おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

二川宿。一里塚。曲尺手。・・・(舞阪駅から二川駅まで。その6。)

2015-05-02 23:19:31 | 旧東海道

 「国道1号線」をひたすら西に向かって歩きます。右手は畑が続き、遠くには大きな工場などが。

    
                             黄色い花が畑のここかしこに。ネギの花でもなさそうですが。

 「国道1号線」。かつての東海道を拡幅整備したような印象の道です。緩やかなカーブと緩やかな下り坂。
 交差点の地名も「三つ坂」とか「茶屋ノ下」とか「元屋敷」とかと古い頃の土地の地名のようです。広くて上下線分離の国道、ひっきりになしに大型車が歩道をかすめるように通り過ぎて行きますが、そんな地名に興味を持ちました。

「(日本橋まで)286㎞」ポスト。

     

 歩き始めて1時間ちょっと、「新幹線」に近づいてくると、「二川ガード南」の交差点。ただし、このガード下の道は本来の東海道ではないようです。新幹線建設によって分断された感じで、もっと手前から「二川宿」へ通じる道があったと思われます。

 右折して、新幹線のガード下をくぐって反対側に向かいます。

左手に「東海道」の標識。

    
 荒涼とした空地。広重の絵のような雰囲気。              右手の橋脚が「新幹線」。

中央奥に見える大きな岩は、「立岩」。

小さな橋を通り、東海道本線の踏切を渡り、すぐ左に曲がります。
 この辺りから「二川宿」に入ることになります。

    

 安藤広重が描いた「二川宿」は、この付近だったのでしょうか?


 東海道五十三次之内 二川 猿ヶ馬場 / 歌川 広重

 二川の宿の入口付近である。「かしわ餅」が名物で、左側に茶屋がある。疲労した三人の瞽女が茶屋に向かって歩いてくる。姫小松の野が広がっている。色彩や建物などから、かなり寂しい所だったようだ。五十三次中、この図が一番の哀調に満ちている。

(「知足美術館」HPより)

   
   「大正期のようす」(「同」より)。                 現在。家並みはほとんど変わらない。


道なりに進むと右手の建物(「二川宿案内所」になっている)の角にに一里塚があります。江戸から72里目にあたります。

    

宿内のようす。

 「二川宿(ふたがわしゅく、ふたがわじゅく)」

 東海道五十三次の33番目の宿場で、三河国最東端の宿場町。愛知県豊橋市二川町と大岩町に相当します。
 1601年(慶長6年)の東海道設定当初から、三河国渥美郡二川村と大岩村の2村で宿場として人馬継立業務を担当していました。しかし小さな村であり、また1.3kmほど離れていたため、しばらくすると負担に耐えられなくなりました。
 そこで、幕府は1644年(正保元年)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩町として再構成させました。江戸の日本橋より西に72里3町(約283km)に位置し、東の白須賀宿とは1里17町(約5.8km)、西の吉田宿とは1里20町(約6.1km)離れており、町並みは12町16間(約1.3km)の長さがありました。
 二川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が約30軒ほどありました。二川宿の本陣は数度の大火に遭い、そのたびに再建されてきましたが、明治後も取り壊されずに残った本陣の一部は1988年に改修・復元が行われ、また資料館が併設されました。
 明治維新後、東海道沿いに設置された鉄道は通過するだけでしたが、駅設置の請願がされて駅が増設され、旧二川宿と旧加宿大岩町の中間に二川駅が設置されました。駅の位置が二川宿の西端のため、宿場町周辺の開発がほとんど行われず、現在も二川駅から「シンフォニアテクノロジー豊橋工場」(「二川南ガード」先)までの約2km余りに旧宿場町の面影を残しています。
(以上、「Wikipedia」参照)

「お食事処 とりつき屋」。ネーミングに何かいわれが?

    
           格子戸のおうちが並び、情緒豊かな落ち着いた雰囲気の町並み。

広重「二川宿」。
   ここには、「本陣と脇本陣各1軒、家数306軒、人数1289人」とあります。

 二つ目の小さな川を越します。
 
「東駒屋」と表示された古い建物の前に「曲尺手」があります。

    

振り返って望む。

 しばらく行った右手に青い幟がずらりと。はて? 
                                  公園の一角に地方選挙の候補者の陣営がありました。

「東問屋場跡」碑。

家々の玄関先には「二川宿」ののれんが掛かっています。

そして、かつての旅籠屋の屋号が。

右手のおうちの玄関脇には脇本陣の解説板があります。

脇本陣

 脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たしました。その格式は本陣に次ぐものであり、本陣と同様に、その経営は宿場の有力者があたり、二川宿の脇本陣は松坂家がつとめていました。
 文化4年(1807)以前には、この地に後藤家・紅林家の本陣がありましたが、文化4年、本陣職が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、もと街道の南側にあった脇本陣はこの地に移りました。
 脇本陣の建物は間口7間(約13m)、奥行19間(約35m)、畳数は93畳でした。

その先にも「旅籠屋」の屋号。

 そして、今回最後の見学先の「二川宿 本陣」が左手にあります。

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