(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
新日本出版社 800- 2000/3
-------(P71)--以下、本文--
創価学会の選択
◆つらぬかれた池田氏の指示
一九九九年の七月二十四日、東京・杉並公会堂。政権入りを決めた公明党臨時党大会で、浜四津敏子代表代行がこう演説しました。
「私たち公明党が真正面から敢然と課題に取り組み、『日本の柱』にならなければならない、との深き自覚の上での決断であります」
◆「日本の柱」のスローガン
後日、関西の地元に帰った大会代議員が「『日本の柱』の言葉に身がひきしまる思いだった」と報告しました。
「我、日本の柱とならん」
佐渡に流された日蓮が書いた『開目抄』。その中に出てくる「三大誓願」の一つです。
日蓮系教団の僧、信徒は、宗派を問わず、日蓮の遣文(御書)を熱心に学びます。苦難を乗りこえて仏教の真髄を伝えるとの決意をあらわした「三大誓願」は、とくに大切な教えの一つとされています。
だが、浜四津氏が演説し、代議員の身をひきしめたのは、それだけの理由ではない。宗教ジャーナリストの乙骨正生氏が、こんなエピソードを紹介します。
一九六二年七月、参院選挙で九人が全員当選し、院内第三勢力になった(注)。このとき池田大作会長(当時)が参院控室に足を運び、『記念樹』という絵を寄贈した。一本の杉が二本に枝分かれしているその絵の前で、池田氏は議員たちに「ただの絵と思ってはいけない。この杉のように日本(二本)の柱になれという意味だ」と、語った--。
「創価学会では、池田氏が御書(日蓮遺文)の最終的解釈者。池田氏の解釈によって今日的意義づけがされ、現実の課題になる」(乙骨氏)「日本の柱」もこうして、創価学会による“天下取り”のスローガン、とりわけ公明党議員にとっては、絶対至上の課題となりました。
(注)当時は「公明政治連盟」。この選挙後に院内会派「公明会」を結成。六四年に「公明党」結成。
◆政権入りへ誕生日の決断
一月二日(九九年)は池田氏の誕生日。政権入りの最終決断はその時とされています。
まもなく、公明党の政策大転換が始まります。そして、これに異を唱える沖縄青年部名の文書が国会議員に送られるなど、末端会員の疑問や不満も表面化。東京では逆に、一月までは「新ガイドライン関連法(戦争法)に反対する宗教者集会に出席していた学会青年部員らが、プツリと姿を見せなくなりました。
そんな状況下の三月十日。創価学会全国県長会議で池田氏は、あらためてこう指導しました。
「創価学会こそ「日本の背骨」であり、『日本の柱』である」
そして党大会一力月前。こんどは神崎武法公明党代表が「いよいよ日本の柱として、その責任を果たすべく新しい出発をする、それを決める党大会です」(「公明新聞」九九年六月二十七日付インタビュー〕。
大会九日前。兵庫県の講演会で浜四津氏が「日本の柱とする時が来ている」……。池田氏が課した「日本の柱」、その「責任を果たす」という決断で押し切りました。
創価学会の政治進出は一九五五年のいっせい地方選挙から。
「衆議院には出ません。なぜかならば、あくまで宗教団体ですから」(『会長講演集1』)
池田氏は六四年五月、その前言をくつがえして衆院進出、政党結成を発表します。実は、「恩師戸田先生(二代会長)の時来たらば衆議院へも出よとのご遺訓があった」との理由で。
今回--。神畸代表の「自民党の補完勢力になる気は全くありませんし、自民党との連立とか連携など全く考えていません」(「公明新聞」九八年七月十九日)という言明も、いともあっさりとくつがえされました。
池田氏に、同氏を諫める文書を送ったことのある創価学会元副会長が、本紙記者にこう語ったことがあります。
「国立戒壇、王仏冥合、広宣流布……、言葉は違うが(天下取りという)本質は同じ。文化とか福祉とか平和は、残念ながら方便にされてしまった」
方便--。仏教で、人を真の教えに導くための手段。転じて、目的のために利用する便宜的な手だて。「うそも方便」という語もあります。その立場から見れば、政策や路線をなぜクルクル変えることができるのかという疑問にも、答えが見えてきます。
◆教団の「現実」が政権人りを求めた
「教義の実現には政治の力が必要だ。そのために公明党を作ったわけですから。それは今でも変わらない」
池田大作氏のオフレコ会見(前掲)には、こんな発言もありました。
◆衆議院進出へ池田氏が方針
池田会長(当時)が政党結成を発表したのは、六四年五月三日の創価学会第二十七回総会。次の重要方針を同時発表しました。--
①日蓮正宗総本山の大石寺に正本堂を建立、寄進する。そのため三十億円の「御供養」を募る
②四百三十万世帯の会員を七年間で六百万にする
③「創価文化会館」を造る
④衆議院進出と政党結成。--
④の公明党はこの年の十一月に結党しました。
①の正本堂は予定の十倍をこす四百億円近くを集めて七二年に完成、憲法違反の批判をうけて取り下げた国立戒壇にかわる「民衆立戒壇」と位置づけ、大石寺の本尊もここに移しました。
③の「文化会館」はその後、全国各地に建築、非課税特権も利用した政教一体選挙の拠点になりました。
--信仰課題と政治進出をセットにしてすすめる、「教義の実現のために公明党を作った」というオフレコ発言を裏づけています。
国立戒壇論の取り下げ、公明党綱領や創価学会規則から「王仏冥合」の削除……。
表面的な手直しをしながらも、「天下を取らない党ならやる必要はない」(池田氏=七六年一月)と、権力と結ぶ、権力を握るという戦略は一貫してきました。
地方議会の多くで与党入りする一方、国政では細川内閣人りや新進党との合流を試みたけれど失敗。そしていま、自民党との連合による政権人りを選択しました。
「朝日新聞」元論説副主幹の北畠清泰氏(県立長崎シーポルト大学教授)は、創価学会が政治関与のしかたを決定する基準は「『理念』『理論」ではなく、教団運営の『現実』だろう」(『世界』九九年十一月増刊号)と指摘しています。
政権入りを選択した「教団の現実」とは--。
“組織防衛”という見方もあります。今後、政権を奪還した自民党から池田国会喚問のような攻撃をかけられたとき、それに酎えられるのか。池田氏のようなカリスマ的指導力を望めないポスト池田体制を考えると……という事情です。
◆政権を握れば教団に“活力”
何より切実なのは信仰と組織の「現実」。ジャーナリストの段勲氏は創価学会の現勢を「昨年(九八年)の参院選比例区票(七百七十万)からみて、二百五十万世帯五百万人」と推定します。池田氏がかって掲げた「六百万世帯」にも、ほど遠い。
九一年、創価学会は「池田本仏論」など教義改変の疑いや盗聴、汚職といった不祥事が問われ、宗門(日蓮正宗)から破門されました。広宣流布のシンボルとされた正本堂も解体(九八年)。動揺して離脱する会員も少なくありません。
そんな会員に広宣流布という信仰的確信を与えて活力を回復するためには「政権を握る」ことだ、という見方です。しかも「自民党の過半数割れという願ってもない条件が生まれ、“ここで貸しをつくっておけば”という読みも働いたのではないか」(段氏)。
もっと身近な「現実」もあります。広宣流布(王仏冥合)とともに創価学会の教えの柱となっている現世利益(功徳)。これについて全日本仏教会総務部長の野生司祐宏氏が、所属の浄土真宗本願寺派の『宗報』九九年十月号にこう書いています。
「現世利益という宗教上の教義を、行政サ-ビスの利用で実現させるという手法が、学会を急速に膨張させた」
キャスチンダボートを握った地方議会の議員の口きき、あっせんによる「行政サービス」の恩恵は、学会員にとっての「功徳」。「集票という内容の宗教活動の成果が、政治的利権という目に見える形で示される効用ははかり知れない」と野生司氏は指摘します。
政権入りによる、そんな「現世利益」の国政化。「最悪の不況対策」と酷評された「地域振與券」では、創価学会施設の書籍コーナーが取り扱い事業者として登録され、会員が学会の本を買うことで、税金の宗教団体への還流と指摘(『週刊文春』九九年四月八日号など)される事態も生まれました。
公明党が細川連立内閣に入閣した九三年八月、池田氏が創価学会員に向かつて語った言葉がよみがえります。
「テェジン(大臣)が誕生する。すごい時代に入った。みんな皆さんの部下だから」
---------(79P)-------つづく--