夢七雑録

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銀座佃島コースを歩く

2013-02-22 20:23:00 | 歴史と文化の道
 東京都の「歴史と文化の散歩道」のうち、「お堀端コース」の途中にある祝田橋(日比谷公園)を起点として、月島駅(佃島)を終点とする、「銀座佃島コース」を歩いてみた。距離は4km。このコースは「数寄屋橋ふれあい散歩」と「築地江戸前散歩」の二つのサブコース(ガイド区分)に分かれている。

(1)数寄屋橋ふれあい散歩


 日露戦争の凱旋を記念して架けられた祝田橋から、日比谷濠に沿って東に向かって歩く。このサブコースは、ほぼ真っすぐな道で迷うことは無い。現在の日比谷通りの手前には、江戸時代、日比谷御門があったが、今は、当時の石垣の一部が日比谷公園内に残されているだけである。交差点を渡り、散歩道の標識を見ながら先に進み、JRのガードをくぐる。ここにも散歩道の標識がある。有楽町マリオンの先の高速道路の辺りは、かつての外堀跡で、江戸時代には南北方向に数寄屋橋が架かり、橋の手前には数寄屋橋御門があった。また、その北側には南町奉行所があった。明治になると、数寄屋橋御門は取り壊されるが、数寄屋橋は残り、関東大震災のあと石造りの橋に架け替えられる。戦後、ドラマ「君の名は」によって数寄屋橋は広く知られるようになるが、昭和30年代に外堀が埋め立てられたことにより、橋は姿を消すことになった。

 江戸時代、数寄屋橋御門の内側は武家地であったが、数寄屋橋を渡った先は町人地になっていた。今の銀座である。明治5年の銀座の大火のあと、不燃化を目的とした煉瓦街が銀座に造られ、関東大震災により倒壊するまで続いた。有楽町マリオンの前に設置されている散歩道の案内板には、「数寄屋橋ふれあい散歩道」のコース図のほか、明治時代の銀座のレンガ街についての説明と、「銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」が載っている。

 数寄屋橋の交差点を過ぎると、歩道は雑踏となる。もはや、散歩道の標識を探しながら歩くことは叶わず、人込みをかき分け、かき分け、先へ先へと進むのみである。中央通りを渡り三越を過ぎるころ、ようやく人込みの間に隙間が見えてきて、まもなく三原橋跡に達する。江戸時代、いまの晴海通りを横切るように三十間堀が流れていて、橋が架かっていた。明治以降、三十間堀は川幅を変えながらも存続し、橋は架け替えられて都電の通る三原橋となる。戦後、三十間堀は埋め立てられるが、三原橋は、その構造を利用した地下街として再生する。しかし、耐震性に問題があるという理由で、三原橋地下街は近々消滅する運命にあるという。戦後の雰囲気を今に残していた、この地下街も、そろそろ見納めである(写真は銀座5丁目側から見た地下街への入口である)。

 昭和通りを渡ると、散歩道の標識がある。その先、建て替え中であった歌舞伎座が、ようやく本来の姿を現そうとしている。江戸時代、三十間堀東側の木挽町には、山村座や森田座などの芝居小屋があり、芝居茶屋もあって繁盛していた。明治22年、この由緒ある地に創建したのが歌舞伎座である。なお、歌舞伎座の南側には、江戸時代、采女ケ原と呼ばれる馬場があり、講釈師や浄瑠璃が軒を並べていたという。

(2)築地江戸前散歩


 築地は造成地で、その周囲は海水による水路で囲まれていた。この水路の名残が、いつの頃からか、築地川と呼ばれるようになったという。歌舞伎座の先にある築地川銀座公園は、この築地川の跡地に造られた小公園で、サブコース「築地江戸前散歩」の起点になっている。小公園の少し先に、散歩道の標識がある。この標識には中央区の散歩道コースも書かれているが、これについては、機会をみて歩くこととして、先に行く。新大橋通りを渡り、標識に従って左折、築地本願寺の前を過ぎる。

 築地駅の入口近くにある標識に従い、右に折れて進むと、左手に築地川公園がある。ここも築地川の跡地に造られた公園で、散歩道の案内板が設置されている。内容は築地にあった外国人の居留地に関するもので、明治2年に刊行された歌川国輝の「東京築地鉄砲洲景」と思われる画が記されているが、汚れや傷があって、かなり見にくい。この案内板は、元の絵の右側を上段に表示し、元の絵の左側を下段に表示したもののようで、上段の絵の右側には慶応4年に完成した築地ホテル館が描かれており、左側には日の丸のある辺りに改元後の明治元年開設の居留地が描かれている。また、この絵には、現・あかつき公園付近を流れていた水路や、居留地に渡る明石橋も見える。なお、下段に描かれているのは新島原遊郭である。

 江戸時代、築地の東側に水路で囲まれた南北に細長い土地があり、鉄砲洲と呼ばれていた(中央区湊町3から明石町にかけての隅田川沿いの土地)。鉄砲洲の南端のさほど広くない区画が江戸時代の明石町で、寒さ橋(明石橋)が架かっていた。その様子は江戸名所図会の挿絵に描かれているが、築地の外国人居留地は、この地から始まった。

 築地川公園内を通り、次の信号を右に曲がる。左側にあるのは聖路加看護大学で、その角に散歩道の案内板が置かれている。内容はサブコースのルート図と、佃島と築地の説明、および築地居留地の銅版画だが、この案内板も少々汚れている。銅版画は、立教大学の前身である立教学校の校長をつとめ、建築家でもあったガーデナーの作で、明治27年頃のものという。画の左側の水路は、築地川、手前は現・あかつき公園付近にあった水面、右上は隅田川で、洲のように見えるのは佃島と思われる。

 標識を見て先に進み、聖路加国際病院の先の交差点を標識により左折、先に進んで佃大橋に上がる道路の下をくぐり、直ぐの道を右へ行く。佃大橋に上がる階段の下には標識がある。佃の渡しの跡に架けられた佃大橋を、スカイツリーや佃島を眺めながら渡る。

 佃大橋を渡り階段を下りると標識がある。道順に従い、佃煮を商う店が並ぶ川沿いの道を歩いていくと、道路に埋め込まれたCタイプの標識があるが、知らない人は、何の標識か分からないかも知れない。このマークに従い、右に入ると住吉神社に出る。参拝を終えて朱塗の佃小橋を渡ると、ここにもCタイプの標識が道に埋め込まれている。右に折れ佃大橋の手前を左へ、標識を確認して先に進めば、コースの終点、月島駅に至る。


 「歴史と文化の散歩道」には、案内板や、三種類の標識が設置されている。「銀座佃島コース」には、その何れもが設置されているので、ここで、まとめて紹介しておく。案内板は、各サブコース(ガイド区分)毎に設置されており、サブコースのルート図などを示すもののほか、絵図や文章で地域の歴史や文化を紹介するものがある。

 標識Aは、コースの分岐点に置かれる、上面が平らな標識で、付近の概略図や行き先が表示される。「銀座佃島コース」では、起点となる祝田橋に置かれている。

 標識Bは、コースの途中に数多く設置されており、コース道順のほか、付近の見どころが表示されている。上面は斜めにカットされている。

 標識Cは、標識Bが設置しにくい場所などに、道路に埋め込まれる標識で、矢印などで行き先を表示する。本コースでは、佃島に設けられている。なお、標識に使用されているカタツムリのマークは、歴史と文化の散歩道のシンボルマークである。

 「歴史と文化の散歩道」は、昭和58年から平成7年にかけて整備されており、すでに、かなりの年月が経過している。案内板や標識に汚れや傷が目立つのも仕方ないことなのだろう。コースのガイドブックやパンフレットも絶版になっているようなので、最近は、このコースを利用する人はおろか、コースの存在を知っている人も少ないのかも知れない。今となっては、案内板や標識のメンテナンスが不要不急とみなされても、やむを得ないという事になるのだろうか。 
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