おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

震災復興小学校。震災復興小公園。

2023-09-01 19:25:13 | 震災復興小公園

※今日、9月1日は、関東大震災が起きて100年。関東地方は、壊滅的状態に。

さまざまな催しが行われました。学校では避難訓練なども。

混乱に乗じて起こった「朝鮮人虐殺事件」は、当時の史料、目撃談などによってその実態が明らかになってきています。しかし、歴代政府は、公式の記録は見つからない、として口を閉ざしています。さらに、そういう事実はなかった、という言説もしばしば。・・・書けばキリがありません。

今回は、以前、掲載した「復興小学校」「震災復興小公園」について再掲します。

※掲載してからずいぶんと経過していますので、ご注意を!

震災後、木造校舎がほとんど焼け落ちた、という教訓から、校舎を鉄筋コンクリート建築に、隣接して小公園づくりなどの取り組みがなされました。ただし、下町の学校は1945年・東京大空襲によって再び廃墟・焼失となってしまいます。

 復興小学校は、1923(大正12)年には発生した「関東大震災」後に復興事業の一環として建築された一連の小学校の総称。
 関東大震災により、東京市立小学校は大きな被害を受け、全195校のうち無傷で残ったものは2校にすぎず、約2/3が倒壊・焼失した。
 復興事業にあたり東京市は、不燃化構造とするため鉄筋コンクリート建築を採用しました。また、52の学校では、公園を併設するなどの試みも行われた(「震災復興52小公園)。
 復興小学校として建築された小学校は全部で117校。建設時期は1924年から1935年にかけての時期(多くは1928年頃までに完成)。
 なお、同時期に建設された鉄筋コンクリート造りの学校建築の中にも、厳密には復興小学校ではないものが含まれている。それらを「改築小学校」と呼んだ。校舎の被害はさほど大きくなかったが、鉄筋コンクリート建築によって建て直したというものや震災前には小学校として存在していなかったが、震災後に鉄筋コンクリート建築の校舎を新築して開校したものも含まれている。

復興小学校一覧
1926年(大正15年、昭和元年)建設

・九段小学校(千代田区三番町16)
 建設当時は「上六小学校」。2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。西側に隣接して東郷元帥記念公園がある。

・坂本小学校(台東区下谷1-12-8)
 建設当時は「入谷尋常小学校」。小学校としては廃校になり、建物は2006年1月現在残されてはいるが、跡地利用が検討されており、解体される可能性もある。

1927年(昭和2年)建設
・元町小学校(文京区本郷1-1-19)
 小学校としては1998年に廃校。南側には同時期に作られた元町公園が残されている。

1928年(昭和3年)建設
・阪本小学校(中央区日本橋兜町15-18)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。なお、本校は1873年に「第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校」として開校した、都内最古の小学校のひとつであり、文豪谷崎潤一郎の母校としても知られる。北側に隣接して阪本町公園がある。
・十思小学校(中央区日本橋小伝馬町5-1)
 小学校としては廃校になり、中央区の施設「十思スクエア」として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東側に隣接して十思公園がある。
・早稲田小学校(新宿区早稲田南町25)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京大空襲では4分の3が損害を蒙った。
・下谷小学校(台東区東上野)
 1990年に清島小学校と統合し閉校。その後は、近隣にある岩倉高等学校の代用校舎としてなど、活用されている。

1929年(昭和4年)建設
・常盤小学校(中央区日本橋本石町4-4-26)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。西側に小規模ながら常盤公園が隣接している。
・泰明小学校(中央区銀座5-1)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東北東側に小規模だが数寄屋橋公園が隣接している。
・城東小学校(中央区八重洲2-2-2)
 建設当初は「京橋昭和小学校」。2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。

1930年(昭和5年)建設

・黒門小学校(台東区上野1-16-20)
 2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。
・明化小学校(文京区千石1-13-9)
 2013年現在も小学校の現役校舎として使われている。2014年度には140周年を迎える。

1932年(昭和7年)建設
・広尾小学校(渋谷区東3-3-3)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。建築当時は校舎の隅に消防署が併設され、消防車用の車庫と望楼が組み込まれた(1947年に消防署は移転)。様式はインターナショナル・スタイル。

1934年(昭和9年)建設
・四谷第五小学校(新宿区新宿5-18-21)
 2008年から、よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本部として使われている。日本におけるDOCOMOMO150選。改築小学校。

1935年(昭和10年)建設
・高輪台小学校(港区高輪2-8-24)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。いわゆるモダニズム系のデザインであり、あまり古い建物には見えない。なお、本校校舎も狭義の「復興小学校」には含まれない(震災後に開校したため)。

建設時期不明
・京華小学校(中央区八丁堀3-17-9)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「京華スクエア」として使われている

 震災復興校舎で現在も小学校の校舎として使用されている二つの学校を紹介します。

①東浅草小学校
 (またまた「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/matutiyamael.html」さんより引用させていただきます。なお、このブログは、台東区の歴史・文化・産業など網羅されていて、たいへん興味深く、示唆に富んだ内容になっています。)‎

☆明治6年5月 浅草聖天町、待乳山中腹に第5中学区三番公立小学校として敷地37坪の中に誕生。前身は明治五年に今戸六七番地の潮江院内に設立された習成舎の分校であった。
「明治五年 第五大区十一小区浅草聖天町、待乳山山上ニ共立学校習成舎ヲ開キ、同六年二月府立トシテ名ヲ命ス」(東京府志料)。習成舎には待乳山山腹に分校があったが、学制施行にともなって公立小学校に改称されている。この小学校が第五中学三番小学校待乳山学校である
 習成舎は相当規模も大きく寄宿舎も設け、授業内容のかなり程度が高く第五大区唯一の区学校であった。習成舎は明治二年に、浅草の有志が清島町誓願寺内に設け漢籍、英字、習字を教授していた。これを引き継いで明治十二年に下谷西町3-21に習成小学校が創立された。校地は筑紫柳川藩藩主、立花家の敷地を無償で供出されて出来たものだった。
 明治19年に小学校の統廃合が行われたが、下谷小学校が坂本3丁目から車坂町33に移転する際にこの習成小学校は下谷小学校に統合された。廃校となった習成小学校跡地は、明治33年に西町女子小学校として独立し、さらに西町小学校となるのである。

☆明治12年 吉野町正法寺境内にあった開明学校を分校とし、男子は本校、女子はこの分校で授業を行った。児童数は164名
☆明治16年10月 亀岡町1丁目1番地(現在の都立台東商業高校付近)に移転し、新校舎落成。敷地105坪、木造2階建て1棟、平屋1棟、建坪84.5坪
☆明治19年11月 待乳山尋常小学校と改称。児童数240名。小学校令発布、小学校は高等.尋常の二科とし、児童は6歳から14歳まで8ケ年を学令とした
☆明治23年4月 高等科併置
☆明治24年12月 地方(ぢがた)今戸町に移転(現在地)敷地342坪、校舎16.7坪で費用は5200円であった。
☆明治25年 校章を制定。待乳山の「待」の字を真ん中にして、旭日の光の模様を型どり、校運の隆昌を祈念したものだった。
・・・(中略)
☆大正12年9月 関東大震災発生、倒壊はまぬがれたが類焼する。10月青空バラック校舎で授業再開。登校児童は4分の1の約400名であった。
☆昭和3年5月 鉄筋コンクリート3階建て現校舎落成。建坪1149坪、建築費38万6300円。全教室スチームを通すモダンな造りであった。校旗を作り、以後5月31日を開校記念日とした。
☆昭和4年3月 校歌制定

☆昭和16年 国民学校令施行、4月1日より東京市待乳山国民学校と改称。児童数1204名
☆昭和19年8月 第3学年以上の児童、384名を宮城県赤湯に集団疎開させる。
☆昭和20年3月 東京大空襲で通学区域全焼。学校は羅災者を収容。
☆昭和22年3月 浅草区と下谷区が合併して台東区が発足。4月、台東区立待乳山小学校と改称。
☆平成13年4月 田中小学校と統合し、待乳山小学校の場所で「東浅草小学校」となる。

上六小学校 千代田区 上六番町34 1903年 1925年10月 1926年8月
現・九段小学校

練成小学校 千代田区 五軒町31 1878年 1928年9月 1929年10月 2010年6月、3331 Arts chiyoda(アート施設)に

日本橋区
常盤小学校 中央区 本石町13 1873年 1928年3月 1929年5月
東京都歴史的建造物

阪本小学校 中央区 阪本町41 1873年 1927年2月 1928年3月

十思小学校 中央区 小伝馬上町45 1897年 1927年10月 1928年12月
1907年、高等科廃止 1916年、上野女子高等小学校と合併 現・十思スクエア

城東小学校 中央区 通2-5 1875年 1927年8月 1929年4月

箱崎小学校 中央区 箱崎町3-1 1909年 1927年2月 1928年3月
2010年7月、東京舞台芸術活動支援センター「水天宮ピット」に

京橋区
泰明小学校 中央区 銀座西通5-4 1878年 1928年6月 1929年6月
空襲で職員室・校長室ほか6室破壊 殉職教員4名・負傷3名(1945.1.27) 焼夷弾直撃を受け焼失(1945.5.25) 東京都歴史的建造物

京華小学校 中央区 元島町2 1901年 1928年5月 1929年4月
現・京華スクエア

京橋昭和小学校 中央区 南槙町4 1906年 1928年4月 1929年3月 1928年6月、南槙町小学校と実田小学校と合併 現・城東小学校
桜田小学校1928年12月 1929年11月 1991年、廃校

愛宕高等小学校 港区 愛宕町2-5 1908年 1927年9月 1928年12月
戦後、港工業高校の校舎に 2004年3月、閉校 現況不詳

下谷区
黒門小学校 台東区 西黒門町5 1904年 1929年4月 1930年7月

下谷小学校 台東区 北稲荷町53 1886年 1928年1月 1928年12月
仮校舎等として暫定利用

柳北小学校 台東区 向柳原町2-1 1876年 1925年11月 1926年11月
現・リセ・フランコ・ジャポネ・ド東京(中・高等科)

小島小学校 台東区 小島町48 1908年 1927年9月 1928年8月
現・小島アートプラザ・台東デザイナーズビレッジ

待乳山小学校 台東区 地方今戸町15 1873年 1927年6月 1928年5月
2001年4月、田中小と統合、東浅草小学校に

田中小学校 台東区 田中町94 1929年 1929年4月 1930年5月
2001年4月、待乳山小と統合、東浅草小に

震災復興52小公園編

《墨田区》

38中和公園 昭4(1929)年 中和小学校(2013,10,15掲載)

西側から望む。北側には「中和小学校」。

公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。

39業平公園 昭5(1930)年 業平小学校(2013,10,9)

西側を望む。かつての面影はなさそう。樹木を一列に配置した、中央の大きな広場の存在が当時のコンセプトの一端を残している。道路をはさんだ向かい側が「業平小学校」。

道路をはさんでいるため、学校+公園というかたちではなく、それぞれ独立したものになっている。

40横川公園 昭6(1931)年 横川小学校(2013,10,14)

 横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。

41江東公園(現・両国公園) 昭4(1929)年 江東小学校(現・両国小学校)(2013,10,14)
パーゴラ(藤棚)。支柱に当時の雰囲気を残している。
公園入口付近から藤棚方向を望む。
「両国小学校(旧名「江東小学校」)(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。 公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすあり。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいる印象。

42茅場公園 昭6(1931)年 現存せず (JR錦糸町駅南口、現・丸井の南にあった。江東橋3-8。)
(2013,10,16)

 戦後、区画整理で消滅(代替公園「江東橋公園」)。今や賑やかな飲食街の一角。「丸井」、かつて大きな都電の車庫だったところの裏手。代替の「江東橋公園」は少し西に行った「都立両国高校」の近くに位置。
 学校は廃校になったが、しばらく校舎は残っていた。
パーキングタワーと隣のマンションが校舎跡地?
左の雑居ビル付近が公園跡地?
江東橋公園。

43若宮公園 昭6(1931)年 外手小学校(2013,10,14)
広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
 ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようだ。
 道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、とか。歴史・伝統のある学校。


44菊川公園 昭5(1930)年 菊川小学校(2013,10,15)
菊川小学校との仕切りは開かれ、ハードルが公園内まで並べられて体育の授業中。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。

45永倉公園 昭5(1930)年  現存せず(「日進小学校」(現竪川中学校)の南側にあった。校地拡張のため消失。亀沢4-11。)(2013,10,16)
竪川中と「三つ目通り」との角地にある公衆トイレには、「永倉」という表示が。旧本所区永倉町。
ガード下の細長い地域に学校と接して公園があった。
 「日進小学校」は、復興公園の北側に併設された小学校。元・三笠小学校。1916年4月、日進尋常小学校に改称、1928年6月、高等科を併置、1945年、空襲で校舎全焼。
「日進公園」。右の建物は、地域のコミュニティーセンターとして存在する「家庭センター」。
 1971(昭和4)6年に竪川中の校地拡張のため消失した「永倉公園」の代替として公園をつくり、「日進」という名を付した。


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