おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

曲尺手。本陣跡。県境。キャベツの花。一里塚。・・・(舞阪駅から二川駅まで。その5。)

2015-04-30 23:28:20 | 旧東海道

 行く手に宿場に特徴的なカーブが見えてきました。

「曲尺手(かねんて)」。

    

曲尺手(かねんて)

 曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。
 江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急避難をしました。

    
              「白須賀宿」の中心地へ。

「本陣跡」。

 本陣とは、江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中に宿泊・休憩した施設です。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた立派な建物でした。本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字帯刀を許されているものもありました。
 この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪百八十三坪、畳敷二百三十一畳、板敷五十一畳とあります。

空き地。間口が狭く、奥行きの長いのが、宿場内の建物や土地の特徴です。

「脇本陣跡」。

家並み。

  問屋場跡。

 その先の交差点の右手角には、「夏目甕麿邸址」。

    
 

夏目甕麿邸址

 白須賀生まれの国学者。夏目甕麿(みかまろ)は通称嘉右衛門、萩園と号した。酒造を業とし、国学を内山真龍に学び、のちに本居宣長の門に名を連ねた賀茂真淵の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「古野の若菜家集」等数編がある。文政5年(1822)没。
 子供の加納諸平(もろひら)は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平の許に寄寓、乞われて加納家の養子となり、のちに紀州侯に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。
 諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集を始め数多くの著作がある。安政3年(1856)歿。

 湖西市教育委員会

 しばらく進むと、左手に火防と呼ばれる槙が植えられているところがあります。
         

湖西市指定文化財 白須賀宿の火防

 東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永5年(1708)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を元宿と呼ぶのはこの為である。
 宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬季に西風が強く、たびたび火災が発生し、然も大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにも依る。
 そこで此の火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。
 火防の広さは、間口二間(3.6m)奥行四間半(8.2m)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防が有った。

 湖西市教育委員会

「火除け地跡」碑。

 宿内の家並の中で、道路側に支柱があり、軒をせり出したおうちを見かけます。

    

 車も人の通りも少ない宿内の道を歩きます。 

     多くのおうちでかつての「屋号」を掲げています。

 道なりに行くと、再び「白須賀宿」の案内図があります。「境宿(白須賀宿加宿)」とあります。


 そのすぐ先、右手の角には、「高札場跡」碑。

 いよいよ静岡県(遠江国)と愛知県(三河国)との県(国)境に近づいてきました。静岡県最後の宿場・白須賀宿内を振り返ります。
               

 正面の、緩やかな坂を上がっていくと、国道42号線に合流し、少し行った分岐点を右に入ります。この道が旧東海道。
    

 再び国道に合流して進むと、静岡と愛知との県境となっている小さい川を越します。
南側。右が愛知県、左が静岡県。

北側。右が静岡、左が愛知。

ちょうど橋の中央で河川管理の管轄が分かれます。

    
   手前が「静岡県」。                  その反対側が「愛知県」。

 愛知県内、最初の市は豊橋市。突き当たりの「一里山東」交差点で、で国道1号線と合流して「名古屋・岡崎」方面に進みます。

    「一里山七本松植樹」。
 平成12年3月に植えられたようで、東海道五三次宿場制定400年記念の植樹です。

そこから「国道1号線」を望む。

 幹線道路で激しく車の行きかう「国道1号線」沿いに進みます。右手は、キャベツ畑。黄色い花が一面に咲き乱れています。菜の花ではなさそう、キャベツにも黄色い花が。はてさて?
 


 しばらく行くと、右手にこんもりとした緑の一角が見えてきます。

    
                             「一里山一里塚」。日本橋から71里。


豊橋市指定史跡 一里山の一里塚

 慶長9年(1604)徳川家康は、江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に主に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に普及させた。一里塚は、三十六町を一里とした里程標で、旅人にとっては里程や乗り賃支払いの場合の目安となり、日ざしの強い時には木陰の休所ともなった。
 江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが、明治以降その必要性も次第に失われ荒廃に任せられた。
 この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一基ずつあったが、南側のものは破壊されて屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末頃には全く滅失してしまった。現在、幸に保存されて残るこの塚は東西十一米、南北十四米、高さ三米で、旧東海道の面影を残す極めて稀な遺構の一つである。

 豊橋市教育委員会

 振り返って全貌を写そうとすると、看板が邪魔! 

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