夢七雑録

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早稲田から面影橋へ

2010-11-07 17:12:20 | 都電荒川線に沿って

 早稲田の停留所から西に行き、清水家下屋敷跡の甘泉園公園に入る。その名は、お茶に適した水が湧いていたことに由来するという。園内はさほど広くないが、手入れの行き届いた庭園で、入園は無料である。

 甘泉園公園の上の水稲荷に行く。この稲荷は高田稲荷と称していたが、境内の湧水が眼病に効くと評判になったため水稲荷と呼ばれるようになったという。もともと、この稲荷は、別当寺であった宝泉寺の北側、冨塚という古墳の跡(現在は早稲田大学構内)に鎮座していたのだが、土地交換によって現在地に移転したという事である。水稲荷の裏手にあった江戸最古の富士塚も、土地交換にともない、現在の境内に移されているという話だが、通常は入れないという事なので場所を探すのは諦め、流鏑馬の会場にもなった南側の参道を歩く。ここには、高田馬場の敵討で有名な堀部安兵衛の顕彰碑が建っている。高田馬場の跡地は、早稲田通りと、その一本北側の茶屋町通りの間にあたり、高田馬場の名は越後高田藩主の生母の遊楽地を馬場としたことから出たらしい。

 茶屋町通りを西に行くと、突き当たりの手前に、北に下る坂がある。旧鎌倉街道とされる古道である。江戸名所図会にも描かれている七面明神を祀る亮朝院の前を通って坂を下っていくと、新目白通りに出る。面影橋の停留所はすぐそこである。江戸から明治にかけて、早稲田と面影橋の間は田地であったが、大正に入ると人家が少しずつ建てられるようになる。昭和3年に鬼子母神から面影橋まで王子電気軌道が延長された頃には、市街地化がかなり進んでいたようで、面影橋から早稲田まで軌道を延長するにあたっては、立ち退きが必要になったかも知れない。昭和58年に新目白通りが開かれてからは、荒川線の電車は道路の中央を走るようになるが、それまでは、人家のすぐ裏手を電車が走り抜けるような状態であったらしい。

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