坂道を下っていくと、「玉川上水」に。
下流方向。
上流(羽村堰)方向。
「羽村取水堰」(投渡堰)。
「土木学会選奨土木遺産」。
「牛枠(川倉水制)」。
昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。そうした治水の技術のひとつが、水の勢いを弱め、堤防が崩れるのを防ぐ「川倉」です。形が馬の背中に似ているところから「川鞍」と名付けられ、のちに「川倉」とよぶようになったこの仕組みにはさまざまな種類がありますが、最も一般的なものは「牛枠」と言われています。「牛枠」は、堤防に植えた河畔林を切り出し組み立てます。木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川床の玉石をつめた蛇籠で固定します。堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。かつて「牛枠」のほかにも「聖牛」・「笈牛」・「鳥脚」などの「川倉」があり、あちこちの川で働いていました。しかし今日では、そのほとんどその姿を見ることができなくなっています。
玉川上水(たまがわじょうすい)
羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、現在の四谷四丁目交差点付近にあった四谷大木戸に付設された「水番所」(水番屋)を経て、江戸市中へと分配されていた。羽村市から大木戸までの約43キロメートルは全て露天掘りで、水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道である。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている。(この項「Wikipedia」より)
《玉川上水の開削》
承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。 工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜(りょう)線(尾根:谷に挟まれた山頂など高い部分の連なり)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。 翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。以上はほぼ「上水記*」の記述によりますが、「玉川上水起元*」によれば、工事には2度の失敗があり、信綱の家臣で野火止用水の開削者安松金右衛門の設計により羽村に取水口を決定し、玉川上水成功に導いたとも言われています。(この項「東京都水道局」HPより)
「玉川兄弟像」。
「多摩川」。上流方向
下流方向。
「堰の筏通し場」。
「きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落とし」と筏乗り唄にうたわれたように、多摩川上流から伐り出す青梅梅材を江戸(東京)に搬出する筏乗りにとって、羽村の堰は最大の難所でした。享保3年(1718)、江戸幕府は筏を通過することにより堰が破損するという理由で、筏通しを全面禁止しました。その後、羽村以西の三田領42ヶ村の筏師仲間が堰通過の再開を嘆願したことなどもあり、享保6年(1721)に新たに筏通し場が設置され、特定の日時を限っての通過が許可されました。以来、堰を下る壮観な筏落としの風景は、大正時代(1912~1925年)の末頃まで見かけられました。
さて、いよいよ左岸を歩き始めます。
けっこう同じような方々が・・・。