インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

聖娼婦4(銀華賞佳作作品)

2017-02-16 18:05:30 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
   
    四

 一磨が別れしな、「電話しろよ」と命令調で投げてよこした電話番号が走り書きされた紙はしばらく、馨のバッグの底に皺くちゃになったまま押し込まれていた。その日、ふと思い立って気紛れに電話してみると、意外にも一磨は「ペニーレイン」で逢って一夜を共にした行きずりの女のことを覚えていた。
 --何ですぐ電話しなかったんだよ。
 言葉尻に咎めるような調子があった。
 --あなたにとって私は所詮行きずりの女、電話しても冷たくされるのが落ちだろうと思ったのよ。
 --おい、おい、俺が毎晩、女の子、引っかけてるなんて思わないでくれよな。こう見えても、君のことはちゃんと気になっていたんだ。
 --七つも年上の女への憐れみ?
 --素直じゃないんだな。唯、君には単なる行きずりの女と片づけてしまえないものを感じただけのことだよ。まぁ、この際、それはいいけど。君はとにかく今、俺に電話してくれてるんだから、それを大事にしようよ。早速だけど、明日逢おうよ。急すぎるなんて、言わないでくれよ。何故って、明日は俺の二十三歳の誕生日なんだ。
 若い男は強引だった。馨が返事をためらっている隙に一方的に約束の場所を二人が初めて逢った「ペニーレイン」に指定してしまった。

 路傍の花屋に飛び込んだ馨は少し迷った末に、鮮やかな真紅にきらめく薔薇を十本選んだ。直前になって、一磨が今日は俺の誕生日だと言っていたことを思い出したのだ。薄紫が成熟した大人の女の色なら、若く美しい一磨には、何といっても真っ赤な薔薇が似合いそうだった。
 「ペニーレイン」で一磨は、初めて逢ったときと同じカウンターの一隅に腰掛けていた。軽く右手を挙げて合図する一磨に、馨は無言の笑みを返しながら後ろ手に隠し持った薔薇の花束をとっさに差し出していた。
「おめでとう」
 恥じらいと裏返しのぶっきらぼうな声で馨は祝福する。
「有難う」
 洒落た麻の背広に身を包んだ一磨は思いがけない贈り物に満更でもなさそうに、薔薇の一本を抜き取って鼻孔に近づけたともなく、うっとりと目をつむって香りを堪能するようにした。他の男ならこれ見よがしのとてつもなく気障と映るそのしぐさも、美しい一磨にかかってはお似合いという他はなく、馨はその心憎いまでに一幅の絵になっている光景に思わず、見とれた。
「また逢えて嬉しいよ」
 何という絶妙のタイミングで発される効果抜群のセリフ、馨は年甲斐もなく恋初めし乙女のように感激する。しばし恋愛ごっこに興じるかのように、馨は若く美しい一磨との駆け引きを楽しんだ。
 店を出た後、一磨はもう一軒梯子するというまだるっこい手続きはとらずに、直接馨を誘ってきた。酔いに赤らんだ目にはぎらぎらした欲情が漲っていた。一磨のその既に自分のものになった女を当然のように求める目つきが馨には決していやでなかった。今夜は娼婦のように淫らに抱かれたい。若い男って、一晩に何度も励んでくれるからいい、と言った朱実さんのあけすけな声が鼓膜に生々しく蘇る。
 その夜、馨は街娼の体が乗り移ったかのように溌剌とした若さに撓う一磨の肉体を淫靡に挑発し、情欲をもろに刺激された若い肉体は猛々しく燃えた。狂おしく縺れ合った二つの体はシーツの谷間を烈しく浮き沈みし、ついに精魂尽き果てたように墜ちた。
「俺、こんなの、初めてだよ。君は素晴らしい」
 事後、仰向けになって深々と煙草を吹かしていた一磨の口から、欲情が満たされたことの深い満足のため息が洩れ出た。

 一磨が長身の背を折り曲げて、ブリーフに足を通している。馨の目の端を過った股間の黒々と逞しい一物はたちまち淡いグリーンの小さな布きれに覆われてしまう。
「ねぇ、盆休み、京都に一緒に行こうか」
 一磨は若い恋人にするような屈託のない誘い方をして、馨を満更でもなく嬉しがらせる。「京都は、俺の産まれ育った街なんだよ。大学二年のとき、親父の会社が倒産したことで借金取りに追われ、夜逃げ同然に故郷を追われる羽目になっちまったけどね」
 太陽のように輝かしい一縷の翳りもないと見えたアポロンの彫像にひと筋の亀裂が入り、紛う方ない歪みにひび割れるのを、馨は茫然とした顔つきで見守っていた。
「俺はそれまで、甘やかされて何不自由なく育った金持ちのボンボンでね、外車すっ飛ばして女の尻追っかけ回してるようなプレーボーイだったんだ。金とルックスが幸いして、女は面白いように引っかかってきたもんさ。当時は俺が欲しいと望んだもので手に入らなかったものは何一つないし、実際全てが俺の思い通りになった。身の程知らずにも地球は俺一人にために回っているんだと思ってたくらいだよ。それが運命の急変でどん底へ転落、三階建ての豪邸も、札束も高級外車も無情にも羽根が生えたように飛んでいっちまった。やれやれ、人生って酷いもんだよ。この若さで人生の辛酸嘗めさせられることになろうとは思ってもみなかったよ」
 精巧で美しい顔の線がシニカルに歪み、苦いアフォリズムを吐き捨てる。
「こんな話、嘘っぽくて信じられないだろ。我ながら、臭くって芝居じみてるよな。いやになっちまうけど、残念ながらほんとの話。俺はね、運命が俺の人生を180度転回させたとき、決めたんだ。運命の女神に必ず復讐してやるって。0がたかだか八つ付いた数字に人間が踊らされてなるものか。出世して大物になって親父を踏みにじった奴らを必ず見返してやるって。一部上場のコンピュータ会社に就職を決めたのは、その手始めでもあるんだ」
 馨は何だか全てが興醒めてゆくようだった。一磨だけは少なくともそうした人生の屈折からは程遠い、夜毎女を引っかけて歩く陽気な色事師、百発百中のハント率を誇る天下無敵のプレーボーイであってほしかった。アポロンのように輝かしい貌の美しさに身の上話は似合わない、唯一馨の虚無を癒してくれる神通力のように思えたのに……。

 梅雨が上がって本格的な夏の到来を迎えたその日、およそ二週間ぶりにK企画に顔を出した馨は、オフィスの雰囲気がいつもと違って妙に白々しているのを敏感に嗅ぎつけた。入り口付近にある相馬の机に本人の姿は見当たらず、空席を囲ったままになっていた。顔見知りの編集部員たちの自分を見る好奇混じりの刺すような視線に異変を感じ取った馨は若い事務の女の子を摑まえて、すかさず問うていた。
「何かあったの」
 女の子はちょっと眉根を寄せたような困った面持ちになった後、投げやりに放った。
「相馬さんが、会社のカメラを持ち逃げして、蒸発してしまったんです」
 寝耳に水の話だった。最後に相馬から連絡があったのは一週間前のことで、そのときの受話器越しの口調にはとりたてて変化は見えなかった。雑誌が刷り上がったのでとりに来るように言われたのだが、馨は体調がよくないことを理由に辞退したのだった。思えば、最後に相馬の顔を見たのは奇しくも、馨が女将夫婦の家に泊めてもらう成り行きになったあの二週間前の夜のことだった。横浜のタウン誌に賭ける意気込みを滔々と捲し立てる相馬からは、後のそうした行為に繋がる悩みの片鱗も窺えなかった。この二週間という短い期間に、馨にすら言えないような、何か急激な心の変化に見舞われたとでもいうのだろうか。いくら考えても、何が突然、相馬をして、そのような突拍子もない行為に駆り立てさせたのかわからなかった。
 それにしても、その原因の一端が紛れもない自分にあるとしたら……。あのお堀端で相馬が有沢のことを口にして以来、二人の間にはどことなくぎくしゃくした雰囲気が紛れ込むようになった。あたかも有沢陶という目に見えない存在が二人の間に立ちはだかり、空気を重苦しくしているかのようであったのだ。
 二人ともが意図して有沢の話題を避けているような節すらあった。馨自身、もし相馬がもう一度有沢のことを口にしたら、今度は白を切り通す自信がないような気がして恐かった。喉仏に引っかかりながらも、臭いものに蓋をするように有沢のことは闇に葬り、頬被りをして当たり障りのない話題に終始しつづけた。馨はその間中、どこか上の空でいた。相馬は敏感に馨の異変を嗅ぎつけ、それが有沢のせいと薄々かぎとりつつも、何もかもが白日の下に晒されてしまうこと、即ち意中の女(ひと)と敬愛する師匠の爛れた関係を目の当たりにするのが恐くて、頑なに口を閉ざしていた。
 そして、そのことの鬱屈が相馬をして、突如蒸発へと駆り立てさせたことの引き金になったとしたら……。馨はしくりとした良心の疼きを覚えずにはいられなかった。
 女の子は探るような目つきになって馨にちらりと冷たい一瞥をくれると、さらに衝撃を上塗りするような事実を明かした。
「相馬さん、給料三ヶ月分前借りしてるだけでなく、あちこちの飲み屋にも付けが溜まってるらしいですよ」

 相馬の蒸発とともに馨とK企画の契約も自然解消し、それに伴うように横浜という街との付き合いもぱたりと跡絶えた。ひと月程経った頃、どこで調べたものか、馨のアパートにだしぬけに「金壺」の女将から電話がかかってきた。
 --相馬さんが忽然と行方をくらましちまったことは、あんただって、とうに聞いて知ってるだろ。その後、あんたの方に何か連絡は入らなかったかい。
 女将は凄味のあるどすのきいたような声で投げた。
 --いえ。
 女将の剣幕に気圧された馨は、気後れしたように小さな声で答えるのみだった。
 --十万も付けが溜まってるんだよ。言いたかないけど、あんたが帰る電車がなくなってシティホテルに泊まったときだって、うちが立て替えたんだ。おばさん、来月の給料で必ず返すから、一万だけ貸してよと、あのひたむきな目で拝まれると、私も弱くってね、ついつい言いなりに出しちまって……。今時珍しく純情ですれてない青年だと信頼してたのに、こんな掌返すようなことして。
 馨には一言の弁明の余地もなかった。十万、十万と恨めしげに垂れる女将に自分にできる範囲で賠償することを約すると、電話を切った。

 その夜、どうにもやり切れぬ気分で若い男に救いを求めた馨は、「ペニーレイン」で一目一磨を見た刹那、一頃あれ程にも自分の虚無を晴らしてくれた男の神通力が忽然と失せているのに愕然とした。このひと月間別れを延ばし延ばしにして呼び出されるままずるずる重ねてきた逢瀬の終末がどうやら、目と鼻の先に迫っているようだった。
 馨はなろうことなら、完全無瑕と見えた一磨のマスクの下に隠された秘密など、暴いてもらいたくはなかった。若い男は無惨にもその仮面を剥いで酷い現実を突きつけたのだ。そのことで輝かしいアポロンの容貌までが地に落ちてしまった。もはや知らん振りを決め込んで目を塞いでいる芸当はこれ以上できそうもなかった。
 びしっと決めた背広姿でブランド物のネクタイを締めた一磨は外見だけとれば、すらりとした長身の非の打ちどころなく美しい青年に見えた。輝かしい仮面の下にどろどろした怨念が渦巻いているなど、誰が想像しえようか。
「俺、来月、チーフに昇任するんだ」
 誇らしげに開口一番放った一磨に、
「おめでとう」
 心にもない祝福の言葉を口にしながら、馨は、組織という巨大な歯車の一つに組み込まれた一磨がエスカレータ式に昇進を遂げて、しかるべき役職に就任する未来を思い浮かべた。それが、一磨のいう「成功」なのだ。レールに一旦乗っかってしまえば、あとは踏み外さないように慎重に歩んでいけばよい。そうすれば、その先には自ずと出世が約束されているだろう。父親が事業に失敗した煽りをまともに食らった息子は小利口にも、一番危なげないコースを選んだのである。一磨が、見返してやると言ったのは、こういうことなのだ。
 馨はできるものなら、一磨が唯一の残された武器であるその美しい容貌を楯にとって社会に真っ向から歯向かっていってほしかった。それを一磨に期待するには、あまりに傷つきすぎていたとしても……
 これが最後になるだろうとの予感を胸に、馨はいっこうに燃え上がらない体で一磨に抱かれた。

「あの道路の向こうに見えてる、白いでっかいビルが俺の会社……。そこの歩道橋の上から見送ってくれるかい」
 時計と睨めっこしながらあたふたとアイスコーヒーを飲み終わった一磨は甘ったれた口調でせがんだ。馨は無言で若い男の最後の我儘を受け入れた。
「また電話しろよ」
 いつものように命令口調で投げながら、一磨は素早く背を翻す。馨は、一磨の長身の背がビルの入り口へ一直線に向かう巨大な集団の渦に呑まれるのを、歩道橋の上からぼんやり見下ろしていた。あの巨大なベルトコンベアーから未来永劫に弾き出されてしまった自らの宙ぶらりんな境遇にいくばくかの後ろめたさも覚えながら……。
 一磨は一磨の人生を歩むのだ。馨とは全く別の人生を……。
 馨が一磨に与えられるものは何もないし、一磨から得るものも何ひとつない。二つの道はどこまで行っても平行線を辿り、決して交わることはないだろう。

 既に高く昇った夏の朝日はぎらりと射るような烈光を馨の顔全体に降り注ぎ、その陽射しの匂いに触発されるようにつと身の裡に生々しく蘇るものがあった。その瞬間、不意に胸が掻きむしられるような郷愁とともに、インドのあの強烈な陽射しが落ちてきた。
 光と影が交錯するあわいに、熱気と喧騒に渦巻く混沌とした街並みが、清濁併せ呑んで滔々と流れる悠久の大河とともに、蜃気楼のように揺らめき昇る。あの猥雑な裏路地の奥に潜む秘密めかした娼窟で昼日中から春をひさぐ娼婦たち、あたかも泥沼を割ってぽかりと浄らかな面(おもて)を弾ける白蓮にも似て吹き溜りに忽然と咲いた花のような少女売娼たち、あどけない聖娼婦にヒモ同然にたかる怪しげなポン引き紛いの男ども、そして、いかがわしい場末の巣窟でバイヤーの浅黒い手から手へと回され、品定めされている日本製のカメラ……。
 もうどちらが汚れているのかわからない、と馨は思う。若い情夫に心底入れ揚げて春をひさぎ続ける朱実さんと、若い男と遊んで虚無を晴らそうとした自分と……。馨とは比べものにならぬくらい無数の男たちの垢を肉の襞のそこかしこに染み込ませながら、魂だけは穢れに染まらず純白の蓮のように浄らかな朱実さん……。有沢との過去がいまさらながら、心に重くのしかかる。十七歳も年上の、離婚歴が三度もある男との、地獄巡りのようだったインド行脚……。
 二人の関係を薄々嗅ぎつけながらも、ついに最後まで問い詰め仕舞いだった相馬……。挙げ句の果てに、師匠と仰いだ元上司の悪業をなぞるようにカメラを持ち逃げし、蒸発してしまった。それが馨の心に最も深い打撃を及ぼす効果的な復讐法と知っていたごとくに……。
相馬をそこまで駆り立てたのはやはり他ならぬ、自分だったのだろう。馨は胸が掻きむしられるような悔恨とともに思う。有沢が奇しくものたもうたように、自分には男を狂わせる魔力のようなものが備わっているのかもしれない。これが最後の恋と信じた有沢は地位も家庭もなげうって、十七歳も年下の女との道行きに賭けた挙げ句に、死にぞこないの無様な醜態を曝すに至ったのだから……。
 身の裡にぶり返すように、インドの何もかも灼き尽くすような苛烈な陽射しが蘇る。真っ昼間から、怪しげな路地裏に立って客を引く売娼たち……。原色のサリーをしどけなく着崩した厚化粧の女たちの影が幾つも交錯するあわいに、馨は、紛れもない自らの面(おもて)と朱実さんの顔を目の当たりにしたような気がして、背筋にぞくっと冷たい戦慄が走るのを覚えた(了)。


著者の自作解説(あとがきに代えて)はこちら

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