今日はこれに甘辛いタレを絡めてウナス丼にしてみるか。安上がり!
昨日は通り雨があったあと急に気温が下がり、夜寝袋に入ってからもけっこう寒かった。朝温度計を見ると7.5度を指していた。どおりで寒かったはずだ
今日は来た道を下って鳥倉発0910時のバスに乗って帰途につく。ちょっと危ない場面もあったけど、今回も楽しく無事に登れたことに感謝。
今回の旅で出会った花々
イワベンケイ
タカネコウリンカ
ハクサンシャクナゲ
ゴゼンタチバナ
0400時に起きて必要なものだけを持って0500時、朝もやの中を出発。本谷山に着いた頃からもやが晴れてくる。
峠から塩見岳へは標高差で500Mほどなので普通は2時間ほどで行けそうだが、地図のコースタイムはその倍以上かかっている。細かいアップダウンを繰り返す私の苦手登山道のようだ。案の定上ったかと思えば下がり、また上って下ることを繰り返して一向に標高を稼がせてくれない。
塩見小屋の手前ぐらいからやっと本格的な上りとなって小屋から上は岩稜帯を上っていく。
小屋付近から見える右天狗岳、左が塩見岳
岩稜帯を慎重に登って0820時塩見岳西峰(3047M)到着。後ろには富士山がドーンと見える
隣の東峰(3052M)バックは間ノ岳から北岳への稜線
東峰はスペースが小さいので西峰に戻ってゆっくり眺望を堪能する
もう一度富士山。右の岩が東峰
千丈、甲斐駒、間ノ岳など南アルプス北部の峰々
あいにく南の荒川、赤石岳方面はガスがかかってよく見えない。
去るのが惜しい眺めをあとにして下りにかかる。帰りもまた上り下りを繰り返すことを思うといささかげんなりする。岩場の下りは慎重にと思いつつ、一か所足の置場が悪かったのかバランスを崩して岩の一段をプチ滑落してしまう。下が平だったのと転がったとき頭の部分に岩がなかったのが幸いしてで大事に至らなかったがまさにヒヤリハッとの瞬間だった。危ない、危ない。
テント場の直前で突然雨が降ってくる。あわててカッパを着て1230時、峠に戻る。雨は通り雨ですぐに止み、夕方にはきれいな空が望めた。
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宿の前のバス停から夏山バスに乗って登山口の鳥倉へは1時間ほど。ここから三伏峠へ上がりそこで泊まって明日塩見岳へ登る予定。
土曜日ということで行き交う登山者は多い。テントを張れる数に限りがあるので同じテント装備の人に追い越されると場所がなくなるのではとあせる。重たい思いをしてせっかく持っていっても場所がなくて小屋に泊まる羽目になるのはなんとしてもしゃくだ。鳥倉から三伏峠までは標高差で800Mほど。荷物が軽ければなんでもない標高差だが荷物が重いと堪える。
それでもなんとか3時間ほどで三伏峠(2560M)へ到着。ここは日本で一番高いところにある峠だそうだが、あまり峠という雰囲気はない。
場所には余裕があってやれやれである。テントを設営し昼ご飯を食べても時間はたっぷりあるので、ここから1時間ほどで行ける烏帽子岳(2726M)に登ってみることにする。
テント場からは明日登る塩見岳の頭が見える
お花畑と烏帽子岳
烏帽子岳からはドーム状の塩見岳がよく見える
小河内岳から荒川岳方面の稜線
天気は上々。下界の暑さがうそのような涼風が気持ちよい。ゆったり眺めを堪能してテント場に戻る
積雪期の山の楽しさを知ると、夏山は暑いから止めておこうかなどと思ったりもするが、「梅雨も明け太平洋高気圧が張り出し」などと聞くとやはり出かけたくなるのが山婆の宿命か。
今年は南木曽での土石流のためJR中央線が分断されていて松本方面は不便なので、伊那の方へ回って南アルプスの塩見岳に登ることにする。塩見岳は以前にも行きかけたのだが天気が悪く途中で引き返したので今回は再トライになる。
豊橋から飯田線を走る特急伊那路に乗る。飯田線には特急が1日2本しかなく、各駅停車で全線乗ると7時間ほどかかる。以前青春18切符で乗ったことがあるがさすがに疲れた。山間部とのどかな田園地帯を走り、いわゆる秘境駅と呼ばれる駅も多い。山間部の駅の目の前に家が一軒だけあって周囲にはなにもなく、この家の専用駅かとも思えるところもある。
登山口の大鹿村へは伊那大島からバスで1時間ほど。1530時ぐらいに着くが今日は猛烈に暑い。とても散策などする気になれず、今日の泊り客は私一人の宿にこもる。
伊那大島マンホール。この辺り、果物の生産が盛んのようだ
1960年代から70年代にかけて反資本主義、世界同時革命を目指した極左組織のリーダーだったドイツのウルリケ・マインホフと日本の重信房子の2人の娘たちやその関係者へのインタビューとその当時の映像で構成されたドキュメンタリー映画。
「革命」なんて言葉、今は本来の意味で使う人はほとんどない気がするが、あの時代は本気で口にする人がたくさんいたのだと改めて思った。今もイスラム過激派と呼ばれる人たちのテロは後を絶たないが、当時は日本人の過激派と呼ばれた人たちが海外でも日本でも空港、大使館、企業などを狙ったテロを頻発させていたことを思い出す。
ドイツのマインホフのことはまったく知らなかったが、重信房子はあの当時よく報道されており、日本で逮捕された時も卑屈に顔を隠したりせず、支援者たちに笑顔を見せて連行されていた記憶がある。信念を持った人は強いなぁという印象だった。その娘重信メイはジャーナリストとして最近中東問題などを取材しているので、この母と娘の人生に興味があって今回映画を観てみた。
母の方は学生運動を経て、革命思想に目覚め日本を出てベイルートを拠点に、パレスチナ人たちに共感し日本赤軍を立ち上げる。様々なテロ事件の直接の実行犯ではなかったようだが黒幕的存在として国際指名手配されていた。2000年に日本に偽造パスポートで入国した際に逮捕され現在はガンを患いながら刑務所で服役中。娘のメイはその母とパレスチナ人男性の間に生まれ、母とは離れて暮らしていた時期が長く、パレスチナ人社会のなかで20数年無国籍のまま育ち、日本に帰国した際に日本国籍を得た。パレスチナでは両親の活動のため命の危険もあったそうだ。今はジャーナリストとして日本で暮らし、母の元へも面会に通っているとのこと。たまたまそんな母から生まれたために過酷で数奇な運命を背負わされているわけだが、インタビューに答える彼女は凛として美しい。
暴力が問題解決にはならないと、重信房子も獄中で日本赤軍解体を宣言し、暴力による手段を否定しているようだがパレスチナとイスラエルの暴力による応酬は今も続いている。アメリカが支援するイスラエルの軍事力の前ではパレスチナがテロで対抗しなければならない一面もあるのだろうが、お互い報復の連鎖を繰り返し泥沼状態が続く。そんなところにたまたま生まれたために恐怖に晒され、命まで奪われる子どもたちの理不尽さ、不運。人は生まれる場所を選ぶことはできないし、どんな親を持って生まれるかも選べない。それなのに自分の出自を自慢したり、そのことで他人を差別したりする愚かさ。殺し、殺される危険もなく平穏に日常を暮らせることがいかに貴重かなど、いろいろ考えさせられる作品だった。
久々に音楽映画を観る。ヴァイオリン協奏曲2番が「ラ・カンパネラ」として有名なヴァイオリニストであり作曲家でもあるパガニーニのお話。その奏法は超絶技巧といわれている。CDで時々聴いてはいるが、どの程度の超絶なのか観てみたいと期待しての鑑賞である。
故郷イタリアではその奏法からパガニーニは異端児として扱われ、報われない日々を送っている。女にだらしがなく、ギャンブル好き、しかも何やらクスリまでやっていて、荒んだ生活をしている。天才と狂気はまさに紙一重。そんなとき彼の才能に目をつけたのがウルバーニという男。彼はマネージャーとなりイギリス公演を計画し、パガニーニの気まぐれな生活に振り回されつつなんとかコンサートを成功させる。このあたり、まるで今のロック歌手のような観衆の熱狂ぶりで描かれている。そんななかパガニーニは指揮者の娘シャーロットに夢中になるが、清純な彼女は彼を受け入れることなく去ってしまう。
パガニーニを演じているのはディヴィッド・ギャレットという実際のヴァイオリニストなので、本物の演奏を見せてくれている。うーん、まさに超絶といえる指の動き。ただ劇中パガニーニがサングラスをかけているシーンがあるがその風貌が、しばらく前に世間を騒がせたニセ作曲家によく似ていておかしかった。
実際のパガニーニは他の奏者に真似されることを嫌い、あまり楽譜を残さなかったといわれているが、それでも現在でもその演奏を楽しめるということはあの複雑な奏法がどういう伝わり方をしたのか不思議でもある。
東宝系の映画館での上映だったが、本編の前の予告編やらお知らせが20分ほども続き、しかも大音響。これから音楽映画を楽しもうというときに興ざめだったのが残念だった
梅雨前線と台風の影響で蒸し暑いなか今日も散歩。今日もズッキーニ発見。相棒は紫ピーマン。産直の八百屋にはスーパーにない珍しい野菜があって見ているだけでも楽しい
切り口は花のよう
武力の行使を今よりしやすくすることが積極的平和主義だったとは、政治家の考えることは理解不能の日。今日も雨は降らないが心は晴れない。アジサイでも観てくるかと摩耶山に登る。
摩耶ケーブルの駅から上野道を歩き始めるが気温の割に湿度が高いせいか汗が噴き出す。一時間半ほどで掬星台到着。それでも日陰に入ると風が心地よく、眺めのいいところで昼食
自然観察園の満開のアジサイを楽しんだ後、新穂高とシェール槍を目指す。
以前、穂高湖からの道を探したが失敗したので、今日はいったん桜谷を下って登り直すことにする。
六甲山系では珍しい炭焼き窯の跡が残っていた
地図では森林植物園との分岐から少し入ったところに破線の道が出ているのでこれを目指すが途中から車道に入ってしまい、なんだか変だと思っているうちにドライブウェイに入ってしまい六甲山牧場に出てしまった。また失敗である。
別に馬が観たかったわけではないのだが
しかたなくドライブウェイを延々と歩くことになってしまった。道の両側のアジサイがせめてもの慰め
なんとか穂高湖まで戻って帰りは杣谷を下りたのだった。摩耶山付近では昔アゴニー坂でも道に迷ったことがある。この辺り、方向感覚を乱す何かがあるのかなぁ。石が嘲笑うのだった。
1953年、イギリスの組織した登山隊が史上初めてエベレストの登頂に成功した時の話。計画の主体はイギリスだが実際にはニュージーランド人のヒラリーと現地のシェルパテンジンの2人が登頂に成功したことはよく知られている。その時の実際の映像、インタビュー、俳優による再現ドラマを組み合わせて登頂までの軌跡が描かれている。日本の山と違って行ったことのないところなので突っ込む余地なし。
日本人としては1970年に植村直己たちが初めて成功しているが、今とは装備も比べものにならないし、ルートも自ら切り開かなくてはならないしその苦労や計り知れず、死も覚悟の上の挑戦、なにごとも最初に成し遂げるのはたいへんなことだと思うばかり。それでも最高峰を極めたいという人間の欲求は果てしなく、初登頂のあとも、違うルートから、無酸素で、季節を変えとか、より難しいチャレンジが続いている。今では自前の登山隊ではなく面倒なお膳立てを請け負う業者の公募によって集められ挑戦する人が多いようだ。高いところが好きなのは煙となんとかばかりではなさそうだ。
調べてみるとこれまで登頂に成功した人は4000人ほどもいるという。ということは失敗した人はその何倍いることか。映画の中でもイギリス隊の前に挑戦して失敗したスイス隊が装備を残して撤退した様子が描かれているように、ものすごい量のゴミが残されているのだと改めて思う。もっともゴミだけではなく亡くなった人の遺体も回収されず、というよりできずに100体単位で放置され、それを横目に見ながら登らなくてはならないとのこと。いやはやなんともすごい話である。