おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新花公園(湯島小)。(震災復興52小公園。その40。)

2014-02-15 14:42:51 | 震災復興小公園
 東京地方、いやオール関東で先週の大雪が溶けないうちに、またしても大雪。夜明け前から大雨。今度は大雨洪水警報が各地に出される始末。風も強い。
 そんな中、近所の子ども達が登校する姿がちらほら。雪道で傘を差して・・・。土曜授業をやっているせいらしい。雪道で行き惑う低学年の子ども。子どもは行かないわけには(学校もやらないわけには)いかないのかね。いつも見慣れた朝方の風景も、今朝はちょっと同情。

 こちらは、先日、ちょっと肌寒かった日に出かけたところをレポート。「震災復興52小公園」巡りも、いよいよ最終回。

③文京区立新花公園(湯島小学校)





左が1880年頃のようす。赤丸が湯島天神下の「切通坂」。矢印が現在の「湯島小」付近。当時は、もう少し南側、「新花町」・霊雲寺に接する辺りにあったようだ(下の赤丸付近)。右の写真はほぼ同じ場所の1970年頃のようす。位置もそうだが、道路が130年以上経過しても現在とほとんど変化していないことに気づく。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)

目に飛び込んでくるのは、クジラ。小さな公園なので存在感抜群。親子連れが遊んでいた。
道路を挟んで南側に「湯島小学校」。実は、震災復興52小公園建設当時は、「新花公園」は、この位置ではなかった。学校の東側に接していた。


 これまでの震災復興52小公園とは配置が異なっていることに気づく。小学校の東側にあった公園を校地として広げ、代替地として現在の位置に公園を移した。上の右の写真では工事中であることが分かる(「湯島小」沿革史参照)。
当時のイメージ(「震災復興52小公園フレーム www.geocities.jp/zouenkasyudan/52parks/」より引用)。

《湯島小学校》


明治 3(1870)東京府に6つの小学校ができる。その1校として、本郷丸山本妙寺におかれる。
   4(1871)湯島切り通し坂の麟祥院内の家に移り、小学校第4校として開校する。文部省の管理。児童数32名
   5(1872)学制がしかれ、東京府庁の管理となる。
   6(1873) 改めて公立小学校となり、第4中学区第1番小学湯島校となる。
   9(1876) 湯島新花町に新校舎落成。
   15(1882) 尋常小学校となる。
・・・
41(1908) 学制変更により、東京市湯島尋常小学校となる。(修業年限6年)
・・・
大正 12(1923) 関東大震災が起き、校舎が全焼する。
  14(1925) 新花町2番地に新校舎を作り始める。
15(1926) 鉄筋コンクリート造りの校舎落成式。
・・・
昭和 15(1940) 新花公園との境をとり去り、運動場を広げる。(紀元2600年記念事業)
・・・
昭和 20(1945)3 9 空襲により、学校付近は全部焼失し焼け野原となった時、学校も南西の17教室と便所を焼失する。
・・・
昭和 38(1963) 全教室にテレビが設置される。
・・・
昭和 46(1971 校庭東側の新花公園を校地にする。(新花公園は校舎北側の現在地に移設する)
・・・
平成 23(2011) 開校140周年記念式典を行う。
(以上「湯島小」HPより)

 以上でも分かるように、長い歴史と伝統を誇る小学校。沿革史を見ても、実に細かく記録が残されていて興味深い。
 もともとは、江戸時代の寺子屋を起源とし、1872年(明治5年)の学制施行前からの小学校として存在。
 日本の小学校の中で、最も長い歴史と伝統を持つ学校の一つ。開校当時から、周辺には「湯島聖堂」や「昌平坂学問所(東京大学の前身)」などがあって、文化、歴史、自然に恵まれているところにある。

校庭の東側。このあたりが元の「新花公園」だったか。左に「百葉箱」がある。

※「百葉箱(ひゃくようそう、ひゃくようばこ)」
 温度計や湿度計を入れ、正確な気温を計測するために設置された(屋根付きの)箱。


古い樹木が残っている。
校庭の一角。緑が多い。
校庭(南側)から校舎を望む。グランドの隅に何やら鉄製の大きな釜状のものが置かれている。
はたして何?


 伝統と歴史のある雰囲気でした。

 これで、「震災復興52小公園(復興小学校)」巡りを終わります。

 千代田、中央、台東区などでそれぞれ数校ですが、現役のまま活躍している校舎が残っていることに感動。
 一方、公園は戦災やその後の復興、さらには近年の公園改修、校舎改築、校地拡張などで大きく変化。ほとんど昔のままの姿をしているところはありません。わずかに二連式すべり台などが数カ所残るのみ。
 一番最初に訪問した「文京区立元町公園」は、1982(昭和57)年、元の姿をよみがえらせる改修が実施され、「震災復興52小公園」当時の設計・思想が残る唯一の小公園となっています。
 ただ、「パーゴラ(つるだな)」が多くの公園にあることで、建設当時のコンセプトが引き継がれているのには驚きました。
 また、学校と一体化という当時の思想が残っていて、墨田区などでは学校のグランドと公園との仕切りが自在になっているところもあるなど、まだまだかつての趣が残っているようです。

 関東大震災からすでに90年以上経過、その復興事業としての「震災復興52小公園」。その当時の考え方のいい面を現在、継承されてきているかどうか。

・小公園の配置は、児童数・校庭の広狭・既設公園の配置などを勘案し、都市計画的に決定される。
・耐震強度を高めた小学校に隣接し、教材園及び運動場補助等の目的を有するとともに、地域の防災拠点とする。
・広場を中心に敷地の40%を植栽地とし、道路に沿う外周部分には低い鉄柵を施し、容易に出入り可能なものとする。
・植栽には防火・防音・防塵効果に優れた常緑樹を採用し、学校教材のために多種類の樹木と潅木を使用する。
・震災復興の名の下に公園を近代文化の普及・啓発のための展示場として演出する。


 児童生徒の通学・学習上の安全管理、施設管理・維持など多くの課題もありますが、地域と学校の関係において、小学校と隣接する公園との有機的な取り組みという発想の必要性を改めて感じました。

 そこで、「震災復興52小公園」ではありませんが、その発想に通じる(かもしれない)学校と地域公園の関係を示すケースを、次回は紹介。

 外を見ると、やっと雨も上がり、明るくなってきました。さて、雪かきでもしましょうか。といったん中断して再開。  

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