インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

ジャパニーズドリーム・エピローグ(銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 17:50:42 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
  エピローグ (2010年/東京)

 レストランの厨房の戸が開けられたともなく、タキシード姿のオーナーらしき男性が顔を顕した。その瞬間、万里子は息が止まったかのような衝撃を覚えた。相手も紛れもなく、こちらに気づいたようだった。
 カウンター内できびきびと立ち働いていた女性が向ける目色で、万里子は笑顔の美しい感じのよさそうなその女(ひと)が、夫人であることをとっさに見抜く。
 彼はゆっくり万里子のテーブルに近づいてくる。
「お久しぶりでした」
 流暢な日本語で言って、ぎこちなく向かいに腰掛ける。
 夫と万里子の間の緊張した空気を嗅ぎつけた妻はさりげなく気遣って、厨房に引っ込んだ。

 まさかこんな外れの駅のインド料理店で、昔の恋人に出くわそうとは夢にも思わず、万里子はただただ呆然としていた。当時十八歳のインド学生だった彼の髪には白いものが混じっていたが、若い頃の美貌を彷彿させる整った面立ちは崩れておらず、浅黒かった肌は長年の日本滞在で色が抜け落ちていた。
 見つめあったまま、無言の時がしばし流れる。二十五年以上の歳月が流れたことで、ロビンとの恋はフィルターにかけられたようにセピア色に褪せて、残っているのはただただ懐かしい感情のみだった。
「素敵な奥さんね、それにとても雰囲気のいいお店、あなたが成功しててうれしいわ。おめでとう」
 沈黙を破って、万里子は投げる。
「ありがとう。万里子さんは今、どうしてるの」
 ロビンは万里子が結婚して、二児の母であると知って、心から安堵したようだった。
「あなたのこと、折に触れて気になってたのよ。幸せそうでほんとよかった……」
 ロビンはそれにはただ無言の笑みを返しただけだった。
「ゴーパルプルには、よく帰ってるの」
「去年、子供連れて帰りました」
「ご両親は?」
「はい、おかげさまで元気です。ぼくの日本での成功をとても喜んでいてくれてます」
「そう、よかった……」
 沈黙がまた流れる。ロビンが気まずさを取り繕うかのようにすかさず放った。
「万里子さんが昔言ってた意味、ようくわかりましたよ。今はインドのこと、生まれ故郷のこと、すごく愛してます。とくに海の美しさ、何物にも代えがたいですね。店が軌道に乗ったら、郷里に小さなホテルをオープンするのが僕の夢なんです」
 ロビンは若い頃と違って、年相応に堅実になっているように見えた。その変化に、賢妻が一役買っていたことはいうまでもなかったろう。
「それはすばらしいプランね。いつか、あなたの家族経営のホテル、訪ねられる日が来るかしら」
「もちろん、ぜひ来てください。大歓迎しますよ」
 万里子にはわかっていた。ロビンのホテルが出来上がっても、自分がそこを訪れる日は未来永劫に来ないだろうことを。一抹の寂しさが胸のうちを過る。
 カレー定食、ターリーが運ばれてきた。ロビンは会話を打ち切って、薦める。
「うちの特製定食です。堪能していってください」
 万里子はきれいにご飯一粒余さず食べた。香ばしいサフランライスと釜で焼き上げたふかふかのインド製発酵ブレッド、ナン、スパイスの程よく効いたマイルドな野菜とチキンカレー、真心のこもった家庭料理味でおいしかった。
 ロビンがにこにこしながら、食後のヨーグルトジュース、ラッシーを運んでくる。
「いかがでしたか」
「最高、おいしかったです。ご馳走様」
 ウェイターに皿をさげさせた後、万里子がラッシーに口をつける向かいにまた、腰を下ろす。
「今日は思いがけずお会いできて、本当にうれしかったです」
 ロビンが急に改まった口調で投げた。
「私の方こそ」
 万里子はちょっと照れた。気遣って奥に引っ込んでいる妻の手前、あまり長話もできまい。ただ一つだけ言っておかねばならぬことがあった。この二十五年ずっと心に引っかかっていたことだった。
「ごめんなさい」
 万里子は心から詫びた。ずっと謝らなければならないと思っていたので、溜飲を下げる心地だったが、
「なんで謝るんですか」
 とロビンは途方に暮れた顔をしていた。万里子はインドの両親に内緒で、未成年の息子を日本へと連れさらった無謀を長いこと恥じていたのだ。
「アイム・ソーリー」
 と今度は英語で詫びた。若気の至りで許されることではないと長年、罪の意識に駆られてきたのだった。ハッピーエンドだったならともかくも、結局結ばれることはなかったのだから。
「ぼくにとって、万里子さんは一生忘れられない女(ひと)です。あなたを愛せてよかったと心から思います」
 望外の言葉に万里子は涙ぐむ。
「私もあなたを愛せてよかった。本当にありがとう」
 ロビンとのことは、自分の青春のアルバムの貴重な一ページだった。
 万里子は引け際だと、伝票を掴んで、立ち上がった。
 しかし、レジでロビンは決して料金を受け取ろうとしなかった。
「またいつかきっと食べに来てください。ほうれん草やマトンのカレーもお薦めです」
 名残惜しそうに投げる。万里子はその日が決して来ないことを知りながら、うなずいて英語でもう一度礼を言うと、背を翻した(了)。


著者の自作解説はこちら
                           
*忌憚のないご意見・感想をお寄せいただけると、幸甚です。

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ジャパニーズドリーム7(銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 17:43:15 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
  七

 万里子の帰国日程に合わせて、ロビンのチケットの手配が済むと、ツーリストビザをとるには何の支障もなかった。カルカッタの日本総領事館で万里子が経済保障のギャランティさえ与えれば、三日後には降りるという迅速さだった。ここまでクリアして、万里子自身のビザが切れるという問題にぶつかった。出発は一週間後である。キショーに頼って、外人登録事務所に出向き、インドで慣習化している袖の下、バクシーシで買収して十日だけビザを延長してもらえたときは心底ほっとした。
 毎日がひどくあわただしかった。万里子はほんの少しの暇も惜しんで、ロビンの衣類を調達したり、ニューマーケットでスパイス一式を買い込んだり、土産を物色したりと、ショッピングに余念がなかった。ある午後、大荷物を抱えて戻ると、ロビンが日本の若者たちに取り巻かれて賑やかに談笑していた。くしゃくしゃのシーツの上に大麻の葉くずが散乱し、癖の強い甘ったるい芳香が鼻を突く。
「あ、どうもお邪魔してます」
 ロビンの背後から、のっぽの男の子がうりざね顔を覗かせ、ぴょこんと頭を下げた。目が真っ赤に潤んでいる。
「ご結婚なさるそうで……。どうもおめでとうございます」
 別の男の子が言った。みんな、ロビンと同年輩くらいの学生旅行者のようだった。
「一階のドミトリーに泊まってるんです、ぼくら。昨夜空港で偶然逢って、市内までいっしょに来たんです」
 山崎と名乗るうりざね顔の男の子が言った。
 ロビンは自分と同い年くらいのジャパニボーイとひょんなことから知り合えて、すっかり浮かれていた。それまでは、マイケル&グルらのあまり感心しないジャンキーコンビと夜な夜なハシシを吸い詰めて、業を煮やした万里子に一晩部屋から締め出されるというお仕置すら食らっていたのだ。
 ロビンは無邪気に笑い転げながら、ケン玉にトライしている。
「お近づきの印にプレゼントしたら、すっかり熱をあげちゃって」
 山崎が言った。
 万里子はあえてラウンドスモーキングには目をつむり、ロビンと同胞の若者たちとの交流を微笑ましげに眺めた。とくに、山崎とは気が合ったようで、早速住所を交換しあっている。
 ロビンは、山崎たちが夕食に迎えに来る頃には、見事にケン玉をクリアし、鮮やかな手つきで糸を駆使し、ひょいと玉を受けて、彼らの舌を巻かせずにはおかなかった。
「すごい集中力だなあ、彼、頭いいんだよね。日本語を教えたらすぐ覚えちゃうし。万里子さん、将来が楽しみですね」
 ロビンと一番気が合ってるらしい山崎は、ひと月後に旅を終えて東京に戻る予定なので、必ず連絡すると、頼もしげな友情の片鱗を示してくれた。
 就寝前、万里子はつい一言ロビンに言い聞かせずにはおれなかった。
「ロビン、ひとつだけ約束してちょうだい。マリュハナはここだけ、日本では絶対やらないと」
「もちろんだよ。ぼくはジャンキーじゃないよ。日本の法律がドラッグ禁止の厳格な社会だってことくらい百も承知してるよ。クリミナルの烙印を捺されて、せっかく授かったチャンスをみすみす逃すような愚かな真似は断じてしないよ」

 いよいよ駆け落ち決行が三日後に迫ったある日、万里子は路上でアマルに呼び止められる。アマルとはいつぞやのクラブの一件来、絶縁状態となっており、ロビンに駄目押しされていたこともあって、道で逢っても口も利かない日々が続いていたのだ。
 が、その日のアマルは、
「ロビンがなんで、ここでの結婚を渋るのか、やっと判明したよ」
 もったいぶった口調で万里子を引き止め、路地の奥に潜む怪しげな酒場へ誘導し、ビールも来ない早々から、
「奴はたしか、二十一歳とか称してたな。ゴロツキめがっ、三歳もサバを読んでいやがったというわけだ。いいかい、まなこをようくこじ開けて、奴のパスポートを今一度チェックするんだな。君は、インドの法律によると、いまだ結婚年齢に達しない未成年者と駆け落ちしようとしているんだよ」
 しっぽを摑んだといわんばかりの悦に入った面持ちでぶちまけた。万里子は目の前が真っ暗になるような心地だった。
「君は知らなかっただろうが、インドの法律は、男子の結婚年齢を二十一歳以上と定めているんだよ。なあ、シスター、悪いことは言わんよ、俺は本当に君のためを思って忠告してるんだ。どこの世界に、シスターがみすみす不幸になるとわかっていて、手をこまねいているブラザーがいる。奴は唯単に日本行きたさに、君を利用しているだけのことさ。年齢詐称のいかさま野郎に君を幸せにできるはずなど断じてない。ここで結婚できない以上、日本に行っても同じことだよ」
 足がもつれるのももどかしげに部屋に駆け戻った万里子は、ロビンの荷物を手当り次第に引っ掻き回して、キャリーバッグの底にパスポートを見いだした。震える指先で繰ったページの証明写真の横に、紛れもない生年月日を認めた万里子はへなへなとその場にくずおれそうな衝撃を受けた。アマルの言った通りだった。それにしても、彼は一体どこから、ロビンの秘密を嗅ぎつ けたものだろう。
 ドアの外に快活な笑い声が響き、山崎たちを従えてロビンが現れた。部屋じゅう散乱した衣類に埋もれながら、万里子はよっぽど切羽詰まった面持ちをしていたのだろう、只事ではない気配を察した同胞三人は早々にその場を引き上げた。
 万里子はふらっと立ち上がると、ロビンの面前にパスポートを突きつけていた。ロビンはさっと顔色を変えて、がくりとうなだれた。
「ごめんよ、決して騙すつもりはなかったんだ。信じてほしい。ぼくの年齢は本当に二十一歳なんだよ。親が三年遅れて届け出たがために、法律上は十八歳になってるだけのことで。もっと早くに君に事情を話すべきだったんだが」
 そんな嘘も方便が果たして、三十越えた大人に通用すると思ってるのだろうか。かえって、万里子の気持ちは依怙地になるばかりだった。
「私はすんでのところで、キッドナッパーにされるところだったわ。いまだ親の庇護下にある未成年者と駆け落ちだなんて、まったくとんでもない過ちを犯すところだった」
「お願いだから、マリコ、冷静になっておくれよ。日本の法律では、十八歳は立派に結婚できる年齢だろう。日本に行きさえすれば、問題ないと確信するよ、ぼくたちのマリッジは合法だと……」
 万里子は頑として受け付けなかった。
「とにかく、今なら遅くないのよ。あなたはすぐに勉学に戻るべきだわ。二人とも、ほんとにどうかしてたのよ」
「頼むよ、マリコ。ぼくは君のことを真剣に愛しているんだ。君以外の結婚相手は到底考えられない。仮に今すぐの結婚が無理としても、ぼくを信じて待っていてもらえないか」
「三年先のことなんて、保証できないわ。とくに三十越えた私にはね。誰が、若いあなたが心変わりしないと言えるの」
 ロビンはどう説得しても、年上の恋人の決意が揺るがないと知ると、あきらめたように、散乱した衣類をバッグに投げやりに詰め込み始めた。うなだれた背には落胆と悲哀が滲み出ていた。
 万里子は言うだけのことを言ってしまうと、急に腑抜けたような面持ちになって、ベッドに呆然と腰を落としていた。
 ロビンはそこまでして、日本に行きたかったのだろうか。もし、もっと早くにこの事情を知っていたなら、どうだったろう。そもそもは、彼を頭から信頼し、ろくすっぽパスポートを繰ってみようともしなかった、年長である自分の致命的失態ともいえた。もう少し慎重になってきちんと調べていたら。ビザの申請書も、本人でなく自分が書いてさえいたなら、もっと早くに気づいたかもしれなかったのにと悔やまれた。
 一場の嵐が過ぎてしまうと、この際、ロビンが十八だろうと、二十一だろうと、どうでもいいことのような気がしてきた。最初から彼が十八歳と知っていても、万里子はやはり惹きつけられ、同じような結果を招いていたことだろう。
 たとい、ロビンと結婚できなくともいい、こんなにも日本を見たがっている彼に、ひと目ジャパンを見せてやろう、私はそのための運び屋、であってもいい、着いた早々逃げられても……。
「もういいのよ、ロビン」
 キャリーバッグを手に悄然と部屋を立ち去ろうとしていたロビンを、引き止める。
 肩にそっと手をかけると、振り向いた顔の長い睫がしばたたき、透明なしずくがこぼれ落ちた。万里子は思わず、ロビンの頭(こうべ)をきつく胸中に掻き抱いていた。

 グレーの鉄架が壮麗なカーブの底にぎらつく陽を溜めて、宙にたわわに撓っている。陽の坩堝に溶かし込まれた鉄骨は中空に揺らめきたわみつつ、伸び上がる。車窓から、ロビンは食い入るようにハウラーブリッジの灰色の鉄架を仰いでいる。口元は堅固な意志を表わして真一文字に引き結ばれ、黒目がちの美しい瞳はきらきらとまだ見ぬ世界に焦がれるように瞬いていた。
 カルカッタのシンボル、ハウラーブリッジ、それは果たしてロビンの野心の象徴、でもあったろうか。十八歳の若者は故国の壮麗なブリッジを前に、何を誓っているのだろう。
 出発の時間が刻一刻と迫っていた。万里子はロビンのたっての頼みで寄り道させたタクシーを一路、エアポートへ向けて発進させた。

                                  *

エピローグにつづく)
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ジャパニーズドリーム6(銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 17:36:22 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
  六

 デリーから戻って二週間以上が過ぎようとしていた。この間、万里子は、ロビンからたった一通の葉書を受け取ったのみだった。「なんの心配もいらない。近々、パスポートがとれる予定だ。カルカッタでの再会を楽しみにしている」、味も素っ気もない文面で、三日に一度の割りで便りを送っている万里子としては、こんな小さなことにも、自分の愛情とロビンのそれを秤にかけて憂えずにはおれなかった。
 ブルースカイカフェでは、マイケルとグルが、青い瞳のフレンチガールを仲立ちに恋の鞘当ての火花を散らしていた。万里子は遠慮して、会計カウンター脇の席に腰を下ろす。一昨日まで豪雨が続き、舗装されていない表通りにはおびただしい水が溢れだし、赤茶色の泥水に膝下まで浸さないと、レストランにも行けないありさまだったが、今日はぶり返した陽射しがぎらぎら照りつけ、ドアが開くたびに鋭い矢のように貫き入っていた。
 フレッシュジュースを堪能していた万里子は、入り口から洩れ入る光がグラスの口をくわえた輪切りのオレンジにぶつかって跳ねる様に気をとられていた。その瞬間、覆い被さる人影でテーブルがにわかに翳った。
「ロビン!」
 思わずはしたないくらいの声をあげていた。それから、彼の頭髪を目の当たりにした途端、
「あなたの髪、ったら!」
 と言ったきり、二の句が継げなかった。万里子があれほどにも慈しんだマルーン色の艶やかな巻毛はことごとく殺がれ、揉み上げが露わになった小賢しいカットにウェーブが死んでいた。
「最新流行のヘアスタイルだね、よく似合うよ」
 マイケルが駆け寄って、にやりと笑みを浮かべながら、親指をぐいと突き出す。万里子は恐る恐る、ロビンの頭に手を伸ばしながら、流れるようなウェーブが損なわれたざらっとした感触に深いため息を洩らした。
「パスポートはとれたのね」
 万里子は恨めしげに視線を外すと、あきらめ顔で肝心要のことについて問い質していた。
「もちろん」
 ロビンはナップザックのポケットから、真新しい紺色のパスポートを取り出し、得意満面にテーブルの上に誇示する。カバーに捺印された金色(こんじき)の鷲が輝かしい勝利の凱歌をあげている。
「コングラチュレイションズ!」
 マイケルとグルが突如席に割り込んできて、同時に高らかな祝福の声をかける。ロビンは込み上げる喜びを抑え切れないように、万里子のオレンジジュースを横取りすると、一息に飲み乾した。

 夕刻、ロビンが到着したことを耳ざとく聞きつけたアマルが、友人と称する見慣れぬ男を伴って現れた。アマルの提案で、新市街パークストリートの高級クラブ、「ムーランルージュ」で盛大な祝賀パーティーが催されることになった。ロビンはアマルの招待を退けるどころか、拍子抜けするほどあっさり受け入れた。どうやら、自分のごとき若造がひっくり返っても出入り不可能な会員制クラブに対する覗き見的好奇心が勝ったせいらしかった。それと、キショーと名乗るアマルの連れ、インポート&エックスポートビジネスに携わり、日本に宝石や民芸品を輸出しているという男性にも興味を持ったようだった。
 英コロニー来の古めかしい国産車タクシー、山吹色のアンバサダーで店の前まで乗り付けた総勢四名は、初老のドアマンが恭しげな手つきで開ける革張りの重厚な扉の内へぞろぞろ足を踏み入れた。
 ロビンは初めて見るクラブの旧時代的装飾の豪勢さのすっかり虜となって、足がふわふわと絨毯に着かないようだった。天井から降ってくるミラーボールのめくるめく輝き、洋楽を奏でる生バンド、万里子には安っぽい大衆ディスコとしか思えなかったが、ついこの間まで貧乏学生だったロビンには見るもの聞くものすべてが物珍しく、きょときょと視線を巡らしながら、うわずった興奮を抑えられないでいるようだった。
 すっかり舞い上がったロビンは、アマルのさしもの分厚い財布も一晩で空になるかと思うくらい、厚かましくも高価なシーフード三昧、アマルが無作法に眉をしかめるのも構わずがつがつとロブスターを平らげ、フランス製の輸入ワインをがぶ飲みした。おなかがくちくなって初めて目にしたクラブへの好奇心も満たされてしまうと、次なる興味の対象は、キショーへと移ったよ うだった。
 アマルを置き去りにした形でしばし、二人の男の間でひとしきり会話が交わされる。
「日本に着いたら、ミスター・オカを訪ねてみるといい。オカはキチジョウジにインドグッズの店を出していて、年に何度か現地にも買い付けに来ている。輸出入業には精通しているやり手だから、さぞかし君の恰好のアドバイス役になってくれるだろう。面倒見のよい男だから、親身になっていろいろ相談に乗ってくれるはずだよ」
 キショーは上着の内ポケットから名刺を一枚取り出すと、テーブルに置いた。
 ロビンは早くも有力なコネができたことに有頂天になって、なおも熱心にキショーの話に耳を傾け、彼が現在の成功を勝ち取った秘訣を少しでも盗もうとしているかのようだった。
 アマルはワイングラスを弄びながら、なんともつまらなさそうに二人の話に上の空で相槌を打っていたが、ついに堪忍袋の緒が切れたように口を差し挟んだ。
「それはそうと、ロビン、シスターとはいつ、結婚するつもりなんだい」
「日本に落ち着いてからさ」
「なんで、手っ取り早く、ここでしちまわないんだい。法廷結婚なら、三人の証人さえ集めれば、ものの一、二時間で夫婦だよ。君さえよければ、俺とクリシュナ、そして、ほれ、ここにいるキショー、この三人でいつでも後見人になるよ」
「余計なお世話だよ。これはあくまでぼくたちのプライベートマター、他人にとやかく言われるまでもなく、いつ結婚するかは自分たちで決める」
 ロビンはむっとしたように言い返した。
「言葉を返すようだが、ロビン、俺はマリコのことは他人とは思っておらず、実のシスターのように慕っているもんでね。その大事なシスターが結婚するのをひと目この目で見届けたいと思うのは、ブラザーとして当然の権利じゃないかね。君は、わがシスターに対して誠意を示すべきだよ」
「なんと言われても、ここでは結婚しない。それはマリコも承知していることだよ」
「何か、インドで結婚できないわけでもあるのかい」
「ここではしたくないだけの話さ」
「ロビン、君は恐いんだろう、シスターを幸せにする自信がないんだ」
「なんだってえ。いいかい、ぼくはマリコを心から愛してる。マリコもぼくを信頼してくれてる。部外者のあんたに何がわかるってんだ」
「だから、口先だけじゃなく、行為で誠意を示せって言ってるんだよ。君には女心というものが全くわかってないようだな。女はな、歯の浮いたセリフよりも、行動で如実に示してほしいのさ。浮わついたプロポーズの言葉よりも、ほんとに結婚するのか、しないのか。俺にはマリコの気持ちが痛いほどようくわかる。彼女はここでの結婚を望んでいる。日本に着いた途端、君にすたこらさっと逃げられないうちにね」
「ぼくが逃げるだってえ? それこそ、言いがかりというもんだ。いいかい、あんたも知っての通り、これはぼくの両親には内緒の駆け落ちなんだよ。人目に立つことはしたくないんだよ。いつどんな伝で秘密が洩れないとも限らないからね。そうなったら、ぼくはたちどころに連れ戻され、計画はおじゃん。ここはいくらぼくの田舎から遠く離れたカルカッタとはいえ、インド国内である以上、決して安全圏とは言えないんだ」
「そういうけど、ロビン、結婚さえしちまえば、こっちのもんだよ。君はれっきとした成人なんだから、親だってとやかく言えまい。とにかく、口先だけじゃなくて誠意を示せよ。お望みとあらば、明日俺がコートにひとっ走り行って、書類一式引き上げてこようか」
「それこそ、余計なお世話だって、さっきから言ってるだろ」
「貴様はまったくとんでもないいかさま野郎だ、このチートめがっ!」
「ぼくがチートだってえ? ぼくの陰で、ヘロインやってるなんて中傷叩いたのは、どこのどいつだ。チートとはあんたのような奴のことを指して言うんだよ」
 かっと激昂のあまり宙に突き上げたロビンの拳が誤ってワインボトルを倒し、純白のテーブルクロスにたちまち赤紫の染みが広がった。給仕があわてて飛んでくる。びしょ濡れのテーブルを挟んでいがみ合う二人を、キショーが必死で執り成そうとする。
 高級クラブでの無作法きまわりない口喧嘩を万里子は息を詰めて見守りながら、不意に衝き上げてくる不安をどうしようもなかった。ロビンはなぜそれほどまでにして、インドでの結婚を渋るのだろう。無論、どこで結婚しようとさしたる問題ではなかったが、もし本当にその意志があるなら、アマルが言うようにやはり行為で誠意を示してほしかった。それは、万里子の切ない女心でもあった。万里子にはなぜか、ロビンが弁明するように郷里の両親に洩れるのを恐れてというよりも、何か別の事情があるような気がしてならなかった。年長者ゆえの愚かしい邪推だろうか。そうであってくれればよいがと祈りながら、怒りで青黒くなっている若いフィアンセの顔を不安げに見守るのだった。

につづく)
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ジャパニーズドリーム5(銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 17:30:21 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

  五

 ブルースカイカフェの前に、頭陀袋を担いだTシャツ・短パン姿の禿頭の老爺が所在なげに佇んでいる。万里子の姿を認めると、皺だらけの顔がぱっと綻んだ。チャイニーズババである。日が翳る頃、どこからともなく立ち現れて、道行くツーリストの袖を引き、わしの踊りを見に来んかと勧誘する。大方は、「このいかれたチャイニーズじじいめがっ」と言わんばかりの露骨にうさんくさい反応を示したが、ババの幸福とは、たとえ十度に一回の割りでも、異邦の旅行者が自分のあばら屋を訪ねてくれて、スピリチュアルダンスを仲立ちに、ババいうところの「魂のコンタクト」を交わすそのことにあったろう。
 ババが手垢にまみれた頭陀袋の中に後生大事に抱えている黄ばんだよれよれのスケッチブックには、世界中の旅行者からの寄せ書きやイラスト類が氾濫していた。ページの間には、一時期愛を分かち合った父娘ほどにも年の違う日本女性、エツコから贈られたマウントフジをあしらったグリーティングカードや、二人の関係が確かに友情以上のものであったらしいことを示す唯一の証拠物件、髪の長い東洋女性がしどけなくババに寄りかかった写真も挟まれている。
「あんたが結婚すると、聞いたもんでね」
 小柄な胴体に不釣合いにでっかい坊主刈りの頭が揺れる。ひょこひょこ小股に歩くしぐさは、 愛すべきタコ入道の憎めない愛嬌を醸している。
「餞のダンス、だよ」
 ババは道行く人の目をものともせずに衣服を脱ぎ捨てると、色とりどりの房が垂れた腰蓑姿になって巧みに尻を振らし始めた。路上の芸人を取り巻くようにたちまち物見高い人垣が出来る。やんややんやの喝采が飛ぶ。
 赤、黄、緑、橙のふさがリズミカルな腰の動きとともにうねり、鉤のように折れ曲がった奇妙な手足が宙を掻く。
「ホワイト、レッド、イエロー、ブラウン、ブラック……
 この星にはさまざまなカラーの人種が渦巻いているよ
 地球は七色に流れ出し、いくつもの虹の輪に取り巻かれるよ
 青いプラネットは周りながら、レインボー色に溶けていく
 彼女の叡智はスイスバンクのドル嵩に匹敵するほど豊かで果てしない
 彼女は私に二つのことを教えた
 ゆっくり食べることと、
 目玉を動かすことの鍛練
 私は山のような揺るぎない平和と静けさを好むよ
 彼女がどこにいようと、何をしていようと、私は永遠(とわ)に彼女を愛し続ける」

 笛のように鳴る息のうねりに乗って、しゃがれた歌声がゆるゆる押し出される。上下する肩の上で、たるんだ皺の中に落ちくぼんだ瞳が不思議に浄らかな輝きを放っていた。息と息の合間に継がれるフレーズに、万里子は吸い込まれそうになる。ミステリアスな詩吟の魔術にかかったように、烏合の衆は水を打ったように静まり返っていた。
「フィアンセはいつ、来るんだい」
 すっかり顔馴染みになったブルースカイのマネージャーが揶揄混じりに訊いてくる。
「オリッサ州なんて田舎者はよせよ。うちのタパンの方がずっと活かすぜ」
 タパンとは、厨房でパパイヤ、バナナ、オレンジ、りんごの乱切りをミキサーに放り込んではせっせとフレッシュジュース作りに精出しているヘルパーである。赤銅色の肌にがっしりした体格を有していたが、顔立ちは柔和で繊細、いまだナイーヴな少年の面影を宿していた。ひょうきんな一面もある彼は、英語が話せないため、万里子が顔を見せると、大きな目玉をくるくるユーモラスに動かして、ひょいと顎で宙を掬い上げるようにするしぐさを唯一の親しみの合図としていた。
「タパンは、あんたを愛してるよ」
 マネージャーは穏やかならぬことを口走る。
「残念ながら、私は売約済みよ」
 タパンがその拍子に、キッチンの仕切りからひょいと顔を覗かせ、例のシグナルを送った。
「アマル閣下のお出まし、だ」
 マネージャーはおおわらわに立ち上がって、直立不動の姿勢で出迎える(彼はアマルにチップで完全買収されていた)。
「シスターが急にいなくなったもんで、クリシュナもジュンコーも非常に寂しがってるよ」 
 万里子はつい三日前、そろそろ腰の上げどきかと、長いこと世話になったアマル邸を辞したのだった。
「アブーは元気?」
「ああ、お父上が、やっと小切手を送ってくれたもんで、さっき慌てふためいて銀行にすっ飛んでいったよ。あいつがうちに来たとき一文無しだったのは知ってるだろう。二週間も着た切り雀でいるのには参ったよ。見るに見かねて、俺が新しい服をプレゼントしてやったんだが。あいつ、親父は大富豪の石油成金とか触れ回ってたけど、どうだか怪しいもんだ。土台、御曹司って柄かい。おまけに、奴の口癖ときたら、やたらめったらビューティフル!を連発することなんだ、ったくこちとら耳にタコができたぜ」
 万里子は、アマル家のベランダでアブーととも夕日を眺めていたとき、彼が何度も「ビューティフル!」と連発した口調を思い出し、思わず噴き出しそうになった。
「ロビンが来たら、ぜひうちに泊まってくれたまえよ。クリシュナもジュンコーも、大歓迎だよ」
 ついこの間までの中傷ぶりはどこへやら、舌の根も乾かぬうちにこの言いざまである。
「どうだい、これから久しぶりにパラゴンホテルに行ってみないか」
 アマルの魂胆は言わずと知れていた。ニューカマーのジャパニガールの到来を待ちわびて、日に一度は、日本人旅行者の溜まり場になっているパラゴンホテルを覗かずにはいられないのだ。いつだったか、アマルの執拗な懇願に押し切られた形で、メッセージボードに「当方28歳の親日派男性、日本女性の友人求む」の貼紙をしてやったことがあったが、これはてんで効き目がなかった。女性旅行者は、男性に比べると格段に少ない上、三十歳以下の単身旅行者となると、さらに限られてしまうこともあった。
 引っ張られる形で渋々同行すると、案の定、日本女性はパタリと跡絶えていた。二週間ほど前、短期滞在した若い女性がいたが、彼女はアマルのことを鼻も引っかけず、さっさとダージリンに発ってしまった。あれ以来、オフということもあって、めぼしい女性旅行者は訪れてないようだった。
「ロビンはほんとにラッキーガイだよ。君のようなすばらしいジャパニガールには、そうそう簡単に巡り逢えるもんじゃあない」

につづく)
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ジャパニーズドリーム4(銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 17:22:08 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

  四

 アマルの家は、ダムダム空港途上の閑静な住宅街にある。三週間ほど前、カルカッタに万里子を訪ねたロビンが、折悪しく恋人が不在の三日間、上げ膳据え膳でお世話になった三階建ての豪邸である。アマルはすでにロビンのことは万里子に告げられ写真も見ていたため、当座の食住を提供するのにいささかの躊躇も見せなかったのだ。
 何の因果か、よりにもよって万里子は今、そのアマルの屋敷に厄介になっているのである。アマルの中傷、グルの深入りするなとの忠告、ロビンの激昂、何もかもついこの間のことで引っかからないわけではなかったが、デリーからとんぼ帰りした翌朝、行きつけの宿が満室で途方に暮れているところをアマル本人と鉢合わせし、口車に乗せられた形でつい一泊だけお世話になることにしたのだった。彼は自分が根も歯もない中傷をしたことなど、けろりと忘れ去っている風情だった。
 夫妻がクリシュナの父から結婚祝いにプレゼントされたという、十五室もある三階建ての豪邸には四六時中、食客が出入りしていた。長髪で年齢不詳のイスラエル男性、ジョーン、ムスリムにもかかわらず無髭の現代風イラン青年、アブー、アマルはどうやらブルースカイカフェでこれと目をつけためぼしい外人旅行者に片っ端から声をかけて誘っているものらしかった。万里子も、一日のみのつもりが、アマルに好きなだけ居ていいよと言われると、つい居心地がよくてずるずる長居する羽目になってしまった。ロビンにはすでにその旨知らせてあったが、とくに反対はされなかった。彼自身、三度三度召使がかしづいて食事を運んでくる、この屋敷の快適さは承知していたがためと思える。万里子には特別に三階の広いバスルーム付きの角部屋があてがわれたこともあって、安宿のむさくるしさと比べると天国、なかなか動けないのであった。
 万里子は、ユダヤ⇔イスラムの犬猿の仲でそっぽを向き合っているジョーン・アブーご両人とは距離を置いて付き合い、暇さえあれば、夫妻の一粒種、ジュンコーの相手をしてやっていた。ジュンコーはアマルの息子にしては上出来すぎ、美人妻クリシュナ似の愛くるしい面立ちをそっくり受け継ぎ、性格も大人しく従順、アマルが溺愛するのも無理はなかった。

 クリシュナは現地人らしからぬ肌白で彫りが深く整った顔立ちをしていたが、富裕階級にありがちのシルクのサリーの下にまとった短い丈のブラウスからは醜い下腹が食み出していた。彼女は夫が昼夜問わず、引き入れる得体の知れない外人客のあしらいに慣れているようで、インド夫人にしてはあけっぴろげな態度で、なまりの強い英語で愛想よく迎えていた。が、夫婦仲が冷え切っていることは一目瞭然だった。異邦の客人の手前、精一杯取り繕って仲良さそうに見せかけてはいたが、裏に回ると、実によそよそしく、ろくすっぽ会話らしい会話も交わしてなかった。アマルは憂さ晴らしをするように頻繁に無断外泊を繰り返していた。
 夫が朝帰りした日はクリシュナはとりわけ機嫌が悪く、玄関の錠前を固く閉ざしてなかなか開けようとしなかった。アマルは一時間以上根気よくドアをノックし続けて、やっと中に入ることを許されるのだった。朝方まで飲んだくれていたことは明らかで、体全体からは酒気を帯びた饐えた体臭が漂い、土気色の顔は浮腫み、物憂いアンニュイに澱んでいた。
 五歳の幼児といえども、両親の不仲には敏感に感ずるところがあるのだろう、ジュンコーはそうした朝など、よくむずがって泣いた。夫婦失格の二人もさすがに子どもは可愛くてならないらしく、ひととき子煩悩な親の顔に戻って、おろおろとジュンコーをあやすのだった。子はかすがいとはよく言ったもので、まさしくジュンコーは父母のぎしぎし冷え切った仲を潤す潤滑油のような役目を果たしていた。

 そうするうちに突如、ジョーンの行方が知れなくなった。夜逃げ同然にある日、忽然と行方をくらましてしまったのである。ジョーンが寝起きしていた部屋はも抜けの殻で、高価な置物類がごっそりなくなっていた。
「身ぐるみ剥がれて途方に暮れていたところを助けてやったのに、恩を徒で返しやがるとはまったく、とんでもないペテン野郎だ」
 飼犬に手を噛まれたといわんばかりの立腹の態で、アマルは苦々しげに吐き捨てる。いっこうに腹の虫が納まらない様子で、そもそものジョーンとの馴れ初めを声高に語り出す。
「奴にブルースカイで逢ったのは、そうさな一月ほど前かな。しょぼんと気落ちしてるんで、どうしたんだと心配して声をかけてやると、列車内で睡眠薬強盗にあって身ぐるみ剥がれてしまったと嘆くんだ。大使館に当座の金は借りて飲み食いしてるが、それももう残り少ない、実家に送金してくれるよう頼んだが、日にちがかかりそうだからと浮かない顔なんだ。ついこちらは気の毒になって、それならうちに来ればって、誘ったんだよ。成りゆき上面倒を見る羽目になったわけだが、ここに来て三日後にはもう本性を顕し始め、小遣いをせびるようになった。ブルースカイには、奴が俺の名で飲み食いしたツケが二千ルピーも溜まってるんだぜ」
 アマルはどこの馬の骨とも知れぬイスラエル人に関わったことで被った被害の数々を腹立たしげに捲し立てるのだが、万里子はあながちジョーンだけの非とも言えないような気がした。かえって、その種のヒッピー紛いのうさんくさい連中の弱みにつけ込むアマルの気性に淫靡なものを見てしまう。彼は要するに、退屈なのだ。そして、夫婦仲がうまくいかないことの溜まりに溜まった鬱憤を晴らしたいだけなのである。だから、ブルースカイで出くわした箸にも棒にも引っかからぬ外人をしょっちゅううちに引き込んで は、散財している。
 得体の知れない外人ヒッピーの身の回りの世話をさせられるクリシュナこそ、いい迷惑だった。万里子はどちらかといえば、同性の立場から、妻の側に同情すらしていた。万里子にはクリシュナが、アマルが口を極めて罵る華美で奔放な人妻には見えなかった。なるほど上流社会出身からくる気位の高さは確かにあったが、アマル自身の金銭面のルーズさを考慮に入れると、差し引かれてよいものだった。いくらお金に不自由していないからといって、家計を預かる主婦としては、夫の浪費癖はないがしろにできぬ問題だったろう。
 結局のところ、義父の財力を当てにして、方々に金をまき散らしているアマルは、彼の金にたかってくるうさんくさい連中と五十歩百歩、さして変わりがないといってよかった。

 ベランダの向こうに、椰子樹に取り巻かれた青緑色の沼が落陽に照り映えて、薔薇色に燦めいている。夕暮れの風に煽られた椰子の長い葉は巨大なひとでの触手のように蠢き、熟したマンゴーのような落日を搦めとろうとする。
「ビューティフル!」
 万里子と肩を並べて欄干にもたれながら、一日で最も美しいひとときに見入っていたアブーが思わず、感嘆の呟きを洩らす。数日ぶりに覗いた雨季の晴れ間の鮮やかな夕焼けを、万里子も堪能していた。市街地のごみごみした混沌と汚穢からは程遠い、郊外の穏やかで美しい夕映えだった。
 闇の緒が降りるにつれ、椰子の喬木は徐々に淡いシルエットを描いて浮かび上がり、ベランダに佇む二人の足元にも薄い夜気が忍び寄り始めた。
「俺はそもそもの初めっから、奴には用心しろと警告してたんだよ」
 アブーがつと、それ見たことかと揚げ足とるように放つ。いわずもがな、ジョーンのことだった。
「早いとこ追いだせってつついてたんだよ。が、アマルときたら、すっかり奴のペースに嵌められちまって、言いなりに財布を開けてやがる始末」
 万里子はジョーンとは挨拶くらいしか交わさなかったのでよくわからなかったが、とにかく、一家の主人に取り入るのが天才的にうまかった記憶だけはある。アブーにしてみれば、目の上のたんこぶがいなくなったので、内心せいせいしていることは間違いなかった。宿敵の元食客メートをこてんぱんにやっつけるアブーの剣幕の烈しさに、万里子は固唾を呑む。まるで集中砲火といった案配だ。ぺっぺと吐き出される唾がかからないようにとよけながら、万里子はのべつくまなし動く口が止む頃合を見計らっていた。やっと沈黙が漂った一瞬を逃さず、じゃあねと背を翻しかけた途端、
「そういえば、インド人と結婚するんだって?」
 だしぬけにアブーが投げた。踵がくるりと翻った。またアマルがペラペラと喋ったものにちがいなかった。渋々頷くと、
「なんで、インド人なんだい?」
 言葉尻に軽い揶揄とも侮りともつかぬ調子がこめられていた。
「奴らは天性のペテン師だぜ。結婚するのはいっこうに構わない、けど、なあ、悪いことは言わない、インディアンだけはやめろよ、ろくな結果にならないぜ」
「インドが嫌いなの」
「インドは素晴らしい国さ。が、インディアンは油断ならないぜ」
 万里子はさすがに、むっとした顔つきで言い返さざるをえなかった。
「インド人の家に厄介になっておきながら、そんな言いざまはないでしょ」
「アマルには無論、感謝してるよ。彼はいい男だよ。けど、ぼくは手持ちの金を使い果たしてしまったんで、本国からの送金が届くまでのほんのしばらくの間、待っているだけのことなんだよ。ぼくの父は石油王でね、五千ドル送金され次第、ここを即刻立ち退くつもりでいるんだ。インド人についてぼくの言ってるのはあくまで一般論であって、決して個人攻撃してるわけじゃないんだから、誤解しないでくれよ。それはそうと、君はなんで、イラニアンと結婚しないのさ。われらは男の中の男、妻を外敵から守り、ゆるぎない生活の安定と富を保障する。精力も強い、玉のような赤ん坊をたくさん授かることだろうよ」
 万里子はぽかんと呆気にとられて、アブーの顔をまじまじ仰いだ。色白でふくよかな面立ちは瞳が鷹のように鋭く、鷲鼻ひとつとっても、明らかにインド系とは異質の特徴を備えていた。インドに来る前は、アメリカのカレッジで学んでいたそうで、そのせいか、彼の本場なまりの早口イングリッシュはひどく聞き取りにくかった。万里子は、ちょうどタイミングよく階下から声がかかったのを潮に、
「私のフィアンセは、そんじょそこらのインド人とは違うのよ。ロビンは素晴らしい若者よ。彼をひと目見たら、あなただって、きっと前言を取り消すにちがいないわ」
 と宣言し、背を翻した。

につづく)
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ジャパニーズドリーム3(銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 17:12:32 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

  三

 夜行列車の固いビニール革寝台に横になっていた万里子は、ほのかな磯の香を嗅いだような気がして、跳ね起きた。どうやら、終着駅が近いようだ。空がうすら明るくなるにつれ車内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたが、昨晩よく眠れなかったせいでぐずぐず横になり続けていたのだ。ほとんどの乗客はすでに起きており、鉄鎖で吊り下げた二段目シートをまた一段目の座席の背へ折り込んで、列車が最終駅へと到着するのを今か今かと待ち構えていた。気の早い者のなかには、大荷物をまとめだす者もいた。

 万里子はのそりと起き上がって、一番上の固定寝台から鉄梯子を伝って舞い降りた。洗顔を済ませた後、座席を詰めてもらって端に座る。エクスプレスとは名ばかりの列車は終着駅を間近にしながら、遅々として進まず、別路線の急行がすれ違うまで待機したりと散々気を持たせた挙げ句、やっとバーランプル駅へ滑り込んだ。
 駅舎の外に出ると、いつものように観光客目当ての客引きが群がってきた。ホテルの斡旋屋や車夫たちである。浅黒い顔の羅列に、馴染みのオート三輪車夫を見つけた万里子はとっさに手を振る。
「長いこと、どこにしけ込んでたんだい」
 がさつな若者は馴れ馴れしげに声をかけてくる。
「カルカッタ、よ。日本に帰る前に、もう一度だけベンガル海が見たくなって」
 実は再訪した理由は別にあったのだが、それも満更嘘ではなかった。
「あんたはどこに行ったって、ゴーパルプルがきっと懐かしくなって、ここに帰ってくるにちがいないよ」
 万里子は軽やかな笑い声を弾けさせながら、オートリキシャの後部座席にキャリーバッグ一つの軽装で乗り込んだ。三十分後、海を目前にするマーメードホテルに辿り着いた。 
 シャワーを浴びて、ルームサービスの朝食をとった後、バルコニーから小雨に煙る海をちらっと眺めやり、それから身仕度を整えて、外に出た。酷暑の盛りのロビンとの運命的ともいえる出逢いを経て、季節は雨季へと突入し過ごしやすくなっていた。サイクル人力車を捕まえ、メモに記したアドレスを示し、そこへにやってくれるよう指示する。リキシャが表道を滑り出したとき、万里子は大判のスカーフで頭を覆い、布地の端を鼻の頭まで引き上げた。万里子の顔を覚えているだろうにちがいない地元民を警戒してのことだった。案の定、ほんの数百メートルと行かないうちに、目前に見えてきた雑貨屋から、小さな歓声があがった。顔馴染みの日本人旅行者をめざとく認めた店番の少年が無邪気に手を振っている。万里子はひょいと肩をすくめると、車夫をつついて急がせた。
 リキシャはメインロードを下り、曲がりくねった裏路地の一つに入った。止みかけていた雨がまたぞろぱらつき出し、すかさず万里子の頭上にキャメル色の幌がかけられる。明るみを残していた空がたちどころに翳り、雨雲の下から荒い粒が弾き飛んでくる。次第に勢いを増して横撲りに振りつける雨に、幌を支える木骨がぎしぎし軋む。雨は横手から容赦なく吹き込み、万里子の赤いパンツはたちまちびしょ濡れになる。薄汚れたターバンで防備しただけの車夫は濡れるのも厭わず、客を目的地へと運ぶ。大きな車輪が路上に溢れた代赭色の水を掻き切って飛沫を蹴散らしつつ進む。
「あんたが、探してるトゥリパティの家とは、あれにちがいないよ」
 通り雨だったらしく、着く頃には小止みになっていた。濡れねずみの車夫が指し示す方角に、 頑丈な鉄格子の門構えの邸宅が聳えていた。
「もう少し近づいてちょうだい」
 門柱に貼り付いた金色のプレートに、万里子は間違いなく、ロビンの父親の名前、ナラヤン・トゥリパティの銘を見いだして、それから、改めて家を仰ぐようにした。
 二階建てのなかなか立派な構えの屋敷だった。名残りの雨しずくが白塗りの外壁を伝って滴り落ちていく。万里子はちょっと拍子抜けしたように、ロビンの家をぼんやり仰ぎ続けた。
「降りないのかい」
 車夫が怪訝そうに訊いた。
「いいのよ、もう少ししたら、また元来た道を戻ってちょうだい」
 そのときだった、ゲートに横付けされたリキシャを訝しむように、ポーチの奥のドアがわずかに放たれたのは。年配男性の顔が覗き、ロビンを彷彿させる面影を見て取った万里子は慌てて車夫をせっついて車を出させた。

 その日のうちに、万里子はバーランプルへ戻った。カルカッタ行きの夜行列車に乗り込むと、ほうっと大きく息をつく。ひとまずやるべき義務は果たしたというような奇妙な安堵感があった。ロビンに申し訳ないことをしたという気持ちは微塵も起きなかった。それよりも、万里子はロビンの胸のうちに潜む野望に、スタンダールの「赤と黒」の主人公にも似た狡猾さを読み取っていたわけだが、どうやら貧しいきこりの息子であったジュリアン・ソレルに比べると、生まれは一等高貴らしかった。すでに万里子は、ロビンが上衣の衿の隙からちらりと覗かせるたすき掛けの白い聖紐のせいで、ブラーミンカーストという最上層の司祭階級であることをも嗅ぎつけていた。
 そもそもの今回の偵察のきっかけとなったのは、ブルースカイカフェのオーナーにオリッサ州の若者と結婚するという噂が広まっているが、本当かいと訊かれ、無警戒に頷いてしまったことにあった。いかにも堅実そうな四十代のオーナーは、結婚前に相手の素性だけはきちんと調べた方がいいよともっともらしい警告を垂れ、虚をつかれている万里子に、彼の家は見たのかいと畳みかけたのだった。とっさに首を横に振ると、絶対にチェックを怠るべきでないと頑として言い張ったのだった。
 賢明なる?そのアドバイスに従った形での、今回のフィアンセには内緒のお忍び旅行というわけであった。

 カルカッタにとんぼ帰りで戻った万里子は何食わぬ顔で、デリーからの連絡を待ち続けた。パスポートが無事とれたとの吉報はいっこうに届かなかった。三週間ほど前申請代金との名目で、インドでは結構な金額にあたる二百ドルもせしめていって以来、なしのつぶてだった。
 ロビンにそそのかされた形での、日本への出奔計画は着々と内密裡に企てられていたのである。文字通りの家出、まだ学生だけに、いうまでもなく彼の郷里の両親には内緒の企てだった。万里子自身、今となってはこの十歳年下の学生のことを真剣に愛していたので、卒業までの半年間が待ち切れなかったのである。
 学業を中途放棄させての駆け落ちなんて、三十過ぎた大人のやることじゃないと悟りながらも、彼の心変わりが恐くてならず、とにかく一刻も早く、安全圏へと連れ攫ってしまいたかった。
 果たして、プランは順調に進んでいるのだろうか、急に心配になった万里子は衝動に駆られるまま夜行列車に飛び乗り、一路首都へと駆けつける誘惑に打ち克てなかった。
 しかし、ひと月ぶりに恋人に会えるときめきで胸踊らせながら、郊外のキャンパスを訪ねたにもかかわらず、予想外に冷ややかなロビンの反応に戸惑わされる。
「ここには来てくれるなと、あれほど念を押したのに……。同郷の学友が目撃して、親父に告げ口でもしたら、どうするつもりなのさ。なんで、もう少し辛抱強く待てなかったの。ともかく、ここじゃあ人目に立つ、外に出よう」
 予告なしに突然現れた異人フィアンセはどうやら、招からざる客のようだった。が、ロビンの憂慮はもっともで、万里子はおのれの浅はかさを悔やんだ。
 なんといっても、自分は目立ちすぎた。顔の造作から、すぐ東洋人であることがばれてしてしまう。すれ違う学生が物珍しげに、異色の採り合わせに好奇の眼差しを投げかけていく。
 ロビンはオートリキシャで新市街に出ると、万里子を学生には不釣合いな冷房付き高級レストランへと連れだした。シャンデリアのきらめくゴージャスな内装の広いフロアに一歩足を踏み入れて、タキシードで正装した給仕に畏まって迎えられ、ロビンは得意満面、椅子を恭しげに引くボーイに傲然と肩をそびやかしながら腰掛けた。
 貧乏バックパッカーだった万里子は、三度三度の食事はもっぱら大衆食堂と節約していたため、場違いな雰囲気にはさすがに戸惑った。そこには、炎天下繰り広げられるインドのあの貧しく汚い現実とは全くの別世界が繰り広げられていた。万里子は改めて、地獄と天国が紙一重のインドという国に震撼させられずにはおれなかった。
 ロビンが革張りのドリンクメニューを見ながら、気取った面持ちでビールを二本オーダーする。万里子は一本百ルピー近い値段に卒倒しそうになる。市価の二倍である。ロビンは平然としている。結局は自分がここの勘定を持つことになるため、脛かじりの分際にもかかわらずの彼の散財は万里子には気が重かった。これから日本脱出にあたっては、何かと物入りでもある。チケット購入代や途上経過するタイでの滞在費など、残り少ないドルのことを思うと、気がきでなかった。
 フィアンセに久しぶりに会えるという心の弾みはとっくに失せていた。
「後生だから、君に頼みたいことは、とにかく、ぼくを信じて待っててほしいということ」ロビンが咎めるような目色で万里子の軽率さを蒸し返し、万里子はろめたさのあまり、
「アマルがね、あなたがヘロインをやってるところを目撃したと言うのよ。それで……」
 と、つい話題を摺り替えていた。
「なんだってえ?」
 ロビンが目を剥く。言いがかりをつけられた彼の憤りは激しかった。いかにも生一本な若者らしく、拳をきつく握り締めて宙を何度も突き上げながら、
「一体、彼はこのぼくになんの恨みがあるってんだよ。ぼくがカルカッタの彼の家に厄介になったときは、甲斐甲斐しく面倒見てくれたのに、何だってまた、そんな因縁つけたりするのさ」
 ぎりぎりと悔しそうに歯噛みする。
「ほら、夫婦仲がよくないでしょ、嫉妬してるんだって、グルが言ってたわ」
 ロビンはそれには答えず、急に納得がいったような面持ちになって放った。
「そうか、それで君は心配になって、いきなりやって来たというわけか」
 万里子はもっけの幸いとばかり、この際アマルに悪者になってもらうことにし、ロビンと一緒くたになって攻撃の矢を放ち続けた。その一方で、おのれの行為を正当化してしまった後味の悪さも覚えていた。私だって、アマルとさして変わらないことを、ロビンの陰でやってる、こっそり彼の家を偵察したりして。後ろめたい気持ちが湧き上げてきた。今頃になって、ロビンに秘密を持ってしまったことの悔いが込み上げてくる。なんだって、ブルースカイカフェのオーナーの言うことなんて、真に受けてしまったのだろう。万里子の心の片隅にわだかまって消えない、若く美貌のインド青年に対するかすかな不信感や疑惑が、そうした愚かな行為に駆り立てたとしか思えなかった。

につづく)
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ジャパニーズドリーム2(銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 17:01:00 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

  二

 ゴーパルプルのステイツ・バンク・オヴ・インディアで初めて万里子に声をかけてきたときのロビンは、異国の旅行者におずおずと話を切り出す内気な田舎青年風情で、黒目がちの美しい瞳が未知のものに焦がれるようにきらきらと瞬いていた。
「君、ジャパニーズ?」
「ええ」
「ジャパンはぼくの憧れの国なんだ、どこに住んでるの」
「東京、よ」
「ああ、トーキョー、キャピタルだね。もしよかったら、チャイでも飲んで話さない?」
 万里子はあくまで冷ややかだった。両替に来た銀行でたまたま行き合わせた地元青年にミルクティーを付き合うまでのボランティア精神は到底持ち合わせていなかったせいだ。素っ気なく退けた後、現金引き渡し窓口へと向かう。長い順番待ちの末受け取った札束を引き剥がそうとしたとき、分厚いルピー札はホッチキスの太い針で頑丈に留められていたため、女性のか弱い力では外せなかった。悪戦苦闘していると、背後からだしぬけに伸びてくる腕があった。
「貸してごらん」
 いつ来たものやら、先ほどの青年が立っていた。とっさに手渡すと、ロビンは札束を真ん中で分けてぎりぎりねじ回すようにし、両方向に引っ張って器用に剥がしてくれた。
「ありがとう」
 万里子はすかさず礼を返し、お金を受け取ると、矢庭に背を翻す。
 その拍子に、声が飛んだ。
「どこに泊まっているの」
「マーメイドホテルよ」
 あのときなんで無防備にも、ホテルの名前を教えてしまったろうか。思うに、あれが運命の岐れ道になったとしか思えない。三日後、ロビンは予告もなしに、いきなり万里子をホテルに訪ねるからである。

 ロビーに待機する白のTシャツ・ブルージーンズを見いだしたとき、万里子はそれがバンクでおずおず声をかけてきた野暮ったい青年と同一人物とも思われず、かすかな胸のときめきすら覚えたほどだった。万里子の頭上で弾けるような笑みが噴き上げる。若々しい活力に漲る長身の肢体は溌刺と撓っていた。
「ぼくは首都デリーのカレッジで英文学を専攻している学生だよ。ここゴーパルプルはぼくの生まれ故郷でね、今ちょうど夏休みで里帰りしているところさ。君も、スチューデント?」
 万里子はとっさに首を横に振る。日本女性は小柄なこともあって、大概実際の年齢より若く見られる。かてて加えて童顔の自分は、もう二十代でないにもかかわらず、いつも学生に間違えられるのだった。ロビンの顔を一瞬失望した色が掠めたようだったが、年齢を再確認する無作法はせずに、とっさに話題を転換した。
「ゴーパルプルはどう、気に入った?」
「ええ、カルカッタの喧騒と打って変わって、平和でのどかなところがとっても……」
 インドの東海岸部、オリッサ州の海沿いの保養地に滞在して、すでにひと月余りの歳月が流れていた。
「気に入ってもらえてうれしいよ。ぼくの休暇はあとひと月ほど、君に見所を案内してあげられるといいんだけど」
「ありがとう、でも、私、観光にはあまり興味ないのよ」
 万里子は素っ気なく返した。ロビンはいっこうに気分を害すでもなく、せっかちに訊いてきた。
「日本ではどんな職業についてるの」
 これまで地元の人々に何度も好奇混じりに問われた質問にまたしても、答えねばならぬ羽目に陥った。職業でカーストを判別する習性のある現地人たちは、答次第で階級の品定めをするらしかった。
「フリーライターよ」
 言い飽きた返答を無造作に放つ。途端に、ロビンの瞳がぱっと明るんだ。
「ジャーナリストって、インドでは尊敬される職種の一つだよ」
 いわゆる大手の報道記者と一緒くたにして敬意の眼差しで仰ぐという、ほかのインド人とさして変わらぬ反応に、万里子は改めて鼻白まずにはおれなかった。ライターというと、聞こえはいいが、実態は四六時中食いっぱぐれるリスクに脅かされている、不安定なフリーの雑文書きにすぎなかった。が、しがない三文記者の実態を逢ったばかりのこのインド青年に話したところでわかってもらえるはずもないとあえて口を噤んで、曖昧な笑みでごまかす。
「月に幾らぐらい、稼いでるの」
 単刀直入に訊いてくるロビンに万里子は半ば、呆れ返る。えーと今現在のドル相場が240円だからと素早く頭の中で計算して、渋々といった口調でやや水増しして明かす。
「そうねえ、一定してないけど、800ドル前後かしら」
 ロビンが感嘆の声をあげた。
「800ドル! ここインドじゃあ、公務員の初任給だって100ドルそこそこなんだぜ」「でも、その分インドは物価が格安でしょ。東京はあなたも知ってると思うけど、世界一物価の高い都会で、最低でも150ドルはするアパートの家賃はじめ生活用品もここの10倍、800ドルなんていっても、余裕はなくて暮らしていくのに精一杯よ」
 日本の厳しい現実をロビンが知るはずもなく、万里子がひけらかす事情を軽く受け流すと、
「実はね、ぼく、卒業したら、日本で働くことを夢見てるんだけど」
 と黒目がちの瞳をきらきら燦めかせながら、抱負を洩らした。万里子は現実はそう甘くないと思ったが、所詮他人(ひと)事、青年を傷つけないように放った。
「あなたの夢が実現することを祈ってるわ」
「ありがとう。ところで、誰か君の知りあいがこのぼくを日本に連れていくことは可能かい、もちろん、それが君であれば願ってもないんだけど」
 あまりにも厚かましすぎる申し出にさすがの万里子も唖然とさせられずにはおかなかった。初対面同然ということも意に介さない、いかにもインド人らしいいけ図々しさだと内心失笑せずにはおれなかったが、あえて善意に解釈すれば、若さゆえの無邪気さもあったかもしれない。それにしたって、ここはやはり誤解のないよう明確に否定しておかなければならなかった。
「残念ながら、あなたのご期待に添えそうにないわ」
 肩をすくめて放つ。それから、ふっと浮かび上がった疑問が口をついて出るままに、
「こんなすばらしい故郷をなんで、あなたは捨てるの」
 と問い返していた。
「インドが貧しい国だってことは、君も現実にわが目で見てようく承知だろう。大学を卒業したって、ろくすっぽ職にもありつけない。ぼくの親父は高校教師でね、長男のぼくがUターンして公務員になることを希んでるんだけど、ごめん被りたいね。狭い地域だけあって、少しでも目に立つ行為をすると、翌日には持ち切りの噂、おまえんちの息子は夜な夜な、浜でこっそりシガーを吹かしてるぞ、みたいなね。うちの親父と来たら、ぼくが煙草を吸いすぎるって、うるさいんだ」
「ただのシガレットだけ?」
 大麻やオピウムがおおっぴらに巷間に出回っていたことを知っていた万里子は、揶揄混じりに投げずにはおれなかった。
「もちろん。ぼくはジャンキーじゃないからね。それはともかく、ほんとチャンスさえあれば、この貧しい後進国を出てみたいと思うね」
「でも、美しいところだわ。あなたはなんで、こんなすばらしい故郷を捨てるの?」
「保守的な田舎さ、煙草を吸ってるだけでとやかく言われる……」
「でも、ベンガル湾ひとつとっても、空気の汚れた先進国の都会に比べると、得難い宝よ」「多分ね。だけど、ここでビッグビジネスをものにするチャンスは限りなくゼロに近い。猫も杓子も観光業、ホテルやレストラン、旅行代理店にみんな手を染めてるけど、所詮小規模、ぼくは世界を股にかける億万長者になるというでっかい大志を抱いているんだ。しがないこの国で足踏みしてたんじゃあ、まともに就職口さえ見つからないありさまだからね。君だって、レストランでごろごろしてるローカルボーイをしょっちゅう見かけるだろう。高等教育を受けたって、田舎じゃ失職者としてぶらつくしかない、これがこの国の苛酷な現実さ。そこへいくと、ジャパンは素晴らしい、アジアの奇跡!、戦後二十五年足らずで高度成長を成し遂げて、世界第二の経済先進国にのし上がったのだから。ぼくが将来、夢を実現させるには願ってもない土壌だよ」
 ロビンはどうやら、日本に過剰なまでの幻想を抱いているようだった。万に一つのチャンスで富める国の航路に乗りさえすれば、一挙に大金が転がり込んでくるという短絡的な発想だった。
「あなたには、母国のよさが全くわかってないようね。なんで、私が遙々、この国までやって来たかわかる? ここには、私たち文明人がとうの昔になくしてしまった大事なものがいまだに損なわれずに生きているからよ」
 ロビンはちょっと肩をすくめた。
「君はほんとに上っ面しか見てないんだな。インドのことは、自国民であるこのぼくが君よりずっと承知しているつもりだよ。現実は、絵空事ではないんだよ。絵のように美しいうわべの裏には、どぶ泥の腐臭が渦巻いている。インドはいまだに、そうした矛盾をいろいろ内に孕んでいる国なんだよ」
 利発な若者の言うことは確かに一理突いていなくもなかったので、万里子も最終的に押し黙らざるをえなかった。

 以後、ロビンは判で押したように、毎日万里子をホテルに訪ねるようになった。レストランで雑談したり、浜を散歩したり、バザールを物色したり、万里子は土地の事情に通じたロビンを案内役に伴うのがいつとはなしに習わしとなっていた。
 日の落ちた浜はじっくり話し込むに恰好の場を提供してくれ、背後に茂るカジュアリナの林が隠れ蓑になり、物売りなどに妨げられずに会話に熱中できた。万里子は、日本に関することなら、どんな小さなことであろうと聞き洩らすまいと耳をそば立てているロビンに、ジャパンレクチャーを開講し続けた。
 才気煥発、好奇心旺盛な現地学生に請われるまま日本概論をレクチャーしていた雲行きが怪しくなったのは、いつごろからだったろう。
 すでに知り合ってひと月近くが過ぎ、ロビンの休暇も余すところ三日しか残されていなかった。その夜、浜でいつもの林の陰に並んで腰を下ろしたロビンは、珍しく切り口上にジャパンの話題を持ち出すでもなく、じっと黙り込んだまま、西の空に雄大な入り日が沈みゆく光景に見入っていた。
「あの夕日の色を英語でなんというか、知ってるかい」
 だしぬけにロビンが投げた。万里子がとっさに首を横に振ると、
「クリムズンというのさ」
 クリムズン、その詩的で美しい響きに万里子は魅入られる。
 ベンガルの大海はあたかも、恋を知り初めし乙女の頬のような初々しい薔薇色に燦めいていた。落陽の名残りに西の空一帯が鮮やかな深紅に染め変えられる。東の海上にはすでに薄青い闇が忍び寄り、二人の足元にもひたひたとミルクブルーの夜気が押し寄せてくる。波が藤色の夕闇をついてほの白く閃く。
「君は、日本に恋人はいるの」
 だしぬけにロビンが投げた。万里子がたじろぎながらも小声で否定すると、ノーの返答に勢いを得たようにきらきら輝くような瞳を向けて、
「じゃあ、ぼくが立候補してもいいかい」
 と冗談ともつかぬ口調で申し出てきた。なんと答えたものやらさすがの万里子も当惑していた。この若者は、万里子が十歳も年長であることをいまだ知らないのだ。
 ロビンは答えあぐねている年上の女に構わず、畳み掛けるように、
「君と結婚して、ジャパンに行くことはできないだろうか」
 と思いつめたような口調で一気に放った。万里子は、不意に押し寄せた大波に足元を掬われるような衝撃を受けていた。強いて落ち着きを取り戻そうとするのだが、このアンファンテリブルは容赦がなかった。年上女のかろうじて保った平静をいとも易きに崩すように、二個目の爆弾を落としたからである。
「バンクで初めて君を見たとき、強いインスピレーションに打たれたんだ、やっとぼくの探していたジャパニガールを見つけたってね」
 美しい瞳にクリムズンレッドの炎がめらめら燃え盛る。万里子は努めて冷静を装うと、年長者らしい分別ある口調で諭しだした。
「まだ学生のあなたはジャパンに焦がれるあまり、たまたま出遭った日本女性に過剰なる幻想を抱いて、恋と友情を履き違えているだけのことよ」
「それは違うね。ここは観光地だから、これまでだって、何人かの日本女性と巡り会う機会はあった。でも、初めてなんだよ。こんな胸がきゅーんと締めつけられるような気持ちになったのは……。ぼくはどうやら、本気で君に恋しちまったようだ」
 若者の策を弄さぬ率直な告白に打ちのめされながら、年上であることの理性が邪魔して、青二才のペースに嵌まるまいと頑なに自衛の体勢を崩せなかった。
「あなた、私のこと、一体幾つだと思ってるの、私はあなたより、ゆうに……」
 ロビンが遮った。
「年なんか、関係ないよ。なぜって、ぼくは、たとい君が四十だろうと、五十だろうと、そっくり同じ真剣な気持ちで愛を誓ったろうからね」
 ベンガルのまっすぐに伸びる海岸線のようにすがすがしい若者の直情に打たれる。星明かりの下押し寄せる波が青白く閃き、砂地を這って谺する潮騒の鳴動が鼓膜を満たす。
 次の瞬間、万里子の唇はスーパーエクスプレスが小さな駅の停車場を掠める速度で盗まれていた。

につづく)
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ジャパニーズドリーム1(2012年度銀華文学賞佳作作品)

2017-02-12 16:29:59 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
ジャパニーズ・ドリーム

李耶シャンカール



  一(1985年/カ ルカッタ)

 聞き分けのない子どもが路上で地団駄踏んでおもちゃをねだるように、ロビンは万里子に金や物を要求する。ロビンが事務的な口調で「ギヴ・ミー」を連発するたび、万里子はひやりとし、頬から顎にかけての頑なな線にアンファンテリブル(怖るべき子供)の片鱗すら見る思いだった。イノセンスの背後には、悪の芽が萌しつつある。それを本能で嗅ぎつけながら、万里子はロビンの癇性な子どもと同じ一度言い出したら聞かぬ強情さに負けて、つい金を手渡してしまう。
 額に渦巻く柔らかな巻毛、濡れた黒炭のように瞬くつぶらな瞳、秀でた鼻梁、ギリシアのアポロ神を彷彿させる彫りの深い造型は褐色の膚とあいまって、いっそう彫琢を浮き彫りにしている。その類稀なる美貌ゆえに、誰もが彼を憎めないのだ。若い血潮にたぎる胸のうちには「赤と黒」のジュリアン・ソレルにも似た野望が秘められて、年上女を甘い誘惑の罠に搦めとろうとも……。

「君は一体全体、ほんとに彼を信じてるのかい。ロビンはなんで、君に金をせびるんだ、お かしいとは思わないかい」
 安宿街・サダルストリートの人気カフェ「ブルースカイ」へ万里子を誘いだしたアマルは着席しないうちから、口角泡飛ばして吐き捨てる。ベンガル湾沿いの風光明媚なリゾート地・ゴーパルプルで出遭った田舎学生、ロビンと日本への出奔を目論んでいた万里子はいまさらながら、水を差されたような苦い面持ちで、とっさに恋人を弁護する。
「まだ若いから、少しわがままなだけよ。私は気にしてないわ」
 ついこの間まで、ロビンは万里子を訪ねて、カルカッタにいたのだ。折悪しく万里子は海辺のディガに避暑に出ており、誰一人頼るあてもなく懐も寂しかったロビンは、万里子から以前聞いたことのあった「リッチなアマル」を思いだし、人伝てに探し当てて彼の豪邸に厄介になったのだった。その折は、ブラザーとのたもうて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたはずのアマルが今頃になって、この掌を返さんばかりの言いざまとはどういうことだろう。二十一歳の美青年を実弟のように可愛がってくれたあれは、単なる社交辞令にすぎなかったというわけか。が、アマルには散々世話になっている手前、邪険にすることもできず、万里子は内心の不快を押し殺すと、ライム入りソーダーを一気に流し込んだ。
 アマルは万里子の不機嫌を察知したように、恐る恐る上目遣いになって宥めすかすように放った。
「なあ、シスター、気を悪くしないでくれよ。ぼくはただ、妹のように慕ってる君が不幸になるのをみすみす、手をこまねいて見ていられないだけのことなんだよ」
 余計なお世話よとけんつきたくなるのをこらえて、万里子はアマルを横目で睨み返す。
「私は、彼を信じてるわ」
 アマルはコホンと咳払いした後で、
「グレイト」
 と感に入った素振りで投げて、それ以上二人の恋路に口を差し挟むのは断念したらしかった。
 矢庭に話題を転換すると、
「ところで、シスター、ぼくにはいつ、ジャパニガールを紹介してくれるんだい」
 とちゃっかり二言目の催促をしてきた。アマルはれっきとした妻帯者で、五歳になる男児の父親でもあるのだ。
「愛のない夫婦生活がどんなに惨めなものであることか……。ぼくとクリシュナは、この二年間、ベッドを共にしてないんだよ」
 万里子は、白昼人の出入りの激しいブルースカイカフェで、夫婦生活の内幕とやらを耳にタコができるくらい聞かせられていた。落ちは、判で押したように“ジャパニガール”だ。アマルは日本女性に大いなる幻想を抱いている。
「ぼくは従順な妻を欲しているんだよ。クリシュナは確かに美しい。が、あの気位の高さときたら!資産家の娘とは多かれ少なかれ、そんなもんかもしれんがね。ぼくは貧しくとも、多少器量は落ちても、夫の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる、真に妻らしい妻を求めているんだ」
「子どもはどうするつもりなの」
「ああ、ジュンコー、もちろん息子のことは愛しているよ。クリシュナにジュンコーは任せられない。相手の女性さえ許してくれるなら、引き取って面倒見るつもりだよ」
 突如、二人の会話を遮るように大音響のサウンドが降ってきた。耳をつんざくアップテンポのメロディは、マイケル・ジャクソンのヒット曲「スリラー」だ。
「ハーイ!」
 派手な銀ラメジャンプスーツをエナメルベルトで絞って、やけにめかし込んだインディアンマイケルが小型ラジカセを提げながら、巧みに腰を振りつつ店内に闖入してきた。本物のマイケルそっくりの縮れ毛に浅黒い膚を持つ若者に、テーブル席のあちこちから、「よう、インディアンマイケル!」
 とのはやし声が飛ぶ。みんな、彼の本名は知らない。インディアンマイケルで通っている。ここサダルストリート・安宿街ではちょっとした有名人だった。マイケルは欧米旅行者の野次に気をよくしたようにお得意のムーンウォークを披露、頭にハットがあるかのように手を載せて爪先立ちで床を擦るようにステップを踏みだした。本物顔負けの巧みさに店内はやんややんやの拍手大喝采の渦になる。
「ちっ、クレイジーな野郎だ」
 アマルが蔑すむような目つきで吐き捨てた。

 マイケルの背後から、グルが危なっかしげな足取りでふらふら尾いてくる。グルの顔は土気色に干からび、生気がなかった。焦点のぼけた瞳は宙にとろんと泳ぎ出している。日に幾度となくブルースカイカフェに顔を出し、フォーリンガールのハントに余念がないこのコンビは地元ではもっぱら「ジャンキー」との悪評を買っていた。
 マイケルにはブラウンシュガーの常習癖があり、グルはヘロイン中毒者だった。が、マイケルは欝屈したグルに比べると至って快活、ジョリークラウン役に徹して、サービス精神旺盛にせっせとおあいそを振りまいている。とはいえ、万里子は知っている、お道化た笑いの底に時折、ふっと虚ろな翳りが過ることを。お気楽な外人旅行者には窺い知れぬ陰影を内面を抱えているにちがいなかった。でなければ、ドラッグで憂さ晴らしするはずもない。
「ロビンは今度いつ、来るのさ」
 マイケルは万里子のテーブルに屈み込むと、馴れ馴れしく訊いてきた。
「パスポートがとれてからよ、おそらく、ひと月以上はかかるにちがいないわ」
「ぼくは滅法、奴が好きだな、いい青年だよ」
 アマルがテーブルの下でしきりに、革靴の先で万里子のサンダルをつついている。万里子は知らんふりして、ひとときマイケルとの会話を楽しむ。背後のグルはテーブルを挟んで、アマルとぎりぎり睨み合っていた。そもそもアマルを万里子に紹介したのはグル本人だったのだが、ちょっとした金銭のもつれから仲違いして以来、二人はまるで犬猿の仲よろしく互いのことを目の敵(かたき)にしていた。以前はつるんでいるといっていいほど仲がよく、行く先々でつがいの姿が見られたものだったが、本来付け焼刃的友情がそう長続きするはずはなかった。
 グルは自由になる金をたんまり懐に抱えているアマルにたかっていただけのことだし、アマルはその場限りにも誰かに家庭がうまく行かないことの鬱憤を晴らしたかっただけのことなのである。
「腐ったジャンキー野郎どもめがっ」
 アマルはグルの背にこっそり悪態ついた後で、
「ロビンはなぜか、奴らが好きなのさ、そのわけは知ってるがな」
 と意味深に投げた。それからもったいぶった口調で、
「ロビンが、君に隠れて、こっそりヘロインをやってたって、知ってたかい」
 と暴露した。
「まさか……」
 アマルのその一言は万里子にとって、衝撃だった。
「彼はヘロインはやらないわ。ガンジャやハシシを少しやるだけよ」
 すかさず弁護する。ガンジャとは、インドでは大麻の俗称で、ハシシとは、大麻の樹脂を固めたチョコレート色の塊で、葉っぱより効き目が強かった。インドではドラッグが容易に入手でき、若者の間に蔓延していたせいで、ロビンもガンジャ常習者だったのだ。万里子が内心ひそかに憂えてきたことでもあったが、自分が知る限りでは、少なくとも中毒性の強いドラッグには手を出していなかったはずだ。それだけにアマルの告白はショックだった。これからドラッグご法度の日本に伴うため、つい神経質にならずにはおれなかったのである。
 半信半疑で問うていた。
「何か証拠でもあるというの」
 万里子の疑わしげな目つきをものともせず、アマルは自信満々に、
「もちろん」
 と答えた。それから悦に入ったように、
「わが目でしかと目撃したんだよ」
 と断言した。
 万事休す。ロビンへの信頼ががたがたと頭から音を立てて崩れ落ちていく。真偽を確かめるため斜め後ろのマイケル&グルコンビに詰め寄っていた。
「ねえ、ロビンがヘロインに手を出してたって、ほんと」
「誰がそんなでたらめを!」
「アマルが……」
 振り返ると、彼の姿は店内のどこを探しても見当たらなかった。
「ぼくが保証するよ。ロビンはガンジャをちょっとやるだけだよ」
 鼻翼を膨らませて抗言するマイケルは、アマルへの怒りが納まらないとでもいうかのように拳をぶるぶる震わせた。
「嫉いているのさ、君たちの仲に対する中傷、どんな手段を講じても、結婚を阻止したくってたまらないのさ」
 万里子はへなへなとその場にくずおれそうな安堵感に見舞われる。
「アマルとは深入りしないことだな。あとで、どんなとばっちりを食らわないとも限らないぜ。奴があんたにくっついている理由は、あわよくばジャパニガールを紹介してもらいたいって、ただそれだけの魂胆さ」
 グルが釘を刺すように放った。

につづく)
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「タラーク、タラーク、タラーク」(文芸思潮エッセイ賞入選作品)

2017-02-12 16:03:49 | E全集(受賞作ほかのノンフィクション、2017~)
「タラーク、タラーク、タラーク」

                               李耶シャンカール


タラーク(離婚)三言通告すれば、即離婚成立

インドの宗派の内訳で八割近くを占めるのはヒンドゥ教徒、イスラム教徒は十四パーセントと少数派だが、そのイスラム教徒のスンニー派間で、夫の側から一方的に発されるタラーク(離婚 、talaq)三言通告が近年、物議をかもしている。総人口十二億余のインドは多宗教国家。マイノリティにはイスラム教筆頭に、キリスト教、シク教、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教と続くが、宗派ごとに冠婚葬祭の慣習は異なり、ここで取り上げるイスラムの場合、婚姻はシャーリアと呼ばれるイスラム法にのっとり、いわゆるインドの民事法に即したレジスタードマリッジとは違ってイスラム私法になる(卑近例で恐縮だが、インド在住歴三十年の私はヒンドゥ教男性との婚姻に際して、法廷結婚にのっとった)。
そのイスラム法による結婚を解消するにあたって、女性の側の意思を無視した、夫からの一方的な離婚通告が問題になっているのである。「タラーク、タラーク、タラーク」と三言通告すれば即離婚成立、証人不要の安易さから濫用され、ネット隆盛の昨今は、EメールやSMSを使っての簡易メッセージまで流布している始末だ。
ちなみに、三度タラークを繰り返すのは、三回離婚したのと同じ効力を持ち、撤回できない確証になるとのことで、二回までは取り消せるが、三度目を口にしてしまったら取り下げできないということらしい。通告後、三ヶ月の待機(idda)期間があって(妻の生理が三回来るまでの再婚禁止・留保期間。この間に性的交渉を持つと離婚は無効になる)、和解の方向に進まなければ成立、二人の証人を立てて正式に結婚を解消することになる。
いわば、三言通告といっても、1創始、2和解期間、3成立の三段階から成るわけで、離婚後は、結婚時のアクド・ニカー(婚姻契約)にしたがって、慰謝料支払いや財産分与を強いられる。しかし、夫の側にとっては簡便このうえない制度で、女性の被害は跡を絶たない。
すなわち、即座に離婚したい場合は、一度に三言通告してしまえばいいわけで、現実には一気に三言発してしまうケースが多いため、濫用が問題になっており、女性の人権無視と批判されるゆえんともなっているのである。
コーランにも記述があり法にかなったものというが、有名人では、往時辣腕キャプテンとして名を馳せたクリケット選手、モハメッド・アザルディン(現下院議員)が、1996年、9年間生活を共にし二人の息子を設けた第一妻にタラーク三言通告して、女優のサンギート・ビジラニと再婚に走ったケース(2010年別居)が悪名高い。

酔ってタラーク通告、後の祭りの被害続出

 一方的な離婚通告の被害件数は跡を絶たず、泥酔した夫が妻と口論になって、うっかりタラーク三言のケースも少なくなく、後悔しても後の祭りという事態も相次ぎ、社会問題化している。
タラーク三言通告は隣国のパキスタンやバングラデシュはじめ、イラン、イラク、トルコ、チュニジア、アルジェリアなどの中東・アフリカ諸国でも禁じられ、各国のイスラム法や慣習によっても異なるが、インドでも、シーア派はこれをハラーム(haraam= 禁忌)として退ける(シーア派は証人を立てての公けの場での離婚宣言を認めることもある)。
なお、クラ(Khula、もしくはクルウ=Khulu)といって、妻の側からの離婚要求権利もあり、夫と別れることを希望する女性はカディ(裁判官)に離婚許可を求めることができる。このほか、タリーク(taliq)とは夫が婚姻契約を破ったとき、妻が離婚申し立てできる制度で、夫が失踪したり扶養義務を怠ったり、精神疾患で結婚継続不可能の場合の離婚希望にはファスフ(fasakh)がある。
ほかに、夫の側の離婚要求で、妻が浮気した場合の方法にはリアーン(lian)があるが、あと、ズィハール(zihal)といってイスラム法では禁じられているが、イスラム教以前(ジャーヒリーヤ、イスラムの預言者ムハンマドによってイスラムが布教される以前の無明時代)は、「お前の背中は私の母の背中だ」と宣言することによって、妻としての権利を喪失させる方法があったという(禁を破ってズィハール宣告してしまった場合は、二ヶ月間断食したり、貧者に施しをしなければならなかった)。
が、イスラムの離婚の7‐8割はタラークといわれ、女性の側からの離婚要求はごく少数に限られるようだ。

復縁には第二夫からの三言通告が必要

 仮に泥酔した夫が妻になじられた挙句、かっとなってタラーク三言通告してしまったとしよう。翌朝、後悔しても後の祭り、復縁するには、妻が別の男性と再婚し、その第二夫からタラーク三言通告されねばならないという、タラークを上回るハララ(halala, halalとはイスラム法=シャーリアで容認されたという意味)の奇習がある。
 これは、離婚を軽視せず重く見る意図と、三言離婚を減らし女性の名誉を守る理由からというが、現実には復縁を望む夫婦を苦しめる悪法となっている。復縁を求めるカップルは多いため、ネットなどで同じ問題で悩む夫婦を見つけだし、スワップ婚という苦肉の策もあるらしい。
しかし、これも、契約どおりに事が運べばいいが、人間同士の感情の絡むこと、意図したタラークがもらえないと、惨憺たるありさまになる。うまくタラークにこぎつけたとしても、第一夫にこだわりなく、別の男性と再婚した妻を迎える度量があるだろうか。スワップ契約するなら、双方あくまで復縁目的の契約結婚という確証をとっておかないと、あとあとやっかいになる。とはいえ、実はこうした利害のもとに行われる結婚はイスラム法上認められないことになっているのである。つまり、前もって第一夫が第二夫に復縁のため三言通告してくれと相談しておくのは違反ということである。
ハララではないが、イスラムの風習の犠牲になった一例として、過去にパキスタン領で死んだと思い込んでいた兵士の夫が生還、すでに再婚してしまい身重だった妻が村の長老会議で無理矢理第一夫のもとに戻らされる騒動があった。第一夫が乳児を受け入れないごたごたがあった後、それからわずか一年後にこの妻は早死にしてしまった。女性の感情をはなから無視したシャーリア判決で、二人の夫の間をたらい回しにされた苦悩が命取りとなったことはいうまでもなかった。
元々は戦争未亡人救済の意図があったという一夫多妻主義にしろ、今は男性の好都合に濫用されており、21世紀という現代社会に照らし合わせると、イスラム法は時代遅れで現代女性には酷と思うのは、異教徒の同性ゆえの僻目だろうか。
 ハララに話を戻すと、インド国内にも、夫が三言通告してしまった後で復縁を図ろうとするカップルが少なくないが、解決求めて右往左往の割にはいっこうに埒が明かず、難航しているようである。
女性の人権を著しく貶めている、男性側からの一方的なタラーク三言通告を規制するところから始めていかないと、ハララの奇習も撲滅されることはないだろう。


解説はこちら。
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文芸思潮エッセイ賞入選の賞状届く

2017-02-12 15:55:41 | 私の作品(掌短編・エッセイ・俳句)
一昨日、日ごろ投稿関連でお世話になっている文芸思潮誌から、昨年同誌主宰のエッセイ賞に入選した作品「タラーク、タラーク、タラーク」の賞状と記念品が届いた。



記念品は、デニム地のペンケースと同誌で自費出版された小冊子だった。
はるばる海外まで送ってくださった五十嵐勉編集長にはひとえに感謝あるのみだ。

以下に、受賞作品をアップさせていただく。
「タラーク、タラーク、タラーク」

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