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江戸時代の病気-喜三太さんの記録

(ムサシの散歩道のカラスウリ)

掛川の古文書講座で読んできた「喜三太さんの記録」で、講座ではとばすと言われた部分を、今読んでいる。講師は歴史的な意味のある文書は関心があって取り上げるが、ごく個人的な記録は飛ばして先へ進む傾向にある。もちろん、一年間10回の講座では取り上げる量は限られているから、取捨選択することは理解が出来る。しかし、お触れの写しなどは多くの類型的な文書があって、すでに学んだものもある。自分が興味を持っているのは、個人的な内容を書いた部分である。講座では取り上げないから、自分で辞書を引き引き読み解かねばならない。

以下に書き下した文書は、喜三太さんが病気に掛かった話である。病気は最も個人的な話題と言えよう。講座出席者で、このブログを読んでいただいている方もいるようで、少しでも参考になれば幸いである。

退役願い
さる酉年秋の頃より、予、気鬱の病起り、さる亥春以来、病気増々重く候につき、同年九月七日、人々の勧めに随い、在所金谷方へ病気養生かつ心気保養のため罷り越し候、それにつき村役の儀も勤まりかね候につき、同年暮に至り退役御願い申し上げ、御給米二俵、御辞退申し上げ候ところ、退役の儀は中々御聞き済ましこれ無く候につき、御給米二俵の儀は恐れながら殿様へ御冥加として差し上げ奉り候、この春、大井住甚右衛門、御年始拝礼に出府いたし候につき、又々退役の儀、御願い申し上げ候ところ、格別の御慈悲にて、病中休役仰せ付けられ、病気本服次第、帰役致し相勤め申すべく、仰せ伝えられ候
   子年二月

※ 気鬱の病 - 気のふさぐ病気。憂鬱症。鬱病。
※ 冥加(みょうが)- 神仏の加護・恩恵に対するお礼。ここでは領主へのお礼。

喜三太さんは金谷の商家から掛川の大百姓に婿入りしたのだが、すぐに家長となり、財政的に難しい状況にあった家計を立て直しながら、村役(組頭)にも推挙され、慣れない仕事などという暇もなく、日々奔走していた。おそらく真面目一方の人で、現代では珍しくない氣鬱の病(鬱病)になってしまった。さらに、喜三太の身に病が降りかかる。

病難
当家五世相続人喜三太、この三、四年氣鬱の病起り、療治保養のため、去る亥九月七日、金谷の故郷へ住み居り候ところ、気鬱の病いまだ本服致さずに、又々当子の二月初旬の頃より脾癰(ひよう)をわずらい、三月節句前後は病甚しくて膿血(うみち)を吐くこと異様に、およそ四合より五合くらい、咳、時の間も止むこと無ければ、少しも横に寝ること叶わず、二十日ばかりがほどは、少しも眠れず苦痛筆紙に尽し難し、とても本服の儀は叶うまじきと自らも思い定めて居りたりけるが、三月下旬より追々快気に成り候ゆえ、四月中旬に至り、駕籠にて立ち帰り療養いたし居るところ、五月六日より又々瘧(おこり)をわずらう、春以来九死一生の難病にて、身心ともに痩衰しところへ、又々瘧をわずらい、とても行末本服のところ有るまじきと思い定めし候、六月初旬より瘧を忘れ、盆後より脾癰の方も追々快気に趣き、自らを初め、一統悦ひ申し候、さりながらいまだ痰膿治らざれば薬用養生第一と掛川泰輔老申され候
   子八月

※ 脾癰(ひよう)- お腹(脾臓)のはれもの、血を吐いた点では胃潰瘍か?
※ 瘧(おこり)- 間欠的に発熱し、悪感(おかん)や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。

病気のことはよく知らない。まして、江戸時代の病気である。喜三太さんは膿血を大量に吐いた。多分胃潰瘍(?)だったのだろう。神経の使いすぎで起きる病気である。さらには、瘧という熱病に冒された。本人も何回か本復を諦めるほどの病状だった。しかし、喜三太さんは本復した。まだこの世に遣り残したことがあったのだろう。
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