おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

吉田~赤坂~岡崎。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その7。)

2015-12-03 23:21:51 | 旧東海道
 この回からは一泊二日の旅。泊まりは一泊朝食付の「ビジネスホテル」。
 5月19日(火)~20日(水)。JR二川駅から岡崎駅まで。初日。初めての雨。JR二川駅から出発。

県道3号線の緩やかな坂道を上っていく。
 
左側に松並木の復元事業。

    
 この地区には、昭和40(1965)年代に100本を越える松が残っていたが、松食い虫や道路拡幅などにより減少し、ここにあった最後の松も松食い虫の被害に遭い、平成19年2月28日に伐採された。

 「殿田橋」を渡って国道1号線と合流。そこに「飯村(いむれ)一里塚」。

江戸・日本橋から73里目。

 ここからはしばらく「国道1号線」を進む。沿道には昔ながらの家並みが見られる。30分ほど歩くと、「東八町交差点」。

歩道橋上から。路面電車の走る町。 

右側の角には大きな「常夜燈」。

《34 吉田(2015.5.21~掲載)》

歩道橋を下りると「東惣門」の復元模型と説明板。

 「東惣門」を右手にして少し進み、次の道を右に入る。次の交差点を左に。さらに、突き当たりを右に。広い通りにぶつかると、左手の中央の緑道のところに「吉田宿」と刻まれた石碑。

「吉田宿」「江戸 74里」。

右手の生け垣には「曲尺手門跡」の石碑。

 再びジグザクの道。路面電車が行き交う大通り。「札木」。その角にあったのが「吉田宿問屋場跡」碑。

    

 通りを渡った先にある鰻屋「丸よ」の店先に本陣跡の碑。

    

 通りの向かい側には「吉田宿脇本陣跡」碑。

 交差点の向かい側にある公園が「松葉公園」の角には、「吉田宿」の石碑。
         「東海道 吉田宿 江戸まで73里 京まで52里」。

広い通りを渡ると、右手に「西惣門」の復元模型。

 さらに進み、右手の「湊町公園」のところに芭蕉の句碑。貞享4年(1687年)11月11日、芭蕉と越人が渥美郡保美に杜国を訪れ途次この地の旅籠屋で一夜を明かした。

            
  寒けれど二人旅寝のたのもしき              ごを焼いて手拭あふ(ぶ)る寒さかな 

 「ご」は松の枯れ落葉のこと。かき集めて焚物にする。三河地方の方言とも。季語は「寒さ」で冬。

 その先を右折すると、ようやく「豊橋」のたもとに。

「船町と高札場」。



 江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。

豊橋を渡り、左に進む。「右 御油道」。

しばらく進むと、右手に「下地一里塚跡」。江戸・日本橋から74里目。  

 右にカーブすると、道幅が狭くなり、昔のままの道幅のよう。古い家並みが続く。

    

「豊川市」に入ると、とたんに道も狭くなり、歩道もなくなる。
                大型の貨物トラックや軽トラなどが激しく行き交う道を進むことに。

「国道247号線」を渡ると、芦のそよぐ沼地に。 

「才ノ木」交差点を過ぎ、旧道らしい道筋を行く。

JR飯田線の踏切。奥に見えるのが「小坂井」駅。
     

 しばらく進むと、「伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)」。
                 

・芭蕉句碑「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」 ・烏巣句碑「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」 

 注:芭蕉の句= 日頃の菜汁に唐辛子だけの粗末な食膳を、客の前でも隠そうともしない。この家の主は、けっして気取らぬ人物だ。」
 季語は、唐辛子で「秋」。「菜汁」は干菜のみそ汁。ここに登場する「宿(の主)」とは「烏巣」らしい。

しばらく行った先の右手には「伊奈一里塚跡」。
                                江戸・日本橋から75里目。お隣の建物は太鼓屋さん。

 「国道1号線」から一本南に入った道。車もほとんど通らず、落ち着いた町並みが続く。


「佐奈橋」。向こうに「国道1号線」。 

 小さな橋を越えて行くと周囲は倉庫や工場の地域に。埃っぽい道になる。
           

 迂回の表示に従って進む。跨線橋の下をくぐって右に。

振り返る。右の線路は名鉄線。

「国道1号線」へ。「名古屋62㎞ 安城32㎞ 岡崎22㎞」。

 「国道1号線」に沿って進み、「国府町藪下」交差点で左に入る。

国道から離れてしばらく進むと、右手に「秋葉山常夜燈」。

「大社神社」を右手に見て進むと、「御油一里塚」。
                               江戸・日本橋から76里目。

 しばらく行くと、広い通りと交差、その右手に大きな「常夜燈」。ここは、「姫街道」との追分になっている。


《35 御油(2015.5.25~掲載)》

「御油橋」を渡ると、「御油宿」に。

    
   大正期の御油(「同」より)。                      現在のようす。
 宿内に入ると、道幅も曲がり具合もほとんど変化がなく、かつてのままのようすが感じられる。

「高札場跡」。

そこを右に折れると、「問屋場跡」。

その先の角が曲尺手(鈎の手)。ここからが宿場の中心部。

宿内の詳細図。 

    
 なまこ壁のある大きな蔵造り。                    格子のある家々。 

 これから「御油の松並木」にさしかかるが、その手前の右手に、「御関札立掛場」。
「寛文元年十一月二十一日 松平丹波守宿」。

 「御油の松並木」。国の天然記念物に指定されるだけあって、よく保護、保存、手入れがなされている。


途中にあった「弥次喜多茶屋」。

    
 切り株の跡には大きく育った松。地元の方々の環境維持に努める熱意と姿を強く感じる道筋。

     松並木の終わりから振り返る。

《36 赤坂(2015.5.26~掲載)》

松並木を過ぎると、右手に「赤坂宿」の「見附跡」。

 さすが東海道の宿場では最短距離に位置していた「御油」と「赤坂」。

昔ながらの道筋。

 左側の「関川神社」に芭蕉の句碑。

「夏の月 御油より出でて 赤阪や   芭蕉」

 夏の月が出ている短さといったら、なんと御油から赤阪の間を過ぎるほどの時間に過ぎないことよ。

右手に「赤坂宿」の説明板(広場)。奥には「高札場」。

「赤坂宿町並みの図」。

左手には、「本陣跡」。 

右に行くと「名電赤坂駅」。その交差点名は「赤坂紅里」。

交差点の右手にある「尾屋」。軒下の看板には「曲物・民芸品製造卸問屋」と。

 続いて左手に「旅籠 大橋屋」。

    

その先の右手には、「高札場跡」。

右手には「赤阪陣屋跡(三河県役所跡)」。

しばらく進むと右手に「見附跡」。ここが「赤坂宿」の西の出入口。

左手に「常夜燈」。

 「八王子」地区で「東名高速」から分岐した「三河湾オレンジロード」を横切る。 
しばらくして「長沢一里塚」に到着。江戸・日本橋から77里目。

 「長沢城跡」を過ぎ、国道1号線と合流、あとは道なりに。
 いよいよ岡崎市に入り、間宿の「本宿」。道路脇にはモニュメント広場風。大きい説明板。「これより西 本宿村 藤川宿へ壱里」。「本宿」は、赤坂宿と藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしていた。

左手の大きなお寺が徳川家康ゆかりの「法蔵寺」。

「法蔵寺橋」を渡ると、間の宿・「本宿」内に。

古い家並み。平日の昼間。ほとんど車も人も通らない。

右手には「本宿一里塚」。
                                     江戸・日本橋から78里目。

「本宿」の西の出口にある、大きな案内板。 

 ほんの少し残された松並木が終わると、「国道1号線」と合流。
              
                               「(日本橋から)316㎞」ポスト。名古屋まで51㎞。

名鉄線路脇の細い道に入る。「東海道」の表示。                           
 名電山中駅を右に見て進むと、現代の旅人の便宜を図って、小休止できる広場が左にあり、解説板がある。


 「国道1号線」を横断してしばらく進むと、大きな石碑。「御開運御身隠山」。

 しばらく進み、「市場町」の交差点で県道327号線に。正面奥には「藤川宿」の説明板。
                 

《37 藤川(2015.6.04~掲載)》

「藤川宿・東棒鼻跡」に着く。    
広重の絵に合わせ榜示杭を復元。

左手の奥が「曲尺手」(鈎の手)になっている。それに従って、左の道を進む。

    
                     宿内のようす。静かで落ち着いた道筋。

道の右手には「高札場跡」。

続いて「問屋場跡」。

    
                          宿内には古い家屋が残っている。
            
右手に「本陣跡」。明るく開けた広場になっている。昨年春に完成したばかり。

奥には、「むらさき麦栽培地」。
                      藤川小学校の児童が育てている、とのこと。          

「脇本陣跡」。

「藤川小学校」に面したところに、「西棒鼻」。 

その先には芭蕉の句碑。「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」

 この碑は、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。

左手に「藤川の一里塚」。江戸・日本橋から79里目。

 そのまましばらく進むと分岐点に差し掛かる。分岐点を左に行くと吉良道。「東海道」は右側の道を進み、名鉄線の踏切を越えると、手入れの行き届いた「松並木」。この日も大勢の方々で清掃、手入れなどの活動が行われていた。

      

「藤川宿」の看板を過ぎると、「国道1号線」へ合流。
     

 「岡町神馬崎」交差点の先を斜め左に。ここからはしばらく道なりに進む。その後、東海道は「乙川」で行く手を阻まれてしまう。


 「大平橋」で左に折れ、道なりに進み、「国道1号線」を横断歩道で渡る。右手に薬師寺。その脇に「東海道」の道標。

奥に見えるのが「西大平藩陣屋跡(大岡越前守陣屋跡)」。

その先には「大平一里塚」。

 その先で再び東海道は分断されるので、「岡崎インター西」の信号の先から「国道1号線」脇の道を進む。斜め右に入り、緩い上り坂を道なりに進む。
 
そのまま進むと、左前方に「冠木門」が見えてくる。

 ここから「岡崎宿二十七曲がり」のスタート。

《38 岡崎(2015.6.08~掲載)》

 「旧東海道」を旅する者のために、「い」「」ろ「は」・・・の表示で始まる大きな「道標」(上部に金の草鞋が置かれている)とそれが設置できないところには「看板」(これはちょっとよそ見をしていると見逃しそう)が、曲がり角ごとに懇切丁寧に設置されていて、迷うところがない。
 これまで通ってきた、宿場・城下町でもこれほどの懇切丁寧な案内表示は初めて(他では、中途半端な表示でかえって迷いやすいところもあった)。大変ありがたい試み。

岡崎城下二十七曲り
 
 岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。
 二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長14年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。
 二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。

 「岡崎」も他の太平洋沿岸都市と同様、米軍の数度に及ぶ空襲により、大きな被害を受け、人的被害はもちろん、建物も主要な施設のほとんどが焼失してしまった。その後の復興によって大きく市街地が変貌し、宿場町時代はもちろん、古い建物や史跡などはほとんど存在していない。

「伝馬町通り」には道標や説明板、モニュメント。

    
       東海道・岡崎宿にちなんだ石像と説明板が歩道に設置されている。
    

 天保年間(1830~1843)の記録によれば、岡崎宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅篭屋が百十二軒あったとされ、東海道五三次中三番目の規模を誇る宿場だった。

注:東海道で最大の宿場は宮宿(熱田宿)、2番目が桑名宿、3番目が 岡崎宿、らしい。

「東 京みち 西 京いせ道 きらみち 明治二年己巳十二月建立」。

「籠田公園」を斜めに突っ切る白砂の道。
 
「唐弓弦」という古びた看板。 

右に曲がり、左に折れ、橋を越えていく。「国道1号線」と「国道248号線」交差点「八帖」に架かる「歩道橋」を渡る。

「歩道橋」から東を望む。右手奥が「岡崎城」の方向。

「松葉総門跡」石碑。岡崎城下西出入口にあたる。

 その先は、岡崎の地場産業「八丁味噌」の町。
高架線の右手には「カクキュー」。

                      趣のある建物が続く一画。
     

連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地。「純情きらり手形の道」(宮崎あおいの手形)。

突き当たりを右折して「矢作橋」へ。                                                 「矢作橋」。川下の鉄橋は「名鉄線」。

 「矢作橋(やはぎばし)」は、矢作川にかかる橋で、橋上を通るのは東海道(国道1号)。
 矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋だった。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置している。


  東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋 / 安藤 広重

 藤川より1里半。この宿の出入口にあたるところに東海道随一の長橋がある。矢矧橋がこれで,長さ208間(378m)であった。現在の橋より右手に岡崎城があるが、広重画では左手に見えるから、もと橋はかなり左によって架せられていたのであろう。この矢矧橋が画面の中心である。粛々と隊伍をととのえてすすむ大名行列、そのむこうに岡崎城と山々が見える。この遠山は実景ではなく、広重の作図であろう。

(「鹿児島県立図書館・『東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画~』」HPより)


    
大正期の岡崎(「知足美術館」HPより)。               現在のようす。

 「道標」、「案内板」によって導かれ、何とかクリアできた。
 
 


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