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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

30.花輪から盛岡へ

2008-09-06 21:36:08 | 巡見使の旅
 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、このさき岩手県に入ります。このあと、巡見使一行は、盛岡、花巻、水沢を通り、今泉[陸前高田]から、宮城県の気仙沼に向います。

(120)享保2年7月27日(1717年9月2日)、晴。
 花輪を出立。小豆沢の大日堂を参詣する。たふり(だんぶり)長者の持仏を本尊とする寺であり、神木の杉があったと記している。その先、一の渡橋を渡り、さらに天狗橋で米代川を渡る。川が深いため杭を立てられず、新光院地内から伐採した十三間の杉を渡し、横板の欄干を設けた橋という。この日の休憩地は湯瀬。冷湯で湯坪は二ヶ所、湯守は孫作、脇に湯滝ありと記す。その先、姉旗(兄畑)で立市橋を渡り、永坂(長坂)を通り、織壁橋を渡って、田山で泊まる。行程は六里である。

【参考】巡見使一行にとって、山間部での食事は口に合わなかったらしい。天明の巡見使に随行した古川古松軒によれば、御馳走として出された料理も、各々蓋を取らない日が続いていたという。また、焼味噌に茶漬けを好んでいたものの、それも自由にならなかったという。今なら郷土料理として喜ばれるものであっても、当時は食べ慣れないものとして敬遠されたのかも知れない。では、巡見使の口に合うものを他から持ち込んだらどうなるか。宝暦の巡見使一行が会津の山間部に泊まった時、会津若松から早馬で運んだ塩漬けの鯛を出したところ、巡見使が箸をつけないという事があった。実は、巡見使の心得の中に、その土地に無いものを他から運んで供してはならない、という一項があったのである。

(121)同年7月28日、曇。暁方雨降。
 田山からコヒト(越戸)坂、梨木坂を越え、曲田から荒屋に出る。その先、中佐井で休憩。土沢、馬場を経て、アツヒ川(安比川)を滝橋で渡り浄法寺に出る。村の西に浄法寺修理の古館ありと記す。宿泊地の記載は無いが、浄法寺とすれば五里半の行程である。

(122)同年7月29日、曇。
 この日は小山(御山)に出て、聖武天皇勅願寺の天台寺を参詣する。桂の下から湧く清水から桂清水村の名が付いたと記す。ここから一行は、かなくそ(金葛?)を経て、をとも(小友)川を渡り、あり坂、大多の台を経て小繋に出ている。なお、小繋近くに巡見使道と呼ばれる道が今も残っているようである。小繋で休憩し地蔵堂を参詣。ここからは奥州街道を行き、御堂の観音堂を参詣したあと、沼宮内で泊まる。行程は八里半である。
(注)御山の天台寺は瀬戸内寂聴が住職を務めていたことでも知られている。

(123)同年8月1日、雨天。
 沼宮内を出立。途中、柳のような枝垂れ松を見る。槙堀(巻堀)で金まら大明神に立ち寄る。その先、芋田から岩鷲山(岩手山)が見えてくる。渋民で休憩したあと、千本松のある松永坂を越える。植田(上田)では、くりや川の古館の森を遠望している。この日の行程は九里余、南部大膳大亮の城下、盛岡に泊まる。

【参考】天明の巡見使は9月10日に沼宮内から盛岡に向っているが、それより2カ月も前の7月1日、紀行家・民族学者の菅江真澄はこの辺りを通りかかり、巡見使を迎えるために駆り出された荒夫達が額に印を付けられて、石堀、草刈、木こり、枝うちをし、路造りをしている有様を見ている(菅江真澄全集1「いわてのやま」)。幕府は道・橋は通行できれば良いとしたが、藩では道筋の整備を巡見使を迎える際の役務と捉えていたのである。

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29.三戸から花輪へ

2008-09-02 19:50:11 | 巡見使の旅

 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、ここからは、秋田県の鹿角地方へと向かいます。なお、江戸時代の鹿角は盛岡藩領でした。

(117)享保2年7月24日(1717年8月30日)。
 三戸を出立。この日は奥州街道から分かれ、鹿角への道をたどる。一行は田子川を渡り、とい川(豊川?)、とない(斗内)を経て田子で休憩。ここに信濃守俊直の古館ありと記す。この日の行程は六里弱。関に泊まる。

【参考】天明の巡見使の一人が灸をすえるため線香を頼んだところ、だいぶ待たされた揚句に僧侶が来たという笑い話が「東遊雑記」に掲載されている。この辺では、死者がでた時にのみ線香を使うという慣習の違いがあったわけだが、江戸時代の長旅では、途中で死亡者が出る可能性がある事も示唆している。事実、天保9年(1838)の巡見使の一人、中根伝七郎は三戸で病に倒れ、盛岡に直行する途中で死去し、盛岡に埋葬されている。

(118)同年7月25日。
 関からハヌキ峠、平ノ坂の難所を上る。途中、大深沢、小深沢を見る。また、下ハゲ峠山について大和大峯に続く山と聞く。来満山に入ると両側の木が枝を伸ばして頭上を覆い昼なお暗い道となる。宝暦の巡見随行者の日記には、湿地で蛇が多く生息しているため、巡見の二三日前に駆除していたと書かれている。この日の休憩地は山中坂を下ったところの山中。仮小屋の休所があったという。休憩後、尻くひ坂、麻つなき坂、大登坂、石名坂と難所を過ぎ、大芝(大柴)峠、小芝(小柴)峠を越える。覚書には是より銅山みゆると書かれているので、途中、駕籠を止めて尾去沢方面を眺めたのであろう。この先、茶屋場を設けた大明神を過ぎれば、大湯への下りとなる。この日の行程は五里。大湯に泊まる。出湯は四箇所あり、湯主は助兵衛と左伝治と記す。また、古館跡見ゆると記す。

【参考】天保九年の巡見に際して、道路普請などに徴発された総延人数は一万千五百六十六人に達したという。また、大湯の宿割人数からすると、巡見使一行のほかに、盛岡藩の役人と下役人、医師と付添、荷物の持送などを含めて400人近くが通行したことになる。

(119)同年7月26日、晴。
 大湯を出立。下濱田の右方に、今は櫻場壱助蔵屋敷になっている毛馬内の城ありと記す。その先、古川では錦木塚を見る。ここで、錦木を売る男と細布を織る姫の物語を聞く。また、巡見使各々に細布一反が献上されたため、代金として一分宛支払っている。古川を出て、八つの古館が存在する、かぶにた(冠田?)を通り、新田(神田?)に出て、米白川(米代川)を船で渡り、紀国坂を越えて松山で休憩する。松山からは山道となり、あま木沢(尼切沢)に出る。是より右方に秋田領南部領境山みゆる、と記されているので、駕籠を止めて遠望したのであろう。このあと、十文字長根を経て尾去沢に下り、金山銅山の見分を行う。この日の行程は六里半、花輪に泊まる。

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28.田名部から三戸へ

2008-08-31 08:22:01 | 巡見使の旅

(113)享保2年7月20日(1717年8月26日)。
 田名部から青平(田屋)を経て下北半島を横断して小田ノ沢で休憩する。白糠を過ぎると岩道が十丁ほど続く難所となる。特に、ほっとあけという所は、海際の穴から上がる潮を避けて往来する大難所であったという。宿泊地の泊までは七里半の行程だが、前半は広大な原野をひたすら進み、後半は何も無き浜辺道をひたすら進むだけであった。「東遊雑記」は、この日のことを、“何のゆえに御巡見使は古よりもこの所の御通りはあることにやと、みなみなつぶやきしことにて”と書いている。

(114)同年7月21日。
 泊の海辺に諏訪明神の古社があったとし、また、とく崎に大波が打ち寄せていたという。泊から三里半、尾駮で休憩したあと、春鮭を取るという尾駮沼を歩いて渡る。その先、鮭を取るという高ほこ(鷹架)沼も歩いて渡る。この日の宿泊は平沼。ここに、鱒、平目、鮭を取る沼ありと記す。行程は五里半であった。

(115)同年7月22日、半晴。
 平沼を出立。蔵内(倉内)の沼(小川原湖)は船で渡る。根井で休憩。鷹を獲る場所四箇所ありと記す。沼の東側、木崎野という南北七里東西二里半の原を通り、三沢に出る。木崎野は馬の放牧地であり、三沢郷の野馬別当として助三郎の名を記している。その先、老羅瀬川(奥入瀬川)を藩提供の船で渡り、市川で泊まる。行程は九里ほどである。

(116)同年7月23日、晴。
 二十丁ほどの原を抜け、小田の毘沙門を参詣する。小田より先の梅内に南部信濃守利直の古館ありと記す。そのあと、間部地川(馬淵川)を百六間の橋で渡り、八戸で馬継(馬と人足の交代)。ここに南部宮内の陣屋があり、神明宮もあった。また、根城に八戸弥六の古館など十箇所ほどの古館ありと記す。ここから八幡に出て、社領千三百石の八幡宮を参詣し、数々の宝物を拝観する。八幡宮は八戸弥六の古館跡地で、釣鐘に永禄二年、八戸弥六の銘があったという。この日は釼吉で休憩し、名久井岳を望みつつ、寅戸(虎渡)を経て三戸に出て泊まる。三戸入口に南部氏の古館ありと記す。行程は七里である。

【参考】巡見使は案内役の名主などに随時質問を行ったが、藩の方では不都合な事が知られないよう、事前に想定問答集を作成して案内者に渡していた。この問答集に書かれていない事を聞かれたらどうなるか。「東遊雑記」には次のような話が載っている。馬好きの巡見使が馬について案内者に質問したが、何を聞いても知らないと言う。そこで、馬を指してあれは何かと聞いたところ、知らないと言う。側の者が大声で案内者を叱ったところ、懐中より覚書を取り出した。実は覚書に書かれていない事は知らないと答えよと役人から言われていたのだが、馬については書かれていなかったので、知らないと答えたと言うのである。藩は馬についての質問は無いと考えていたのか、それとも馬に関する質問には知らぬ存ぜぬで通そうとしたのだろうか。ちなみに、三戸に近い名久井岳の麓は住谷野という名馬の産地として知られた牧場で、巡見使もそれを承知の上で質問した筈である。

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27.青森から田名部へ

2008-08-27 19:58:36 | 巡見使の旅
 江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、その旅も青森県に入り、野辺地、田名部を経て三戸に向います。

(109)享保2年7月16日(1717年8月22日)、晴。
 青森では善知鳥神社を参詣する。この神社に関連して、時の将軍吉宗が、善知鳥という鳥に興味を示したことから、享保5年に善知鳥を捕まえ献上したという(「青森県史」)。青森から野辺地までは奥州街道を通行する。野内の番所、龍の鼻、浦島太郎伝説の浦島森、ざる石(笊石浦)を通り、出湯のある浅虫で休憩。湯の島、裸島、鴎島、茂浦ケ島、二子島や焼山(恐山)を見ながら進み、土屋の番所を通って小湊に泊まる。行程は六里半ほど。

(110)同年7月17日。
 沼楯(沼館)に明神社ありと記す。狩場沢で休憩したあと。津軽采女の留番所、南部大膳亮留番所を通り、馬門を経て、野辺地に出て泊まる。行程は四里余であった。

(111)同年7月18日、晴。
 巡見使の覚書は、野辺地村の内、千引明神についてふれ、いしふみ(石文)にあった石の精が、つぼ(坪)の女の所へ通ったという伝承を紹介している。日記役の記録では横浜村に泊まった翌日の日付で、“一里半程大山村、地引大明神あり”としており、食い違いがあるが、「東遊雑記」に、“千引明神の社あり、尾山村というも・・”という記述があり、かつ“古よりの御巡見所なり”と記してるので、享保の巡見使も野辺地の南にある、尾山の千曳神社に立ち寄ったのであろう。なお、「東遊雑記」では、坪村の石を千人で引いたという伝承について述べ、日本中央と記した坪の石文はこの地に埋っていると主張している。この石文は昭和24年に発見されているが、その真偽については論議があるようである。さて、巡見使一行は野辺地で奥州街道から分かれ、海沿いの道を有戸まで行き休憩。ここに五色の浜石ありと記す。この日の宿泊地は、大阪や肥前から船が着くという横浜である。尾山に立ち寄ったとすれば、行程は九里半ほどになる。

(112)同年7月19日、晴。
 横浜を出て、檜木の八幡宮を参詣する。源義家が安倍貞任追討の後、この地を訪れて石に八幡の梵字を書いたという由緒があり、この浜は源氏の浦とも称されていたという。境川を渡り、中野沢で休憩。安渡の釜伏山(釜臥山)の峠に正一位大明神があり、麓に出湯ありと聞いている。この日は町田名部に泊まる。行程は六里半余であった。

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26.松前から青森へ

2008-08-23 11:25:38 | 巡見使の旅

(105)享保2年7月12日(1717年8月18日)。
松前での巡視も終わり、あとは青森への渡海を待つだけとなるが、順風が吹かず、船を出せないため、この日は松前に逗留。巡見使へのお慰めとして、藩主の松前志摩守から出された品々を見て過ごす。

(106)同年7月13日。
 風待ちのため、この日も松前に逗留する。松前町内の寺社を見て回り一日を過ごす。

(107)同年7月14日。
 順風すなわち西風が吹く。渡海のため、津軽藩から提供された馬丸に、料理茶湯などを積み込む。一行は夜中に船に乗り込み、出航を待つ。

 ところで、享保の時は、風待ちの逗留が比較的短かくて済んだが、天明の巡見の時は松前での逗留が十二日間に及び、その間、一行の中に幕府の威光を傘に着て横暴の限りを尽くした者があったらしい(「福島町史」)。「此度の巡見、不埒の事多し」という話は幕府上層部の耳にも入ったようで、この時の巡見使が職を失うという事態になったという。

(108)同年7月15日。
 朝、松前を出航。順風を受け海上二十五里、二十四艘の船に出迎えられて、無事、青森に到着。供船が着いたのは八つ(午前二時)過ぎであった。湊から二丁離れた宿に泊まる。

 なお、宝暦の時は早朝松前を出航し亥の刻(午後10時)に青森着船となったが、天明の時は夜四つ(午後10時)に三馬屋に到着し、青森までは陸路を通っている。

【松前での巡見使の調査内容】

 今回、参考文献として用いた巡見使の覚書は、陸奥出羽松前の名所を記載した道中記であり、これとは別に、各藩の監察結果をまとめ幕府に提出した報告書があった筈である。その一端を示すものとして、松前蝦夷に関する報告内容を記したとされる、「松前蝦夷記」という資料がある。その内容だが、まず、松前藩主の居所福山館の概要と侍屋敷、足軽について記し、次に松前城下の町と寺社の数、東西在郷の村数、軒数、人数、宗門改めと切支丹について記している。次に、松前は米の収穫が無いので、それに代わるものとして鮭、数の子、昆布、薪、材木、雑穀について役料を納めさせていることを記している。松前は蝦夷地との交易で成り立っているが、各地から松前に交易のため到来する船の概況について記し、その際の役料について記している。また、幕府への献上品、特に鷹に関することについて記し、また、金の採掘に関すること、馬に関すること、土産品と産地に関すること、蝦夷人と通詞に関すること、など多岐に亘る調査報告になっている。一方、松前での案内人の質疑応答をまとめた「松前巡見使応答控」には、松前の町、社寺、在郷村数、番所、商所、鮭採取場、切支丹、金山、畑作、鷹、材木について記載されているが、「松前蝦夷記」の内容は、その範囲を越えているので、他からも情報を得ていたと思われる。

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25.松前東在郷の巡視

2008-08-19 22:09:12 | 巡見使の旅

(96)享保2年7月3日(1717年8月9日)。
 松前を出立、及部を通り大沢に出る。大沢川では鮭を取ると聴く。炭焼沢から難所の吉岡峠(をんなひ峠とも云う)を越え、松前伊豆守領分の吉岡で休憩する。その先、宮歌に松前八左衛門が蝦夷攻めの際に造営した八幡社を見る。そのあと、白符を通って福島に出て泊まる。行程は五里弱であった。ところで、古川古松軒は東在郷の巡視の途中、熊に襲われた人を追善するための卒塔婆を多く見かけたと書いている。東在郷においても、警固の者が一行に先行して熊を警戒しながら、巡視を続けたのである。

(97)同年7月4日、晴。
 福島を出立。福島川の先に蝦夷古館ありと記す。この先、四十八瀬川とも称された福島川沿いに進むが、この日渡った瀬の数は六十三あったという。さらに難所の茶屋峠を越え、市の渡しで休憩。沢際に小屋掛けの休所が設けられていた。ここからは知内川沿いの道となり、谷間に重なり合った山容の七つケ岳を見る。また、知内川に流入する、ちりちり川、はぎちゃり川を見る。この日の行程は六里半、知内に泊まる。

(98)同年7月5日、晴。
 知内を出立。知内川、もない川、中の川、いねない川を舟橋(舟を並べて板を掛けた橋)で渡る。木子内(木古内)で、をもう川と、さめ川を渡り、しゃかり(札刈)に出る。ここには蝦夷の家が三軒ありと記す。かうれい川、たしとろ川を渡り、泉沢、かまや、三石を経て、おおとうへつ川、とうへつ川を渡り、茂辺地に出て泊まる。行程は六里半である。

(99)同年7月6日、晴。
 茂辺地を出立。茂辺地川を渡る。左手に下国周防守の大館とその家来の小館ありと記す。また、やけ内に下国勘解由建立の天神宮ありとし、都の方になびく松の伝承を記す。そのあと、富川を経て戸切地川を渡り有川に出る。有川からは内浦岳(駒ケ岳)が見えてくる。巡見対象外の蝦夷地内の山ではあるが、その様子について話を聞いている。その先、七座浜(七重浜)から亀田に出る。ここから箱館(函館)は遠くないが、巡見地ではないため立ち寄らない。ただ、箱館には湊があること、河野加賀守の城址があることを聞くにとどまっている。この日は亀田に泊まる。五里半の行程であった。

(100)同年7月7日、晴。
 亀田を出立。出湯のある湯川を通る。林太郎左衛門の古館ありと記す。しのり浜から、松前巡見の東端にあたる黒岩に出る。黒岩まで二里半、ここで休憩となり、乙部と同様に蝦夷人が巡見使にお目見えする。クレマミ、ヲニシロ、アカシ、タヤラ、トルモ、シコワシ、ノヤク、ペリシ、クシハイ、大スミ、ハンシャク以上十一人である。終わって、巡見使一行は宿泊地に戻る。宿泊地の記述はないが、亀田であろう。

 宝暦と天明の巡見使は、亀田の手前の戸切地に宿泊し、黒岩まで往復している。「東遊雑記」によれば、往復十里の行程で戸切地に帰ったのは四つ(午後十時)頃になったが、深夜になって熊が馬を襲うという騒動が持ち上がったという。疲れているのに、夜も寝る間がなかったというわけだが、実は、宝暦の巡見使も戸切地で宿舎火災という災難に見舞われている(「福島町史」)。

(101)同年7月8日、記述はないが、往路と同じであれば茂辺地泊りである。

(102)同年7月9日、記述はないが、往路と同じであれば知内泊まりである。

(103)同年7月10日、記述はないが、往路と同じであれば福島泊りである。

(104)同年7月11日、松前町に帰り宿泊している。

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松前西在郷の巡視

2008-08-10 14:35:44 | 巡見使の旅
 松前藩は、米の産出量すなわち石高に裏付けられた土地の支配ではなく、蝦夷地交易の独占権によって支えられた特異な藩である。藩の支配域は北海道渡島半島の南端部であり、巡見使の監察対象もこの地域に限られ、他の蝦夷地は対象外であった。巡見使の経路は、はじめ、西在郷すなわち松前の西側を乙部まで巡視して松前に戻り、次に東在郷すなわち東側を黒岩まで行き松前に戻っていた。

(89)享保2年6月25日(1717年8月2日)、曇。
 松前福山を出立。町西でばくち石を見ている。また、海中に弁才天の島を見る。たて石野を通り、小島を見つつ折戸坂を下り折戸川を渡る。ねふた、さつまい(札前)、あまたれ石、熨斗の下を過ぎ、清部で小ケ持川(小鴨津川)、大ケ持川(大鴨津川)を渡る。この辺から海中に大島が見えてくる。この日は、江良にて泊まる。行程は五里弱であった。

(90)同年6月26日、晴。
 二越坂を越え、をこしえ(奥末)を経て原口で休憩。岩鼻に熊が出たので鉄砲で撃ち、その様子を巡見使も見る。蝦夷松前では熊による人的被害が多いため、松前藩から銃を持った警護の者が同行し、先行して警戒していたのである。この辺から前方に奥尻島が見えてくるが、道は上り下りの多い難所となる。この日の行程は六里余、石崎に泊まる。

(91)同年6月27日、晴。
 塩吹(汐吹)で観音堂と潮吹岩を見る。その先、滝沢に観音堂と滝を見る。小安在川、大安在川を渡って上之国で休憩。ここに、松前藩主の松前志摩守先祖、蠣崎伊豆守の古館があり、村末には毘沙門堂ありと記す。また、上之国の天下川(天の川)は献上品の鮭を取る故、この名があると聞く。椴川を渡り、この日は江差に泊まる。行程は六里余。江差に当地の神である姥神の宮ありと記す。

(92)同年6月28日、晴。
 つめき石、田沢を通り、厚沢部川を渡って乙部に出る。江差から三里、ここで休憩する。乙部では恒例により、藩役人に付き添われた蝦夷人が、庭前において巡見使に御目見えに出る。そのあと男女揃って踊り、また浜辺にて的を射るのを見る。セタナイ国のナヲ、オフレ。ヒトロ国のペシクシ、イワヒ五郎。ウスイシ国のシイアリ、ユウヘリコホ、ハイクホ、メナシクホ、シウクホの名を記す。巡見使一行は乙部から船で江差に戻り宿泊する。

(93)同年6月29日。
 日記役の記録はないが、石崎泊まりと思われる。

(94)同年7月1日。
 日記役の記録はないが、江良泊まりと思われる。

(95)同年7月2日。
 松前に帰着し宿泊。松前から乙部までの道は、風雨が激しい時は通行できなかった。実際、宝暦及び天明の巡見使一行は、帰途、悪天候のため江差に逗留している。享保2年の時は、悪天候ではなかったのか、途中の逗留は無かったようである。

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23.松前へ渡る

2008-08-03 08:19:51 | 巡見使の旅
 江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した旅を、連載形式で投稿しておりますが、一行はいよいよ北海道へ渡ります。 

(80)享保2年6月16日(1717年7月24日)。
 三馬屋(三厩)から松前まで海上十二里(注)。東風の時を選び、潮に逆らって船を松前に入れることになるが、容易ならざる渡海である。渡海できなかった巡見使はいなかったとはいえ、天和元年の第3回巡見使の時は、海上波浪のため三艘の船は別々の場所に到着し、その内の一艘は無人島に漂着したという(「新北海道史」)。航海の安全を期すためには、日和を十分見定めて出航する必要があり、結果として、風待ちのため何日も逗留することもあった。この日は、順風待ちのため三馬屋に逗留という事になった。

【注】享保の頃は、松前まで海上十二里としていたが、天明の頃になると、何故か海上七里と称するようになった。これを受けてか、街道細見でも七里としている。これに疑問を抱いた古川古松軒は、地元の人の話も聞いたうえで、十里に少し遠し、と書き記している。

(81)同年6月17日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(82)同年6月18日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(83)同年6月19日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(84)同年6月20日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(85)同年6月21日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(86)同年6月22日。風待ちのため三馬屋に逗留。

(87)同年6月23日。
 この日ようやく、順風すなわち東風となったため、五つ時(午前八時)、津軽藩から提供された馬丸という船に乗り込む。船は供舟を含めて三艘。茶湯料理菓子など色々積み込んでの出航である。タツヒの潮、中の潮、シラカミの潮、三箇所の難所を乗り切り、松前に無事到着。松前藩主が子息を連れて、御見舞いのため宿を訪問している。なお、巡見使の宿舎は、有馬の宿が下村勘解由の屋敷、小笠原の宿が松前主殿の屋敷、高城の宿は次郎兵衛であったと記されている。

【参考】出航から着船までの様子については、「東遊雑記」に詳細な記述があるが、ここでは、宝暦の巡見使随行者の日記により、航海の様子を示しておく。

 今朝順風との案内があり、辰の刻(午前八時)出帆。船は長柄二十筋、弓鉄砲で飾り立て立見付御門のごとく、幕を打回して御朱印を守護する構えである。船には、津軽藩から、船奉行その他の役人、医師、船頭、船子楫取数十人が乗り込んでいる。三馬屋の山の上から、御上使の出船を告げる狼煙があがり、これに答えて、松前の方からも、承知の合図に狼煙が上げられる。出航するも、狼煙が幽かにみえるだけで、松前の方は一向に見えない。タツヒの汐、中の汐、シラカミの汐の難所を過ぎ、羊の下刻(午後3時)松前福山に着船。

(88)同年6月24日。
 この日一日、松前に滞留。
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22.大館から三厩へ

2008-07-26 07:33:29 | 巡見使の旅
 当ブログでは、江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、この旅も秋田県から青森県に入り、弘前を経て油川で奥州街道に合流し、蝦夷地に渡るため三厩へと向かいます。 

(73)享保2年6月9日(1717年7月17日)、雨天。
 大館川(長木川)を船で渡る。八幡に古館ありとし、坂内(釈迦内?)にも古館ありと記す。萩長森を右に見て進み、白沢で馬継(馬と人足の交代)となる。寺ノ沢からは女神山・男神山を左に見る。その先、長走で秋田藩番所を過ぎる。陣場からは峠道となり杉峠(矢立峠)を越える。その先の矢立杉が秋田と津軽の境界となっていた。ここから湯沢に下り、津軽藩の関所を過ぎ、碇ガ関で泊まる。四里半の行程であった。

(74)同年6月10日、曇。
 碇ケ関を出てほどなく、唐牛に碇石を見る。昔、この辺は海辺だったという話を聞く。平ケ坂を進み、福島の橋を渡る。碇石の方向には、あはら山が見えている。ここから出湯が三ヶ所ある蔵館に出る。村末に大日堂があり、桂(宝暦の時は桂に萩が寄生していたので萩桂と称していた)の神木ありと記す。この日は大鰐で休憩。八幡楯、石川、津軽藩御休所のある小栗山を通り、弘前にて泊まる。七里の行程であった。途中、蔵館、大鰐、八幡楯、石川に古館ありと記す。

(75)同年6月11日、雨天。
 弘前を出立。東長町に東照大権現社ありと記す。撫牛子を通り藤崎に出て休憩。雨天ではあったが、途中で岩城山(岩木山)が見えたという。ところで、岩木判官正氏の子、安寿と厨子王がかどわかされて、丹後の山椒太夫に売られたという伝説があり、岩木山に厨子王を祭るが故に、丹後の人が津軽に来ると災いが生ずるという伝承があった。そこで、享保2年の巡見使が来たとき雨だったのは、巡見使一行の中に丹後の人が含まれていた為という事になったらしい(「五所原年表」)。天明の巡見使に随行した古川古松軒によれば、江戸において津軽藩の使者が巡見使のもとを訪ね、御供の中に丹後の人を含めないよう要請があったという。古川古松軒は、この件について、妄説なれど是非もなきこと、と述べている。この日の行程は四里半、浪岡に泊まる。

(76)同年6月12日、雨天。
 浪岡を出立。青森への道を分け、柳久保から外浜を眺めつつ津軽坂を下る。古館のある新城で休憩。岡町を過ぎる時、右手に青森を見る。この日の行程は五里半。油川に泊る。

(77)同年6月13日、晴。
 油川で奥州街道と合流し、海辺の道を進む。浜松を過ぎ、蓬田で休憩。広瀬からは砂浜の道となる。この日は蟹田に泊まる。五里半の行程であった。

(78)同年6月14日、晴。
 蟹田から右方に南部の山を見つつ進む。塩釜のある岩目沢を通り、外浜の最北端にあたる平館に出る。この近くの湯沢に出湯ありと聞く。この日の行程は四里弱、平館に泊まる。

(79)同年6月15日、曇。
 平館を出立。この辺から松前が見えてくる。その先、宇田には蝦夷の家が二軒あったと記す。ここでは、おんこ(一位)の木で半弓を作り矢先に毒を塗って熊を射るという話や、襟に掛ける袈裟のようなものについて木の皮で織るという話を聞いている。宇田からは岩の多い難所を通る。途中、千手観音を祀る岩穴を見、犬くくりの岩を抜ける。その先に塩釜があったという。この辺り、保路附(母衣月)の浜を舎利浜といい、をとめ石ありと記す。ヨモナイ浜を通って、今別で馬継(馬と人足の交代)し、三馬屋(三厩)に出る。村内に義経の馬屋の岩穴、甲岩ありと記す。この日の行程六里半。三馬屋に泊まる。

【参考】天明の巡見使は7月18日に三厩に到着しているが、その一週間前に三厩に着いた紀行家の菅江真澄によると、宿々は巡見使を迎える準備で忙しく、泊まるどころではなかったという(菅江真澄全集1「そとがはまづたい」)。江戸幕府は宿舎の修繕は無用、畳替えも無用としていたが、藩の側は、額面どおりには受け取らなかったのであろう。なお、この日、菅江真澄は三厩より先の上宇鉄の浦に泊って風待ちをし、巡見使が到着する以前の7月13日夕刻に乗船して、翌朝、松前に着いている。

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21.久保田[秋田]から大館へ

2008-07-18 19:52:18 | 巡見使の旅
(68)享保2年6月4日(1717年7月12日)、曇。
 久保田城下を出立。寺内の四王権現を参詣後、虻川に向かう。途中、中野と下刈の間に佐竹右京太夫の鷹場があり、北野原には天神宮の神馬が六十匹生息していると記す。一行は羽州街道を進み、景地の虻川で泊まる。五里半ほどの行程であった。途中の和泉(泉?)に白旗の城、川尾浄水古楯、岩舟?に新庄右衛門大輔の古館ありと記す。

(69)同年6月5日、曇。
 虻川から和田妹川を通り大川で舟渡し、一日市で休憩後、鹿渡を通り森岡[森岳]で泊まる。行程は六里半ほど。途中、和田妹川に鷲尾館という古館、鹿渡にも古館ありと記す。

(70)同年6月6日、晴。
 金光寺から羽州街道と分かれ、袖岡(外岡)を経て能代に向かう。途中、檜山城が見えたといい、城代は多賀谷彦太郎であると記す(檜山城は幕命で破却されていたので、居館に住んでいた)。この日の行程は四里半、大阪や江戸から船が出入りする能代で泊まる。

(71)同年6月7日、小雨。
 能代で朝鮮唐船遠見番所を見分したあと、鶴形から羽州街道をたどる。せりガ沢(芹川?)の作り坂という坂について、能代川沿いの道が欠損したため、山越えの道を作ったという話を聞いている。飛根で休憩したあと、切石の馬坂を越え、藩主提供の船により能代川(米代川)を渡り、比井野[二ツ井町]で泊まる。行程は五里である。途中、鶴形に佐竹六郎の茶臼館、長者長根に安佐利(浅利)与一の古館ありと記す。

(72)同年6月8日、雨天。
 荷揚場から船で十八丁、小綱木(小繋)に出て、七倉天神(七座神社)を参詣する。そのあと、芝子館のある今泉、高館のある棒沢(坊沢)を経て綴子で休憩する。ところで、巡見使は東南方に森吉山を望見し、その下の阿仁沢に銅山ありと記している。阿仁銅山は見分場所ではなかったが、その状況については案内者から話を聞いたようで、近年は山九つのうち、山五つは銅が出ず、残りの山四つから銅を出していると書き留めている。一行は、糠佐(糠沢?)、長坂、早口、岩瀬を通り、川口に出る。ここから、池田和泉守城址でもあった、たつこの森(達子森)が見えたという。また、麓の新田(二井田)に西木戸太郎塚ありと記す。西木戸太郎国衡は奥州藤原氏第四代・泰衡の兄で、阿津賀志山の合戦で源頼朝の軍勢と戦って敗れ、討ち死にしたとされる。一方、泰衡は平泉を脱出して二井田に逃れるが、郎党の裏切りにあって殺されたという。泰衡の塚のことを誤って西木戸太郎塚と称していたのだろうか。なお、泰衡の首級は頼朝のもとに届けられるが、後に中尊寺の僧により金色堂に収められている。さて、巡見使一行は、この先、持田(餅田)で大館川(長木川)を船で渡り、大館に出て泊まる。行程は八里であった。

【参考】天明の巡見使に随行した古川古松軒によれば、岩瀬に板場(伊多波)武助と称する豪家があったという。伊多波武助は伊勢の人で、この地で鉱山師として活躍し、晩年には功績を認められて武士に取り立てられている。享保の頃には、すでに阿仁鉱山で働いていた可能性もあるが、豪家を建てる程の身分ではなかったろう。

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