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神武山の文学碑


(裏の畑-耕す前)


(裏の畑-耕した後)

昨日の雨は上がって晴れた。今朝は風が強くて寒い。北海道では季節はずれの大雪になっていて、ところによっては40センチメートルの積雪だと報じている。午前中、裏の畑を耕した。秋から冬にかけて放置しておいたため、荒れ果てていたが、この雨で土が軟らかくてスコップが気持ち良く入った。無理をしないように午前中で終った。GW中に夏野菜を植えようと思う。メキシコで豚インフルエンザが発生して、数十人の死者が出ているという。ゴールデンウィークを前にして、海外に出かける日本人も多いだろうに、気がかりなニュースである。

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(昨日の続き)
神武山の西側へ下る途中に「田植歌の碑」があった。「鶴の子」という田植歌というが、聞いたことはない。

   鶴の子が巣立つはどこよ / 山と山、山と山 /
   やはたの森の / 若松の枝


この鶴はもちろんコウノトリのことである。往時から豊岡盆地では、コウノトリは人々が働く田んぼの身近に見られる普通の鳥であった。かつては松の木に巣を作り、松に付きものの鶴はコウノトリのことである。決して丹頂鶴ではない。松に止まる鶴の頭を赤く描くのは間違いである。

遊歩道を南西側に回り込んだところに、遊具が置かれた小公園がある。ここにはかつて豊岡測候所があった。長兄は測候所の子供が友達で、よく遊びに来たという。付属して所員の住宅もあったのだろう。その小公園の山側に屏風を広げたような今東光の文学碑が建っていた。


(今東光の文学碑)
 
今東光(1898~1977)は、天台宗僧侶にして直木賞作家であった。新感覚派として出発し、出家後は住職をしていた河内や東北を題材にした作品で知られる。16歳のころ、関西学院中等部を恋愛事件が理由で退学になり、兵庫県立豊岡中学校(現豊岡高等学校)に転校してきた。ところが再び恋愛事件を起し、教師を殴って退学処分を受けた。豊岡にはほんの数ヶ月いただけであったようだ。純朴な田舎に置くには、あまりにも破天荒な中学生であった。文学碑には「みみずく説法」の一節が刻まれていた。

   海士屋の欄杆にもたれてながめると 脚下を水量ゆたかな円山川が流れ
   白帆の行方を見ると はるか玄武洞、城崎温泉、日和山とつづいて
   このうらぶれた北国の風光は 失意の少年の胸を旅愁でかきむしるのである


小公園の反対側には藤井重夫の文学碑があった。藤井重夫(1916~1979)という作家についてはまったく知識がなかった。豊岡市小田井に生まれ、豊岡商業学校を卒業後、朝日新聞記者をしながら、豊岡を舞台にした「佳人」を書いて芥川賞候補となり、その後映画化されて話題を呼んだ。朝日退社後「虹」で直木賞を受賞した。文学碑には「故郷」の一節が刻まれていた。

   母里の町から便りが届く日毎
   私はカサカサに皹(あかぎ)れた掌を凝視めた
   掌のこんぐらがった皺のなかで 
   雪に埋った母里の少年の日の思い出を私は辿った


もう一つ、塩井雨江の碑があったようだが、見損じた。
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