(1)嘉陵その後
嘉陵の紀行文は、天保五年(1834)で終わっている。体力的に長い距離を歩けなくなったのか、紀行文を記述することが難しくなったのか、或いは別の理由があったのか、それは分らない。ただ、天保十年(1839)の冬に、高田天満宮が焼失した事を、紀行文の表紙に記載しているので、関心が失われたのではないようである。
天保十二年(1841年)春。病床にあった嘉陵は、たまたま、文化十三年(1816)に書いた、「井の頭弁才天詣での記」の文を読み、次のように追記している。
「この時は、相模の綱広の刀・長さ二尺五寸重さ七百五十匁と、無銘の脇差一尺五寸重さ三百五十匁、合わせて一貫二百匁(4.5kg)の刀を差して歩いたが、重いとは感じなかった。しかし、年を取るにつれて重い刀はどうにもならず、請われるままに人に渡してしまった。是も一時。彼も一時。夢の中で夢を見ているような気がする」と。
天保十二年(1841)五月十九日、嘉陵死去。麻布四の橋の西福寺に葬られる。正靖居士晴雲信士。享年82歳(数え年)であった。
(2)嘉陵の紀行文、その後
嘉陵の紀行文は、江戸時代には出版されなかったが、嘉陵を知る者などに、貸し出されてはいたようである。そうした一人に由誼という人物が居て、「藤稲荷に詣でし道くさ」という嘉陵の文に、次のような、村尾正靖(嘉陵)を偲ぶ文を付けている。
此巻は正靖ぬしの作也。これを見て、懐旧の情堪えかねて、
「今も猶袖をしくれにぬらす哉 野山のにしきみるにつけても」
「残し置し人の心のからにしき いまも野山の末のもみち葉」
嘉永丁未紀元二月十日 由誼
嘉陵の紀行文を借りて読んだ人の中に、竪斎守興という人がいた。守興は写本という形で、嘉陵の紀行文を残したが、これが、「江戸叢書」所収の「嘉陵紀行」のもとになっている。竪斎守興は、写本の経緯について、次のように述べている。
この書は、嘉陵こと正靖、通称、村尾源右衛門の著作である。正靖は清水家付きの廣敷用人を勤めた人物である。嘉陵の人柄については、堀江氏の文を参照されたい。写本の図は、原本の上に紙を載せて写し取ったものではなく、おおよそ見たままに書いたものであり、多少の違いはあるかも知れない。原本は達筆で読み難い所も多いので、そのままに写し、強いて改めず、朱点を加えるか、朱書きするに留めている。
私は、去年仲秋の末より病に伏し、今年春が過ぎ、夏が去って、この秋のはじめには、少し回復したものの、完治するまでには至らず、全ての仕事を辞めて、引き籠っていた。退屈のあまり、この紀行文を読んだところ、労せずして、居ながらに遠い山水の地に遊び、或いは花を見、或いは古跡を訪ねる心地がした。この紀行文のことがずっと気になっていたのだが、何もせずに日を送るよりはと思い、七月の始めから時々、一枚二枚と写し始めた。そして、十月の半ばには五巻すべてを写し終えることが出来た。やらない方が益しのような事だったかも知れないが、ひとまず、こうして綴り置くことにしたのである。
「書き残すこの葉の花に今も猶 過ぎにし春に遊びこそすれ」
「写しつつ過ぎにし人の偲ばれて 面影さえに見る心地せり」
時 万延元年十二月書 於操園閑中 竪斎守興
(3)村尾正靖(嘉陵)について
村尾正靖、字(別名のこと)は伯恭、通称は源右衛門、嘉陵と号した(雅号)。徳川清水家に仕え、御広敷用人であった。生まれ年は、森銑三の説に従えば、宝暦十年(1760)であり、没年は天保十二年(1841)である。村尾正靖の先祖は、清和源氏、山名氏の枝流で、但馬を本国とする山名師氏である。その子孫は、代々周防の岩国に住んだが、師氏十二世の孫にあたる權右衛門誠正が江戸に出て清水家に仕え、村尾と名乗る。正靖はその孫にあたるようである。その人柄については、「嘉陵紀行」に収められた、大略次のような内容の、堀江誼の文により知ることができる。
村尾伯恭(嘉陵)は、細かい所まで手を抜かぬ人であったが、風流を解し、奥ゆかしい人物でもあった。また、右手には文を、左手には武をといった人でもある。仕事は多忙をきわめたが、少しの暇があれば、山水を訪ね歩き、多くの詩歌を詠んだ。その地に至れば、その概略を記し、あれこれ探し求め、調べもした。旅に出て触れたもの、間近に接したものは、あまりに多く、果てしがなかった。特に優れていたのは、いわゆる紀行文が一級品であったということであろう。かって、懇意にしていた若者が、その文を読んだ時、その美にひかれ、何年たっても忘れることなく、その内容が心に残っていたという。氏の跡継(嘉陵の子息)が主君に仕えるようになった頃、私もこの紀行文を借りてみたのだが、読み進むにつれて、険しい山の情景や、広々とした水の風景が、まざまざと浮かんできたものである。それは、あたかも、伯牙の琴の演奏を側で聞いた鍾子期が、その調べに魂も宙に飛ぶ思いだったという故事の如くであった。氏は霞挙雲揚の思想を有していたのであろう。その文章からは、綾や錦が乱れ散り、宝玉が迸り出でるようであったが、その一方で、すべてに考証を加えて、僅かな誤りも見逃さなかった。何事も見届け、一瞬しか見ない場合も、なおざりにはしなかった。惜しいことに、亡くなってから十四年、その骨は朽ちてしまっている。嘉陵の文章は今も残っているが、その文章を読み、共に肩を組んで、酒杯をあげ、詩歌を詠むことは、もうできないのだ。思えば、まことに惜しむべきことである。ここにおいて、感慨ますます切々たるものがある。そこで、死者へ贈る短い序文を作ってはみたが、伯恭(嘉陵)の霊が地下でこの事を知れば、ただ冷笑するだけかも知れない。
嘉永元年(1848)十一月 六十七歳翁 堀江誼
朝倉治彦編注「江戸近郊道しるべ」によると、嘉陵の著作には、「梅乃志乎理」「花月吟二百首」「嘉陵十種癸集・天文怪異」「嘉陵腹議」「嘉陵腹議余話」があるという。このうち「嘉陵腹議」は、宮本武蔵の二刀流について論じるなど兵法に関するものだが、兵法に関する書は他にもあったらしい。
嘉陵の居住地だが、子供の頃、すなわち親の代には、田村小路(港区西新橋2付近)に住んでいたことが、「八幡詣で」に記されている。文化四年の最初の紀行文「下総国府台、真間の道芝」には、浜町に住んでいることが記されているので、時期は不明だが、嘉陵の代には浜町に移り住んだのであろう。文化十四年の「半田いなり詣での記」で、出発地は浜町の家とあり、文政十一年の「千束の道しるべ」では、三番町の家が出発地になっているので、この間の何れかの時期に浜町から三番町に移住していたことになる。文政七年九月十二日の「藤稲荷に詣でし道くさ」の文中に、「さるは移りすめる所も」とあるので、文政七年には三番町に移住していたのではなかろうか。その場所だが、弘化五年(1848)の番町絵図で、田安御門の西側の場所(千代田区九段南3)に村尾栄蔵とあるのが、嘉陵の三番町の屋敷と考えられる。この絵図では、源右衛門から栄蔵に変更になった事が分かるが、源右衛門とは嘉陵の通称であり、栄蔵は嘉陵の子(養子か)である。屋敷は番町では小さい方だが、旗本の屋敷が並ぶ地域にあり、仕えていた清水家とも近いので、仕事上は好都合であったろう。
(4)参考文献
本稿を書くにあたって、次の資料を参考とさせていただきました。
「嘉陵紀行」(江戸叢書所収)、朝倉治彦編注「江戸近郊道しるべ」、阿部孝嗣訳「江戸近郊ウオーク」、森銑三「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」(森銑三著作集)、鶴ケ谷眞一「古人の風貌」、「徳川実紀」、「江戸名所図会(復刻)」、「広重の大江戸名所百景散歩」、「練馬の道」「六阿弥陀調査報告書」など郷土資料、「金王八幡神社社殿門調査報告書」「中野長者の寺・成願寺」など社寺関係の資料、「江戸切絵図集成」「江戸情報地図」等の江戸の絵図及び「東京都市地図」など地図類、今井金吾「今昔中山道独案内」及び「史跡散歩」を含む歴史関係資料、辞典類など。このほか、種々のホームページや、現地の説明板も参考にしました。
嘉陵の紀行文は、天保五年(1834)で終わっている。体力的に長い距離を歩けなくなったのか、紀行文を記述することが難しくなったのか、或いは別の理由があったのか、それは分らない。ただ、天保十年(1839)の冬に、高田天満宮が焼失した事を、紀行文の表紙に記載しているので、関心が失われたのではないようである。
天保十二年(1841年)春。病床にあった嘉陵は、たまたま、文化十三年(1816)に書いた、「井の頭弁才天詣での記」の文を読み、次のように追記している。
「この時は、相模の綱広の刀・長さ二尺五寸重さ七百五十匁と、無銘の脇差一尺五寸重さ三百五十匁、合わせて一貫二百匁(4.5kg)の刀を差して歩いたが、重いとは感じなかった。しかし、年を取るにつれて重い刀はどうにもならず、請われるままに人に渡してしまった。是も一時。彼も一時。夢の中で夢を見ているような気がする」と。
天保十二年(1841)五月十九日、嘉陵死去。麻布四の橋の西福寺に葬られる。正靖居士晴雲信士。享年82歳(数え年)であった。
(2)嘉陵の紀行文、その後
嘉陵の紀行文は、江戸時代には出版されなかったが、嘉陵を知る者などに、貸し出されてはいたようである。そうした一人に由誼という人物が居て、「藤稲荷に詣でし道くさ」という嘉陵の文に、次のような、村尾正靖(嘉陵)を偲ぶ文を付けている。
此巻は正靖ぬしの作也。これを見て、懐旧の情堪えかねて、
「今も猶袖をしくれにぬらす哉 野山のにしきみるにつけても」
「残し置し人の心のからにしき いまも野山の末のもみち葉」
嘉永丁未紀元二月十日 由誼
嘉陵の紀行文を借りて読んだ人の中に、竪斎守興という人がいた。守興は写本という形で、嘉陵の紀行文を残したが、これが、「江戸叢書」所収の「嘉陵紀行」のもとになっている。竪斎守興は、写本の経緯について、次のように述べている。
この書は、嘉陵こと正靖、通称、村尾源右衛門の著作である。正靖は清水家付きの廣敷用人を勤めた人物である。嘉陵の人柄については、堀江氏の文を参照されたい。写本の図は、原本の上に紙を載せて写し取ったものではなく、おおよそ見たままに書いたものであり、多少の違いはあるかも知れない。原本は達筆で読み難い所も多いので、そのままに写し、強いて改めず、朱点を加えるか、朱書きするに留めている。
私は、去年仲秋の末より病に伏し、今年春が過ぎ、夏が去って、この秋のはじめには、少し回復したものの、完治するまでには至らず、全ての仕事を辞めて、引き籠っていた。退屈のあまり、この紀行文を読んだところ、労せずして、居ながらに遠い山水の地に遊び、或いは花を見、或いは古跡を訪ねる心地がした。この紀行文のことがずっと気になっていたのだが、何もせずに日を送るよりはと思い、七月の始めから時々、一枚二枚と写し始めた。そして、十月の半ばには五巻すべてを写し終えることが出来た。やらない方が益しのような事だったかも知れないが、ひとまず、こうして綴り置くことにしたのである。
「書き残すこの葉の花に今も猶 過ぎにし春に遊びこそすれ」
「写しつつ過ぎにし人の偲ばれて 面影さえに見る心地せり」
時 万延元年十二月書 於操園閑中 竪斎守興
(3)村尾正靖(嘉陵)について
村尾正靖、字(別名のこと)は伯恭、通称は源右衛門、嘉陵と号した(雅号)。徳川清水家に仕え、御広敷用人であった。生まれ年は、森銑三の説に従えば、宝暦十年(1760)であり、没年は天保十二年(1841)である。村尾正靖の先祖は、清和源氏、山名氏の枝流で、但馬を本国とする山名師氏である。その子孫は、代々周防の岩国に住んだが、師氏十二世の孫にあたる權右衛門誠正が江戸に出て清水家に仕え、村尾と名乗る。正靖はその孫にあたるようである。その人柄については、「嘉陵紀行」に収められた、大略次のような内容の、堀江誼の文により知ることができる。
村尾伯恭(嘉陵)は、細かい所まで手を抜かぬ人であったが、風流を解し、奥ゆかしい人物でもあった。また、右手には文を、左手には武をといった人でもある。仕事は多忙をきわめたが、少しの暇があれば、山水を訪ね歩き、多くの詩歌を詠んだ。その地に至れば、その概略を記し、あれこれ探し求め、調べもした。旅に出て触れたもの、間近に接したものは、あまりに多く、果てしがなかった。特に優れていたのは、いわゆる紀行文が一級品であったということであろう。かって、懇意にしていた若者が、その文を読んだ時、その美にひかれ、何年たっても忘れることなく、その内容が心に残っていたという。氏の跡継(嘉陵の子息)が主君に仕えるようになった頃、私もこの紀行文を借りてみたのだが、読み進むにつれて、険しい山の情景や、広々とした水の風景が、まざまざと浮かんできたものである。それは、あたかも、伯牙の琴の演奏を側で聞いた鍾子期が、その調べに魂も宙に飛ぶ思いだったという故事の如くであった。氏は霞挙雲揚の思想を有していたのであろう。その文章からは、綾や錦が乱れ散り、宝玉が迸り出でるようであったが、その一方で、すべてに考証を加えて、僅かな誤りも見逃さなかった。何事も見届け、一瞬しか見ない場合も、なおざりにはしなかった。惜しいことに、亡くなってから十四年、その骨は朽ちてしまっている。嘉陵の文章は今も残っているが、その文章を読み、共に肩を組んで、酒杯をあげ、詩歌を詠むことは、もうできないのだ。思えば、まことに惜しむべきことである。ここにおいて、感慨ますます切々たるものがある。そこで、死者へ贈る短い序文を作ってはみたが、伯恭(嘉陵)の霊が地下でこの事を知れば、ただ冷笑するだけかも知れない。
嘉永元年(1848)十一月 六十七歳翁 堀江誼
朝倉治彦編注「江戸近郊道しるべ」によると、嘉陵の著作には、「梅乃志乎理」「花月吟二百首」「嘉陵十種癸集・天文怪異」「嘉陵腹議」「嘉陵腹議余話」があるという。このうち「嘉陵腹議」は、宮本武蔵の二刀流について論じるなど兵法に関するものだが、兵法に関する書は他にもあったらしい。
嘉陵の居住地だが、子供の頃、すなわち親の代には、田村小路(港区西新橋2付近)に住んでいたことが、「八幡詣で」に記されている。文化四年の最初の紀行文「下総国府台、真間の道芝」には、浜町に住んでいることが記されているので、時期は不明だが、嘉陵の代には浜町に移り住んだのであろう。文化十四年の「半田いなり詣での記」で、出発地は浜町の家とあり、文政十一年の「千束の道しるべ」では、三番町の家が出発地になっているので、この間の何れかの時期に浜町から三番町に移住していたことになる。文政七年九月十二日の「藤稲荷に詣でし道くさ」の文中に、「さるは移りすめる所も」とあるので、文政七年には三番町に移住していたのではなかろうか。その場所だが、弘化五年(1848)の番町絵図で、田安御門の西側の場所(千代田区九段南3)に村尾栄蔵とあるのが、嘉陵の三番町の屋敷と考えられる。この絵図では、源右衛門から栄蔵に変更になった事が分かるが、源右衛門とは嘉陵の通称であり、栄蔵は嘉陵の子(養子か)である。屋敷は番町では小さい方だが、旗本の屋敷が並ぶ地域にあり、仕えていた清水家とも近いので、仕事上は好都合であったろう。
(4)参考文献
本稿を書くにあたって、次の資料を参考とさせていただきました。
「嘉陵紀行」(江戸叢書所収)、朝倉治彦編注「江戸近郊道しるべ」、阿部孝嗣訳「江戸近郊ウオーク」、森銑三「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」(森銑三著作集)、鶴ケ谷眞一「古人の風貌」、「徳川実紀」、「江戸名所図会(復刻)」、「広重の大江戸名所百景散歩」、「練馬の道」「六阿弥陀調査報告書」など郷土資料、「金王八幡神社社殿門調査報告書」「中野長者の寺・成願寺」など社寺関係の資料、「江戸切絵図集成」「江戸情報地図」等の江戸の絵図及び「東京都市地図」など地図類、今井金吾「今昔中山道独案内」及び「史跡散歩」を含む歴史関係資料、辞典類など。このほか、種々のホームページや、現地の説明板も参考にしました。