あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人にはなぜ痛みがあるのか(自我その65)

2019-03-21 20:20:05 | 思想
痛みには、体の痛みという肉体的なものと心の痛みという精神的なものの二種類がある。しかし、両者とも、共通している点がある。それは、異常事態が発生している点である。指に傷を負ったから、指が痛むのである。担任の教師に叱られたから、心が痛むのである。確かに、肉体的な痛みにしろ、精神的な痛みにしろ、苦痛であるから、我々は不快であり、避けたい気持ちになる。しかし、だからこそ、我々は、現在の自分の状態を意識し、痛みの原因を考え、痛みがこれ以上大きくならないように若しくは痛みが去るように対応を考え、現在のような状態に二度と陥らないように自らを戒めるのである。指が痛むから、自分が指を怪我していることを意識し、カットバンを張り、包丁裁きが原因であることを突き止め、今度から包丁扱いを慎重にしようと自らを戒めるのである。心が痛むから、自分が担任の教師に叱られていることを意識し、謝り、成績が悪いことが原因であることを突き止め、今度からまじめに勉強しようと自らを戒めるのである。痛みが無ければ、現在の自分を意識することも無く、肉体的な傷害や精神的な障害があっても、それを傷害だと気付かず、もちろん、その原因を探ることも無く、自らを戒めることも無いだろう。つまり、体に痛みが無ければ、指の傷の手当てもせず、その後も、包丁裁きをぞんざいにするだろう。心に痛みが無ければ、反省せず、その後も、勉強せず、遊びほうけるだろう。このように、痛みとは、誰しも歓迎しないものであるが、快楽と同じように、人間が、本質的に持たされているものなのである。我々は、先天的に、快楽を求めるような方向に向かい、痛みを避けるような方向に進むように、深層心理で方向付けられているのである。我々は、痛みがあると、表層心理が、現在の自分の状態を意識し、深層心理が、痛みの原因を考え、痛みがこれ以上大きくならないように若しくは痛みが去るように対応を考え、現在のような状態に二度と陥らないように自らを戒めるのである。だから、我々の過去の思い出は、痛みのあるものが強く残っているのである。また、我々の社会生活は、表層心理での現在の状態の意識は一致しても、深層心理での原因や対策が不一致はままあることである。それは、表層心理のよる意識は現在の状態を映したものであり、個々の深層心理が原因や対策を考えるからである。例えば、試合に敗北した痛みから、11人のサッカー選手は、試合に負けたという現状に対する意識をもち、それは一致しても、原因を探ったり次の試合に向けての練習方法を考えたりすると、なかなか一致しがたいことはありがちなことなのである。

コメントを投稿