goo

小山城跡と香典帳の記帳

(小山城天守閣)

昨日の超散歩の目標であった吉田町の小山城へ、前回登ったのはいつ頃だっただろうか。かすかに記憶がある。島田から歩いて来たので、北側から回り込んで小山城跡に登った。入口に冠木門の大手門があり、それを潜るとすぐ目の前に小山城の天守閣があった。

小山城天守閣は昭和62年に築城されたものであるが、この地に天守閣が造られた歴史は無く、吉田町のやや勇み足だったようだ。案内書には「天守閣型展望台施設」と書かれている。天守閣は小山城跡の本丸辺りに建てられており、立派なものである。何はともあれ、平日で観光客の居ない天守閣に200円払って登ってみた。天守閣の最上階から見る、駿河湾側の景色は大変よく、また天守閣が建つ能満寺山の城跡の様子も展望できる。


(小山城跡三重堀)

小山城は北の諏訪原城とともに、難攻不落の高天神城を攻めるための足場として築かれた城である。元は今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となり、今川氏が没落した後、武田、徳川両氏は大井川を境に領地を分けた。しかし、武田軍は諏訪原城とともに、大井川を越えて山崎の砦に入り、永禄12年(1569)小山城を築いた。その後高天神城の攻防にともなって、武田、徳川両軍により、小山城を取ったり取られたりの攻防が続いた。小山城がどのような城であったかは明らかではないが、城跡には三日月堀や三重堀など、武田の築城による独特な堀などが残っている。

天正元年(1573)に信玄病没後、天正三年、織田、徳川連合軍が長篠で武田軍を破り、天正九年(1581)には高天神城が徳川軍に落ちると、武田軍は小山城に火を放ち甲州へ退却した。結局、小山城の歴史は13年間で幕を閉じた。

女性の係員にバス停の場所を聞いて、郷土資料館に行ってみたが、休日だけの開館で中には入れなかった。本当を言うと、吉田町の住吉から補陀洛渡海が行なわれたという件で、吉田に行けば情報が得られるかと思って来たのであったが、時間切れで改めて調査に来ることとし、バス停に出た。バスは数分の待ち時間で来た。

   *    *    *    *    *    *    *

今朝からGさんのお葬式で一日かかった。自分は裏方で香典帳に筆ペンで記帳をする役割であった。今回はそれ程でも無かったが、昔、葬式当日だけで200通を越す量を一人で記帳したことがあった。葬式が終ってもまだ記帳が終らず大変な目にあった。班の中には筆書きに手馴れて自分より余程上手な人がいるはずなのに、誰も手を挙げない。だから、それほど上手くも無い自分が書く破目になる。書いてみると、段々手馴れるもので、自分のプラスになると思うから積極的に手を出すようにしている。喪主の人が後々見るためのものだから、上手い字ではなく、読みやすい字を心がけて書くようにしている。この30年間に、班で執り行ったお葬式が9回ほどあったが、そのうち6回ぐらいは自分が記帳したことになる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )