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東京行幸についての御触れ - 駿河古文書会

(5月31日、本山寺五重塔)

さらに「御觸面書留帳」が続く。移封があって、去る人、来る人、てんやわんやで、まだ定まらない時期に、明治天皇が東京へ行幸になるとの通知が来て、以下の御触れとなった。慶応から明治へ改元されたのが九月八日、御触れはその二日後の日付になっている。

新政府と旧幕府側の争いが続き、東国の民衆は多大な苦難を味わった。天皇はこれら東国の民衆を慰撫したいと願われ、九月二十日に京を立ち、十月十三日に東京に入られた。この道中では各地で、老人、家業出精の者、親孝行ものを表彰しながら、ゆっくりと進まれた。十月四日に藤枝に宿泊、翌五日、府中では、孝子6名、忠婢1名が表彰された。以下の御触れは、行幸の際の表彰の下調べも兼ねていた。

今度、東京へ行幸に付、御道筋へ近在、近郷より拝しに罷り出候儀、勝手次第たるべき事
一 水災のために流失いたし候者、これ有り候わば、取り調べ、来る十五日まで差し出すべく候
一 御当日、遠方より継ぎ立て人足、二、三泊にて、宿方へ罷り出で候者これ有り候わば、取り調べ、差し出すべく候
一 七十才以上の者、並び親孝行の者、家業出精の者、これ有り候わば、取り調べ、来る十五日までに差し出すべく候
右の通り相心得、この回状村下へ請印せしめ、早々順達留り村より、井宮村松寿院仮役所へ、相返すべきものなり
 九月十日   地方役所

追って、御役所取り建つまで、当分の内、本文の通り、安西井宮村松寿院借り受け、仮役所にいたし、明十一日より取り扱い候間、諸願い、諸届け、同所へ差し出すべく候
一 その村々高札面へ、これまでの代官、領主、地頭などの名前これ有り候分は、右名前だけ早々紙にて張り置き候様、致すべく候

追って順よく継ぎ立つべく候
         安倍郡
            北長沼村始め
            上土新田
            同外二ヶ村受新田
            浅畑沼新田
            川合新田
            川合村
            南沼上村
            北沼上村
            浅畑新田
            東村
            北村
            羽高村
            有永村
            池ヶ谷村
            柳新田
            北安東村
            南村
            宮内村
             右村々役人


最後の一つ書きは、旧の代官、領主、地頭などの名前は、紙を張って、名前の部分だけ紙を貼って消しておけという内容である。
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