創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-28

2017-07-31 07:32:27 | Weblog

この日本をどうする-2
    創価学会を斬る (=昭和45年) 藤原弘達著  日新報道出版部
 ------(215P)---(以下、本文)-------

既成労組は無視戦術
 いうまでもなく、こうした創価学会の新労組結成の方針に対しては、労働界からさっそくさまざまな批判がでている。それは「未組織労働者を結集するというが、果たして可能か」、「既成労組との関係をどう調整するのか」と半ば創価学会の組織能力を疑い、半ば自分の組織を侵されることを恐れての批判なのである。
 たとえば、労働界の総本山・総評では「民主労働協議会は、労働団体とはいえないし、組織化などはおそらく出来ないだろう。」といういい方をしており、
 同盟では--
「同盟の中にも約二十万人ぐらい創価学会員がいるのではないかと思われるが、その人達が全部、公明党のつくる労組に参加するかどうかは疑わしい。したがって特にこれといった対策は考えてない。」
 というような表現をしている。その受け取り方は割合い楽観的なようだが、その背後には「たとえ組織化ができても、それはかえつて労働組織からの疎外をまねくだけではあるまいか」という常識的な考えがあるようである。
 それにしても、わが国の雇用労働者三千一百四十八万人のうち、総評、同盟などに組織されているのはほぽー千八十六万人で全体の三四パーセントにすぎず〈一九六八年)、約三分の二の二千万人は未組織であるから、組織する余地はまだまだ十分あるわけである。学会の組織能力からすれば、総評、同盟が楽観視するほど甘くはない、ということもいえるわけで、学会のねらうところには、たしかに既成労組の弱点があり、一つの大衆網拡大の盲点があるといえる。
 ただ、こういう未組織労働者層は、総評、同盟といった組織からもれた、まさに「落ち穂」的存在として散在しているだけに、その組織化はおそらく困難をきわめることであろう。しかし、これまでの創価学会の組織づくりのやり方でいくならば、総評、同盟に対抗する労働組合組織をそれなりにつくることも不可能でないかもしれない。
 ただそれが労働組合組織といえるかどうか、これについては議論の余地があろう。

自民党顔負けの公明党後援会組織づくリ
 個人後援会の組織づくりは自民党の専売特許であり、これが派閥をつくると同時に、政党の規律をみだしており、大いに問題があるものとして批判されているが、この個人後援会づくりを公明党もいよいよやりだしたようである。労働組合もつくれば何でもつくる。組織づくりのためにはハレンチにも何でもやるといっても過言ではないかもしれない。
 もっとも、「王仏冥合」の実践からすれば、「国民の二分の一の支持」をうることも必要だから、そのためには手段を選ばないということなのかもしれない。これまでの公明党に対する支持はほぼ創価学会員に限られ、会員以外の支持にほとんどえられなかった。そればかりか、むしろ会員外の人を敵にまわすようなかたくななやり方をやってきたために敵のみ多くなり、学会員外を味方にするということは実質的に不可能に近かった。こういうことでは議員の大量当選は不可能であることを悟ったか、せっせと自民党顔まけの後援会づくりを手がけ、会員外からも広く支持をえようとしてきている。これは自民党の“マネ”である。良い“マネ”か悪い“マネ”かは別として、ここに公明党の性格がよく現われているといえよう。見方によれば、こうでもしなければ一般有権者からほとんどというより、一票も獲得できなくなりつつあるということかもしれない。後援会をつくることによって地域住民との連繋を強め、彼等の利益も考え、なんらかの同調、共鳴を求め、かくして創価学会・公明党と一般有権者との距離をちぢめ、いわば一種の同質化をはかろうとするものである。学会員の獲得をするとともに、公明党の支持者獲得のために駒をすすめてきたということであり、ある意味においては正学会員でないもののシンパサイザー化をねらってきたわけである。裏をかえせば、このことは創価学会員、信者獲得の伸び率が鈍化してきたために、新らしい手段による拡大策を考えてきたとみられよう。
 しかし公明党の後援会なるものは、自民党、社会党のそれとははなはだニュアンスが違うようである。自民党、社会党の場合はまさに個人の後援会であるが、公明党の場合は選挙戦にみられるように、あくまでも党を中心として組織づくりが行なわれているわけで、個人よりも党の支持層拡大が主眼である。その意味においては共産党と非常に類似している特色をもっている。

 ところで話をかえて、ここで共産党との一面における類似性、そして他面における異質性によって生じている問題を少し述べておこう。共産党とは前述のように一面では類似性があり、そのため選挙戦ともなると、末端においては衝突不祥事件とでもいえるものをたびたび起こしている。犬猿の仲の公明党-共産党の“サルカニ合戦”は、まことに賑やかな様相を呈している。
 今回の都議達(一九六九年)でも、お互いに“ビラ”のハギトリ合戦をやっているし、中傷とパクリと陰謀という、低劣きわまりない手段を弄したとお互に誹謗しあっている。しかし、それ自体一種のなれあいだ、という説もある。その根拠として、公明党と共産党の張り合う選挙区は、必ずといっていいほど両党の地盤の固まっていない脆弱なところでだということが指摘されている。したがって、そこで張り合えば張り合うだけ両党の地番が固定化し、ともに自党の団結を固め、運動員をひきしめる。ハッスルさせるために張り合わせる戦術をとっているのだという見方があるわけだ。
 このことは日本の選挙戦の末端における実質的な競合としてじゅうぶん考えられるが、そのことが事実かどうかはともかくとして、そうしたことがいろいろといわれるほど、公明党と共産党の合戦は激烈をきわめているということである。これは両党の支持層が社会の底辺に存在するということと、他面において表面上の幾つかの類似にもかかわらず、基本的には同質の違いがあるためといえるだろう。

 その違いとは何かというと、一方の公明党は宗教政党であり、他方の共産党は「宗教は阿片である」というマルクスの言葉を信奉する宗教否定政党であるということである。公明党がいくら唯心論と唯物論とを弁証法的に止揚して、「新らしい理念だ」といっても、結局は一種の精神主義をかざす宗教政党にほかならず、共産党にいわせれば、まさに資本主義的イデオロギーのプロパガンダ政党ということになる。だからギリギリの点では異質のものなのである。その意味において、末端における公明党と共産党の“サルカニ合戦”のような争いは理論闘争というよりも、究極点における違和感からくる争いといえよう。そこでは物理的な力で押しまくる以外にはないということになろう。これが暴力不祥事件すらも発生させかねない背景になっているわけである。
 もっともこのような両党のエネルギーは、それなりにたいしたものだという見方もできる。
 もしこれが政策論争として生かされていけばスジも通ろうというものだが、「王仏冥合」をたてにとる公明党と、「マルクス主義」を金科玉条とする共産党とでは政策論争をする共通の場がないといえる。
 ともあれ、創価学会・公明党は会員の伸びの鈍化とともに、一方では共産党的細胞から、他方では自民党的個人後援会の組織にいたる方法まで多角的に使うことにより、党勢拡大の新らしい波をつくろうと必死になっていることは、それなりに注目する必要があろう。
       ---------(221P)-------つづく--

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創価学会を斬る-27

2017-07-30 07:27:20 | Weblog

この日本をどうする-2
    創価学会を斬る (=昭和45年) 藤原弘達著  日新報道出版部
 ------(209P)---(以下、本文)-------

7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
◆ 新労組結成にふみきる
 こうした創価学会限界説に対抗するかのように、創価学会による新らしい組織づくりが最近とみに活発なようである。新らしい労働組合をつくろうとしていることも、その一つであろう。
 創価学会の労働者対策、ことに未組織労働者対策は、学会が創立されるとともにはじまっている。つまり底辺の「落ち穂拾い」であったといえるわけである。したがって、労組結成も予想されないことではなかったが、創価学会が新らしく労働運動の組織化に乗り出したことは、社会党や労働運動界にそれなりのショックを与えたことは否定できない。すでに労働組合と創価学会の争いは十年前の炭労事件、近藤紡績事件などにみられるように、労組内の学会員、さらにはその支持政党をめぐって発生しているからである。
 たとえば十年前の炭労事件では、参院選のとき、組合の推薦した候補者を学会員が支持せず、学会推薦の侯補者に投票したわけであるが、これに対し組合側は「信仰をやめろとか」「分裂をまねくようなことはやめろ」といった具合いに学会員にねじこんだ。創価学会にしてみれば、その勢力を拡大するうえでは、労働組合であろうが、資本家側であろうが、中産階級であろうが、その対象はどれでもいいのであり、これを折伏し、既成の組織をくいちらしていくことが必要であったわけで、当然のこととして衝突が発生したわけである。

 現在においては、そういう事件を繰り返すより、「創価学会系の労働組合をつくってしまえ」というのが今回の新労組結成の基本的な発想のようである。そこには支持層の新らしい拡大という意図があることはいうまでもないし、日本における労働組合運動の頭打ち傾向に対する一つの反撃要因をもっていることも否定できない。つまりもっと「落ち穂」を大量に拾うことをねらったものであり、そのためには新労組結成のほうがより有効だというように判断したためにほかならない。
 こういう構想がいちおう表面化したのは、一九六七年十一月に行なわれた学会青年部総会における池田会長の発言からであるといわれている。彼はこの総会で労組結成の意図を次のように述べている。
「社会党における総評、民社党における同盟のごとく、公明党においても、その支持団体として、組合組織をつくってほしいとの要望、機運が全面的に高まっております。大衆福祉をめざして進む公明党が、真実の労働者の味方として、この要望を国政に、地方政治に具現していくのは、当然の理であります。
 真実の労働者の声を反映するためには、理想的な組合をつくらなければならない。それが時代の趨勢であることも、私はよく知っております。今日まで労働者は、むしろ既成政党の党利党略に利用されてきたという、多くの声も聞かれる。また、これまでの組合組織が、いたずらに大衆と遊離し、圧力団体のごとき存在と成り下がっているということもいわれている。私はここで、公明党にも、その支持母体である労働組合の組織をつくることを、検討し始めたならばどうかと、諸君に提案申し上げるものであります。」(西島久著『公明党』による)

 以上のような池田会長の提案は、例によって例のごとく、万場一致の拍手のうちに了承されたわけである。
 池田会長は松本清張との対談(『文芸春秋』一九六八年二月号)でも「未組織労慟者の組合をつくり、なおそういう小さい企業の経営者とも、共存共栄できるような方式を実行していくつもりです。」
 と、今度の労組結成が、主として未組織労働者の結集にポイントをおいていることを明らかにしている。そして従来の組合と対決するためのものではなく、いわんや労働者全全体の団結をくずすものでもなく、あくまでも第三勢力としての組合として行動するのだということを強調している。
 また松本清張の--
「公明党労組の結成そのものに対しても労働者への裏切り行為だ、という声があがってくる。」という発言に対して、池田会長は--
「そんなことをいうこと自体が労働貴族のセクショナリズムであり、エリート化ではないですか。もっと幅広く真に労働者が何を欲しているかを知るべきです。いまのままの労働組合でよいと思っている人が幾人いるでしょうか。私どもはいじめられどおしだったから、やむにやまれず立ちあがった、というのが真相なんですよ。
 日本の労働組合でも政党でも、あくまで大衆庶民のためになれぱいいではないですか。ほんとうに民衆がよくなれば、公明党がどうなってもかまわない。共産党でも民社党でもいい。民衆の方が大事だ。
 労働者が主義主張のため、一部の者の利益のために利用されたりするのはわたしたちのいちばん忌み嫌うことです。」
 と、例によって民衆福祉優先をとなえて、いちおうの反論を展開している。
 さらに政党支持については、「労働組合を作っても、あくまでもそれを公明党支持の機関にしてはいけない、と思っている。どこの労働者ともケンカをしてはいけない。自分たちの利益のために手を結ぶべきだ、政党支持は別問題だ。」と、言明している。
 こうした池田会長の言葉を整理してみると、創価学会・公明党のめざす労働組合組織はだいたい次のような性格のものとなりそうである。
 一、未組織労働者をもって新労働組合を結成する。
 一、あくまでも経済闘争を中心にし、政党支持は憲法の精神にしたがい各自の自覚にまかせる。
 一、一部の利益のためではなく、大衆庶民のために行動する。
 そして、この組織団体の名称としては、すでに「日本民主労働協議会」(仮称)という名があげられている。
 しかし、このように「民主主義」の名をつけ、きわめて大衆福祉に忠実であるかのような発言をしているけれども、問題は政党支持という一点のみでも、果たして池田会長のいうようなことが守られるかどうか、これまでの創価学会・公明党のやり方を見ているかぎり、まさにマユツバものといわなければならない。いくら、池田会長が政党支持を憲法の精神にしたがつて各自の自覚にまかせるといっても、まずはそうはならないといわざるをえない。
 もちろん未組織労働者は学会の会員とはかぎらないだろうが、創価学会・公明党の性格からして、やがて折伏によって入信することは、ほぽ間違いないといえるだろう。入信した労働組合組織員に、果たして民主的な政党支持の自由が残されているか、いったいそうした余地があるのかどうか、まことに疑わしいかぎりといわなければならない。

 新労組結成構想は、政党支持というやっかいな問題において、既成労働組合の立場と学会員の立場の間のいざこざから起こってきたわけであり、その意味において、これは明らかに公明党支持団体となるべく、そしてその背後には創価学会がひかえるという体制の一環として構想されていることは疑いない。と同時に、その背景には創価学会の、いうならば組織としての伸びなやみ、公明党としての支持層の伸びなやみ等々が考えられたうえで、新らしい組織づくりがはじめられようとしているといえよう。
 総評や同盟系の労働組合が、選挙のたびに社会党なり民社党を支持するように「日本民主労働協議会」においては公明党を支持することになるのは、おそらく自然のなりゆきとなるであろう。彼等のいうような政党支持の自由がどれだけ守られるかということについては、問題にすることさえ、まことにバカバカしい感じなのである。池田会長をはじめとする創価学会・公明党幹部の「われわれのつくる労働組合は、経済闘争を根幹とし、政治とは無縁てあり、したがって政党支持は自由」というようないいまわしかた自体、まことに創価学会・公明党のもつ虚言癖の典型的な現われといわなければなるまい。

 まさに“ウソつき会長”“ウソツキ幹部”の典型的な“日和見主義”的発言であり、表面だけごまかしておけばそれですむというおざなりな態度を示すものである。
 むしろこの問題については「御本尊である日蓮を信じ、創価学会の教義に忠実であり、公明党の政策を支持し、そして労働組合としては民主労働協議会の組織員として行動し、従来の労働組合ではできなかったことをする」というように堂々と主張したほうがすつきりするのではないだろうか。「公明党によってつくられる労働組合組織は、公明党の新らしい思想の拡大であり、新らしい労働関係の樹立である」といったほうが支持する側もすっきりしょうというものである。
 いたずらに美辞麗句をならぺ、まやかしをやるということは、これまでも池田大作会長によっていくたびもなされてきたものだが、こういういいまわしでけっこう世間に通ると考えているところに大きな甘さがある、といえるだろう。
       ---------(215P)-------つづく--

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創価学会を斬る-26

2017-07-29 09:11:46 | Weblog

この日本をどうする-2
    創価学会を斬る (=昭和45年) 藤原弘達著  日新報道出版部
 ------(199P)---(以下、本文)-------

第三部 展望--その危険なる未来
6 創価学会はどこまで伸びるか
◆ 飛び交う限界説を分析する
 創価学会は巨大なる集団である。
 市民社会の健全性は、家族にせよ、職能集団にせよ、それぞれが一種のセルフ・コントロールの能力を持ち、人間関係のバランスを保つことによって成り立つといえる。ところが創価学会の場合は、宗教と政治の使いわけによって、真一文字に権力への道をつっ走るアンビシャスな人間集団であり、そうした方向にむかって、巨大なる大衆層が動員されている。
 創価学会は現在でもすでにマンモス組織といえるが、果たしてこれから先、どこまで伸びていくのか、どこまでその数が増えていくのか、これが現在の実力以上に多くの関心を集め、その未来への展望が一つの脅威を与え、それが巧みに利用されているといえる。いったい創価学会はどうなるのか。もとより創価学会の限界説もチラホラでている。創価学会は、戦後の異常な社会の変動や精神的空白、その後における選挙戦術の巧妙さや大衆動員等を通じて、たしかに他の新興宗教に類例をみないほどに伸びてきた。しかし、それにしてもそろそろ飽和点にきたのではないか、こういう説が限界説としてでてきているのである。この限界説が強く表面にでたのは一九六五年の参議院選挙のときであった。
 何故、そういうことがいわれたかといえば、
 第一には岩手、宮城、福井、香川、高知、福岡、長崎の七県で、参院選全国区における得票数が減少した点
 第二は一世帯当りの得票数が、選挙を重ねるごとに減少し、ついに一九六五年の参院選では一世帯一票を割ったという点
 第三は同じ年の参院選地方区で、新らたに候補者を立てた愛知、兵庫、福岡で敗れた点
 で、これは学会の票読みが正確さを欠くようになってきた現われではないかとみられた。
 これらは同時に公明党を支えている創価学会の下からの力のハリが失なわれてきた証拠ともみられた。
 もっとも、これらに対して一九六八年七月の参院選では、全国区は六百六十五万六千票で九名、地方区は二百六十三万二千票で四名の当選者をだし、あわせて十三名の当選者をだしていることは否定できない。(票数は百票以下切り捨て、以下同じ)
 しかし、全国区における一世帯当りの得票数は、一九五六年の第四回参院選の二票に対し、六八年の選挙では前回(一九六五年)同様に一票弱へと半減しているのだ。これらをどうみるか。学会員であって他党を支持するものがいることを物語るものではなかろうか。それでもなおかつ多くの当選者をだしているのは、票を有効に配分しているからといえよう。

 ちなみに、一九六八年の参院選全国区での得票率は一五・四パーセントであったが、当選者は全体の一七・六パーセントにおよんでいる。
 次に、東京都の場合をみるなら、東京都知事選挙(一九六七年四月一五日)における得票数の問題がある。公明党の候補者・阿部憲一は、当初いくら少なく見積っても八十万票は固いといわれたものであるが、いざフタをあけてみると、六十万一千票と二年前の参院選東京地方区の六十万票と同じ結果であり、伸びをみせなかった。
 また、東京の区議選では自信満々に百八十名の当選を豪語していたが、これまたフタをあけてみると、前回選挙より十二名減って百二十四名という後退ぶりであった。そして、四年前の選挙で獲得した「区議会議員総数で第二党」という座を再び社会党にあけ渡したのである。
 次いで、一九六八年の参院選東京地方区は都知事における阿部憲一の宣伝がきいて八十三万一千票をとったが、全国区における東京都での得票数は七十四万一千票で前回より九万四千票伸びているもののこれは有権者増も考えなければならず、得票率では一・ーパーセント後退している。一九六九年七月の都議選では、当選者こそ前回の二十三名から二十五名へと増えているが、得票数は七十八万四千票と変わりばえのしない成績であった。
 こうした起伏のある現象から、種々の説がでてくることも当然であり、それを前提にして公明党は反論をブチはじめた。そこでは次のようなことがいわれている。
「十年も前から創価学会限界説を聞かされ続けてきた。しかし、結果はどうだったか。この十年、飛躍的発展の一途だったではないか。」
「全国の公明党議員の大量進出を見よ。いずれも民社党を抜き、第三党の地位にのしあがったではないか。」
「結党以来わずか数年たらずで、これだけ目ざましい成長を遂げた政党がいまだかってあっただろうか。」
 というような調子である。盛んに限界説を打消しているわけである。

議席は増えたが伸張率は鈍化した
 では事実はどうなのか。公明党は選挙に強く、議席数を着実にふやしていることはたしかである。一九六四年の公明党結成時は衆参地方議員(衆議院はゼロ)総勢で千百二名であったが、一九六九年五月三十日現在では総議員数二千八十九名となり、ほぽ倍増していることはたしかなところである。
 だが、学会の伸張率がにぶってきていることもまた反面の事実なのである。十年ほど前のように毎年五割増というような急ビッチでいけば、日本全土がそれこそすぐにでも学会員によって覆われてしまうことになろう。小企業から中企業、中企業から大企業へというプロセスを経て、大企業になればそれだけ伸び率がにぶるように、創価学会も大企業なみにマンモス化することにより、伸び率がにぶるのは自然な傾向といわなければならないだろう。それでは、もう学会はこれ以上伸びないのかどうか、さらには頭打ちになり、そこから一種の減少がはじまるとみるべきかどうか、その点に関しては多くの議論の余地があるとみなければならない。
 学会は、これまで、親類、縁者、知人という線をたどって同郷、同窓、同一職場といった関係等々の地縁的、血縁的つながりを地盤としてフルに利用してきたが、こういうやりかたは生命保険の勧誘員のやり方ときわめて似ており、あるところまで入会させてしまうと、そろそろ限界が近づいてくるといえる。
 また、衆参両院に進出したことによって、既成政党を刺激し、創価学会の進出をくいとめるいわば反創価学会運動とでもいえるものが展開されることもほぼ間違いないし、既成宗教、創価学会以外の新興宗教のそれなりの創価学会に対する巻き返しが強められてくることも間違いないであろう。そういうところから創価学会の無人の野をゆくような伸びかたも一つの大きなカベにぶつかるのではなかろうかという見方もでてくる。

 これに対して池田会長は「昭和五十四年(一九七九年)には一千万世帯、六十五年(一九九〇年)には一千五百万世帯にする」と述べている。その時は公明党が第一党となる時である。
 約二十年で、日本の約半数が学会員となるという構想なのである。
 問題は池田大作会長のいうようなことが果たして「可能かどうか、それを検討することにあろう。
 学会員は、あたかも保険会社の外交員が契約高のグラフを書いて競争するように、折伏の競争をしている。そして外交員の成績が良好だと、係長とか課長とかのポストを与えられたり、金銭的に報いられたりするように、会員の場合も折伏の成績が良好だと、次第に上級のポストが与えられるシステムになっている。このようにして会員を剌激しハッスルさせているわけだが、いくら会員がハッスルしても、どうしょうもないカベにぶつかるのは、そう遠くはないのではないか。

 既述のように私はかって民主主義の「落ち穂拾い」と評したけれども、現在は落ち穂拾いの段階からまさに「ドプさらい」に移行しており、すべてをさらって何も残らないという日が日本社会の底辺にくるのではないかと考える。いかに既成政党、既成宗教が望落しているとはいえ、国民の半数が精神的ないし経済的デクラッセであるとは考えられない。また公明党のようなまことに不明瞭きわまる曖昧なる政策に対して、心ある国民の半数が共鳴するとはとても考えられない。まだ伸びる余地があるとすれば農村地帯であろうが、そこは、かって社会党がねらった票田地帯・大都市とはちがい、まさに過疎化傾向にあるわけで、そろそろ処女地帯としての農村も折伏対象としては、それほど魅力のある肥沃地帯ではなくなっている。
 問題は、一種の偽装入信がでてくるのではないか、ということである。「公明党の素顔」を書いた毎日新聞社会部の記者、内藤国夫は「創価学会、公明党のやり方こそ、もっともハレンチな資本主義の恥部を示すものである。」
 という表現をある座談会で私にしていたが、まさにそういうハレンチな資本主義的金もうけや、目的のためには手段を選ばないマキアベリスティックなやり方に目をつけ、国会議員の地位がほしいとかなんとか、そういう連中が入信してくる可能性をもっている。すでに前回の参院選の結果にもみられるように、得票数が世帯数とトントンになり、さらに公表する学会員世帯数を下まわるということは、日本の家族構成からみてもそういう傾向がはじまっている何よりも顕著な現われと見るべきであろう。

 もっとも、創価学会には勤行があり、ひんばんな座談会や会合がある。タテとヨコの系列で年中人物点検があるわけで、偽装信者がこういう非常に厳しい禁欲的な勤行を日常的に継続することはなかなか困難である。そのエネルギーのロスも大きい。したがって、創価学会を利用しょうとして偽装的に入信する信者がふえれば、なんらかの問題を契機として、社会的“信”を決定的におとすことにもなるわけで、学会にとっては致命的大問題といわなければならない。さすがに池田会長もこういう点を苦慮してか、かなり厳しい態度をとっているようである。一九六七年のはじめごろ、創価学会は不良分子を大量に斬ってすて、水増しされて内容のともなわなくなっている学会構成、体質を引締める措置にでた。そのとき斬っておとされた“不良学会員”は六十万世帯にもおよぶと推定されている。
 しかし、こうした首切りの英断や熱心な折伏にもかかわらず、国内における伸張は、いまや限界にきており、伸びるだけ伸びたとみなければならないようである。それはしっかりした世論調査機関とか、それなりにすじの通った学者などの調査・研究には、学会といえども思うようにくいこめず、学会の出す特殊な印刷物による以外に世論操作ができなくなっている事情も大きいようである。

 日本のように義務教育が発達し、マスコミが異常なまでに発達している国において、テレビや新聞、さらにはオピニオン・リーダーたちをば徹底的にその味方にしえないかぎり、世論操作には大きな限界があるといわなければならない。まがりなりにも日本のマスコミや、学問の世界には、報道・言論の自由、さらには敏感すぎるほど敏感な学問の自由を侵すものに対する抵抗感覚がある。そういう調査機開や学者を引っばりこみ、それらをして学会の教義に忠実なサンドイッチマン的役割を果たさせるには、創価学会の教義はあまりにもドグマにみちており、公明党の政策はあまりにも“オジヤ”的で、無節操で、ハレンチであり、また学会幹部はあまりにも知的水準が低く、しょせんは下士官的インテリジェンスの次元にとどまっているからである。
 もっとも学会の伸張率がにぶったとはいっても、形にあらわれた数字の上ではたしかに巨大なる組織であることは否定できないし、こんごもなおかつ若干は伸びていく可能せのあることもまた否定できないであろう。「盲千人、目明き千人」といわれるように、日本の大衆社会の底辺のジャングルは、まだまだその密度がこく、また容易に啓蒙の光のおよばない地帯があるということである。またその底辺においては文明と繁栄の中に再生産されるメタンガスのようなフラストレーションがたえず発酵しているということもまぎれもない事実だからである。
       ---------(208P)-------つづく--

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創価学会を斬る-25

2017-07-28 06:29:02 | Weblog

この日本をどうする-2
    創価学会を斬る (=昭和45年) 藤原弘達著  日新報道出版部
 ------(190P)---(以下、本文)-------

池田と幹部と会員の断層
 池田の側近といわれる人に秋谷城永がいる。彼は出版・広報の枢要な地位にあり、創価学会のスポークスマンのー人でもある,早大出身で病気が入信の動機、チヨットした文章も書くし論客でもある。
 現在の幹部の入信の動機をみても明瞭なように、病気が動機というのが圧倒的に多い。しかも入信の時期は、学生時代かその前後、比較的若いころが圧倒的である。ここに現在の学会幹部の入信コースの一つのパターンがあるといってもよいであろう。
 そういう意味において、青年将校が中堅になって権力をえてきた時期の陸軍将校に似ているようなところがある。
 次いでやはり池田の側近、池田の知恵袋といわれるのが中西治雄である。あまり目だたないけれども、「実力者」という定評がある。常に池田の陰にあり、なかなかの参謀ないし軍師といわれている。
 池田は、こうした若手の幹部を実にうまく使いこなしている。佐藤栄作が“人事の佐藤”といわれるように、池田の人事本能は、それなりに学会において抜群であるといってよいようで、ある意味では多くの大臣をつくった最盛期のスカルノに似たようなところがある。

 もっとも池田はスカルノと異なり品行は悪くはない。
 かってスカルノは、軍部、共産党、回教勢力の三頭立ての馬車に乗ってあざやかな手網さばきをみせたといわれるが、現在の池田のやり方にもこれと非常に似たところがある。和泉で学会を押さえ、竹入が党、北条に両者のパイプ役とともに組織面を担当させ、この三頭立て馬車に池田が馭者として乗り、巧みに馭しているという見方もできないことはないのである。しかもポストを数多くつくり、それを二重にも三重にも与え、それぞれのチェック・アンド・バランス・システムをつくっているというようなやり方も、最盛期のスカルノ体制に非常に似たところがあるといってよいだろう。
 池田大作は、ともかくそういう人間関係に対してはまこと細心の注意を払っている。それは、創価学会内部に造反のエネルギーが起こったり、派閥が発生することを極力押えるためであろう。たとえぱ学会では竹入よりも北条の方が上であるが、公明党にゆけぱ竹入が北条の上に立つ。学会では北条の命を竹人がうけ、党では竹入が化条に命令を下すといった具合いである。上下関係をクロスさせたり、ワザと過重な仕事を与えて責任を重くしたり、派閥行動のエネルギーの余裕をまったく与えないシステムをとっており、その使い分けはなかなかうまいといわなければならない。
 このように人間関係をフルに操作し、これが創価学会には派閥がないと天下に公言しうる所以となっている。

 しかし、そういううまさが逆にいえば人間関係における大きなマイナスになっているといえなくもない。つまり、池田会長のワンマン的威光だけがピカピカ光り、池田の威光を加えなければ何もできない、こういうような体制ができているということである。だからどの幹部も池田会長をべタホメする。そして「会長のためには死をも辞さない」というのである。
 天安門の前に集まった紅衛兵が「毛主席のためには死を惜しまない」といった言葉を思い出させるものがある。さらにもっとさかのぽれば「天皇陛下のためならば、なんで命が惜しかろか」という軍歌をも、思い出さざるをえないということである。そういう、絶対的忠誠、絶対的服従が一つの心情倫理として常に要求されている人間集団であり、公明党はそれを政治に向けて押し進めていく尖兵ということになる。
 普通の市民的神経だと、こういう連中を向こうにまわしていろいろやり合うということは面倒であり、はなはだしくエネルギーを要することになる。かって、狂信的な超国家主義者たちに感じた無気味なカリスマと同じようなものが、彼等の中にも立ちこめているということである。

 ともかく彼等が自慢する文化祭をみていると、そういう心情倫理が、とことんまでマス・ゲームのなかに誇示されているのである。美しいバレーの衣裳をつけた娘たちが、ドシャブリの雨の中でも平気で泥の中で足を広け、顔をくっつけ、泥まみれになって踊りまくる、まさに狂気の乱舞といったシーンが展開されるわけで、門外漢はそのすさまじさに思わず身ぶるいするといった異様な光景がつづくのである。たしかにそういうシーンだけみていると池田会長配下の幹部や会員たちは、指揮棒一つのふりかたで青年将校にもなるだろうし、紅衛兵にもなるだろうし、特攻隊にもなるだろうという気がする。そういうところまで心情的に調教されているということは、それなりに一つの驚きであるといえるだろう。戦後が終らないどころか、戦前の日本が終っていないのではないか、外見の文化的べールの陰に、結構戦前の日本が心情的にもやもやと燃えつづけているのではないかという気さえする。こういうエネルギーを大衆的規模において再編成し、政治的に利用したならば、すさまじいエネルギーに転化されるであろうと思うわけである。だが、それが暴発したならばどうなるであろうか。そういう脅威を感じるのは私のみではなかろう。創価学会の幹部たちは、そういう威圧を与える力としてますますマス・ゲームを誇示し、一貫した指揮のもとに動く統制のすばらしさをデモンストレーションする。

 こういう創価学会の会長と幹部といわゆる一般の創価学会員との間には、明らかに大きな断層があるといって過言ではない。幹部たちは、すでに学会が教授、助教授等々のあたかも大学における教師のランキングと同じような格づけをしているのと同様に、明らかに一定の階層的序列によって、究極的には御本尊との距離感、現実的には学会会長の権威との距離によって人間の格づけをしているわけである。その意味においては、ある学者もいっているように、日蓮正宗の本山は徳川幕藩体制下における権力なき皇室にあたり、創価学会会長は徳川将軍にあたり、その下での旗本直参から末端にまでいたる組織において、公明党はまさに旗本直参の組織であるといえるかもしれない。そしてそれらすベてをひっくるめた幹部たちと被支配層とでもいえる会員大衆との間には、明らかに身分的断絶があるといえるかもしれない。その意味においては、池田会長に対して「忠臣」をよそおう幹部たちは、そうすることによって会員大衆の会長への忠誠のオトリ的役割を演出する立場にあるといってもよかろう。

 天皇と官僚とアウトロー(無法者)ということもいわれるが、学会員の中にもまさにアウトローがおり、そういう無法者の圧力を通じて、官僚がこれを吸収し、全体をふくらますエネルギーとして活用していくという点もみられる。そういう日本ファシズムの典型的な形態が、ベールこそ違え、学会の中にはたしかに再現されているということを、それなりにはっきりと認識しなければならないであろう。
 創価学会の幹部たちをみた場合、だいたいにおいて、ちょうど旧ナチの幹部がそうであったように、デクラッセ・インテリゲンチャないしは軍隊の下士官タイプが圧倒的に多いということがいえるわけである。それに没落した貴族、軍人が多いということからみても、ファシズムの大きな芽をもっているといえるかもしれない。一見、大衆を組織するかにみえながら、大衆の上位志向性とでもいえるものを常に利用して、幹部がそれを代行してゆくという形であり、ビラミッド型の階層的構造すなわち軍隊型組織を原理にしているという点においても、典型的である。
 スカルノ流のいいかたをすれば、ガイデッド・デモクラシーというような組織形態にもなる。いずれにしても創価学会は異様なる集団であり、この異様さにこれだけの人間が踊らされているということは、まさに二十世紀後半の日本における最大の“神話”ならぬ“仏話”を形成するものといえるかもしれない。“神話”は滅びたけれども“仏話”は残っているという見方も成り立つのである。
       ---------(195P)-------つづく--

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創価学会を斬る-24

2017-07-27 07:39:17 | Weblog

この日本をどうする-2
    創価学会を斬る (=昭和45年) 藤原弘達著  日新報道出版部
 ------(183P)---(以下、本文)-------

竹入-矢野の二人三脚
 池田会長は、竹入、矢野をほめて、これを“名コンビ”"だといっている。そして、そういう人材を抜擢し、さらに磨きをかけていくのが会長の使命だといういい方もしている。
 ところで、この池田によって磨きをかけられ、見守られてきた竹入義勝委員長、矢野絢也書記長の二人はどういう人物であろうか。
 竹人義勝を知る人は「実にケン力の上手な人だ」という。向こう気が強く、弱気を吐かない、そういう評価がでているのである。「ケン力がうまい」ということに妥協のコツも十分心得ているということでもあろう。
 公明党はよくドタン場で自民党と結託したり、社会党と結んだり、そのときどきで要領よく妥協する破廉恥な特色をもっているが、こういう側面も、彼一流の経験と性格がものをいっているという。
 ケンカをするようでケンカをせず、裏ですぐ手を握るやり方は、かっての自民党の古狸・大野伴睦などの常套手段であったが、竹入は若くして大野伴睦のようなところがあるという見方もできないことはないらしい。そういえば、はなはだナニワ節調であり、人情を重んじ、機を見るのにまことに敏であり、みるからにヌケ目がない。カミナリのような大声でわめき立てたかとおもうと、次の瞬間には大きな目玉をギヨ口つかせて、人を食ったように二タリ、二タリとするあたりは、公明党の大野伴睦という評は必ずしも当をえていないものではない。
 竹入の発言を聞いている限りでは、理論をふりまわすようなキレ味はほとんどない。行動のみである。それも変転自在の行動のみが優先している。まずは寝技型の政治家ということであろう。だから、彼はおそらくは自民党との連けい要人として現在委員長の職にあるといってもいい。
 また、竹入はよくいろんなところに顔をだす。およそ一党の党首が、と思われるようなところにまでスタコラと平気で出かけていく。人物の重みからいえば、よくて田舎の青年団の団長、わるくすると街頭をのし歩くサンドィツチマンみたいなものであるから、それも必ずしも不思議ではなかろう。党首風を吹かして妙におさまったところがないのはよいけれども、しかし、この軽量さには一つの問題があろう。学会ではそれはそれで庶民の味があり、大衆的感覚だといって評判がよいであろうけれども、ところかわれば品かわるというところであろうか。
 この竹入義勝は一九二六年一月十日の長野県生まれ。入信は一九五三年二十七歳の時であり、肺結核が入信の動機であった。彼もまた病が人信の動機であるという点ではもっともありふれたケースである。
 入信六年後の一九五九年、はやくも東京文京区議選に出馬、みごと当選し、政界への第一歩をしるしている。 時に三十三歳。政治大学校に通ったのもこの頃である。一年間の単位を二年でとったというから、あまり勉強はしなかったのであろう。
 さらに一九六三年、六五年と北区から都議に、さらに翌々年の一九六七年には東京十区(足立、葛飾、江戸川の三区)から衆院選に立候補、当選している。これよりさき、都議時代には、第三党の幹事長として都議会のキャスティング・ボートをにぎり、ゲリラ的攪乱戦法によって、有名をはせている。乱闘騒ぎがあったのもこの頃であった。彼はこの都議会時代における幹事長生活を通じて、他の政党、とくに社会党への不信をいやというほど知らされた、というけれども、その後、社会党と組んで自民党を攻撃したり、秘かに自民党と手を通じ社会党をやっつけたりしている。こういうことをみると、不信をいだかせるのはいったい公明党の側なのか、他党の側なのか、その審判は公正な第三者にまかせるのがよいのではないか、という気がする
 それはそれとして、竹入はこれまでしばしば選挙区が違っている。しかし、きまって最高点当選である。区議から都議、都議から国会議員というコースは、創価学会を背景にしない限りそうそうできる芸当ではない。まさに創価学会の組織の強さが生んだ代議士である。住民の集団移動も辞さない強引なやり方等々創価学会の選挙対策はまさに定評のあるところであるが、竹入のマキアベリステイックな性格は、そういう選挙当選第一主義体制とでもいえるものにとってはうってつけの人材であるということかもしれない。
 いずれにしても区議から異例の三段飛びの当選であり、衆議院の当選の得票数は十一万九百五票という驚異的な数字であった。そして当選とともに四十一歳の若さで池田会長の名指しで委員長に任命されたということである。ともかく、学会に入ってからトントン拍子の出世をしてきたということは無視してよいものではなかろう。 苦労したのは病気のときだけだった、といってもよい。

 次に委員長の女房役、書記長の矢野絢也。
 彼は三十四歳の若さで党の枢要ポストに抜擢された人物である。
 彼の政治へのスタートは、大阪府議の当選からである。それまでは、一九五六年京大経済学部卒業、大林組に入社、しばらくサラリーマン生活をしていた。大阪府議になったのが一九六三年。大阪府議時代は、公明党に一応の論客あり、と新聞記者にワイワイ騒がれたが、京大経済学部出ということは公明党の中では目立ったということかもしれない。
 最近はテレビ討論にもよく顔をだすが、各党の代表選手連を向うにまわし、結構渡りあっているところをみると、なかなかの勉強家であり、頭の回転も早い。それに若いフレッシュな感覚が魅力である。
 若いだけに考え方に柔軟性がある。それが彼の発言の強味となっていると同時にバンカラ坊やのような青くささがあり、何となく貫禄の足らない弱味にもなっている。
 ともかく、矢野には竹入のようなアクの強さがない。真面目で一本気で純真そうにみえる。そういうところから彼の猪突猛進がでてくるといえるかもしれない。
 初当選後の特別国会における衆議院予算委員会で、自民党の国会対策費を追及したことは有名である。しかしこのとき、彼は国会の慣例をたてに自民、社会、民社の三党からフクロだたきにあっている。彼の発言は議事録から削除され、このためまる一日半混乱し、審議ストップという事態となったが、これは彼の初仕事であっただけにそのリアクシヨンは彼にとってだいぶこたえたといわれる。
 このとき矢野を慰めたのが池田会長だったという。池田は『三国志』を思い起こさせた、ということだ。池田会長は『三国志』が好きらしいが、『三国志』をもって日本の国会の戦略戦術を論ずるあたり、池田会長の政治感覚やセンスも問題であろう。
 池田流『三国志』センスは、遠くは戸田城聖第二代会長が学会青年部の最高幹部を指導するにあたり、『三国志』や『水滸伝』を教材として使ったことによるといわれている。『三国志』や『水滸伝』から学びとるのも、彼等の乱世を生きる政治的学習の一つの方法であるということだろう。公明新聞にも週一回「三国志に学ぶ」という論文が掲載されたほどである。
 毛沢東も『三国志』を愛読書の一つにあげており、例の『毛沢東語録』の中にも明らかに『三国志』の影響があると思われる点が随所にあるが、池田をはじめ彼をとりまく幹部たちも戸田城聖の影響もあるかもしれないが、毛沢東に敗けず劣らず『三国志』が好きであるという点は面白い。

 それにしても公明党の幹部たちの戦略戦術は『三国志』に比べるとなんと野暮で汚なくスケールが小さいことか。あまりにも小手先の策に終始していて、いったいどれほど深く『三国志』を読んでいるのか、疑わざるをえない。
 普通、公明党の国会議員クラスとなると、数百数千の人を折伏してきたまさに一騎当千のツワモノといわれている。したがって折伏するということ自体、彼等のお得意の技であるはずだが、国会でも都議会でもやたらとでかい声ばかりはりあげて中味の乏しい演説や質問をするのが公明党議員、というあまり有難くないお墨付をもらっているけれども、公明党は『三国志』の面目にかけてもこうした汚名を返上しなくてはならないはずだ。やたらとバクロやハッタリをかますような、小手先の政治技術だけはたけているけれども、そういうもので現代の政治がやっていけるとでも思っているのだろうか。とくに議会政治はある意味において地味な議論の積み重ねを必要としている。学会の集会やその他の会合で行なうスタンドプレーがそのまま議会政治にも通用するものと思っているとすれば、これは大へんな間違いといわなければならない。少なくとも学会方式を国会の議場にまで持ち込まれては、国民としてはたまったものてはないということである。その意味において、池田大作は「人間革命」を口にするけれども、公明党が議会民主政党として、日本の議会制民主政治に適したものになるためには、まさに創価学会自身の「人間革命」が必要であるということを逆説もこめて強調したい。
       --------改頁--------190

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