創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

しんぶん赤旗の戦い-13

2016-02-24 09:04:15 | Weblog

(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
               新日本出版社  800-  2000/3
    -------(P71)--以下、本文--
創価学会の選択 
◆つらぬかれた池田氏の指示
 一九九九年の七月二十四日、東京・杉並公会堂。政権入りを決めた公明党臨時党大会で、浜四津敏子代表代行がこう演説しました。
「私たち公明党が真正面から敢然と課題に取り組み、『日本の柱』にならなければならない、との深き自覚の上での決断であります」

◆「日本の柱」のスローガン
 後日、関西の地元に帰った大会代議員が「『日本の柱』の言葉に身がひきしまる思いだった」と報告しました。
「我、日本の柱とならん」
 佐渡に流された日蓮が書いた『開目抄』。その中に出てくる「三大誓願」の一つです。
 日蓮系教団の僧、信徒は、宗派を問わず、日蓮の遣文(御書)を熱心に学びます。苦難を乗りこえて仏教の真髄を伝えるとの決意をあらわした「三大誓願」は、とくに大切な教えの一つとされています。
 だが、浜四津氏が演説し、代議員の身をひきしめたのは、それだけの理由ではない。宗教ジャーナリストの乙骨正生氏が、こんなエピソードを紹介します。
 一九六二年七月、参院選挙で九人が全員当選し、院内第三勢力になった(注)。このとき池田大作会長(当時)が参院控室に足を運び、『記念樹』という絵を寄贈した。一本の杉が二本に枝分かれしているその絵の前で、池田氏は議員たちに「ただの絵と思ってはいけない。この杉のように日本(二本)の柱になれという意味だ」と、語った--。
「創価学会では、池田氏が御書(日蓮遺文)の最終的解釈者。池田氏の解釈によって今日的意義づけがされ、現実の課題になる」(乙骨氏)「日本の柱」もこうして、創価学会による“天下取り”のスローガン、とりわけ公明党議員にとっては、絶対至上の課題となりました。
(注)当時は「公明政治連盟」。この選挙後に院内会派「公明会」を結成。六四年に「公明党」結成。

◆政権入りへ誕生日の決断
 一月二日(九九年)は池田氏の誕生日。政権入りの最終決断はその時とされています。
 まもなく、公明党の政策大転換が始まります。そして、これに異を唱える沖縄青年部名の文書が国会議員に送られるなど、末端会員の疑問や不満も表面化。東京では逆に、一月までは「新ガイドライン関連法(戦争法)に反対する宗教者集会に出席していた学会青年部員らが、プツリと姿を見せなくなりました。
 そんな状況下の三月十日。創価学会全国県長会議で池田氏は、あらためてこう指導しました。
「創価学会こそ「日本の背骨」であり、『日本の柱』である」
 そして党大会一力月前。こんどは神崎武法公明党代表が「いよいよ日本の柱として、その責任を果たすべく新しい出発をする、それを決める党大会です」(「公明新聞」九九年六月二十七日付インタビュー〕。
 大会九日前。兵庫県の講演会で浜四津氏が「日本の柱とする時が来ている」……。池田氏が課した「日本の柱」、その「責任を果たす」という決断で押し切りました。
 創価学会の政治進出は一九五五年のいっせい地方選挙から。
「衆議院には出ません。なぜかならば、あくまで宗教団体ですから」(『会長講演集1』)
 池田氏は六四年五月、その前言をくつがえして衆院進出、政党結成を発表します。実は、「恩師戸田先生(二代会長)の時来たらば衆議院へも出よとのご遺訓があった」との理由で。
  今回--。神畸代表の「自民党の補完勢力になる気は全くありませんし、自民党との連立とか連携など全く考えていません」(「公明新聞」九八年七月十九日)という言明も、いともあっさりとくつがえされました。
 池田氏に、同氏を諫める文書を送ったことのある創価学会元副会長が、本紙記者にこう語ったことがあります。
「国立戒壇、王仏冥合、広宣流布……、言葉は違うが(天下取りという)本質は同じ。文化とか福祉とか平和は、残念ながら方便にされてしまった」
 方便--。仏教で、人を真の教えに導くための手段。転じて、目的のために利用する便宜的な手だて。「うそも方便」という語もあります。その立場から見れば、政策や路線をなぜクルクル変えることができるのかという疑問にも、答えが見えてきます。

◆教団の「現実」が政権人りを求めた
「教義の実現には政治の力が必要だ。そのために公明党を作ったわけですから。それは今でも変わらない」
 池田大作氏のオフレコ会見(前掲)には、こんな発言もありました。

衆議院進出へ池田氏が方針
 池田会長(当時)が政党結成を発表したのは、六四年五月三日の創価学会第二十七回総会。次の重要方針を同時発表しました。--
  ①日蓮正宗総本山の大石寺に正本堂を建立、寄進する。そのため三十億円の「御供養」を募る
②四百三十万世帯の会員を七年間で六百万にする
③「創価文化会館」を造る
④衆議院進出と政党結成。--
 ④の公明党はこの年の十一月に結党しました。
 ①の正本堂は予定の十倍をこす四百億円近くを集めて七二年に完成、憲法違反の批判をうけて取り下げた国立戒壇にかわる「民衆立戒壇」と位置づけ、大石寺の本尊もここに移しました。
 ③の「文化会館」はその後、全国各地に建築、非課税特権も利用した政教一体選挙の拠点になりました。
 --信仰課題と政治進出をセットにしてすすめる、「教義の実現のために公明党を作った」というオフレコ発言を裏づけています。
 国立戒壇論の取り下げ、公明党綱領や創価学会規則から「王仏冥合」の削除……。
 表面的な手直しをしながらも、「天下を取らない党ならやる必要はない」(池田氏=七六年一月)と、権力と結ぶ、権力を握るという戦略は一貫してきました。
 地方議会の多くで与党入りする一方、国政では細川内閣人りや新進党との合流を試みたけれど失敗。そしていま、自民党との連合による政権人りを選択しました。
「朝日新聞」元論説副主幹の北畠清泰氏(県立長崎シーポルト大学教授)は、創価学会が政治関与のしかたを決定する基準は「『理念』『理論」ではなく、教団運営の『現実』だろう」(『世界』九九年十一月増刊号)と指摘しています。
 政権入りを選択した「教団の現実」とは--。
“組織防衛”という見方もあります。今後、政権を奪還した自民党から池田国会喚問のような攻撃をかけられたとき、それに酎えられるのか。池田氏のようなカリスマ的指導力を望めないポスト池田体制を考えると……という事情です。

  ◆政権を握れば教団に“活力”
 何より切実なのは信仰と組織の「現実」。ジャーナリストの段勲氏は創価学会の現勢を「昨年(九八年)の参院選比例区票(七百七十万)からみて、二百五十万世帯五百万人」と推定します。池田氏がかって掲げた「六百万世帯」にも、ほど遠い。
 九一年、創価学会は「池田本仏論」など教義改変の疑いや盗聴、汚職といった不祥事が問われ、宗門(日蓮正宗)から破門されました。広宣流布のシンボルとされた正本堂も解体(九八年)。動揺して離脱する会員も少なくありません。
 そんな会員に広宣流布という信仰的確信を与えて活力を回復するためには「政権を握る」ことだ、という見方です。しかも「自民党の過半数割れという願ってもない条件が生まれ、“ここで貸しをつくっておけば”という読みも働いたのではないか」(段氏)。
 もっと身近な「現実」もあります。広宣流布(王仏冥合)とともに創価学会の教えの柱となっている現世利益(功徳)。これについて全日本仏教会総務部長の野生司祐宏氏が、所属の浄土真宗本願寺派の『宗報』九九年十月号にこう書いています。
「現世利益という宗教上の教義を、行政サ-ビスの利用で実現させるという手法が、学会を急速に膨張させた」
 キャスチンダボートを握った地方議会の議員の口きき、あっせんによる「行政サービス」の恩恵は、学会員にとっての「功徳」。「集票という内容の宗教活動の成果が、政治的利権という目に見える形で示される効用ははかり知れない」と野生司氏は指摘します。
 政権入りによる、そんな「現世利益」の国政化。「最悪の不況対策」と酷評された「地域振與券」では、創価学会施設の書籍コーナーが取り扱い事業者として登録され、会員が学会の本を買うことで、税金の宗教団体への還流と指摘(『週刊文春』九九年四月八日号など)される事態も生まれました。
 公明党が細川連立内閣に入閣した九三年八月、池田氏が創価学会員に向かつて語った言葉がよみがえります。
「テェジン(大臣)が誕生する。すごい時代に入った。みんな皆さんの部下だから」
       ---------(79P)-------つづく--

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しんぶん赤旗の戦い-12

2016-02-23 10:14:05 | Weblog

(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
               新日本出版社  800-  2000/3
    -------(P67)--以下、本文--
理想は「自公」  
◆田中角栄、池田大作両氏の奇妙な一致
 田中元首相が、創価学会,公明党について、思わず語つた本音--。
 口ツキード事件の一審有罪判決〔一九八三年)を受けながら百二十人もの軍団を抱え、なおも“闍将軍”などして君臨していた八四年九月十日午後、神奈川・箱根町で九年ぶりに開かれた田中派議員研修会。一時間半にわたる熱弁のなかで、元首相はこうまくしたてたものです

◆“お前たちは自民の一派だ”
「(公明党を)ワシはそう嫌いじやない。なぜかというと、間違っても共産主義者や社会主義者じやないからだッ。これ、宗教政党だもの。これは日蓮さんの一派だ。日蓮宗なんか、だいたい全部、自民党を推してくれてるでしよ。……創価学会にお世話になつてないだけだ。そうでしよ。しかし、創価学会だってね、公明党の候補者を出してないところは、ちゃ~んとやってくれてる所があるんですよ」「だから公明党の諸君にねえ、『お前たちは自民党の一派なんだよ』というと、怒るねぇ(笑い)。そんなに怒るな」
 顔を赤らめ、つばを飛ばしながら、自・創選挙協力にまで言及、得意満面の姿が目に浮かぶようです。さらに--。
「公明党は最終的にどうなるか。......ワシはこういうことをいったことがあるんだ。『おぃッ、これで憲法改正論が出たらどうするかい』。もちろん社共は反対だろう。……さあ、公明党はどっちいくかだ。……そのときに彼らが自民党と行動をともにするか、共産党を含む社会主義政党とともにするか。これが日本民族の岐路だ。どうだ諸君。私は、公明党が自民党と一緒になるものだという確信を持つものである。......これは命がけの発言だ」
 反共主義の共通の土壤に育つ特異な宗教政党を、憲法「改正」などの「日本の岐路」の際にとり込み、最大限に活用する--もはや多くを説明する必要もありません。
 一方の創価学会、公明党はどうか--。
 手元に、「池田大作・懇談概要」と題したワープロ打ちの七ページにおよぶ文書があります。国会でもその一部が議論され、週刊誌も取り上げたこの文書、日付が「H6・9・14」とあり、細川、羽田政権が崩壊し、九四年に「自社さ」の村山富市内閣が誕生してから約三力月後のこととみられます。場所は「於、信濃町の中華料理屋」と書かれており、
創価学会幹部御用達の「はくぶん」か--。
  文書は次いで「〔出席者〕学会側:池田名誉会長、秋谷会長、野崎、西口……」と七人の名が記され、「我が方:新聞・通信・NHKの9社」とあります。
 どうやら、池田氏とのオフレコの懇談内容を、報道側の出席者が終了直後に書き留めた備忘録--取材メモであるとみて間違いなさそうです。

◆「社共なんかとやれるか」
 本文は「Q&A」の問答形式になっていますが、その内容の一部--。
「Q:小沢という人物をどう思いますか」
「A:彼は少し性急だね。ものごとには待つべき時もあるのに、それを急いでしまうというのは、功を焦るからだろう。性格だろうね」
問題は、次のくだり。
「Q:自民党の候補を応援することもあるんですか」
「A:そうです。もともと、私の理想は『自公』なんです。国民はやはり自民党だと安心する。保守中道なんてスタンスはポーズで、やはり本質は保守なんですよ。社会党や共産党なんかと一緒にやれると思いますか。今なら自民、新生、公明というのが私にとってベストなんです。だから、その状況になれば自民党でも推しますよ。何の抵抗もない」
「理想」は「自公」であり「その状況」になれば自民党と組む、共産党などと組む気はさらさらない--これが池田氏の本音だったのです。それはまた、なんと田中元首相の話と共通することか。
 長い記録の残りの部分は、後に譲ることにします。この文書の内容の一部を報じた週刊誌記事について、創価学会の西口浩広報室長は、テレビ番組(「朝まで生テレビ」)で、「わたしも懇談会に出ていた」「自公がいいなどという話は一切ない」と全面否定。「記事については抗議した」と色をなして反論しました。ところが--。
 九六年に出版された本のなかで、西口氏は同じ問題について次のようにのべています。
「オフレコということは、(発言の)存在そのものを否定しているわけで、内容については、そうでなかったとは言えない」(『創価学会解剖』アエラ編集部刊)。
 懇談の際、報道側参加者は「テープレコーダーはもとより、メモもとらせないよう上着まで脱がされた」といいます。しかし創価学会側は、「現代の御本仏」たる池田氏の発言を一言もらさず記録・保存するのが慣例。創価学会がこれ以上、否定を続けるなら、保存している記録を、国民の前に公開してはいかがでしようか。

◆いまの連立は「架空の多数」
 自自公連立政権は、船出して一力月もたたないのに、早くも大揺れです(九九年十一月二日現在)。連立の「立役者」野中氏の官房長官退任にまつわる小溯派内のきしみ。「人柄の小渕」が組閣をめぐってひき起こした加藤派との深刻な確執。さらには“目玉”のはずの防衛政務次官の暴言と引責辞任....。これらはすべて、強引な自自公連立に起因する揺らぎです。
 自自公は、たしかに衆院定数五百のうち、三百五十七議席と実に七一・四%、参院も二百五十二のうち百四十一議席と五五・九%を占める巨大連立。けれども、単純にみて衆院与党のうち五十二 (公明・改革)プラス三十九(自由)の九十一議席は、「反自民」を掲げた新進党(その後解党)で得た議席です。同じく参院も二十四(公)プラス十二 (自由)の三十六議席は「反自民」で得た議席なのです。
 連立はいわば、主権者たる国民の意思をゆがめた「架空の多数」に過ぎません。
 一刻も早い解散・総選挙で、主権者の真の審判を--これが国民の声です。
       ---------(71P)-------つづく--

 

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しんぶん赤旗の戦い-11

2016-02-22 05:54:26 | Weblog

(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
               新日本出版社  800-  2000/3
    -------(P58)--以下、本文--

池田氏の新年会発言 
◆否定できない“創価学会主導”
 一九九九年一月二日、東京・八王子市にある富士美術館で、公明党幹部も出席して開かれた創価学会の幹部新年会。
 池田大作名誉会長の誕生日に当たるこの日は、以前から、学会・公明党幹部が「P献金」と呼ばれる多額の“祝い金”を持参、新年のあいさつを聞くのが習わしでした。
 公明党がこの年の出席予定者に配った「ご案内」と題した文書があります。
「1月2日9時30分から45分までに」美術館前の「創美レストランの入口」に集合し、「5階の会議室で待機」せよなどの指示。午前十時半の開会予定が「早まる可能性」があるとも書かれており、池田氏の登場を全参加者が緊張して待つ姿が目に浮かびます。
 ジャーナリストの二木啓孝氏は、この会合の開係者から、次のような話を聞いたといいます。

◆市川雄一氏を名指しして……
「新年のあいさつの後、池田名誉会長が市川雄一(元公明党書記長、元新進党政務会長)を名指しして『君にはだまされた。小沢一郎と組めば政権がとれるといったじやないか。 小選挙区なんてのはだめだ。ちゃんとやってくれ』という内容の話をした。市川は顔を真っ赤にし、他の議員も自分たちが怒られたと感じた」
 テレビ番組(テレビ朝日系「朝まで生テレビ」九九年九月二十四日)で、創価学会広報室長とも激しい論争になったこの池田発言について、二木氏はいいます。
「池田氏の発言には、三つのメッセージがあったと参加者は受け止めた。一つは、本当に政権をとれということ。二つはそのためには野党でなく、自民党と組め、ということ。三つ目は小選挙区から中選挙区制にしろ、ということ。 創価学会と自民党の水面下の接触は続いてきたが、池田氏が衆参の国会議員の前で公然と号令をかけたことで、公明党の急転換が始まったとみると、この間の経緯がよくわかる」
 この直後の政界での“夜の動き”を、先に見た「毎日新聞」連載はこう描写しています。
「今年(九九年)1月13日夜。東京・赤坂の料理屋に野中氏、古賀誠自民党国対委員長、神崎氏、冬柴鉄三公明党幹事長らが顔をそろえた。自自連立の協議が決着し、連立政権が発足する前夜の宴だった。
『自自連立ができたが、ほとほと疲れた。本当にやりたいのは自公なんだ』と野中氏はしみじみ語った。神崎氏らは……『約束どおりクッションを作った。早く(自公)連立に向けての党内調整をしてほしい』とのメッセージだと受け取った。公明党内でも、政治路線をめぐる深刻な議論が始まった」(九九年七月二十五日付)
  時期といい、場所、顔触れといい、自自連立の陰で、公明党への働きかけが、いかに深く進行していたかがうかがえます。
  こうして、表舞台での、小渕首相の訪米中の自自公連携発言(九九年五月二日)、秋谷学会会長の「自民との連携も選択肢の一つ」との発言(「聖教新聞」九九年六月八日付)、自公党首会談での連立参加の公式要請(九九年七月七日)をへて、公明党は九九年七月二十四日の臨時党大会で、連立参加を正式に決定します。                   
 この間、まだ連立政権が発足もしていないのに、自自公三党により、戦争法、「国旗・国歌」法などの悪法が、国会でのまともな審議もなしに、つぎつぎとゴリ押しされてきたことは、まだ記憶に鮮やかです。
 自公(自自公)連立で、公明党がやっきになって喧伝している問題の一つに「連立参加」は「党が決断」したのであり、「創価学会主導説は一部マスコミの『誤報』」(「公明新聞」九九年九月三日付など)だとのいい分があります。

◆真の支配者を竹下氏も熟知
 しかし、「毎日新聞」が報道した竹下-秋谷会談といい、池田氏の新年会での発言といい、公明党の主張は、どこからみても成り立ちません。
 加えていうなら、九九年七月七日の自自公党首会談の直前に、小渕首相みずからが秋谷学会会長と密談していた、との週刊誌報道(『週刊現代』九九年九月四日号)もあります。
 先国会の会期末、衆院の定数削減問題で自由党が態度を硬化、「連立離脱」をいいだした際も、小沢党首の足が向いた先は公明党ではなく、やはり創価学会--秋谷氏でした(「小沢氏、秋谷創価学会会長と会談」=「毎日新聞」九九年八月五日付)。
 これら数々の事実は、何より公明党を「必要」とする相手自身が、この特異な政党の真の支配者がだれであり、どこをおさえれば事が進むかを熟知していることを示しています。
 そして、それを最も知る人物こそ、いまは病床にありながら、「闇将軍」田中元首相の下で身につけた周到な根回しで“子飼い”の小渕氏を総理の座につけ、中曽根元首相、亀井自民党政調会長らの支持も得て、陰で自自公連立誕生の舞台回し役を演じ、政界に隠然たる力を保持する竹下登氏その人です。
 しかも、竹下氏にすれば、秋谷氏といえども単なるパイプ役--代理人にすぎないことは、いうまでもありません。

  禁じ手破った自民 
◆動機は“数の力”と反共
 竹下元首相が一九九八年「春先」に、決定的に重要な会談をしている、との小渕首相周辺からの情報があります。
 九八年「春先」といえば、たしかに奇妙な動きがありました。
◆突然の謝罪劇政権絡みか……
 自民党機関紙「自由新報」(現「自由民主」)が九六年一月から翌年十月まで、評論家の俵孝太郎、内藤国夫(故人)両氏の執筆で連載した「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」。そのうち、池田名誉会長にかかわる係争中の女性スキャンダルを取り上げた四回分について、自民党が、創価学会からの抗議申し人れを全面的に受け入れ、九八年四月、突然、謝罪したのです。
 自公両党機関紙と「聖教新聞」は、それを大々的に報道。創価学会は、池田氏も出席した九八年四月二十日の本部幹部会(東京・八王子)で、秋谷会長が経過を報告。橋本龍太郎首相(当時)らから「お世話になりました。名誉会長にもよろしく」との電話があったなどと紹介し、その模様は、全国のおもな学会施設に衛星中継されました。これを「あらかじめ連絡を受けた衆参の公明系議員らが、神妙に見入った」といいます。
 突然の謝罪劇に、反創価学会の宗教団体を支持基盤にする自民党議員らは猛反発。政界には「学会と太いパイプを持つ野中が、橋本から竹下まで根回ししてやらせた“歴史的な手打ち式”」「自民の狙いはもっと深く、社民党が参院選を前に政権離脱をいいだしたなか、政権絡みだ」などとの観測が流れたものです。
 この謝罪劇が「春先」にあったとされる竹下氏の「重要会談」と、何らかの関係があるのか--。九八年春出版された『佐藤栄作日記』第二卷に、「池田大作会長と六時半に会ふ。夜食を共にしながら約三時間ばかり話して別れる。公明党との協力関係出来るか」(六六年一月八日分)との記述が登場。
 それを事前に紹介した「朝日新聞」報道を受け、「聖教新聞」(九七年十月五日付)が、佐藤-池田会談の模様を一面から三面まで使い大々的に再現してみせた後の動きだけに、見過ごせません。
 これまで見てきたように、自自公連立は、国民の予想を超える周到な準備と、政界深部での不透明なうごめきのなかで生み落とされたものです。いま隠されている事実も、時の流れとともに、かならずや光が当てられていくでしょう。
 ところで--。
 これまで自民党は、創価学会・公明党を事あるごとに利用しながらも、この政党と政権を共にすることは決してありませんでした。創価学会・公明党とある意味では命をかけてたたかい、九九年七月、六十二歳で亡くなった評論家の内藤国夫氏(元「毎日新聞」記者で言論出版妨害事件の被害本『公明党の素顔」の著者)などは、「ー部の派閥が手を握ったとしても、自民党が全体として創価学会・公明党と組むことは絶対にない。自公政権などあり得ない」と語るのが常でした。
 けれども、自民党は今回、みずから禁じてきたことをついに破りました。
 その直接の動機は、宮沢内閣を最後に九三年以来、自民党単独政権が困難になるなか、参院選での深刻な過半数割れが直。揺らぐ政権基盤の立て直しを緊急に迫られたことです。同時にそれは、裏を返せば、「日本改革論」を掲げ、唯一の革新野党として選挙のたびに国民の支持を広げる日本共産党を、何とかして封じ込めようとのねらい-反共・封じ込め戦略でもあります。

◆自民党政権の“反共の先兵”
 創価学会・公明党は、その特異な教義から、かっては共産主義を「憎悪の哲学」と呼び、日本共産党を、仏道修行の妨げとなる“障魔”のうちでも最も悪質な「天魔」呼ばわりし、「撲滅」の対象にしてきた勢力。そればかりか、自分から会談を申し入れ、「ファシズムの攻撃」から「相互に守りあう」などを内容とした共・創協定(七四年十二月調印。
 翌年七月公表)を結んだのに、発表直後から秋谷現会長らが死文化を画策。竹人義勝公明党委員長(当時)にいたっては、「共産党は、軍国主義的全体主義とは形を変えた全体主義政党でないと言い切れない」「この十年間、日本共産党とは血みどろの戦いを続けてきたし、後も全力をあげて戦う」とまで言い切った歴史を持っています。
  その意味では、政権党にとって彼らは、単なる「数の力」を超えた、かっこうの“反共の先兵”なのです。
 今回の連立の過程でも、野中氏ら自民党首脳は、創価学会・公明党幹部に「野党共闘までならいいが、その先、共産党と政権を組めるのか」と、何度も決断を迫ったといわれます。他方、迫られた学会・公明党も、参院選で「共産党に、議席とともにとくに比例票で追い抜かれたことが、七二年総選挙で(曰本共産党に)野党第二党の座を奪われた以上の銜を受け、強烈な反共意識にー気に火がついた」(新聞記者出身の政治評論家)といいます。
 こうした反共・自公(創)連立の源流は、どこにあるのか。少しふり返ってみることにしましょう。
 自民党田中派と創価学会・公明党とのただならない関係の始まり。それが六九年暮れに表面化した言論出版妨害事件の際、当時の田中角栄自民党幹事長が、評論家・藤原弘達氏(故人)を東京・赤坂の料亭に呼び出し、同会を批判した『創価学会を斬る』の出版を思いとどまるよう圧力をかけた--田中氏いうところの「おせっかいをやい」た件にあることは、広く知られています。
 その田中元首相が、創価学会・公明党について、思わず本音を語ったことがあります。
       ---------(66P)-------つづく--

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しんぶん赤旗の戦い-10

2016-02-21 08:38:08 | Weblog

(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
               新日本出版社  800-  2000/3
    -------(P52)--以下、本文--

 自自の陰で自公工作    
◆竹下・小渕派人脈フル稼働
 額賀防衛庁長官への、戦後初の問責決議可決。
「首相の女房役たる野中(官房長官=当時)は、たとえ(参院)本会議に上程されても公明が賛成せず、可決はないとの読みだった。それだけに、驚きと怒りはかなりのものだった」(旧竹下派議員)
 参院選での自民党過半数割れが生み出した政権党の悲哀……。このころも、公明の表向きの態度は、「反自民」だったようです。
 野中氏らの政局安定を目指した工作は、まずは自由党とり込みに注がれます。
「小沢一郎・自由党党首)さんにひれ伏してでも、協力をお願いしたい」。かっては小沢氏を「悪魔」「国を売る人」と呼び、旧田中・竹下派同士で骨肉の争いをくり広げてきた野中氏の大変身でした。

◆小沢氏と和解地ならし実行
 自自連立政権は九八年十一月十九日の小渕・小沢会談により、合意となります。小沢氏と自民党の連携は、故・金丸信同党副総裁が東京・佐川急便事件で突然失脚、小沢氏が自民党を飛び出して以来七年ぶり。額賀氏が防衛庁長官を辞任したのは、その翌日のことでした。
 実はその陰で、二週間ほど前の九八年十一月一日、竹下氏と小沢氏が、二人だけで密会していました。小沢氏はその模様を「政治の話はそんなにしなかった」「久しぶりに二人で酒を飲んだこと自体で、だいたいお互いにわかるということかな」(「産経新聞」九九年四月二日付)と話しています。
 竹下氏は、「話ができる」とつぶやいた二人のうち、姻戚関係にありながら、長い間、反目してきた小沢氏とは和解し、連立へ向けた地ならしを実行に移していたわけです。
 「クッション」とともに、「本命」への工作も始まつていました。
 自自連立の動きの陰で、進行する公明党への働きかけ。その一つの表面化が、いわゆる「商品券」問題でした。
 参院選で、日本共産党が景気浮揚策の柱として「消費税の三%への引き下げ」案を打ち出すと、それに対抗して公明が持ち出し、大きな争点の一つとなったのが「商品券」構想。
 多くの専門家が効果を疑問視し、「天下の愚策」との酷評さえありました。
 ところが、選挙が終わってしばらくたつと、とくに野中官房長官、参院自民党幹部らが「商品券の検討」をいいだし、ついには「地域振興券」と名称を変え、小渕内閣の手で九九年春から実施に。公明党はいっせい地方選でも、“「実績」の目玉”として大々的に宣伝し、あげくに自作自演の反共デマの材料にまでしました。 その合意のいきさつ--。
「政府・自民党内で商品券構想を引っ張つてきたのは、過半数割れで国会運営に苦しむ参院側だ。……「自自」では参院の過半数には届かないため『すぐに連立とか閣外協力にはならなくても、自自公は絶対に必要』(幹部)という事情が最後は優先した」(「朝日新聞」九八年十一月十一日付)
 宮沢蔵相が当初、「一種の政治の枠組み、手の握り方によって考えなければならないことかも」とのべていた言葉が、すべてを物語っています。

◆激しさ増したとり込み工作
 このころには、旧田中派以来の人脈を生かした竹下、小渕側近による水面下での公明党とり込み工作が、いよいよ激しさを増していました。その中心が野中官房長官、青木幹雄参院幹事長(現官房長官)ら。
 青木氏は「口の固さと人柄」が売り物で、小沢自由党党首から創価学会・公明党にまで幅広い人脈を持つ元竹下秘書。野中氏はといえば、京都府議、副知事時代の人脈を生かし、京都市長選(九六年二月)、倉敷市長選(同五月)、岡山県知事選(同十月)などで、一足早く「反共・自(竹下、小渕)創(公)選挙連合」を組み、その実績で、選挙をとり仕切る自民党幹事長代理から、首相の女房役・官房長官にまで一気にのしあがった人物で野中氏は、地元の上田栄吉郎創価学会京都総合長、同会の関西責任者・西口良三副会長(総関西長)らと“親交”を重ね、さらには藤井富雄公明代表(当時)ら公明党幹部とも太いパイプを培ってきました。また、小渕首相自身、秋谷同会会長とは早稲田大学の同窓で、「しきりに電話をかけ、働きかけた」(首相担当記者)といいます。
 それらを裏で束ね、みずからも動いていたのは、小渕派オーナーであり、首相の「後見人」を自任する竹下氏その人でした。
 ところで--。九八年十一月七日、新公明党(神崎武法代表)が四年半ぶりに再結党されます。その公明党が自公(自自公)連立へ向けて明らかな変化を見せるのは、年が開けた一月末ごろから。
「選挙制度(衆院小選挙区比例代表並立制)を定数三の中選挙区制にすべき」「そのためには自民との連携が必要だ」。そんな声が、同党幹部から公然と聞かれるようになつたのです。
 こうした変化の陰に、注目すべき一つの出来事がありました。
       ---------(57P)-------つづく--

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しんぶん赤旗の戦い-09

2016-02-20 05:41:38 | Weblog

(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
               新日本出版社  800-  2000/3

    -------(P47)--以下、本文--

  第二部 自自公連立の軌跡をみる
◆ 竹下元首相のつぶやき
「小沢君とも、秋谷会長とも話ができるわなぁ」
「もし自由民主党が過半数の議席を失うというようなことになつた場合、公明党に手をさしのべてこれとの連立によって圧倒的多数の政権を構成するならば、そのときは、日本の保守独裁体制が明らかにファシズムへのワンステップを踏みだすときではないか」
 創価学会・公明党の言論出版妨害と命をかけてたたかい、一九九九年三月、七十七歳で没した政治評論家・藤原弘達氏が、約三十年前に発した警告(『創価学会を斬る』)です。
 九九年十月五日、鳴り物入りで発足した自自公連立政権(小渕第二次改造内閣)は、実に衆院議席の七一・四%(参院は五五・九%)を占める文字通りの「圧倒的多数」。しかも、すでに政権発足前から、戦争法(ガイドライン法)、盗聴法、「国旗・国歌」法など自民党単独では不可能だつたファッショ的悪法をつぎつぎに強行成立させてきた経緯をみるなら、藤原氏の警告が決して過去のものでなく、いよいよ重みを増しているといえます。
「大政翼賛会ばりの巨大与党」(「朝曰新聞」早野透編集委員)との指摘さえある自自公連立政権は、どのようにして成立したのか。その軌跡をたどってみましょう。

◆「数は力」の“政治哲学”で
 九八年七月の参院選で自民党が惨敗。橋本龍太郎首相の進退が問題になると、小渕派オーナーで小渕氏の「後見人」を任じる元首相竹下登氏は、こうのべました。
「それ(橋本退陣)が武士だわな」
 この一言で、首相退陣が决定的になり、自民党は新総理候補を選ぶための総裁選へ。
“秘蔵っ子”小渕氏を何としても政権の座に--これが、現在「変形性脊椎症」の病名で都内の病院に人院、加療中の竹下氏のだれはばかることのない悲願でした。
 --田中角栄元首相ゆずりの「数は力」の“政治哲学”で自民党内は押さえきれる。しかし、問題は参院の深刻な過半数割れ。衆院も総選挙後の「一本釣り」でかろうじて多数を保っているだけ……。周辺のそんな不安をよそに、竹下氏は側近の古参議員らに、ポソッとつぶやいたといいます。
「まあ、小沢君(一郎・自由党党首)とは、話ができるわなぁ」
「創価学会の秋谷(栄之助)会長とも、話ができるわなぁ」
 竹下氏のこのつぶやきこそ、自自公連立へのスタートを告げる号砲そのものだったのです。側近らの動きもあわただしくなる--。
それからほほ一年。九九年七月二十五日付「毎日新聞」朝刊は、一面トップで次のように報じました。
「自自は『クッション』」「本命は自公 昨夏にシナリオ竹下氏、秋谷創価学会会長と会談」
(「巨大与党検証『自自公』」連載①)
 それによると--。九八年年八月中旬、竹下-秋谷会談が山梨・河口湖にある「共通の友人の別荘」でおこなわれ、竹下氏が公明党の小渕首相への協力を要請。「参院で大幅過半数割れ」した自民党は「新たな政権の枠組みづくり」を迫られ、「創価学会側も敵対する共産党が参院選で躍進したことに危機感を募らせ……要請を受け入れた」。
 会談は自民の「公明党に対する本格的な働き掛けの皮切りとなった」。
  神崎武法公明党代表は野中広務官房長官に「それ(自公連立)にはクッションが必要だ」と「メッセージを投げかけた」報道が事実なら、竹下氏は側近へのつぶやきを、すかさず実行に移していたことになります。

◆訂正や謝罪 紙面になし
 これについて、創価学会側は表向きは沈黙したまま。代わりに公明党の冬柴鉄三幹事長が「秋谷・竹下会談そのものがなかったということを、学会側関係者は明確にされています」「そこから始まったという会談そのものがなかった以上、学会が(連立を)主導したという話自体、なりたたない」(「公明新聞」九九年九月三日付)と全面否定しています。これほど重大問題なのに、創価学会の態度はどうしたことか--。
 一方、「毎日新聞」の現在までの紙面を見る限り、この報道についての訂正や謝罪をした形跡は、一切見当たりません。
 ところで、政治の表舞台の動きはどうだったのか。
 参院選後の九八年七月三十日、小渕氏が戦後二十五番目の首相に選出されます。その際、参院では野党が結束、決選投票で菅直人民主党代表を首相に指名しましたが、公明(後に公明党)も同調しています。
 政界が、にわかにあわただしさを増すのは、大手銀行を国民の血税で救済する「金融国会」と呼ばれたこの国会が、終盤を迎えたころ。参院本会議(九八年十月十六日)で、“小渕派のプリンス”額賀福志郎防衛庁長官の問責決議案が、公明もふくむ野党の賛成で可決されたのです。
 閣僚の問責決議が可決されたのは、戦後初めてのことでした。
       ---------(52P)-------つづく--

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