おやじのつぶやき

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「震災復興52小公園」の現状。まとめその5。墨田区編。

2014-02-21 22:11:34 | 震災復興小公園
《墨田区》

38中和公園 昭4(1929)年 中和小学校(2013,10,15掲載)
西側から望む。北側には「中和小学校」。

公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。

39業平公園 昭5(1930)年 業平小学校(2013,10,9)
西側を望む。かつての面影はなさそう。樹木を一列に配置した、中央の大きな広場の存在が当時のコンセプトの一端を残している。道路をはさんだ向かい側が「業平小学校」。
道路をはさんでいるため、学校+公園というかたちではなく、それぞれ独立したものになっている。

40横川公園 昭6(1931)年 横川小学校(2013,10,14)

 横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。

41江東公園(現・両国公園) 昭4(1929)年 江東小学校(現・両国小学校)(2013,10,14)
パーゴラ(藤棚)。支柱に当時の雰囲気を残している。
公園入口付近から藤棚方向を望む。
「両国小学校(旧名「江東小学校」)(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。
 公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすあり。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいる印象。

42茅場公園 昭6(1931)年 現存せず (JR錦糸町駅南口、現・丸井の南にあった。江東橋3-8。)
(2013,10,16)

 戦後、区画整理で消滅(代替公園「江東橋公園」)。今や賑やかな飲食街の一角。「丸井」、かつて大きな都電の車庫だったところの裏手。代替の「江東橋公園」は少し西に行った「都立両国高校」の近くに位置。
 学校は廃校になったが、しばらく校舎は残っていた。
パーキングタワーと隣のマンションが校舎跡地?
左の雑居ビル付近が公園跡地?
江東橋公園。

43若宮公園 昭6(1931)年 外手小学校(2013,10,14)
広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
 ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようだ。
 道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、とか。歴史・伝統のある学校。


44菊川公園 昭5(1930)年 菊川小学校(2013,10,15)
菊川小学校との仕切りは開かれ、ハードルが公園内まで並べられて体育の授業中。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。

45永倉公園 昭5(1930)年  現存せず(「日進小学校」(現竪川中学校)の南側にあった。校地拡張のため消失。亀沢4-11。)(2013,10,16)
竪川中と「三つ目通り」との角地にある公衆トイレには、「永倉」という表示が。旧本所区永倉町。
ガード下の細長い地域に学校と接して公園があった。
 「日進小学校」は、復興公園の北側に併設された小学校。元・三笠小学校。1916年4月、日進尋常小学校に改称、1928年6月、高等科を併置、1945年、空襲で校舎全焼。
「日進公園」。右の建物は、地域のコミュニティーセンターとして存在する「家庭センター」。
 1971(昭和4)6年に竪川中の校地拡張のため消失した「永倉公園」の代替として公園をつくり、「日進」という名を付した。

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