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増善寺(靜岡市慈悲尾)-駿河古文書会現地見学会

(増善寺本堂)

駿河古文書会の現地見学会があって、朝から靜岡に出かけた。駅前に9時12分発の千代慈悲尾線のバスに乗り、慈悲尾南で降りる。参加者は27人の内、駅前からバスに乗ったのは10人ほど。バス停から増善寺まで約1キロ15分ほど歩いた。

昨日は嵐で風混じりの大雨が降り、計画が昨日だったらとても参加する気にはならなかったであろう。今朝は雨も止み、晴間も出てきた。お昼頃には雲も取れて快晴のお天気になった。皆さんの口からお天気を誉める言葉がついて出る。

増善寺といっても、全く予備知識なしで参加してしまい、途中で今川氏親の墓所がある、由緒ある古刹だと聞いた。駐車場から境内や参道にケヤキなどの落葉が散り敷いて、自家用車でやってきた参加者が境内の掃除を手伝っていた。ほとんどは昨日の風雨で葉を落としたものであろう。そういえば、今朝は金谷駅前広場もケヤキの落葉で大変なことになっていた。


(増善寺のケヤキ)

参道の西側に幹周り4メートル以上あるケヤキの巨木が見えたので、一人で行ってみた。後で樹齢400年と聞いた。

皆んな集って、寺内を案内していただく増善寺住職の弟さんの黒澤脩氏が紹介された。黒澤氏は元市役所勤務で、埋蔵文化財センターに長くいて、かつては当古文書会にも関わっておられたと聞く。今は役所も退職されている。昔のからみで寺内の案内をお願いしたようだ。

増善寺の前身は、自伝によれば、養老七年(723)に行基菩薩の千手観音を安置して慈悲寺として開山された。衰退していた時期もあったが、文明十二年(1480)に辰応正寅禅師によって再興された。この谷が慈悲尾と呼ばれるのはそんな理由である。「尾」は、山裾の、なだらかに延びた部分のことをいう。

今川氏親公は辰応正寅禅師を再び慈悲尾の地に呼び戻し、慈悲寺を曹洞宗増善寺と改名し、明応十二年(1510)大伽藍を建立した。今川氏親の葬儀は増善寺で営まれ、戦国大名最大の葬儀であったといわれている。

その後、武田信玄の駿河侵攻時を含め、2度灰燼と帰した。うしろだてを失って疲弊したが、江戸時代になって、十二石を拝領し、現在地に七堂伽藍が整備された。増善寺の元あったところは現在地から南東のなだらかな谷間であった。

昭和四十九年(1974)、靜岡を襲った七夕豪雨では、現在の増善寺の参道も半分ほど埋没したが、激流に削り取られて旧増善寺の礎石らしき構築物が部分的に露出した。しかし、災害復旧を急ぐために調査する前に埋め戻されてしまった。その跡には現在は人家が建て混んでいる。(続く)
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