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柳行李の話

                     (故郷の名産、柳行李)

柳行李(やなぎごうり)といっても今の若い人には解らないであろう。タンスが普及するまでは衣料品などを入れておくケースであり、旅行カバンが出来る前はカバンの役割をし、ダンボール箱が出来るまでは小荷物の輸送の器であった。その他、バスケットタイプや弁当箱などに使う小さい物もある。この柳行李がかつては自分の故郷の特産品であった。

故郷の豊岡市を突っ切って流れる円山川の流域の湿った土地に、柳行李の原料となるコリヤナギがたくさん自生していた。柳の枝の柔軟さを利用し、その細枝を編みこんだ入れ物が柳行李である。編むときに使用する麻糸も、但馬麻苧(あさお)として名産地であった。また何よりも冬季は雪に閉ざされる農家にとって、柳行李の生産は冬季に屋内でできる絶好の副業であった。

柳行李は歴史を遡れば奈良時代まで遡ることが出来るという。古いことはとにかく、江戸時代には家内工業として生産をしていたが、1668年、京極高盛が丹後の宮津藩から豊岡藩に国替えになり、柳の栽培と杞柳製品の製造を奨励したことから大きく発展することになった。家の本家のご先祖はこの国替えの時に京極家に付いて、宮津から豊岡の地へやってきたといわれているけれども、これはまた別の話題である。

実家の一軒置いた南隣りが昔は倉庫で、そこには柳行李の材料になる柳の枝が束ねられて保管されていた。倉庫が一杯になるためか、倉庫の外の軒下にも置かれていることがよくあった。柳の枝の太さは子供の指ほどで、長さ3mほどある。皮がむかれ、白木のきれいな木肌が出ていた。

これが柳行李に加工されることなど子供たちは知る由もなかった。だから、子供たちの絶好の遊び道具となった。束の山に乗って遊び、束から何本か引き抜いて適当な長さに折り、チャンバラごっこもやった。

周りに切れ端が放置されていたと思うが、怒られたことは一度も無く、ましてや親に抗議にこられることなど無かった。子供たちも沢山の柳を掠めるようなことはしなかったと思うし、その位の目減りは計算に入っていたのであろう。

おおらかな時代の話である。
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