おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大井川~金谷~小夜の中山~掛川~見付。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その5。)

2015-12-01 23:44:12 | 旧東海道
 県道34号線を西に向かい、「大井川」へ。その手前に、島田宿側川越し場がある。

「大善寺・時の鐘」。
 明け六ッ(日の出の時刻)と暮れ六ッ(日の入りの時刻)の鐘の音は、大井川川越しの始まりと終わりの合図ともなっていた。

 三叉路を左の道に進み、「東海製紙工場」の脇を行く。しばらく行くと、上段の間が現存する塚本家。川越し場が開設した当時からの旧家。その先の道ばたに道標。


                     「国指定 島田宿大井川 川越遺跡町並」。

「六番宿」。川越し人足たちが詰めていた番宿。

 建物に入ると、等身大の人足や品々が置いてある。生活している家もあるが、復元・保存され見学自由な建物が並んでいる。

    
                                   「札場」。川越し人足が川札を換金するところ。 

芭蕉の句碑。「馬方はしらじ時雨の大井川」 
                なお、水深4尺5寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止(「川留め」)となった。

「せぎ跡」。
                  大井川の増水を食い止めるための堰。両側にあって、板を差し込めるような溝がある。
 
「川越遺跡」の町並みを振り返る。

大井川の土手に上がって、対岸を望む。

 対岸の「金谷宿」は江戸時代には「遠江国」に属していた。北側の雲は雪雲そのもの。立っているのがやっとのほどの強風、どうしようか、一瞬、戸惑った。渡る橋は北側の「大井川橋」。あそこまでけっこう距離はありそう。猛烈で冷たく雪の舞う西風の中、土手の上を進むしかない。
 辺りを見回す余裕もなく、帽子が飛ばないよう必死に押さえながら、やっと橋のたもとに。

「大井川橋」。

 大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋です。・・・当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋です。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会推奨土木遺産として認定されました。
          静岡県

 道路橋の南側に「歩行者・自転車」専用の歩道橋。1㎞という橋の長さ!

   
    対岸はかすんで見えるのみ。             振り返れば、少し明るくなった島田宿方向。

やっと対岸の金谷へ。所要時間:16分。

 しばらく土手を進み、ほっとして橋の方向を振り返ると、何と! 橋の向こうに富士山が。

                   

 ウソみたいに晴れ渡ってきて、風もいくらか穏やかに。土手の上を自転車に乗ってやって来た地元の方、自転車を停めて、富士山を指し、「今日はよく見えますね、すばらしいですね。」と。こちらも土手の上で、すてきな景観をしばらく眺めていた。

土手を下れば、富士山ともお別れ。


《24 金谷》(2015.02.20~掲載)

 大井川の土手を下っていくと、金谷宿側の「川越し場」。ここにも、対岸の「島田宿川越し場」と同じように、「川会所」「札場」人足の詰所「一番宿」から「拾番宿」などの施設が置かれていた。といっても、「島田宿川越」のように、復元・保存されているわけではない。現在、生活している建物に「八番宿跡」というように表示されている。

    
       「八番宿跡」。                       「九番宿跡」。

 「大井川」は、今も昔も流れのところと川原のところが入り組んでいて、旅人は、川を渡ったり、橋を越えたり、石だらけの川原を歩いたり、と渡河が困難だった。

「大井川鉄道」踏切。「旧国道踏切」と記されている(↓)。

振り返って望む。緩やかにカーブしながら上る道が続く。

 「金谷宿」は、「大井川」の河原から西の台地に連なる谷間にかたちつくられた町。
 現在、牧の原台地など金谷周辺の丘陵には茶畑が多くあるが、これは、大政奉還後、窮乏生活をしている旧幕臣らが、地元町民と一緒になって開拓した茶畑で、静岡が全国一の茶生産地となる基礎を築いた。そこには、かの勝海舟の尽力もあった、と。

「佐塚屋本陣(本町・佐塚佐次右衛門)」。佐塚家は現在も続いていて、15代目になる。

少し進むと、左手に「柏屋本陣跡」。

 宿場は、緩やかな上り坂の旧道(「国道478号線」)に沿うようにつくられている。

 「旧東海道」はJR「金谷駅」東のガードをくぐり、南西の丘陵地帯の、上り・下りの続く峠道へ向かう。 「金谷宿」が、旅人にとって東は大井川、西は小夜の中山、と難所を控える宿場として繁盛したことが分かる。

「お七里役所(七里継ぎ御状箱御飛脚小屋)跡」。徳川御三家のひとつ、紀州家が重要書類の送信のために、七里(約28㎞)ごとに置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)。「大名飛脚」・「七里飛脚」とも呼ばれていた。道中は8日かかったが、臨時の急便は4日足らずで到着した。「急便」だと584㎞をわずか4日足らずであった。まさに「駅伝」。
 
JR「金谷駅」手前に、「金谷一里塚跡」。

 JRのガードをくぐって右に行くと、「小夜の中山」方向へ。
 
 「小夜の中山峠」越え。「佐夜」とも書く。この峠は、「箱根」「鈴鹿」と共に東海道中の三大難所と言われていたところ。ここは最後に、「二の曲がり」沓掛の急坂が待ち構えている。

 周囲は、丘陵。お茶畑が一面に広がる。緩い坂道を上り、国道473号線を横切ると、「旧東海道石畳入口」。

右手にある「石畳茶屋」を過ぎると石畳の上り坂。 

 上りきって県道にぶつかったら右に。この辺りは、「牧ノ原台地」の一角、「川根茶」の産地。一面、お茶畑。


 しばらく進み、県道を越えると、今度は「菊川坂」という下り坂。
  
    平成の道普請。                     江戸時代後期の石畳。   

「菊川の里」。

「小夜の中山方面」という道標に従って進む。

「阿仏尼・歌碑」

 ここから先には、「小夜(さよ・さや)の中山」峠にちなんだ和歌や俳諧の碑が続く。
 ようやく「箭置(やおき)坂」=「青木坂」という長い上り坂も終わり、少し開けたところに出る。左手が接待茶屋跡、右手が久延寺。



 「久延寺」境内には、「夜泣き石」と同じ形で、「夜泣石物語」の小石姫(妊婦)を弔うために建てられた供養塔がある。

「小夜の中山公園」。西行の歌碑が建っている。
                                 年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山

「茶」の字が遠くに。

 しばらく進むと、左手に「佐夜鹿一里塚跡」。茶畑の中、緩やかな下り坂が続く。
 
 「国道1号線」へ通じる広い道との分岐点に出て、左の「旧東海道」へ進む。但し、「1.5㎞先車両通行不可」との表示。この辺りは充分行けそうな雰囲気で、この表示を無視して(気づかずに)車を進めると、大変な事態が待ち構えている。

ここが「夜泣石」のもともとあったところ。

坂道を見上げる。右手奥に「夜泣石跡」碑。

 「小夜の中山」付近。両側に深い谷筋があり、その真ん中の山の上を歩いているような雰囲気(まさに「中山」)は、今もまったく変わっていない。
 次第に遠ざかる「茶」の字を振り返りながら、いくつもある史跡碑を確認し、そして、広大に広がる茶畑を眺めながら、のんびりと下っていく山道。ところが、この先にとんでもない急坂が待ち構えている。

    
          「落ちていく」先が見えず、爪先が痛くなるほどの一方的に曲がりながらの下り。

 眼下が開け、国道1号線の橋脚が見えてきたら、この急坂も一段落。


《25 日坂》(2015.3.02~掲載)

 橋脚の向こうは、「日坂宿」の家並み。近代に入ってからのこの辺りの土地の改良もさすがに急坂を切り崩すまでには到らなかったようで、舗装道路に変わるのみ。

朽ち果てる寸前の屋号札。

 国道一号線の下をくぐり、旧国道一号線(現:県道415線)を横断して細い道に入って行く。「日坂(にっさか)」という地名は、さっきの急峻な「西坂(にっさか)」から来ているようだ。

右手には、常夜燈。本陣入口に当たっている。

    
 「澤屋」。                            「池田屋」。
 このように古い旅籠なども残されている。こじんまりとしている宿場だが、なかなか情緒のある家並み。

「脇本陣黒田屋跡」。

 宿内を振り返る。緩やかに曲がった道沿い。 

 旧日坂宿旅籠「川坂屋」を過ぎると道は下り坂になる。

「高札場」のそばにあるのが、「下木戸跡」。

 県道415号線が「国道1号線・日坂バイパス」をくぐると、「国道1号線」になって、掛川方向に進む。「塩井川原」道標の先、「八坂橋」を左に入る。
 
少し行くと、右手に、「伊達方(だてがた)一里塚跡」。

「国道1号線」に合流。「(日本橋から)224㎞」。

 「本所」で再び国道に合流。その後、国道1号線を「本村橋」まで西に向かって歩く。途中には、「コンビニ」もなく、水分補給もままならない。

「本村橋」を左に折れる。

 20分ほど「掛川駅」方向の道を進む。

「馬喰橋(ばくろうばし)」を渡ってすぐ左に「葛川一里塚」。

《26 掛川》(2015.3.05~掲載)

 いよいよ掛川宿。しばらく進むと、「七曲がり」にさしかかる。道路工事が進んでいて、ちょっと分かりにくい感じですが、何とか・・・。道標に従って、路地を左に右に曲がって進む。

「掛川宿東番所跡」。

「七曲がり」説明板。

「掛川信用金庫連雀支店」。

清水銀行掛川支店。
                            
建物の横には「札差」の看板が懸かっている。

 その先、道なりに右に向かう。しばらく進んで左からの道と合わせ、「二瀬川交差点」で、国道1号線と合流して左に進む。
「倉真川」に架かる「大池橋」を左折し、そのまま県道253号線を進み、「鳥居町」の交差点。沢田IC交差点で、国道一号線のバイパスをくぐり、突き当たりを左に曲がって最初の道を右へ。

旧東海道。のどかな道筋。

 「善光寺橋」を渡ると、「仲道寺」。その昔、江戸から京都まで測量したところ、この寺が丁度東海道の真ん中で仲道寺という寺名がついたと云われている。
 「仲道寺」を過ぎると、見事な松並木。
    

松並木を過ぎて「国道一号線」に合流。「袋井市」に。

 「同心橋」を渡って左に曲がると「名栗」。

袋井の松並木。  

袋井東小学校には「久津部一里塚」跡。

校門には、「東海道どまん中東小学校」という表札。

 緩やかにカーブする旧道を進み、しばらく行くと、右手に「七ツ森神社」。日坂の怪鳥に関わる神社。

    
                    松並木の南側には、田園風景が広がる。

 新屋交差点で県道413号線と合流して反対側に。「どまん中茶屋」の案内に従って右折。

《27 袋井》(2015.3.21~掲載)

 道なりに進み、正面を左折して大きな通りへ。最初の信号を斜め右に渡ると、「袋井宿」入口。

        

 「袋井宿」は、江戸からも京都からもちょうど「ど真ん中」の27番目なので、「どまんなか」が町のキーワード。 
 
         
                         「東海道どまん中茶屋」。東海道はこの茶屋の左手を進む。

しばらく進むと、右手に本陣跡の門。東本陣跡。

 さらに今度は左手に「袋井宿場公園」。
     
                        「此処はどまん中袋井宿」。

 そしてここが西のはずれ。宿内を望む。

こちらは「東海道どまん中西小学校」。

 消防署の前の交差点を渡って左に進むと、右側には田園風景が広がる。しばらく行って小さな橋を越えると、右に折れる道が、旧東海道。

左手に復元された「木原一里塚」。日本橋から61里目の一里塚。

 袋井市と磐田市の市境になっている川。
 
    
                     「鎌倉時代の古道」。

続いて右手に「大正の道」。 

少し上り坂にかかると「明治の道」。 

 その先を行くと、左手に「江戸の古道」。そこを左に上って行きます。この辺りからは山道にかかる。

     
                                      坂の上から下を望む。

 上りきると、住宅地。車の往来の激しい通りを横切り、けっこう長い坂道を進み、「特別支援学校」を過ぎると、緩やかな上り坂になって、標識が出てくる。
「従是西 見付宿」。榜示杭。
 そのまま坂道を下っていくと、国道一号線。目の前の歩道橋を渡って右側に。その歩道橋の脇に急な石段が。上がりきった、狭く草ぼうぼうのところに「遠州鈴ヶ森」という大きな標識。

 

左手の橋が「涙橋」。

《28 見付》(2015.3.26~掲載)

 そのまま急坂を下ると、東木戸跡。

「阿多古山(愛宕山)一里塚」。

     
       問屋場跡。                             本陣跡。

 右手の奥に、「史跡 旧見付学校」。 

 昭和44年、国指定史跡となった。自由に中を見学して回れる。

5階からの展望。

 5階は、太鼓楼だった。この学校ができた明治8年(1875年)から大正中期頃まで、児童の登校や正午の時報として毎日打ち鳴らされていた。当初は、小使いさん(用務員)が叩いていたが、その後太鼓当番の上級生が叩くようになった。この太鼓の音は児童だけでなく、見付町民の生活の音としても親しまれ、ここから1㎞離れたところでも、はっきりと聞こえていたといわれている。

「旧見付宿脇本陣大三河屋門」。

 「西坂」を下ると、突き当たりには「姫街道」の標識。

「西木戸跡」。




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