二
ゴーパルプルのステイツ・バンク・オヴ・インディアで初めて万里子に声をかけてきたときのロビンは、異国の旅行者におずおずと話を切り出す内気な田舎青年風情で、黒目がちの美しい瞳が未知のものに焦がれるようにきらきらと瞬いていた。
「君、ジャパニーズ?」
「ええ」
「ジャパンはぼくの憧れの国なんだ、どこに住んでるの」
「東京、よ」
「ああ、トーキョー、キャピタルだね。もしよかったら、チャイでも飲んで話さない?」
万里子はあくまで冷ややかだった。両替に来た銀行でたまたま行き合わせた地元青年にミルクティーを付き合うまでのボランティア精神は到底持ち合わせていなかったせいだ。素っ気なく退けた後、現金引き渡し窓口へと向かう。長い順番待ちの末受け取った札束を引き剥がそうとしたとき、分厚いルピー札はホッチキスの太い針で頑丈に留められていたため、女性のか弱い力では外せなかった。悪戦苦闘していると、背後からだしぬけに伸びてくる腕があった。
「貸してごらん」
いつ来たものやら、先ほどの青年が立っていた。とっさに手渡すと、ロビンは札束を真ん中で分けてぎりぎりねじ回すようにし、両方向に引っ張って器用に剥がしてくれた。
「ありがとう」
万里子はすかさず礼を返し、お金を受け取ると、矢庭に背を翻す。
その拍子に、声が飛んだ。
「どこに泊まっているの」
「マーメイドホテルよ」
あのときなんで無防備にも、ホテルの名前を教えてしまったろうか。思うに、あれが運命の岐れ道になったとしか思えない。三日後、ロビンは予告もなしに、いきなり万里子をホテルに訪ねるからである。
ロビーに待機する白のTシャツ・ブルージーンズを見いだしたとき、万里子はそれがバンクでおずおず声をかけてきた野暮ったい青年と同一人物とも思われず、かすかな胸のときめきすら覚えたほどだった。万里子の頭上で弾けるような笑みが噴き上げる。若々しい活力に漲る長身の肢体は溌刺と撓っていた。
「ぼくは首都デリーのカレッジで英文学を専攻している学生だよ。ここゴーパルプルはぼくの生まれ故郷でね、今ちょうど夏休みで里帰りしているところさ。君も、スチューデント?」
万里子はとっさに首を横に振る。日本女性は小柄なこともあって、大概実際の年齢より若く見られる。かてて加えて童顔の自分は、もう二十代でないにもかかわらず、いつも学生に間違えられるのだった。ロビンの顔を一瞬失望した色が掠めたようだったが、年齢を再確認する無作法はせずに、とっさに話題を転換した。
「ゴーパルプルはどう、気に入った?」
「ええ、カルカッタの喧騒と打って変わって、平和でのどかなところがとっても……」
インドの東海岸部、オリッサ州の海沿いの保養地に滞在して、すでにひと月余りの歳月が流れていた。
「気に入ってもらえてうれしいよ。ぼくの休暇はあとひと月ほど、君に見所を案内してあげられるといいんだけど」
「ありがとう、でも、私、観光にはあまり興味ないのよ」
万里子は素っ気なく返した。ロビンはいっこうに気分を害すでもなく、せっかちに訊いてきた。
「日本ではどんな職業についてるの」
これまで地元の人々に何度も好奇混じりに問われた質問にまたしても、答えねばならぬ羽目に陥った。職業でカーストを判別する習性のある現地人たちは、答次第で階級の品定めをするらしかった。
「フリーライターよ」
言い飽きた返答を無造作に放つ。途端に、ロビンの瞳がぱっと明るんだ。
「ジャーナリストって、インドでは尊敬される職種の一つだよ」
いわゆる大手の報道記者と一緒くたにして敬意の眼差しで仰ぐという、ほかのインド人とさして変わらぬ反応に、万里子は改めて鼻白まずにはおれなかった。ライターというと、聞こえはいいが、実態は四六時中食いっぱぐれるリスクに脅かされている、不安定なフリーの雑文書きにすぎなかった。が、しがない三文記者の実態を逢ったばかりのこのインド青年に話したところでわかってもらえるはずもないとあえて口を噤んで、曖昧な笑みでごまかす。
「月に幾らぐらい、稼いでるの」
単刀直入に訊いてくるロビンに万里子は半ば、呆れ返る。えーと今現在のドル相場が240円だからと素早く頭の中で計算して、渋々といった口調でやや水増しして明かす。
「そうねえ、一定してないけど、800ドル前後かしら」
ロビンが感嘆の声をあげた。
「800ドル! ここインドじゃあ、公務員の初任給だって100ドルそこそこなんだぜ」「でも、その分インドは物価が格安でしょ。東京はあなたも知ってると思うけど、世界一物価の高い都会で、最低でも150ドルはするアパートの家賃はじめ生活用品もここの10倍、800ドルなんていっても、余裕はなくて暮らしていくのに精一杯よ」
日本の厳しい現実をロビンが知るはずもなく、万里子がひけらかす事情を軽く受け流すと、
「実はね、ぼく、卒業したら、日本で働くことを夢見てるんだけど」
と黒目がちの瞳をきらきら燦めかせながら、抱負を洩らした。万里子は現実はそう甘くないと思ったが、所詮他人(ひと)事、青年を傷つけないように放った。
「あなたの夢が実現することを祈ってるわ」
「ありがとう。ところで、誰か君の知りあいがこのぼくを日本に連れていくことは可能かい、もちろん、それが君であれば願ってもないんだけど」
あまりにも厚かましすぎる申し出にさすがの万里子も唖然とさせられずにはおかなかった。初対面同然ということも意に介さない、いかにもインド人らしいいけ図々しさだと内心失笑せずにはおれなかったが、あえて善意に解釈すれば、若さゆえの無邪気さもあったかもしれない。それにしたって、ここはやはり誤解のないよう明確に否定しておかなければならなかった。
「残念ながら、あなたのご期待に添えそうにないわ」
肩をすくめて放つ。それから、ふっと浮かび上がった疑問が口をついて出るままに、
「こんなすばらしい故郷をなんで、あなたは捨てるの」
と問い返していた。
「インドが貧しい国だってことは、君も現実にわが目で見てようく承知だろう。大学を卒業したって、ろくすっぽ職にもありつけない。ぼくの親父は高校教師でね、長男のぼくがUターンして公務員になることを希んでるんだけど、ごめん被りたいね。狭い地域だけあって、少しでも目に立つ行為をすると、翌日には持ち切りの噂、おまえんちの息子は夜な夜な、浜でこっそりシガーを吹かしてるぞ、みたいなね。うちの親父と来たら、ぼくが煙草を吸いすぎるって、うるさいんだ」
「ただのシガレットだけ?」
大麻やオピウムがおおっぴらに巷間に出回っていたことを知っていた万里子は、揶揄混じりに投げずにはおれなかった。
「もちろん。ぼくはジャンキーじゃないからね。それはともかく、ほんとチャンスさえあれば、この貧しい後進国を出てみたいと思うね」
「でも、美しいところだわ。あなたはなんで、こんなすばらしい故郷を捨てるの?」
「保守的な田舎さ、煙草を吸ってるだけでとやかく言われる……」
「でも、ベンガル湾ひとつとっても、空気の汚れた先進国の都会に比べると、得難い宝よ」「多分ね。だけど、ここでビッグビジネスをものにするチャンスは限りなくゼロに近い。猫も杓子も観光業、ホテルやレストラン、旅行代理店にみんな手を染めてるけど、所詮小規模、ぼくは世界を股にかける億万長者になるというでっかい大志を抱いているんだ。しがないこの国で足踏みしてたんじゃあ、まともに就職口さえ見つからないありさまだからね。君だって、レストランでごろごろしてるローカルボーイをしょっちゅう見かけるだろう。高等教育を受けたって、田舎じゃ失職者としてぶらつくしかない、これがこの国の苛酷な現実さ。そこへいくと、ジャパンは素晴らしい、アジアの奇跡!、戦後二十五年足らずで高度成長を成し遂げて、世界第二の経済先進国にのし上がったのだから。ぼくが将来、夢を実現させるには願ってもない土壌だよ」
ロビンはどうやら、日本に過剰なまでの幻想を抱いているようだった。万に一つのチャンスで富める国の航路に乗りさえすれば、一挙に大金が転がり込んでくるという短絡的な発想だった。
「あなたには、母国のよさが全くわかってないようね。なんで、私が遙々、この国までやって来たかわかる? ここには、私たち文明人がとうの昔になくしてしまった大事なものがいまだに損なわれずに生きているからよ」
ロビンはちょっと肩をすくめた。
「君はほんとに上っ面しか見てないんだな。インドのことは、自国民であるこのぼくが君よりずっと承知しているつもりだよ。現実は、絵空事ではないんだよ。絵のように美しいうわべの裏には、どぶ泥の腐臭が渦巻いている。インドはいまだに、そうした矛盾をいろいろ内に孕んでいる国なんだよ」
利発な若者の言うことは確かに一理突いていなくもなかったので、万里子も最終的に押し黙らざるをえなかった。
以後、ロビンは判で押したように、毎日万里子をホテルに訪ねるようになった。レストランで雑談したり、浜を散歩したり、バザールを物色したり、万里子は土地の事情に通じたロビンを案内役に伴うのがいつとはなしに習わしとなっていた。
日の落ちた浜はじっくり話し込むに恰好の場を提供してくれ、背後に茂るカジュアリナの林が隠れ蓑になり、物売りなどに妨げられずに会話に熱中できた。万里子は、日本に関することなら、どんな小さなことであろうと聞き洩らすまいと耳をそば立てているロビンに、ジャパンレクチャーを開講し続けた。
才気煥発、好奇心旺盛な現地学生に請われるまま日本概論をレクチャーしていた雲行きが怪しくなったのは、いつごろからだったろう。
すでに知り合ってひと月近くが過ぎ、ロビンの休暇も余すところ三日しか残されていなかった。その夜、浜でいつもの林の陰に並んで腰を下ろしたロビンは、珍しく切り口上にジャパンの話題を持ち出すでもなく、じっと黙り込んだまま、西の空に雄大な入り日が沈みゆく光景に見入っていた。
「あの夕日の色を英語でなんというか、知ってるかい」
だしぬけにロビンが投げた。万里子がとっさに首を横に振ると、
「クリムズンというのさ」
クリムズン、その詩的で美しい響きに万里子は魅入られる。
ベンガルの大海はあたかも、恋を知り初めし乙女の頬のような初々しい薔薇色に燦めいていた。落陽の名残りに西の空一帯が鮮やかな深紅に染め変えられる。東の海上にはすでに薄青い闇が忍び寄り、二人の足元にもひたひたとミルクブルーの夜気が押し寄せてくる。波が藤色の夕闇をついてほの白く閃く。
「君は、日本に恋人はいるの」
だしぬけにロビンが投げた。万里子がたじろぎながらも小声で否定すると、ノーの返答に勢いを得たようにきらきら輝くような瞳を向けて、
「じゃあ、ぼくが立候補してもいいかい」
と冗談ともつかぬ口調で申し出てきた。なんと答えたものやらさすがの万里子も当惑していた。この若者は、万里子が十歳も年長であることをいまだ知らないのだ。
ロビンは答えあぐねている年上の女に構わず、畳み掛けるように、
「君と結婚して、ジャパンに行くことはできないだろうか」
と思いつめたような口調で一気に放った。万里子は、不意に押し寄せた大波に足元を掬われるような衝撃を受けていた。強いて落ち着きを取り戻そうとするのだが、このアンファンテリブルは容赦がなかった。年上女のかろうじて保った平静をいとも易きに崩すように、二個目の爆弾を落としたからである。
「バンクで初めて君を見たとき、強いインスピレーションに打たれたんだ、やっとぼくの探していたジャパニガールを見つけたってね」
美しい瞳にクリムズンレッドの炎がめらめら燃え盛る。万里子は努めて冷静を装うと、年長者らしい分別ある口調で諭しだした。
「まだ学生のあなたはジャパンに焦がれるあまり、たまたま出遭った日本女性に過剰なる幻想を抱いて、恋と友情を履き違えているだけのことよ」
「それは違うね。ここは観光地だから、これまでだって、何人かの日本女性と巡り会う機会はあった。でも、初めてなんだよ。こんな胸がきゅーんと締めつけられるような気持ちになったのは……。ぼくはどうやら、本気で君に恋しちまったようだ」
若者の策を弄さぬ率直な告白に打ちのめされながら、年上であることの理性が邪魔して、青二才のペースに嵌まるまいと頑なに自衛の体勢を崩せなかった。
「あなた、私のこと、一体幾つだと思ってるの、私はあなたより、ゆうに……」
ロビンが遮った。
「年なんか、関係ないよ。なぜって、ぼくは、たとい君が四十だろうと、五十だろうと、そっくり同じ真剣な気持ちで愛を誓ったろうからね」
ベンガルのまっすぐに伸びる海岸線のようにすがすがしい若者の直情に打たれる。星明かりの下押し寄せる波が青白く閃き、砂地を這って谺する潮騒の鳴動が鼓膜を満たす。
次の瞬間、万里子の唇はスーパーエクスプレスが小さな駅の停車場を掠める速度で盗まれていた。
(
三につづく)