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江戸繁昌記初篇 26 金龍山浅草寺 5

(赤と緑のピーマンが並ぶ/裏の畑にて)

台風の余波の集中連続豪雨で、北関東が大変なことになっている。水没する町、流れる家。その中で、自衛隊、警視庁、消防庁などのヘリが懸命に救助して、作業は夜に及んでいる。夕方、ムサシの散歩の間に、上空を自衛隊の四機のヘリが、東へ、災害現場へ飛んでゆくのを見た。当地は、新東名や国一に近く、ヘリの有視界飛行の通り道になっているのである。

「江戸繁昌記初篇」の解読を続ける。

雷門の側に一叟有り。紙俑を売る。俑人体、猿面に笠を蒙(こうぶ)らして、これを竹片上に坐せしむ。竹の裏面、その半ばに糸して、また、細片竹を以って、前端よりその糸を啣(か)ませ、これを反(かえ)して後端に膠じ、以って蒲蓆上に置き、乃(すなわ)ち説き白(もう)す。一閭伍中の左次平爺、四国を巡りて猨狙と為る。説き了(おわ)りて手を拍(う)つ。俑覆(か)えり、笠飛ぶ。嗚呼(ああ)竹片膠を離るゝ。この機、心に得て、手に応ず
※ 一叟(いっそう)- 一人のおきな。
※ 紙俑(しよう)- 紙の人形。
※ 膠ず(こうず)-膠(にかわ)くっ付ける。
※ 蒲蓆(がまむしろ)- 蒲の茎で編んだ蓆。夏の敷物とする。
※ 閭伍(りょご)- 古代の村の組合。五人組。(「ひとつながや」とルビあり)
※ 猨狙(えんそ)- 猿のこと。
※ この機、心に得て、手に応ず - 手を打ったから、俑が覆ったのではなくて、膠がはがれる瞬間を感じて、手を打ったのである。


輪扁が所謂(いわゆる)口で言う能わざること数有りて、その間に(大切なものが)存するもの(であろう)か。今は則ちその物を見て、その人を見ず。蓋(けだ)し継ぐこと能わざるなり。
※ 輪扁(りんぺん)- 春秋時代、斉の人。車輪を作る名人。斉の桓公に対し、自分の仕事をたとえにして、書物を古人が残した糟(かす)にすぎないと言ったという故事がある。
※ 口で言う能わざる ~ 能わざるなり - 書物を糟と言われて、桓公が問い詰めたときの応えである。
「仕事の経験上から、車輪の軸穴をちょうどよい具合に作るには、長年の手作業によるカンによるため、口では説明できない。だから、息子にそれを伝えられず、老人になっても車輪を作り続けている。古代の聖人が言葉で伝えられなかった本当の思想は、聖人の死とともに無くなった。それならば、公の読む書物は聖人の残りカスではないか」


雷門外の雷糝(雷おこし)、その名、四方に震いし。金龍山餈(餅)と、頡頑するもの、年所有り。香味淡泊、古人の口気、想うべく慕うべし。輓近、名有る雷門内船橋亭、以っての菓子の甘味を極むるが如きには非ざるなり。門の内外、風味殊に異なり、以って古今を照らすべし。
※ 頡頑(けっこう)- 拮抗(きっこう)。勢力などがほぼ同等のものどうしが、互いに張り合って優劣のないこと。
※ 年所(ねんしょ)- 年数。年月。歳月。
※ 口気(こうき)- ものの言い方。くちぶり 。
※ 輓近(ばんきん)- ちかごろ。最近。近来。


田舎人の始めて賽する。餈(もち)を食うを以って、証しを郷里に取る。世、或は餈の金龍たるを知りて、寺の金龍たるを知らず。按に、酒肉、固(もと)より、山門に入ることを許さず。僧家、唯だ餈を食うを得る。これにより、こを言えば、寺を謂いて餈と曰い、餈を謂いて寺と曰うも、なお似たり。(寺も餅も金龍と呼ぶ)
※ 賽する(さいする)- 賽銭をあげて、神仏を礼拝する。
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江戸繁昌記初篇 25 金龍山浅草寺 4

(台風一過の秋空)

当地は台風も何ということもなく過ぎた。午後にはこんな秋空が見えた。

「江戸繁昌記初篇」の解読を続ける。

鼓角喧闐、一伎人出て、初め二箇の木枕を操(あやつ)りて、投業(なげわざ)運転、これを空に弄す。既にしてこれを類(たぐえ)ね積みて、数十に至る。その高さ数尺、白(もう)し跪(ひざまづ)きて、扇を挙(あ)ぐ。鼓声即ち已む。乃ち、一々その為(す)る所の名目を説き白(もう)す。一説(と)き了(おわ)りて復た鼓す。便(すなわ)ち物に據(よ)りて、傍より、直にその絶巓(ぜってん)に上り、足蹺(あげ)立ちす。
※ 鼓角(こかく)- つづみと角笛。古く中国で、陣中に合図を送るのに用いた。
※ 喧闐(けんてん)- 喧しく満ちているさま。
※ 鵠(くぐい)- 白鳥の古名。


累卵、方(まさ)に危うし。観る者、尻癢(か)ゆし。然し、その人暇整旋々、一脚を割って、余地有るを示す。遂に躬(身)を伏し、手を以って踵(かかと)に代う。両脚倒(さかさ)まに竪(た)つ。鼓(太鼓)急なり。風絮に似て、一般(ふつう)飛び下りる。
※ 累卵(るいらん)- 卵を積み重ねること。不安定で危険な状態のたとえ 。
※ 暇整(かせい)- 余裕があること。(「暇整旋々」余裕で旋回すること。)
※ 風絮(ふうじょ)- 綿毛が飛ぶさま。


また一梯子を植えて、これを攀づ。級窮めて、その頂きに俯す。四支(四肢)皆な放つ。遂に双脚、級(段)を鉤(かけ)し。身倒(さかさ)まにして墜ち桂(掛)かる。人咸(皆)な、ために目暈(めまい)す。その伎、啻(ただ)数、ならず。時に新奇を出す。且(しばら)く、その目の一、二を挙(あ)ぐ。曰く、達摩の禅牀。曰く、中野の一杉。曰く、獅子の入洞。曰く、東山の大の字、これなり。
※ 級窮める - 梯子段の天辺まで登ること。
※ 件(くだん)- いつものこと。例のこと。
※ 禅牀(ぜんしょう)- 座禅を行うときに用いる腰かけ。


最後に一條の軟索上を渡る。地を去ること数尺、長さ丈許り、宣白する者、擂鼓する者、前に依ってその気勢を助く。一人履む、紅巾額を抹し、右手に紅地扇を揮(ふる)い、左手に蛇眼傘を執り、徐々(ゆっくり)歩を送る。索(つな)(た)れて、趾(あしゆび)膠ず。人、その険を見て、惴々として、その傾墜を恐れざるはなし。索尽きて、復た身を転じ反(かえ)り踏む。遂にその中分処に至り、始めて歩を収め、正面に向えば、則ち落つ。
※ 一條の軟索(いちじょうのなんさく)- 一本のしなやかな綱。
※ 宣白(せんぱく)- 口上などを、広く告げ申すこと。
※ 擂鼓(らいこ)- 太鼓をたたくこと。
※ 抹す(まっす)- さっとこする。
※ 蛇眼傘(じゃのめがさ)- 蛇の目傘。
※ 膠ず(こうず)- ねばりつく。
※ 惴々(ずいずい)- 恐れてびくびくするさま。
※ 傾墜(けいつい)- 傾きおちる。


これを軽業(かるわざ)と世に謂う。業(わざ)もまた術多く、主一無適、習いの久しき、精熟これに至る。人にして熊経、人にして燕軽、これによりて、これを観れば、習精誠至聖域学び到らずと謂うは、我は信じず。
※ 主一無適(しゅいちむてき)- 心を一つの事に集中させ、ほかにそらさないこと。
※ 熊経(ゆうけい)- 熊のようにぶら下がるの意。
※ 習精誠至(しゅうせいせいし)- 細かく詳しく習い、誠に至る。
※ 聖域(せいいき)- 聖人の域。聖人の境地のこと。

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江戸繁昌記初篇 24 金龍山浅草寺 3

(散歩道のススキ/昨日撮影)

今日も雨。明日は東海地方に台風が上陸するらしい。夜、地震。みしっと一揺れ。島田の震度は2であった。周辺では震度3だったという。東日本大震災も、昼寝中で知らなかったほど、感度が悪い自分も、今夜の地震ははっきりとわかった。この所、局地的な小規模地震が当地に多く発生している。何かの前触れで無ければよいが。当地は元は大井川の扇状地。いつも周りよりも震度にして1違う。砂利交じりの地盤は、地震波が吸収されるのであろうか。

「江戸繁昌記初篇」の解読を続ける。

麁服蕭散、頭に一幅の布巾を冒(かぶ)り、手に一把(つかみ)の竹籃(かご)を操(あやつ)る。この外、身辺、有る所、一棒一扇のみ。その鼓を口にして、以って口を糊する。吾が輩貧儒と、また甚だ異ならざる者は誰ぞ。滑稽師濱蔵、これなり。然(しか)れども、その説く所に至りては、また、我が仁義と大いに異なるを以ってなり。人聴くを楽しみて睡らず。蒭蕘の者も往き、車馬の者も往く。炙輠天口、奇談鋒出、和するに天倪を以ってす。
※ 麁服(そふく)- 粗末な衣服。
※ 蕭散(しょうさん)- 静かでものさびしいさま。
※ 布巾(ふきん)- 食器類などをふくための布。
※ 貧儒(ひんじゅ)- 貧しい儒者。
※ 滑稽師(こっけいし)- 「まめぞう」とルビがある。「豆蔵」は元禄年間(1684~1704)頃の手品・曲芸をよくした大道芸人の名。後、大道手品師や手品芸の別名ともなった。
※ 蒭蕘(すうじょう)- (草刈りと木こりの意で)身分の低い者。
※ 炙輠(しゃか)- (「輠」は車の油をさしこむ所。これを火にあぶれば、油が流れて止まず)弁舌のよどまぬ譬え。
※ 天口(てんこう)- 弁説のたくみなこと。
※ 鋒出(ほうしゅつ)- きっさきが突き出るように、鋭く盛んにでるさま。
※ 天倪(あまがつ)- 凶事をうつし負わせるために用いた人形。


三百六十日の説く所、三百六十化(か)す。日に出て月に新たにして、聴者をして、忿(いかり)て、かつ笑わしむ。その言、洸洋自恣にす。所謂(いわゆる)終日言いて言わざる者、筆墨の状(じょう)す如きには非ざるなり。
※ 洸洋(こうよう)- 水が深くて広いさま。また、学説・議論などが深く広いさま。
※ 自恣(じし)- 自分の思うがままに行動すること。わがまま。きまま。


(ああ)、斯(か)く人をして、古(いにしえ)に生かせ使(し)めば、その巾を脱し、を解き、四馬に駕し、六印を佩(お)び、庸人愚婦をして驚いて嘆かせしむる。何か有りし。吾曹の文字間に促局して、以って草奔に老死するが如きには非るなり。聞く。これより先、志道軒なる者有り。常に一茎の木陽物を手にし、これを弄(ろう)して、舌を掉(ふる)う。その流、相継いで、今の先生に至ると云う。
※ 褐(かつ)- 粗い毛で織った衣服。
※ 庸人(ようじん)- 凡庸な人間。凡人。
※ 吾曹(ごそう)-(一人称の人代名詞)われわれ。われら。吾人。
※ 促局(そっきょく)- 縮まること。
※ 草奔(そうもう)- 草が茂っている所。くさむら。民間。在野。
※ 志道軒(しどうけん)- 深井志道軒。江戸時代中期の講釈師。浅草寺観音堂脇に葭簀張りの高床を設け、陰茎を型取った棒を手に、大仰な身振りでの辻講釈を行った。

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江戸繁昌記初篇 23 金龍山浅草寺 2

(土手にたくさん咲く、イタドリの花)

イタドリの花は目立たない花だけれど、今の季節、土手の至る所に、けっこう懸命に咲いている。

「江戸繁昌記初篇」の解読を続ける。

位置、その背を抱きて、堂に接し、殿に連なり、娘、誰れ茶竈を開き、娘、何に弓場を起こす。並びに妖粧盛飾、媚(こび)を衒(てら)いて、客を招く。観音の分身、またまたこれを数所に安置す。
※ 茶竈(ちゃがま)- 茶釜。
※ 妖粧(ようしょう)- 人を惑わすような、妖しい(なまめかしい)化粧。
※ 盛飾(せいしょく)- りっぱに着飾ること。


演戯(芝居)説経、火を吐き、馬を呑む。諸凡(おおよそ)伎を售(売)る者、萃(あつま)りて淵薮を為す。この所総て名づけて奥山と謂う。伝に云う。大永二年(1522)九月、北條氏の臣、富永三郎左衛門、使いを古河府に奉じ、浅草寺を過ぐる。會々青銭の、天女池中より湧き出るを見る。この事甚だ奇なり。然(しか)もなお、今の奥山中、毎日湧く所の金銭、茶竈、弓場、これをこれに見、これをかれに見るが如くならざるなり。
※ 説経(せっきょう)- 説経節。語り物の一。「説経」が平俗化、音曲芸能化されたもので、室町末期から江戸初期には、三味線を伴奏に操り人形と提携し、説経の座を興行した。
※ 馬を呑む - 手妻(手品)の一種で、塩屋長次郎の「呑馬術」は世間を大いに賑わした。
※ 淵薮(えんそう)- 物事の寄り集まる所。(「淵」は魚、「藪」は鳥獣の集まる所)
※ 古河府(こがふ)- 室町時代・戦国時代に古河公方の政治権力を担った組織である。享徳の乱により関東における戦国時代が始まったときに、鎌倉府の遺産を継承して成立した。(現、茨城県古河市)
※ 會々(たまたま)- ちょうどそのとき。
※ 青銭(あおせん)- 1768年初鋳の、寛永通宝四文銭の俗称。真鍮製で青みを帯びており、裏に波紋が鋳出してある。青波銭。(時代が合わない?)


機緘有りて然るや。幻術有りて為すや。陀螺は則ち意に従いて運(まわ)る。松井源水なる者、この伎を媒して、以って薬を売る。初めは則ち、便面を以ってし、烟管を以って反覆投業(なげわざ)、一拈(ひとひねり)手中、即ち活かし即ち死す。
※ 機緘(きかん)-秘められた仕掛け。
※ 陀螺(こま)- 独楽(こま)。
※ 松井源水(まついげんすい)- 大道芸人・香具師。越中の薬売りの出。延宝・天和(1673~1684)のころ、江戸に出て以来、代々浅草を本拠に居合い抜き・曲独楽などを行いながら歯薬などを販売した。
※ 便面(べんめん)- 扇(おおぎ)のこと。


側に竹竿を栽え、長さ丈ばかり、竿頭にを冐(かぶ)らす。繖辺周(めぐ)らすに紅帛を以ってし、中に糸を挂(か)け、垂れ下す。乃ち、一大陀螺(こま)を運(まわ)して、それをして自ら走り上らしむ。上り窮めて繖(かさ)に入る。これに於いて、一小陀螺(こま)を遣わして、迎てこれを促して、大小並びに相逐(お)い下る。
※ 栽(う)える - 穴に刺す。
※ 繖(さん)- かさ。


(まこと)に、口有りて告げ、耳有りて聴き、手有りて援(ひ)き、足有りて走るが如し。然らば則ち、人の耳目有りて知ること無き、陀螺(こま)にこれ如かざるなり。則ち儒の知有りて、その行い無きは、陀螺にこれ如かずと云うも、なお未(いまだ)し悲(ひ)かな。
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遠州佐野郡東山村明細帳(4) - 掛川古文書講座

(掛川市東山、天王山観泉寺)

今朝から雨模様である。秋雨前線がしばらく停滞するという。

(東山村明細帳の続き、今日で終り)
   右の外
一 米壱斗御札壱枚
これは当村の内、小鮒ヶ谷と申す所の百姓より上納仕り申し候。この御札米の儀は、古代御札米上納仕り、新田畑切り開き申し候所に、元禄二巳年(1689)、御検地仰せ付けられ、高八拾石余り罷り成り申すに付、御札の儀は召し上げられ、残り壱枚御座候。右の沢に御座候間、御札米御免願い上げ奉り候
※ 辻 - 合計。

一 粟ヶ嶽、野山反別九拾五町程
西山、倉真村、大代村山境御座候。この野山間々定納山畑にて、村中百姓扱にて御座候。馬草もやの儀は、村中入合いにて刈取り申し候

一 当村家数八拾八軒
    人数三百六拾壱人   男百七拾六人
                    女百八拾三人
                    座頭  弐人
                    僧   弐人
                     馬 弐拾弐疋
                     牛 御座なく候     

一 当村寺弐軒(観泉寺、深川寺)

一 当村百姓居林、凡そ反別弐拾弐町程、松木、こなら木、その外雑木御座候。耕作の間、まき(薪)に仕り、金谷、日坂町へ男女ともに持ち出し、代替え渡世を送り申し候

一 当村馬草場、村山にて刈取り、他村へ参り候儀、御座なく候

一 当村御林御座なく候

一 大代村、東山村境の川下は志戸呂村境、川下は大鹿(佐夜鹿)村。但し、右の川幅、東山より出口の所は五尺程、この下、大代村境にて弐間ほど、志戸呂村境にては三間半、大鹿村の境にては拾間。右、志戸呂村境の川、東山村逆川と申す弐間程、この川出合い申し候

一 東山村中の川四筋、右の川四筋、水口にてその幅壱間、この四筋出合いにて三間、奥野村境にては四間程、水先奥野村へ出合い申し候

一 当村米津出しの儀は、当卯春まで欠川(掛川)御領分にて、日坂、金谷町商人渡しに仰せ付けられ候

一 当村の儀、窪嶋市郎兵衛様御代官所の節は、御城米、川崎浜へ出し、当村より川崎まで道法(みちのり)五里半、馬付にて出し申し候

一 当村より江戸まで、海上七拾四里

一 当村に魚類一切御座なく候

一 当村に川除けなど大き成る諸普請御座なく候

一 当村、用水、悪水、(圦)、御座なく候
※ 圦樋(いりひ)- 水を引き入れたり、出したりするために設けた水門の樋(とい)。

一 当村、川通りに板橋御座なく候

一 当村に土橋御座なく候

一 当村に古城跡御座なく候

一 当村、田畑の土 赤土弐分 さる土三分 黒ふく三分 こずな弐分

一 当村、市立て御座なく候

一 当村、溜め池御座なく候

一 当村、田方稲草 黒伊勢  黒ひげ  黒橋本  赤橋本
右の稲草作り仕り候。餅米は猪鹿発向、作り仕らず候

一 当方畑方には、大麦、大豆、小豆、粟、ひえ、大角豆(ささげ)、そば、大こん、いも、なすび作り仕り候

一 往還丁場、小夜山久遠寺下にて、五拾五間掃除仕来り候。芝附け、松植え、掃除人足の儀、村門役に勤め出で候
※ 丁場(ちょうば)- 夫役で、運送・道路工事などの受け持ち区域。
※ 門役(もんえき)- 門ごとに役が課せられる。


一 高三拾八石、名主持ち高の内、諸御役、前々より村中として勤め来たり申し候

右書面の通り、少しも相違御座なく候、以上
 延享四年卯八月       遠州佐野郡東山村
                      名主  吉左衛門  ㊞
                      組頭  九郎助   ㊞
                      同   弥兵衛   ㊞
                      同   新八    ㊞
                      同   文左衛門  ㊞
                      百姓代 次郎大夫  ㊞
                      同   五郎左衛門 ㊞
                      同   半大夫   ㊞
  大草太郎左衛門様御役所
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遠州佐野郡東山村明細帳(3) - 掛川古文書講座

(掛川市東山地区/旧東山村。粟ヶ岳より、茶畑が広がる。)


(東山村明細帳の続き)
一 当村用水、大代村・東山村境の川、東山村地内の川の内、八ヶ所取り申し候。壱反歩已(以)下に取り申し候。小川に付、出水少々ずつ出し申し候。

一 当村用水、志戸呂村・東山村境の川、東山村地内の川の内にて、三ヶ所取り申し候。壱反歩以下取り申し候。小川にて出水少々ずつ出し申し候。

一 当村の内、逆川にて用水場三ヶ所御座候て、壱反歩已(以)下へ取り申し候所、崩れ引き荒地に付、只今入れ申さず候。

一 当村村中の川、大小四筋、この川筋にて用水拾六ヶ所、四反歩已(以)下取り申し候。小川に付、出水少々出し申し候。

一 当村田方四拾七ヶ所、天水場所三反五、六畝歩已(以)下、右の田畑用水場、川通り崩れ引場所へは、宝永二年酉年(1705)窪嶋市郎兵衛様御代官所の節までは、蛇籠(じゃかご)下し置かれ、川除け仕り、用水をも取り申し候。蛇籠代金、普請人足御扶持米共に下し置かれ申し候所、宝永三戌年(1706)より、松平遠江守様御領分の節より、蛇籠並び御扶持米も下し置かれず、その後、宝永八卯年(1711)より、小笠原山城守様御領分に成り、遠江守様御代御引付けの通り、当村に御普請一切御座なく候。村人足ばかりにて、川除け普請、少々ずつ仕り、用水を取り申し候。これに依り、他村への池普請、その外、諸普請人足出し申さず候。
※ 窪嶋市郎兵衛様御代官所 - 幕府中泉代官所、元禄15年(1702)から正徳2年(1712)まで。

一 当村小物成の儀は、定納大豆まで御座候。この帳面、右書き上げ石数の通りにて御座候。

一 当村諸運上の儀、御座なく候。
※ 運上(うんじょう)- 江戸時代の雑税。商・工・漁・運送業者などに課した。種類はさまざまで、すべて金納。

一 白津倉・大平・永村、野山三ヶ所、凡そ反別弐拾四町程。

一 平石ヶ谷・舟木、野山弐ヶ所、凡そ反別四町程。

一 四之谷・大タ作・口神、野山三ヶ所、凡そ反別九反歩程。

一 白かし・石ヶ谷・寺辺・ふり/\・こわき・こしき沢・落合、野山七ヶ所、凡そ反別拾六町程。

合わせて拾五ヶ所、野山の儀、前々より御札山にては御座なく候所に、小笠原土丸様御代、三十二年已(以)前、申の年、金谷近郷の内へ山御札仰せ付けられ候に付、草刈日々大勢参り、当村田畑添い、並び居林まで刈り申すに付、当村の刈敷、馬草御座なき様に刈取り、惣百姓難儀に及び申すに付、小笠原土丸様御役人中へ、書付を以ってその節御訴詔申し候えば、御上御為の儀候えば、札米差し上げ候様に仰せ聞けられ候に付、その節、草刈り参り候えば、村中の者ども罷り出で草刈ると、論仕り候義、難儀仕り候に付、二十六年以前、寅年より米壱斗札三枚御渡し遊され、去る寅の暮まで、三年ずつ納め申し候。この御札の儀は、右申し上げ候通りに御座候。古代より御座なく候御札米上納仕り候。惣百姓難儀、迷惑至極に存じ奉り候間、この御札の儀、御免下し置かれ候様、願い奉り候。
※ 居林(いばやし)- 住宅の周囲の部分に仕立てた森林。
※ 刈敷(かりしき)- 山野で刈り取ったしば草を田畑に敷き肥料とすること。またその緑肥そのもの。
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遠州佐野郡東山村明細帳(2) - 掛川古文書講座





(道の駅掛川の脇にある、御社宮司の祠)


午前中、静岡のO氏宅を訪問し、追加の遍路の本を届けた。午後はそのまま駿河古文書会に出席した。「紙魚(しみ)」の原稿(遍路の本について)を提出した。

(東山村明細帳の続き)
一 山王権現の宮壱ヶ所 壱間に壱間 さや弐間に九尺
            当村氏神
   御除地境の内に預り台、壱反壱畝歩
※ さや - 鞘堂(さやどう)。貴重なお社やお堂などを、風雨から保護するため、外側から覆うように建てた建築物。
※ 除地(じょち)- 江戸時代,年貢諸役を免除された土地。社寺の境内など。よけち。のぞきち。


一 天神宮壱ヶ所    三尺に三尺  
            当村百姓 助右衛門控え支配
   御除地預り台、壱畝五歩         

一 さくし宮壱ヶ所   三尺に三尺  
            当村百姓 五郎左衛門控え支配
   御除地預り台、壱畝拾歩         
※ さくし - 日本古来の神。柳田國男によれば塞の神(サイノカミ)であり、もとは大和民族に対する先住民の信仰。伝承は多岐に及び、石神(シャクジ、サクジ)という他にミシャグチ、オシャモジ、シャクチ、サクチ、サグチ、サクジン、オサクジン、オシャグチ、オミシャグチ、サゴジンなど、多様な音転呼称がある。ミシャクジ、ミシャグヂ、ミシャグジン、シャゴジ、オシャゴジ、オシャグジ、サグジとも。また御社宮司、御左口など多くの漢字があてられる。
                  
一 若宮八幡宮壱ヶ所  三尺に三尺  
            当村組頭 新八控え支配
   御除地預り台、壱畝拾歩         

一 天王宮壱ヶ所    五尺に五尺  
            当村百姓 四兵衛一類支配
   御除地預り台、壱畝五歩         
※ 一類(いちるい)- 親族関係にあるもの。一族。一門。

一 天王宮壱ヶ所    五尺に五尺  
            当村百姓 彦助一類支配
   御除地預り台、八畝拾九歩         

一 西方八幡宮壱ヶ所  壱間に壱間      
            さや壱丈に九尺   
            三十郎一類支配
   御除地境の内預り台、壱畝拾歩

一 山神宮壱ヶ所    壱間に壱間  
            さや九尺八尺
            当村百姓 三十郎一類支配
   御除地預り台、弐畝歩

一 諏訪宮壱ヶ所    三尺に三尺  
            さや壱間五尺
            当村百姓 佐七一類支配    
   御除地境の内、預り台、壱畝拾歩

一 西宮壱ヶ所     壱間に壱間  
            当村下内郷中支配
   御除地預り台、壱反四畝拾弐歩
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遠州佐野郡東山村明細帳(1) - 掛川古文書講座

(粟ヶ岳の茶の文字)

昨日の掛川古文書講座で3回にわたった、東山村明細帳の解読が終った。以下に読み下したものを4回にわたって紹介する。

  延享四卯年(1747)遠州佐野郡東山村明細帳
※ 佐野郡東山村(さやぐんひがしやまむら)- 現、掛川市東山。山腹に杉の木で描かれた「茶」の字で知られた粟ヶ岳(532メートル)の南東丘陵にあって、良質茶の産地。近年、深蒸し茶や茶草場(世界農業資産に指定)で全国的にも知られるようになった。

(前略/この部分、田畑の明細などがある)

一 大豆弐国五斗九升         山畑定納
    内
五升三斗、正徳五未の年(1715)、崩れ引きにて、永々、作畑に罷り成らず候に付、その節、小笠原土丸様御役人中様御検分にて、御引き下し置かれ候処、延享元年(1744)御役人の内、村廻り遊ばされ、その年立帰り仰せ付けられ、その節より弐石五斗九升完納仕り候。恐れながら願い上げたてまつり候は、右崩れ引き場、その外の畑の儀も、猪鹿発向、その上惣百姓困窮に及び、十ヶ年以来より一切作り仕らず、崩れ引き荒地に御座候所に、大豆納め弁納、難儀至極仕り候間、恐れながら定納山畑御捨分の上、惣百姓、力付き作立て申すまでは、御引き下し置かれる様に願い上げ奉り候。
※ 小笠原土丸 - 小笠原長恭(おがさわらながゆき)。遠江掛川藩の第三代藩主。若年のゆえ、藩内において浜嶋庄兵衛(日本左衛門)と名乗る盗賊を取り締まることができず、延享三年九月、陸奥棚倉藩へ懲罰的な移封を命じられた。この村明細帳は掛川藩主転封に伴い、引き継ぎのため、掛川城付郷村引渡御用を勤めた、幕府の中泉代官に提出されたものである。
※ 立帰り(たちかえり)- もとの時点に戻ること。(崩れ引きをやめること)
※ 発向(はっこう)- 流行すること。ここでは出没して畑を荒らすことをいう。


一 十一面観音堂壱ヶ所 弐間に弐間   
            当村百姓助右衛門控え支配
   御検地境の内、預り、六歩       
※ 台(だい)- 平らで小高い土地。
                  
一 千手観音堂壱ヶ所  弐間に弐間
            宮殿弐尺四寸に弐尺壱寸
            当村名主 吉左衛門控え支配
   御除地預り台、五畝拾弐分
これは当村二十二番観音堂に札納候所に、前に貞享四卯年(1747)まではこの観音堂札納候所に、同年九月より当村の観泉寺へ子細これ在り、札納め申し候。
※ 二十二番観音堂 - 遠江三十三観音の二十二番札所。天王山観泉寺内長福寺。
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江戸繁昌記初篇 22 金龍山浅草寺 1

(散歩道から夕空)

今朝方、豪雨で目が覚めた。起きるころには天気が回復して、夕方にはすっかり秋の空になった。

午後、掛川古文書講座に出席した。「東山村明細帳」を今日で読み終えた。明日より何回かに分けて、「東山村明細帳」を読み下して、紹介しようと思う。

「江戸繁昌記初篇」の解読を続ける。

     金龍山浅草寺
都下香火の地、浅草寺を以って、第一とす。肩摩轂撃、人の賽詣、未だ嘗(か)つて、一刻の間に絶たえざるなり。雷神門、正南に面す。丹碧交々輝き、毫楹、頗(すこぶる)は壮なり。東西十二の子院、駢(なら)び住して、雑商並びにその廡(ひさし)下に肆す
※ 香火(こうか)仏前で焼香をするための火。
※ 肩摩(けんま)- 肩と肩が触れ合うこと。
※ 轂撃(こくげき)- 人や車の往来が激しいこと。混雑していること。(「轂」は車のこしき。車輪の中央部で車軸を通して回転するところ)
※ 賽詣(さいけい)- お参り。参詣。
※ 丹碧(たんぺき)- 赤色と青色。
※ 交々(こもごも)- 多くの ものが入り混じっているさま。
※ 毫楹(ごうえい)- 豪柱。すぐれた柱。
※ 子院(しいん)- 本寺の境内にあり、本寺に付属する小寺院。「まつじ」とルビあり。
※ 肆す(しす)- 店を出す。


珠数(じゅす)を売る者有り。鼉鼓を賈(売)る者有り。假面(めん)を估(売)り、錦画を售(売)る。
※ 鼉鼓(だこ)- 鼉の皮を張った太鼓。(「鼉」は鰐の一種。)火焔太鼓。
※ 錦画(にしきが)- 錦絵。


西肆(店)尽きて院有り。伝法院と曰う。山主の住む所、その北祠は稲荷神なり。東、院に対する一店、餈(もち)を売る。直に金龍山を以って名と為す。これに次いで、茶舗数十櫛比す。櫛折れて二露仏有り。仏に隣する石像を久米の平内と曰う。最後、一小丘有り。天女廟を安ず。
※ 茶舗(ちゃほ)- 茶店。
※ 櫛比(しっぴ)- 櫛(くし)の歯のように、すきまなく並んでいること。
※ 露仏(ろぶつ)- 野外に置かれている仏像 。ぬれぼとけ。
※ 久米の平内(くめのへいない)- 江戸時代前期の武士、剣術家である。多くの人を殺め、その供養のために仁王座禅の法を修行し、自らの座禅の像を作らせてお堂に祀った。死の間際にこの像を浅草寺境内に埋め、多くの人に踏みつけられることで罪を償おうとした。
※ 天女廟(てんにょびょう)- 弁天堂。


二王門宏麗、雷神門と数十歩(ぶ)を隔てて、屹立相対す。門内少し東、絵馬額堂有り。浄手水所有り。輪堂層塔、雁行並び建つ。西に神厩有り。厩後は則ち山王祠なり。祠前に小衙を開く。その間、また皆、肆(店)有りて、楊枝、歯薬を売る。堂の広さ数楹、高さ数丈、一寸の尊像を安置し奉る。玉金碧映射、荘厳の美、固より論は無し。左は則ち鐘楼、随身門。右は則ち淡島神の叢祠、三社十社の両殿、念仏堂、涅槃堂。その他の堂殿、無慮数十。
※ 二王門(におうもん)-現、宝蔵門の所にあった。
※ 宏麗(こうれい)- 大きくすばらしいさま。
※ 雁行(がんこう)- 空を飛ぶ雁の列の形。
※ 神厩(しんきゅう)- 神馬(しんめ)をつなぐための建物。
※ 小衙(しょうが)- 小さな役所。
※ 龕(がん)- 仏像を納める厨子。
※ 帷(い)- 垂れ幕。
※ 金碧(きんぺき)- 金色と青緑色。
※ 無慮(むりょ)- おおよそ。ざっと。
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江戸繁昌記初篇 21 千人会 4

(散歩道のシチヘンゲ)

「江戸繁昌記初篇」の解読を続ける。

一日、二、三子と共に、書の洪範を討論し、初め一つに曰う、五行。次、二つに曰う、敬いて五事を用いる等の語に至る。偶々(たまたま)鄰婆に、佇(たたず)み聴かるところなる。便(すなわ)ち突き入り、これに中して曰う、今日の、何を善とする。予ら、駭然、口の措(お)く所を知らず。因って、これを叩いて、これを審(つまびらか)にし、相視て一笑して已(や)む。
※ 二、三子 - 二、三人。
※ 洪範(こうはん)- 手本となるような大法。模範。
※ 五行(ごぎょう)- 陰陽道で、木・火・土・金・水の五元素をいう。天地の間に循環流行する万物組成の元素。また宇宙のすべての事象を説明する哲学的原理ともされる。
※ 五事(ごじ)-「書経」にある、礼節を守るうえでの大切な五つの事柄。貌(ぼう)・言・視・聴・思のこと。
※ 鄰婆(りんば)- となりのおばあさん。
※ 中する(ちゅうする)- 中に割り込む。
※ 目(め)- ここでは、富くじの当り目のこと。
※ 駭然(がいぜん)- ひどく驚くさま。びっくりするさま。


国史を後閲するに、瓜生保、将に抜けて杣山城に還んとす。同志の者を得んと思いて、偶々聞く。隣営に人の問答する有り。曰う、重中黒(いず)れが美なる。曰う、中黒なるや。三鱗廃して、二画興こる。則ちこれに代わる者は一画に非ずして何ぞ。保、聴き得て、心竊(ひそ)かに喜ぶ。
※ 後閲(こうえつ)- 後で見ること。
※ 瓜生保(うりゅうたもつ)-南北朝時代の武将。越前南条の住人。新田義貞の配下として、北条残党の名越時兼を加賀大聖寺で討取る。
※ 画(が)- はかりごと。
※ 中黒(なかぐろ)- 家紋の一。輪の中に横に黒く太い一の字のあるもの。新田氏の紋。
※ 三鱗(みつうろこ)- 家紋の一。鎌倉北条氏一門の「三つ鱗」紋が有名。


予読みてこれに至り、独り自ら失笑す。意(おも)うに、鄰婆をしてこれを聞か使(し)めば、また以って何如(いかん)とせん。頃者は市に入り、肆頭、数箇の招牌を、掛るを見る。題して曰う、松竹梅。曰う、花鳥風月。曰う、何。曰う、何。中に智仁勇の三字有り。これを問えば、また千人会の標識のみ。
※ 頃者(けいしゃ)- このごろ。近ごろ。
※ 肆頭(しとう)- 店先。
※ 招牌(しょうはい)- 看板。


予、慨然嘆き曰う、三徳の義、大いなるかな。蓋し、逆(あらか)じめ、今日刺す所の目、何ぞを億(おもんばか)りて、屡々(しばしば)(あた)るは智なり。衣を典し、釼(けん)を売り、明日の生計(たつき)如何んを算せざるは勇なり。中(あた)らずして、自ら悔い、天を怨(うら)まざるは仁なり。然れども、未だ予が説、穏当や、あらずやを知らず。
※ 慨然(がいぜん)- 憤り嘆くさま。嘆き憂えるさま。
※ 典す(てんす)- 質に入れる。
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