東伏見公園は、都道12号線(調布田無線)のうち、西武線の下をトンネルで抜ける区間(伏見通りの一部)が開通したのに合わせ、2013年4月に開園した新しい都立公園である。公園は未完成のようで、現在より西側に拡張するとともに石神井川を含む広い公園とする構想もあるらしい。
西武柳沢駅を南口に出て東伏見公園に行く。公園の西側はもともと千駄山広場という場所だったようだが、現在は多目的広場のようになっている。なお、園内の案内図は古いままのようで、現在の公園は東側に拡張されている。
東伏見公園の北側には西武線の電車を眺められるデッキが設けられている。デッキの近くには、千駄山ふれあい歩道橋という西武新宿線の跨線橋があり、眺めも良い。
公園東側の小さな丘から公園全体を眺める。この時は見えなかったが、この公園から富士山が見えるらしい。
丘の上にはローラー式すべり台が設けられている。丘の上から東側を眺め、都道12号線のトンネルの上の道を南に進む。右側には東伏見稲荷神社の森が見える。昭和4年(1929)に関東の稲荷信仰者のため京都の伏見稲荷の分霊を迎えた神社で、東伏見の地名はこの神社に由来する。
交差点を渡って石神井川の右岸を下流に向かって歩く。写真は、弥生橋から上流の東伏見橋方向を見たもので、石神井川は改修されているようである。
石神井川の右岸を進み、下野谷(シタノヤ)橋の手前で右側の丘に上がると、“下野谷遺跡”の上に造られた下野谷遺跡公園に出る。ここは縄文中期の環状集落が隣り合う大規模な集落跡で、遺跡の保存状態も良いことから、国の史跡に指定されている。なお、下野谷遺跡と連続する大規模遺跡として、下野谷橋下流の富士見池南側に富士見池遺跡群がある。
下流に向かって進み、溜渕橋を渡ると、富士見池を中心とした武蔵関公園に出る。上の写真は池の南側にある石神井川の取水口で、石神井川の水位が上がった時は、溢れた水が富士見池に流れ込むことで、周辺が洪水になる事を防いでいるらしい。平常、石神井川は、公園の南側から東側を水路で流れ、北側で富士見池の水を合流させているが、あまり目立たない。
富士見池の名称からすると、昔は池から富士山が見えたのかもしれない。今は富士山も見えないと思うが、その代わり池の周辺に大木が茂ることで、緑に包まれた公園になっている。
武蔵関公園は、江戸時代の溜池がもとになり、大正時代の若宮遊園を経て、昭和13年に東京市の公園として開園している。この公園は昭和50年に練馬区に移管され現在に至っているが、二つの島がある富士見池の形は、開園当初からさほど変わっていないようである。
富士見池の北側に行く。ここから西に行けば東伏見駅に出るが、今回は弁天橋から線路沿いに進み武蔵関駅に向かう。今年もすでに12月。駅近くの本立寺のお会式には、関のボロ市という市が開かれるが、それも、もうすぐである。
明治42年の地図を見ると、富士見池の位置には石神井川の水路と田があるだけで池は無い。明治14年の地図では、北側に小さな沼が描かれているが、他は荒地で複数の水路が見られるだけである。湧水はあったにしても、池になる程の水量ではなかったのだろう。それでは江戸時代はどうだったのか。調べてみた。
富士見池から少し南に、玉川上水から分水して江戸に水を送っていた千川上水が流れていた。宝永4年(1706)、千川上水から分水して農業用水として使うことが許されたが、その一つが関村分水で、関村と上下石神井村で使用した。その後、関村に溜池が造られたため、この溜池の水を農業用水に使うようになった。「新編武蔵風土記稿」によると、関村の用水は村内の溜池より引くとあり、また、上下石神井村などの村々とともに組合を作り、溜池からの水を引いて農業用水として利用した。この用水は石神井用水と呼ばれ、複数の水路で田を潤したあと、下石神井村で三宝寺池から流れて来る石神井川に合流していた。
天明4年(1784)の「関村絵図」には、千川上水からの関村分水と石神井川とを堤で堰き止めた溜井(溜池)が描かれ、堤の下流に田を潤して流れる複数の水路(石神井用水)が描かれている。江戸期の作成と考えられる「関村溜井絵図」からすると、溜池の大半は湿地になっており、池は堤近くの小さな池だけになっている。「新編武蔵風土記稿」には、村に水害が多い事を憐れんだ幕府の役人から弁天の木像を与えられ、その像を溜井の側に祀ったところ、水害が稀になったと記されているので、この木像を祀った弁天社の池が「関村溜井絵図」に書かれた池であったと思われる。なお、弁天社は天祖若宮八幡に合祀されており、今は橋に名を残すだけになっている。