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倉真村村柄報告 - 掛川古文書講座

(庭で絶えたと思っていたツワブキの花がひっそりと咲いた)

昨日、W氏のお葬式のあと、掛川古文書講座に駆けつけて、何とか5分前には会場に入れた。今日からテーマが掛川北部の山間の集落、倉真村の村柄報告の文書を読み進める。

領主が代わる度に、村役人に対してその村柄を領主に報告することが求められた。年貢を決めたり、領地を運営するために必要であったからである。現在、延享4年(1747)の作成の村柄報告が掛川の村々に散見される。この時に領主が替ったのである。掛川藩の藩主が小笠原氏から太田氏に国替えになった。

国替えの理由は、当時遠州一円を荒しまわった盗賊、日本左衛門が遠州では捕縛されることなく、京まで逃げ延びて、自首する形で捕まり、獄門に掛けられた。延享3年、時の掛川藩主小笠原長恭は、盗賊一人捕まえられない不手際の責任を取らされて、陸奥国棚倉へ移封された。明らかな左遷であった。交代で上野国館林より太田資俊が5万石の掛川藩に移封されてくる。その際に、太田氏が藩情把握のため村々より報告をさせた文書が、延享4年に各村から出された村柄報告である。

どんなことが報告されたのか、以下に倉真村より出された文書を読み下したもので示す。

 延享四卯年三月 遠州佐野郡倉真村指出し
      延享三寅年御免定残らず写す
一 高九百四拾五石弐斗七升          倉真村
    内
一 七百弐拾四石五升八合           田方
 この反別、五拾九町九反五畝十一歩
 但し、百四拾四年以前、慶長九年松平隠岐守様御代、伊葉(奈)備前守様御改め御竿六尺と申し伝え候、御水帳七冊御座候
    内
(中略)
 合わせて 米千百九俵弐斗壱升三合        寅年惣納
      大豆六拾七俵三斗弐升六合       右同断
    外に
一 米七俵半、大草太郎左衛門様御支配所、大代山運上、右は米、大代村へ上納仕り候
一 当村の儀、前々より御定免にて御上納仕り候、もっとも田畑とも違作の節は、御見分の上、御引方下し置かれ候、もっとも何割以上の違作と申す定法、御座無く候
一 御年貢俵拵(こしらえ)の儀、二重かわに仕り、俵入納三斗五升、払米三斗九升、斗立四斗壱升五合にて相納め申し候、御蔵納めの節、米御吟味の上廻し、相立ち不足の節は、残らず足し米仕り、過米これ有る節は、御貫き下さり候
一 高当り大豆壱俵、御上納仕り候、代米壱俵御年貢米にて御差継ぎ御差引下し置かれ候、俵入の儀、米同様御座候
一 高当り糯(もちごめ)六俵御上納仕り候、これも御年貢米の時に御差引下さり候
一 御用米御詰替の節は、村々高割りにて御米御上納仕り候えども、当村の儀はすべて悪米にて、右の段、御断り申し上げ、御免遊され下し置かれ候
一 枳(からたち)御蔵入用のじょうご、筵、代銭にて、村々高割を以って差し出し申し候
一 江戸御屋敷御扶持米、川崎湊へ津出しの儀、村々御割合にて、村役にて付け届け申し候、当村より川崎へ道法(みちのり)七里余御座候


※ 御免定 - 納税通知書。当時は村に出され、村役人によって各戸に割り振られた。
※ 御改め - 検地
※ 御水帳 - 検地帳
※ 御竿六尺 - 太閤検地のときは、竿6尺3寸。
※ 辻 - 合計。
※ 大草太郎左衛門は幕府代官、大代には幕府御領林があった。河村家が管理。運上は入会いの料金に当る。
※ 二重かわ - 俵を二重にしたものか?
※ 俵入納三斗五升に対して、三斗九升として民間に売却される。これを払米という。なお、実際には斗立(はかりたて)と言って、四斗壱升五合の米が入れられる。四斗壱升五合と三斗九升の差の二升五合が口米とか延米と言われ、付加税として代官所などの運営に使われた。
※ 高当り - 村高100石に対して。
※ 枳(からたち)御蔵 - 掛川藩の城米の蔵として、枳御蔵と仁藤御蔵があった。


ここでは、前の年の御免定を写すことで、年貢の状況から村柄を説明している。この後、まだまだ続くが、このつづきは来月になる。
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