

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関口芭蕉庵。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その2。)

2014-06-11 20:40:56 | 歴史・痕跡

関口芭蕉庵正門。ただし、入口は裏手にある木戸口。

説明板。

ここから入る。ただし、月曜、火曜は「休庵日」。

 松尾芭蕉は、天保元年(1644年)、伊賀上野の城下(現在の三重県伊賀市)で生まれ、後に(1672年)、江戸に移り住み、様々な俳諧活動を展開しました。
 芭蕉は、土木技師として、上水道工事にも携わりました。
 芭蕉が郷里の伊賀から江戸に出て、深川の、いわゆる今日の深川芭蕉庵に住みつくまでの間(1677年から1680年まで)、現在の文京区関口で、神田上水(江戸川)の改修工事に携わり、この工事を監督しました。
 神田上水は、天正年間(1573~92年)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる上水です。井頭の池を水源として、関口、水道橋を経て、神田・日本橋・京橋に給水し、総延長約66Kmもあり、芭蕉は、宝暦期の改修工事に携わりました。(後に、神田上水は、新多摩上水施設により明治33年に廃止されています。)
 この間、芭蕉は、工事現場か水番屋に住んだといわれますが、後に、芭蕉を慕う人達により「龍隠庵」(りゅうげあん)という建物が建てられ、芭蕉の風を慕う俳人達が集い、いつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになったとのことです。
 元の建物は火事や戦火で焼失し、昔の面影を残そうと第2次大戦後に再建されたものですが、周囲の風情ある庭や池・木立は往時の“わび、さび”を偲ばせてくれます。
 池のほとりに建てられた芭蕉句碑には、「古池や 蛙飛こむ 水のをと」と刻まれており、芭蕉の直筆からとられたものだそうです。
 なお、関口芭蕉庵は、江戸時代には、安藤広重が「江戸名所百景」の中で「関口上水芭蕉庵椿山」を描いており、現在も、椿山荘、フォーシーズンズホテルのすぐ西側に位置した、椿山荘の日本庭園から一体の緑に囲まれた静かで趣きある場所です。

HPより

 松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。
 後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。
 1926年(大正15年)には東京府(現:東京都)の史跡に指定された。また芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し現在のは戦後に復元されたものである。現在では講談社・光文社・キングレコードらが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっている。
 (以上、「Wikipedia」より)
「胸突坂」。神田川の駒塚橋(ただし、1880年代には「駒塚橋」はもう少し下流にあり、「胸突坂」とは結んでいなかった)から「目白通り」に向かう坂。けっこう急な坂道。その途中に「芭蕉庵」の入口がある。坂を上り詰めると、「蕉雨園」の正門。坂の西側には「水神」。その先に「永青文庫」(新江戸川公園の上)がある。


普通の住宅みたいなので、つい「お邪魔します」と声を掛けたくなる雰囲気。

中に入ると緑が濃く、池を囲んで、アップダウンの小道が続く。

池のほとりに建てられた芭蕉句碑。「ふる池や かはつ飛こむ みつのをと」と刻まれてあり、芭蕉の直筆からとられたもの。
注:「ふ」は「婦」、「か」は「可」、「は」は者、「つ」は「川」のそれぞれ変体仮名。

池。少し茶色がかっているが、奥から湧水が引かれている。


こじんまりとしていて、風情のある池。

湧水。

自然石を並べた散策路。

芭蕉。
「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」。このように因んだ句が記されたり、俳人の句碑などが点在している。
 

池の上から庭を望む。静寂な空間。水の音や木々のふれあう風の音しかない。


1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて建立された「さみだれ塚」。


 少し坂道をたどると、「芭蕉堂」がある。

1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物「芭蕉堂」。
こんもりとした木々の中。

竹林。

「つた植えて竹四五本のあらしかな」。

 
 初めて来ました。「深川芭蕉庵」が跡地にできた近代的な「記念館」(芭蕉に関する資料展示も豊富)に比べ、ここは江戸時代のかつての庭の雰囲気を残した所。
 芭蕉を知るための資料展示などは全くないが、見学者も多くなく、ゆっくりと風情を味わえます。
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椿山荘。カメの散歩。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その1。)

2014-06-10 00:25:41 | 歴史・痕跡
 先日、暑い日。久々に「有楽町線・江戸川橋」駅近くのビルでの会議。例によって、帰り道はちょっと寄り道。さすが夕方からでは限られた範囲。残りは後日(またまた暑い日)、再び出かけてみました。

 
左図が明治後期、右図が現代(「今昔マップ」より)。
A:山縣邸(現椿山荘)、B:芭蕉庵、C:細川邸(現新江戸川公園)、蕉雨園は、Bの上辺り。神田川をはさんだは、田んぼ(現早大北側付近)。
 標高は、「神田川」周辺(薄緑色)で約8㍍、武蔵野台地の東縁部・目白台地、関口台地(薄いピンク色)を通る「目白通り」付近で約27㍍。「椿山荘」など、それぞれの施設は、湧水もあり、自然の高低差を生かした庭つくりになっています。

椿山荘

 武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は久留里藩黒田氏の下屋敷だった。
 明治の元勲・山縣有朋は西南戦争の功により年金740円を与えられ、1878年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。
 1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田組の二代目当主藤田平太郎がこれを譲り受け、庭園を維持し、東京での別邸とした。戦災でほぼ焼失したが、1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。2013年1月1日より「ホテル椿山荘東京」に変わった。
 現在、庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を鑑賞できる。そこで、ぐるりと見学。

長松亭。茶室。

無茶庵。

「つばきやま」にふさわしく、各地からの椿が植えられている。

樹齢約500年、椿山荘最古の椎の木。


古泉水。湧水が自噴する井戸。

戦国の武将で茶人でもあった織田有楽(信長の弟)ゆかりの十三重石塔。




 庭園の頂上に建つ三重塔は、平安期の歌人として名高い小野篁ゆかりの寺院、広島県加茂郡の篁山・竹林寺にあったものを藤田平太郎が1925年(大正14年)に譲り受け、椿山荘に移築したもの。室町時代末期のものと推定され、国の登録有形文化財。
眼下を望む。
 まだまだ見所はありそうですが、ここまで。

神田川沿い。右が神田川。

五慶庵。京都二条城前にあった三井邸を譲り受け、昭和29年(1954)に移築。五島慶太にあやかって命名された。


道標。みなもと→18.1キロ 隅田川←6.5キロ

神田川 
 三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。かつては「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。(以上、「Wikipedia」より)

 外に出たら、こんな光景にでくわしました。びっくり! カメの散歩です。
???大きい。

もと来た道を戻るようす。今回の一番の驚きでした。

 早速調べると、もしかしたら、「ケヅメリクガメ」かな?
 野焼きや開発による生息地の破壊、乾燥化、食用やペット用の乱獲などにより生息数は激減していると考えられている。2000年にフランスの提案により野生個体の輸出割当が0頭と厳しく制限され、養殖個体(飼育下繁殖個体)のみ国際取引が可能とされた。2000年における生息数は18,000-20,000頭と推定されている。
 ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。大型化するため数畳分の乾燥したスペースおよびその保温設備を用意できない限りは飼育は勧められない。
 三谷幸喜による舞台劇『グッドナイト スリイプタイト』には登場人物のペットという設定で本種(の模型)が登場した。(以上、「Wikipedia」より)
 
 インターネット上では、けっこう飼育している方もいるようです。しかし、これだけ大型になると並の家では飼えませんね。それに長生きもするようですから・・・。
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北区立中央公園文化センター。中央公園。王子野戦病院。・・・(JR東十条下車。その3。)

2014-06-08 00:05:11 | 歴史・痕跡
 図書館脇の遊歩道を南に進むと、北区立中央公園に。ここにも、戦前、戦後の大きな歴史が残っています。 

 敗戦後、米軍に接収されたこの地域。1958年に北側の一部を返還した後、1961年よりキャンプ王子と呼称。1966年に部隊ハワイ移転のため閉鎖されたが返還されず、1968年にベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)が開設される。1969年12月病院閉鎖。
 返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となった。
(以上、「Wikipedia」より)


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 1971年に返還され、その後、公園として整備されるが、この時点ではまだ建物がなくなっただけで、未整備のまま。
 ↓ 現・中央公園文化センターは、旧東京第一陸軍造兵廠本部で後に米陸軍司令部として使用された建造物。

 「Wikipedia」ではさらっとまとめているが、「王子野戦病院」開設反対運動は、全国的に注目された運動でした。

大原クロニカ
『社会・労働運動大年表』解説編より


王子野戦病院設置反対運動[社]1968.3.3

 東京・北区の米陸軍王子キャンプ内への野戦病院設置に反対する運動は,地元住民を中心に1966年以来続けられてきたが、’68年2月20日の北区労連主催の集会を契機に4月15日まで、反日共系全学連が9度にわたり激しいデモや基地突入を繰り返して警官隊と衝突、死者1人、延べ613人の逮捕者を出すなどして全国的関心を集めるものとなった。
 一方、地元では町会・商店会や主婦・高校生なども参加する地域ぐるみの反対運動が展開され、美濃部都知事が米軍に移転を陳情したことから、政府も東京・多摩町への移転を検討することを約束せざるをえなくなった。在日米軍は、3月18日、開院を強行したが、’69年末には閉鎖された。〔参〕《日本労働年鑑》38集


 この出来事は多くの方が回想的に書かれています。その一つ。

もの書きを目指す人びとへ――わが体験的マスコミ論――岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から 第67回 ベトナム戦争の余波は王子にも


 ベトナム戦争の激化は、日本にさまざまな余波をもたらした。1967年(昭和42年)10月から、わが国で連続的に起きた第一次羽田事件、老エスペランチストの焼身自殺、横 須賀港に停泊中の米空母イントレピッドからの米兵脱走、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港とそれへの抗議行動……といった事件や出来事は、いずれもベトナム戦争と深 くかかわっていた。
 余波はこれらの事件や出来事にとどまらなかった。1968年早々、王子野戦病院問題 が持ち上がる。佐世保でのエンタープライズ寄港騒ぎのほとぼりがまだ冷めやらない1月24日、東京都北区の小林正千代区長は区議会で「米軍側から、北区内の米軍王子キャン プに、近くベトナム傷病兵用の野戦病院を開設するとの連絡を受けた」と発表したからである。
 当時、米軍王子キャンプは北区十条台にあり、広さは約12万2千平方メートル。米陸軍極東地図局があったが、これが1966年にハワイに移ってからは、空き家となっていた。 米軍側の説明では、そこを改装し、そこに埼玉県入間市のジョンソン基地にある米陸軍第七野戦病院の一部が移転してくるのだという。ベッド数は350から400。2月半ばごろまでに移転を終え、3月初めに開院の予定との説明だったという。
 東京23区内に米軍の野戦病院を設置されるのは初めてだった。当時、日本各地に米軍の野戦病院があり、ベトナム戦線からそこへ運ばれてくる傷病米兵は月に4、000人以上にのぼる、といわれていた。戦争の激化でその数が増え、これに対処するため米軍としては野 戦病院の増設を図ったものと思われる。
 北区としては、もともと極東地図局が移転した後の王子キャンプを区に返還してほしいと望んでいた。67年12月には、区議会が返還要求を決議した。そこへ、野戦病院が来る。なにしろ、王子は住宅の密集地帯であるうえ、キャンプの近くには中学校、女子高校、大学などの学園地区があった。それだけに、社会党、共産党、区労連などの革新団体からはもちろん、保守系区議、町内会、PTA、商店連合会などからも反対の声が上がった。「野戦病院が設置されると、汚水、汚物の処理、伝染病などの問題が起きないだろうか。入院米兵の外出で風紀上の問題も派生しかねない」というわけである。
 米軍野戦病院設置が北区民ならびに都民からいかに歓迎されなかったかは、3月21日に都議会が超党派で病院廃止運動を行うと決めたことからもうかがえる。
 この問題は、「ベトナム反戦」を掲げて佐藤首相の南ベトナム訪問阻止(第一次羽田事件)、同首相の米国訪問阻止(第二次羽田事件)、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止といった過激な実力闘争を繰り返してきた反代々木系学生にとって、格好の標的となった。北区長の開設発表直後から、王子キャンプ周辺で反代々木系学生による開設反対デモが続発する。
 2月20日夜には、北区労連が主催した反対集会に反代々木系学生約900人が合流し、うちヘルメットをかぶった約400人が警備の機動隊に角材をふるってぶつかったり、投石を行い、36人が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。

・・・(中略。この間激しい反対運動が波状的に行われる)

 地元住民、革新団体、反代々木系学生らの反対にもかかわらず、米軍側は4月15日までに王子キャンプへの野戦病院の移転を完了した。
 長崎県佐世保市で展開された米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争を取材中にけがをして佐世保労災病院に入院中だった私が、退院して埼玉の自宅に帰ったのは1月27日。5日間自宅で療養し、会社に出勤したのは2月2日。その私を待っていたのは王子野戦病院問題だった。
 反代々木系学生が王子キャンプに向けてデモを繰り返すたびに、私は王子へ向かった。このころの私は、まだ頭部の裂傷が完治せず、頭部に包帯を巻いたままで、東京労災病院に通院中だった。が、反戦運動は私の取材分野であったし、それに、野戦病院開設をめぐって 何が起きるかをこの目できちんと見届けねば、との思いが強かったためだ。
 もちろん、警視庁クラブ詰めの記者やサツまわり(警察まわり)など多数の記者が反代々 木系学生デモの取材にあたり、私もその一員にすぎなかったが。
 王子キャンプ周辺は住宅の密集地帯だったが、それも軒の低い平屋建てや二階建てが多かった。路地は狭く、加えて、それらが入り組んでいた。まるで迷路のようだった。夜になると、王子キャンプの正面ゲート前でこうこうとライトが照らされている以外は、一帯には街灯も少なく、暗かった。そこで、角材と石をもった学生集団と、投石よけのジュラルミン製楯と催涙ガス銃を携えた機動隊との衝突、攻防が繰り返された。それは、まるで闇夜での“市街戦”だった。催涙ガスのにおいが路地にただよい、目がちかちかして痛んだ。
 学生集団が突進する。すると、機動隊がそれを阻もうと前進する。すると、学生集団が狭い路地を一目散に逃げ回る。逃げ場を失った学生の一部は民家の敷地内に飛び込み、その家の屋根によじ登って機動隊の追跡から逃れようとする。中には、屋根から屋根へと飛び移 る学生もいた。
 佐世保で機動隊による警棒の乱打をあびて負傷したばかりの私は、機動隊の動きにすっかり過敏になっていた。「二度とけがをしたくない」。だから、機動隊が学生集団の排除にかかかる気配をみせると、私はいちはやくその場から離れ、安全な場所に移ろうと心がけた。 が、路地が行き止まりだったりして、逃げるところを失ったこともあった。そんな時は、申し訳ないなと思いながらも、やむなく、民家の屋根に逃れた。頭部の包帯を手で押さえつつ屋根から屋根に飛び移りながら、「これじゃあ、まるでネズミ小僧次郎吉だな」と苦笑したものだ。  
 それにしても、米兵がたたずむ米軍施設の前で、日本人同士が激しく争い、互いに傷つけ合うのを見るのはつらかった。なにか、とても悲しかった。
 米軍は、1969年11月、王子野戦病院を閉鎖した。ベトナム戦争の縮小にともない、日本に運ばれてくる傷病兵が減ったためだろう、との見方が日本側には強かった。
 これにより、米軍王子野戦病院問題は解決し、王子の街は平穏を取り戻した。が、私は、問題はほんとうに解決したんだろうか、との思いをいまなお禁じ得ない。というのも、ベトナム戦争終結後も、いや、東西冷戦が終わっても、日本には引き続き米軍基地が存続し、周辺住民との間で摩擦を起こし続けているからだ。2005年からは、米国政府の世界戦略か ら在日米軍の再編問題が浮上し、沖縄、岩國、神奈川などの基地周辺住民や関係自治体に「米軍基地の機能が強化され、基地公害がいっそう増すのではないか」との懸念を生じさ せている。
 王子野戦病院問題は、決して遠い過去のものではないのだ。(2006年2月9日記)

 当時はノンポリの学生だったが、大学紛争が盛んになり、さらにベトナム戦争反対運動など、その周辺にいて少しはかかわっていた。そういう時代を振り返って、8年前にこうした文章を記録した「岩垂弘」さんではないが、「王子野戦病院問題」は、いよいよその日本が当事者として戦争に積極的に荷担することに踏み込もうとする2014年現在にあって、過去のものでもなければ、他人事でもないという思いをますます強くします。

注:「岩垂弘」=ジャーナリスト。元朝日新聞記者。日本の平和運動や協同組合運動を中心に取材活動をしている。今も現役の方。

北区立中央公園文化センター。

 中央公園文化センターの建物は、戦前の陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年(1930年)に建てられました。戦後、造兵廠の一部は米軍に接収されこの建物も米軍施設として使用されてきましたが、昭和46年に区をあげての返還運動と多くの人々の努力が実り日本に返還されました。そして昭和56年文化センターとして生まれ変わりました。
HPより)
 ここにはあっさりと記されています。現地にも、この建物のいわれなどの説明板などは、設置されていないようです。

 ・・・米軍の王子キャンプ(またはキャンプ王子)として利用され、ベトナム戦争時にはキャンプ内に野戦病院も置かれていた。その一方で野戦病院の閉鎖運動や日本への敷地返還などを求めたデモなども付近ではしばしば行われていた。 そうしたこともあり1971年に当地は返還され公園として整備され、1976年に北区立中央公園として開園して現在に至っている。公園内には戦前置かれていた東京第一陸軍造兵廠の本部の建物が現在でもそのまま残されており、現在では中央公園文化センターとして生涯学習の場として各種ホールや会議室・研修室などが入った施設となっている。
 この建物は1930年の建設で、米軍接収後はもとの茶色から白色に塗装され、その特徴ある外観から、ドラマや映画のロケなどにもしばしば利用されている。(「Wikipedia」より)

建物全体の案内図。コの字型をしている。

正面玄関。

車寄せ。

二階への階段。

一階フロア。

外壁上部の飾り模様、窓のかたちなどに特徴あり。


  裏手。

 どこかで見たことがあるようなデザイン、雰囲気。
 台東区立東浅草小学校(旧待乳山小学校)の鉄筋コンクリート校舎。ここはほぼ同じ時期の昭和3年に建てられた。用途は違うので構造も異なるが、全体の雰囲気が風雪に耐えてきた重みを感じます。
復興校舎様式の一つ、インターナショナルスタイル(国際建築様式)。
しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えないほど。


「昭和皇后行啓記念」碑。昭和18年5月19日。

中央公園。何組かの親子連れがのんびり。

  建物脇にある「赤羽台第3号古墳石室」。

建替えが進む団地。
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自衛隊十条駐屯地。北区立中央図書館。(JR東十条駅下車。その2。)

2014-06-06 22:24:36 | 歴史・痕跡
 戦前から戦後へと。そして、旧日本軍から米軍へと引き継がれた軍事施設。今も残る(保存されている)建物などを探索。自衛隊補給本部とその周辺。
正門。京浜東北線・東十条駅からはけっこう歩きます。最寄り駅は埼京線・十条駅。

「陸上自衛隊補給統制本部・海上自衛隊補給本部・航空自衛隊補給本部・航空自衛隊第二補給処十条支処・北関東防衛局調達部」。
 背後の赤煉瓦塀は、工場の壁面に使用されていたものを再利用したもの。奥に見えるのは、デジタル通信基地網の一環として建てられた通信塔。

 明治38年初冬、東京砲兵工廠銃包製造所が小石川からこの十条台へ移転し、その後、東京第一陸軍造兵廠等逐次名前を変更し、旧陸軍兵站の中枢として重要な役割を果たしてきました。
 戦後は米軍の使用を経て、昭和34年に自衛隊に移管され、武器補給処十条支処を主体に使用されました。
 平成9年度、防衛庁本庁庁舎移転計画により、海上自衛隊、航空自衛隊及び調達実施本部が十条駐屯地に再配置されるとともに、平成10年3月陸上自衛隊補給統制本部が新編され、陸上・海上・航空・契約本部が共存する全国でもまれにみる駐屯地・基地となりました。
 十条駐屯地には、全国の自衛隊が国防、災害派遣、国際貢献等の任務を達成するために必要不可欠な物(装備品等)の調達、保管、補給または整備及びこれらに関する調査研究等の事務処理を行う部隊が所在しています。
HPより)

 「集団自衛権」・「解釈改憲」路線をめざす今の政治情勢では、ここも慌ただしくなるのでしょうか? たんなる「防衛省」事務方の施設ではなく、制服組・実働部隊も配備されているので。今後の動向が気になる場所ではあります。

遠くにあるのは、赤煉瓦のモニュメント。施設内のため近づけませんでした。
左奥に建物群。

パネルが設置されているので、事前に許可をとれば間近に見ることができるはずです。

 赤煉瓦づくりの建物「東京砲兵工廠銃砲製造所275号棟(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)」を生かした北区立中央図書館。


 次の資料は、2002(平成14)年、当時の北区長に対して「社団法人日本建築学会」より提出された保存・活用要望書の一部。
                           
旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟についての見解  社団法人日本建築学会・建築歴史・意匠委員会委員長 高橋 康夫

1、建築物としての見解
 陸上自衛隊十条駐屯地の歴史は、東京砲兵工廠が小石川から十条の地に移ってきた明治38(1905)年に始まる。十条駐屯地には、明治から昭和戦前期にかけていくつもの建物が建設されたが、現在は旧275号棟が残るのみである。
 これら、旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物の設計は陸軍省による。当時の陸軍省は優秀な技術者を数多くかかえており、質的にも高度な建物を建設していた。十条駐屯地の建物は、そのような高度な技術を持った技術者によって建設された例としても、重要な存在といえる。
 旧275号棟の建物は、弾丸鉛身場の建物として大正8年に建設された。建物の規模は桁行方向が54.00メートルで、梁間方向が26.94メートルの大きさをもつ。梁間方向の中央部に鉄骨の柱をもち、鉄骨で作られた二つのトラスからなる2連棟の形式をもっている。軒高は5.45メートルで、外壁は1.5枚厚の煉瓦造平屋建の建物である。
 現在は失われてしまった建物をも含めて、陸上自衛隊十条駐屯地に建設された主要な煉瓦造の建物をみると、その構造形式が同じ煉瓦造であっても、明治期には「木骨煉瓦造」の建物が多く、大正期には「煉瓦造」の建物が多くなっている。明治から大正にかけて、日本の主要な建物は煉瓦造で建設されており、また煉瓦造の建築技術も、地震に対する対応など大きく発展しつつあった。旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物について関東大震災による被害をみると、明治期建設の「木骨煉瓦造」よりも大正期建設の「煉瓦造」のほうがはるかに少なくなっている。このことは、十条駐屯地の建物をみても、明治から大正にかけて日本の耐震構造技術が進歩していたことがわかる。大正期に建設された275号棟の煉瓦造の建物は、技術的にある程度完成されたものであると評価することもできる。文化財としても、東京に残された数少ない煉瓦造建物の一つであり、重要な存在といえよう。

2、地域としての価値
 陸上自衛隊十条駐屯地の煉瓦造の建物には、北区内の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦が用いられており、北区の郷土史的な視点から見ても重要な存在であることがわかる。
 明治以降、多くの煉瓦造の建築物が建てられていったが、建設に使用した煉瓦の生産についてみると、ホフマン窯などをつくり、西欧の技術をそのまま受け入れていた点もあるが、その一方で、それまで瓦を焼いていた伝統的な職人たちが、瓦と一緒に煉瓦を焼いた事例も明らかにされている。またその煉瓦は、伝統技術を受け継ぐ左官職人によって積まれた。町場の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦は、当初は窯の火力が低く、建物の構造として使用するだけの強度をもった丈夫な煉瓦を焼くことは出来なかったが、やがて登り窯をつくるなど改良を重ねていくことで、十分な強度を持った煉瓦も焼けるようになっている。たとえば、銀座煉瓦街を建設した明治初期には、隅田川(旧荒川)流域で瓦を焼いていた業者が煉瓦を焼くことを試みている。このような業者は、明治35年には旧東京府内に19軒あり、王子周辺にもいくつかの工場が確認されている。
 煉瓦のなかには、煉瓦を焼いた工場の刻印が押されているものがあり、この刻印によって、どこで焼かれた煉瓦であるかがわかる。調査の結果、十条駐屯地内の煉瓦造の建物にも、王子周辺などの工場で焼かれた煉瓦が使われていることが確認されている。旧275号棟の建物にも、王子周辺の工場で焼かれた煉瓦の刻印を確認することが出来る。このように、旧275号棟の建物は、北区の近代史を考えるうえで重要な存在であり、かけがえのない建築物である。しかも現在は、十条駐屯地の建物の建て替えがすすんでおり、建設時の姿をうかがうことのできる建物は、旧275号棟だけである。
 北区内の煉瓦工場で焼かれた煉瓦を使用して建設された旧275号棟の建物は、日本の近代を支えてきた「近代化遺産」「産業遺跡」としても注目される。そして、旧275号棟の建物に使われている鉄骨材からは、「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印も発見されている。当時の建築に使われた鉄骨材の多くは外国製によるものであるが、ここでは、国産の材料である八幡製鉄所でつくられた鉄骨が使用されているのである。建物に使われた鉄骨そのものも、日本の近代化遺産として重要である。
 さらに十条周辺を見れば、醸造試験場、製紙工場、印刷工場、青淵文庫、晩香廬などなど、北区の近代を伝える建築物が集中してみられる。まちづくりにおいて、北区の独自性、北区らしさを打ち出していくうえでも、これらの近代化遺産は今後大きな役割を果たしていくことと思われる。旧275号棟の建物は、北区のまちづくりを考える上でも欠くことのできない建物であるといえよう。
 以上のように、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟は、日本の近代建築史を考えるうえで、また北区の近代化、さらには近代化遺産など、歴史的な景観と、その歴史の継承を考えるうえでも、極めて重要な建物に位置づけられると判断できる。ついては、貴台におかれましては、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟の文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解をいただき、このかけがえのない文化遺産が、永く後世に継承されますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第である。

 地元住民・区民の粘り強いり組みもあって、今日、図書館施設の一部として保存活用されている。赤煉瓦棟を生かしたカフェがあったり、ガラス越しに痕跡を保存したり・・・、明治以来の「軍都」の歴史資料の閲覧など北区独自の取り組みが根付いているようです。

正面。北側は広い芝生の広場と児童公園が設置されている。





側面。遊歩道を挟んで西側が「自衛隊十条駐屯地」。
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ちんちん山児童遊園。電氣鐵道。・・・(JR東十条下車。その1。)

2014-06-04 18:30:31 | 鉄道遺跡

 今回は、JR・東十条駅~王子駅周辺の鉄道遺跡+今も残るかつての軍事施設(建物)巡り。JR京浜東北線・東十条下車の探索。
案内図。左が北。
A:ちんちん山児童遊園。B:北区中央文化センター。C:北区中央図書館。D:自衛隊十条補給処。



1870年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上の図のA~Cに対応している。まだ公園も図書館も出来ていない。JR線を越える立体交差の道路も未完成。中央の大きな敷地が「自衛隊」。下方、蛇行して流れる川が石神井川。

                     2010年代後半のようす。図書館も完成。


案内図付近から東を望む。JR線方向。
西側方向を望む。自衛隊施設方向。

「ちんちん山児童遊園」。

 その公園にある「産業考古学探索路」という案内板。
  

 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう1つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

トンネルの石積みのモニュメント。児童遊園の前にある道路(盛り土された軍用鉄道をくぐる道)にあったトンネルの入口部分。したがって、トンネルの向いている方向は90度ずれている。
上部に「東京砲兵工廠」のマーク。

明治時代後期。「今昔マップ」より)A:火薬製造所 B:銃包製造所 C:貯弾場 D:火薬製造所製薬所。↓:電氣鐵道。

 現在も、当時も、本郷台地上の軍施設と石神井川と隅田川との合流付近の軍施設とは相当の高低差がある。A地点(銃砲製造所・現自衛隊施設等)の標高は、約20㍍、B地点(火薬製造所・現民間倉庫)の標高は約2㍍。この高低差を通していたのだから盛り土も高さがあったものとも思われる。地図上でもかなり長い盛り土の上を通っていたことが分かる。

(「同」より)
20㍍→12㍍の高低差(台地直下との差)→5㍍→2㍍。○の三角点には、27.5㍍との表示(現・十条台小学校の南)。鉄道はその北側を進んでいった。

現在、十条駅前からの道路(南に進むと「本郷通り」となる)からJR線を越えて「北本通り」に通じる道路は高架橋になっている(軍用鉄道は、もともとはこの高架道路の下にあり、トンネルと盛り土で結んでいた)。東に向かって急な下り坂になっている。

鉄道が通っていた道路から西を望む。けっこう深いトンネルになっている。上部は、見上げるような高さ。「南大橋」と二重構造になっている「南橋トンネル」。

三平坂。名主の滝公園の北側。けっこう急な坂道が続く。この一帯が地図上で最も標高の高い場所。東十条駅方向から進んで、先ほどのトンネル(モニュメント)をくぐるとこの坂につながっていた、と思われる。名主の滝公園は、その名の通り、本郷台地の下にある公園。


D地点に向かう鉄道の跡は広い道路となって、明治通りを横切り東に進んでいく。左側に続く緑地公園はかつての用水路跡。

石神井川に架かる右奥の橋は、かつて鉄道橋だったところにある。
首都高の高架。目の下は石神井川。その先は、隅田川との合流点。

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読書「富士山コスモロジー」(藤原成一)青弓社

2014-06-02 22:52:40 | 歴史・痕跡
 2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコの世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目となった。
 富士山は当初、自然遺産として登録を目指したが、ゴミの不法投棄などによる環境悪化や開発により本来の自然が保たれていないなどの理由で、文化遺産登録を目指す方針に転換。
 登録対象となった「構成資産」は山頂の信仰遺跡群や富士五湖などを含む25件。
 当初、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」は、富士山から45キロ離れた「三保松原」を対象から除くという勧告となった。最終的には富士山を駿河湾越しに臨む文化的価値が認められ、一括登録された。
 その後、「観光資源」としての富士山を大々的にアピールし、結果的には「自然」を売り物とする印象が強い。かえって自然破壊が進むのではないかと心配になる。
 この書は、2009年5月に発刊されたもの。本文中にもありますが、「自然遺産」としての登録ではなく、「文化遺産」として登録する方針を先駆的に主張した書。古代から現代に至るまで、富士山にかかわる思想・信仰・美学などを取り上げています。「宇宙観」「世界観」「人生観」「歴史観」、そしてその根っこにある「宗教観」を産み出してきた「富士山」。
 時には火の神、時には水の神・・・。人々に恵みを与える一方で畏怖の念を与え続けてきた「富士」。そこには、「富士山」と対峙する人々の生き方、国土のありよう、などまさに「文化」そのものであったことが詳細に述べられています。信仰の対象としての富士山、富士講の成り立ちや定着など興味深いものがありました。

 富士山は自然の山であるだけはでなく、芸術の山、宗教の山である。不幸にも軍事の山、天皇制体制の山、公害の山でもある。富士山ほどひとの欲望、国家の欲望に応じてきた山はない。それによって富士山は豊かな文化遺産、宗教遺産をつくりあげ、かつ、マイナス遺産をも生んだ。私たちは時代ごとにありとあらあゆる要望を富士に託した。その反省もこめて、富士山と共働してつくりあげた多様な遺産を自然、文化、宗教、歴史、民俗資本として見直し、富士山の全遺産目録、全資源目録をつくる。・・・世界遺産登録への声援とカウンセリングである。」(P278)

 今、地元では「富士山学会」と名づけた有識者の会が積極的に活動している、と聞きます。「かぐや姫」伝説、「竹取」伝説など富士山にまつわる伝承なども採取しているとか。

 引用文にもあるように、これを機会にたんなる「観光資源」にとどまらない地道な研究成果を期待します。 
   
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赤羽自然観察公園。味の素フィールド西が丘。・・・JR赤羽駅下車。その2。

2014-06-01 19:53:43 | 鉄道遺跡

 緑道公園の真向かいにあるのが「赤羽自然観察公園」。線路跡はこの公園の中に消えてしまうのか? 
 こういう広くてよく整備された公園があるとは知りませんでした。そこで少し寄り道。(冒頭の写真の花は「ウツギ」の花。)

新緑がまぶしい公園。

 赤羽自然観察公園は元自衛隊十条駐屯地として使用されていた土地の一部に整備された公園です。
 当該地は谷状の地形を有し、湧水が存在しており、この湧水の保全・活用をするため、北区では従来タイプの公園づくりではなく、「自然とのふれあい」をテーマに新しい公園づくりを目指しました。
 もともと自衛隊用地として使用されていた経緯から、緑の多い空間ではありました。しかし、本来この地域に形成される植生の回復のため、在来種に馴染まない樹木は撤去し、この地域に本来生息する植物もしくは生息していた植物を植栽し、長期的に自然の回復を図っています。「自然保護区域」及び「自然観察区域内の湿地部分」などでは、放置を前提とした植生管理をしています。
 また、園内には「多目的広場」や「バーベキューサイト」も整備されており、自然とふれあいながら楽しめる公園となっています。 
HPより)

注:「元自衛隊十条駐屯地として使用されていた」とありますが、現在、「自衛隊十条駐屯地」はJR十条駅の南に位置していて、こことはかなり離れています。
 敗戦後、各地にあった旧日本軍の広大な軍事基地は、そのまま米軍基地として強制的に収用されるところが多くあり、この地域も北区、板橋区にまたがって、広く点在して数箇所に及ぶ土地がそのまま米軍の管理下に。(「TOD」と総称されていました。)

 米軍が去った後、ただちに返還された地域もありましたが、ここは「自衛隊」の管理下に。区民の反対運動などの高まりによって返還された、という歴史を持っています。

《TOD・東京兵器補給廠: Tokyo Ordnance Depot)》

 第二次大戦後、東京都北部(北区・板橋区)の板橋・十条・王子・赤羽近辺のアメリカ軍によって接収された旧軍用地で、「東京兵器補給廠地区」及び「東京造兵廠地区」、また各地区はさらに複数の地区に分かれる。
「東京兵器補給廠地区」は1958年12月23日(その後、陸上自衛隊十条駐屯地となる)、「東京造兵廠地区」は1971年10月15日に日本に返還された。

 これらの地区はサンフランシスコ平和条約(1951年4月28日締結・1952年4月28日発効)により連合国軍は条約の効力発生後90日以内に撤退するよう定められていたが、接収地については発効の90日後にあたる外務省告示第33号及び第34号(1952年7月26日)によってその扱いが公開され、TOD地区は無期限使用施設とされた。

 しかし、1960年代末頃より始まった東京近郊の都市化の拡大、日本社会党・日本共産党推薦の美濃部亮吉東京都知事就任及びベトナム戦争に対する反戦運動の激化から米軍施設の集約移転を行うことについて日米双方で合意し、その結果TODの未返還地区についても返還されることとなった。

・十条駐屯地(旧・TOD第4地区)CIC - 戦前の砲兵工科学校分校の後、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所。返還後は板橋区立板橋第五中学校。現在の板橋区板橋4丁目。

・TOD第1地区 - 米軍兵器補給廠が設置された。戦前の東京陸軍兵器補給廠。返還後は小企業信用保険公庫宿舎、警視庁宿舎、陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区の一部。現在の板橋区清水町・北区西が丘3丁目。

・TOD第2地区 - 米軍戦車練習場が設置された。返還後の陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区(旧・陸上自衛隊武器補給処赤羽支処(陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区分屯地)・陸上自衛隊補給統制本部赤羽西地区)の一部他。
 後に赤羽自然観察公園と、ナショナルトレーニングセンター陸上競技場となる。現在の北区赤羽西5丁目。

・TOD第3地区 - 赤羽ハイツ(米軍住宅)が設置された。戦前の陸軍被服本廠。返還後、公団赤羽団地、北区立赤羽台中学校、北区立赤羽台西小学校、北区立赤羽台東小学校となった。現在の赤羽台1丁目、2丁目。

・TOD第4地区 -極東陸軍地図局・第29工兵大隊が設置された。戦前の銃包製造所、戦中に東京第一陸軍造兵廠十条工場。後にASA地区・第64部隊地区を併せる。1958年に北側の一部を返還した後、1961年よりキャンプ王子と呼称。1966年に部隊ハワイ移転のため閉鎖されたが、返還されず、1968年にベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)が開設される。1969年12月病院閉鎖。返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となった。
 中央公園文化センターは旧東京第一陸軍造兵廠本部で後に米陸軍司令部として使用された建造物。現在の北区十条台1丁目・王子本町三丁目。

・TOD第5地区 -米軍板橋射場が設置された。現在の板橋区加賀・北区十条台2丁目・上十条3丁目。

・稲付射場 - 戦前の工廠稲付射場。返還後は北区立梅の木小学校他。現在の北区西が丘2丁目。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 ・・・一方で、沖縄にある米軍基地を早期に返還させ、県民の生命と暮らしを豊かにする施設に変える、そう県民の望むことがまったくかなわない現状にも思いをはせます。
 沖縄だけではない。「日米軍事同盟」強化を目指すための「集団自衛権」に躍起になっているアベ政権の現下の情勢では、岩国、厚木などの基地周辺住民や関係自治体に、米軍、自衛隊の機能強化によって、戦争に巻き込まれる危険性と基地公害がいっそう増すのではないか、と。・・・


 遊歩道も整備され、歩きやすい。ただ人工的な印象は否めない。もともとすでに自衛隊用地として自然のままに用いられたわけではない。跡地利用として「里山」をイメージして造成され、今もまだ進行中といった感じ。樹木の伐採、下草刈りなどボランティアの方なのか複数見かけた。

 HPにも「本来この地域に形成される植生の回復のため」とあるように、今もこの地にある「里山」の「保存」ではないことに気がつきます。そういう点では批判的な意見もあるようで、ネットではつぎのような投稿が目にとまりました。4年前の記事ですが。

 私が赤羽自然観察公園へ行かなくなった訳。2010年1月11日 ...
(「m4s.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/2010111-3376.html」より)
 
 赤羽自然観察公園の名称に自然観察とあるが自然観察には不向きな公園だ。自然の多様性は貧しく、皮肉にも普通の公園の方がはるかに自然豊かだ。この公園は古民家と田圃、野外炊事施設と運動場がある都市中公園と思ったが良い。・・・

 この方は、具体的な体験をつづり、写真も多く取り入れて当時の公園の憂うべき状況を報告しています。

 4年前からその後どのように公園が変わっているか知るべくもありませんが、こうした意見なども随時取り入れつつ公園管理に当たっているようにも感じました。
 自然を「観察する」要素も大事ですが、自然を「体験する」、自然を「味わう」という視点も大事ではないか、とも。

 葛飾区にある「水元公園」は、もともと広大な水辺の自然が残っていたところを生かしながら、市民の憩いの場としての都市型公園(アスレチックやキャンプ場、運動広場・・・)です。



大きな溜池。この公園には湧水もあるようだ。この池は昔のまま?

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「溜池」と記された池か?

田んぼとその奥に古民家。

旧松澤家住宅。江戸時代後期。ここに移築され、保存されている。

昔懐かしい農家の庭先。

 今度は、ゆっくりと来てみましょう。今回は、先を急いで。

公園の西門付近。線路は公園の北側・境付近を西に向かっていた。現在、その跡は、公園事務所などの建物になっている。左側の建物が線路跡に建っているものと思われる。

広い通りをわたった向かい側にある「区立若葉福祉園」は跡地に建っている。歩道橋から望む。


1970年代頃のようす(「同」より)。まだ廃線跡が整地されていない。カーブして進んでいたことがわかる。現在は、宅地化されてしまい、痕跡は見当たらない。建物によって分かるくらい。線路に沿っていた道は、現在も一部残っている。


2010年代のようす。線路跡に建物。




航空写真上からはこの建物が線路跡に建っていると思われるが。

もう少し南に行ったところ。右側の建物(「凸版物流」の敷地西側の一部)が線路跡。線路沿いの道が左。

左が団地。境界線のフェンスをはさんで右のマンションが線路跡に建てられたものらしい。

正面が味の素フィールド。そこまで線路は続いていた。

通りから振り返る。左手のマンションが線路跡。その左隣は古い民家(上の航空写真にも写っている)。

この奥の方まで線路は敷かれていた。

すっかり面影は見当たらない。
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