江戸時代を通じて佃島は船でしか渡れなかった。「佃の渡し」の歴史は古く、江戸時代初期から。本格的な定期的な渡船となったのは明治9年。船松町(現・湊町)との間、手漕ぎの有料船で、乗り賃五厘だった。
大正15年になって東京市に移管、昭和2年から無賃になり、同39年の佃大橋の開通まで続いた。隅田川では一番最後まで残った「渡し船」で、両岸の渡船場近くに同じ形をした「佃島渡船」の石碑が建っている。
佃島渡船場の碑(佃島側)
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。
明治9年7月には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出している。大正15年東京市の運営に移り、昭和2年3月無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。昭和30年7月に1日日70往復となったが、昭和39年8月佃大橋の完成によって廃止された。
渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されている。
平成12年3月 中央区教育委員会
「公園」の一角にある、劇作家・北条秀司の句碑。「雪降れば 佃は古き 江戸の島」
渡船場から東を望む。奥に見える「佃小橋」までが旧佃島。
佃大橋から隅田川上流を望む。中央が「中央大橋」。その奥に見えるのが「スカイツリー」。右手が佃島の超高層マンション群。
佃島方向を望む。
佃大橋西詰め(湊側)にある「佃島渡船」の石碑。
「説明板」。
中央区民文化財
佃島渡船場跡
所在地 中央区湊3-18/佃1-11-4
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の舩松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645)に通ったのが佃の渡しです。
明治9年(1876)には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926)東京市の運営に移り、翌昭和2年(1927)3月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
昭和30年(1955)7月には1日70往復にもなりましたが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されています。
平成12年3月 中央区教育委員会
こちらはもう少し下流にあった「月島の渡し」。月島と築地を結んでいた。
「わたし児童公園」。この公園の一角に「月島の渡し跡」の碑がある。
月島の渡し跡
所在地 中央区月島三丁目二四 わたし公園
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、築地7丁目)から月島(現、月島3丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(『月島発展史』)。明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌35年、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、明治44年には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。
その後、昭和15年(1940)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなりました。
平成13年3月 中央区教育委員会
※築地側の碑(明石地区を訪ねたときに撮った写真)。
月島の渡し跡
所在地 中央区築地七丁目18番
明石町14番 地域
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌35年に汽船曳舟二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治44年には、臨海工業地帯へとして発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。
月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治35年以降は、明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。
昭和15年(1940)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。
月島の渡しは、月島工業地帯の発展、ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
平成20年3月 中央区教育委員会
当時の写真(昭和12年)。
公園にある案内板。赤い線が当時の「月島の渡し」。
対岸(築地側)を望む。
上流方向。
《石川島、佃島、月島の変遷》(以下、「今昔マップ」による)
①一本も橋がなく、「佃島の渡し」、「月島の渡し」、「勝鬨の渡し」の時代。石川島、新旧佃島、月島と記されている。
②「佃大橋」、「勝鬨橋」(勝鬨橋:昭和15年、佃大橋:昭和39年)。石川島が佃島と一緒になって、佃島と月島の二つ。
③石川島播磨重工業などが移転し、更地になって再開発を待つ。そして、今や大川端リーシティ21などの超高層マンション群へ。
こうして「勝鬨橋」、「佃大橋」、「中央大橋」と隅田川の両岸を行ったり来たり、月島を北に行ったり南に行ったり(待てよ、南端には行かなかった!)西に東に行ったり(待てよ、東端には行かなかった!)来たりと、と歩き回った「月島」「佃島」でした。とうてい一日仕事ではできるはずもなく、実は何日も分けての探索でした。
大正15年になって東京市に移管、昭和2年から無賃になり、同39年の佃大橋の開通まで続いた。隅田川では一番最後まで残った「渡し船」で、両岸の渡船場近くに同じ形をした「佃島渡船」の石碑が建っている。
佃島渡船場の碑(佃島側)
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。
明治9年7月には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出している。大正15年東京市の運営に移り、昭和2年3月無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。昭和30年7月に1日日70往復となったが、昭和39年8月佃大橋の完成によって廃止された。
渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されている。
平成12年3月 中央区教育委員会
「公園」の一角にある、劇作家・北条秀司の句碑。「雪降れば 佃は古き 江戸の島」
渡船場から東を望む。奥に見える「佃小橋」までが旧佃島。
佃大橋から隅田川上流を望む。中央が「中央大橋」。その奥に見えるのが「スカイツリー」。右手が佃島の超高層マンション群。
佃島方向を望む。
佃大橋西詰め(湊側)にある「佃島渡船」の石碑。
「説明板」。
中央区民文化財
佃島渡船場跡
所在地 中央区湊3-18/佃1-11-4
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の舩松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645)に通ったのが佃の渡しです。
明治9年(1876)には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926)東京市の運営に移り、翌昭和2年(1927)3月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
昭和30年(1955)7月には1日70往復にもなりましたが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されています。
平成12年3月 中央区教育委員会
こちらはもう少し下流にあった「月島の渡し」。月島と築地を結んでいた。
「わたし児童公園」。この公園の一角に「月島の渡し跡」の碑がある。
月島の渡し跡
所在地 中央区月島三丁目二四 わたし公園
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、築地7丁目)から月島(現、月島3丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(『月島発展史』)。明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌35年、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、明治44年には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。
その後、昭和15年(1940)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなりました。
平成13年3月 中央区教育委員会
※築地側の碑(明石地区を訪ねたときに撮った写真)。
月島の渡し跡
所在地 中央区築地七丁目18番
明石町14番 地域
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌35年に汽船曳舟二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治44年には、臨海工業地帯へとして発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。
月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治35年以降は、明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。
昭和15年(1940)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。
月島の渡しは、月島工業地帯の発展、ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
平成20年3月 中央区教育委員会
当時の写真(昭和12年)。
公園にある案内板。赤い線が当時の「月島の渡し」。
対岸(築地側)を望む。
上流方向。
《石川島、佃島、月島の変遷》(以下、「今昔マップ」による)
①一本も橋がなく、「佃島の渡し」、「月島の渡し」、「勝鬨の渡し」の時代。石川島、新旧佃島、月島と記されている。
②「佃大橋」、「勝鬨橋」(勝鬨橋:昭和15年、佃大橋:昭和39年)。石川島が佃島と一緒になって、佃島と月島の二つ。
③石川島播磨重工業などが移転し、更地になって再開発を待つ。そして、今や大川端リーシティ21などの超高層マンション群へ。
こうして「勝鬨橋」、「佃大橋」、「中央大橋」と隅田川の両岸を行ったり来たり、月島を北に行ったり南に行ったり(待てよ、南端には行かなかった!)西に東に行ったり(待てよ、東端には行かなかった!)来たりと、と歩き回った「月島」「佃島」でした。とうてい一日仕事ではできるはずもなく、実は何日も分けての探索でした。
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