この日本をどうする-2
創価学会を斬る (=昭和45年) 藤原弘達著 日新報道出版部
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◆ 既成労組は無視戦術
いうまでもなく、こうした創価学会の新労組結成の方針に対しては、労働界からさっそくさまざまな批判がでている。それは「未組織労働者を結集するというが、果たして可能か」、「既成労組との関係をどう調整するのか」と半ば創価学会の組織能力を疑い、半ば自分の組織を侵されることを恐れての批判なのである。
たとえば、労働界の総本山・総評では「民主労働協議会は、労働団体とはいえないし、組織化などはおそらく出来ないだろう。」といういい方をしており、
同盟では--
「同盟の中にも約二十万人ぐらい創価学会員がいるのではないかと思われるが、その人達が全部、公明党のつくる労組に参加するかどうかは疑わしい。したがって特にこれといった対策は考えてない。」
というような表現をしている。その受け取り方は割合い楽観的なようだが、その背後には「たとえ組織化ができても、それはかえつて労働組織からの疎外をまねくだけではあるまいか」という常識的な考えがあるようである。
それにしても、わが国の雇用労働者三千一百四十八万人のうち、総評、同盟などに組織されているのはほぽー千八十六万人で全体の三四パーセントにすぎず〈一九六八年)、約三分の二の二千万人は未組織であるから、組織する余地はまだまだ十分あるわけである。学会の組織能力からすれば、総評、同盟が楽観視するほど甘くはない、ということもいえるわけで、学会のねらうところには、たしかに既成労組の弱点があり、一つの大衆網拡大の盲点があるといえる。
ただ、こういう未組織労働者層は、総評、同盟といった組織からもれた、まさに「落ち穂」的存在として散在しているだけに、その組織化はおそらく困難をきわめることであろう。しかし、これまでの創価学会の組織づくりのやり方でいくならば、総評、同盟に対抗する労働組合組織をそれなりにつくることも不可能でないかもしれない。
ただそれが労働組合組織といえるかどうか、これについては議論の余地があろう。
◆ 自民党顔負けの公明党後援会組織づくリ
個人後援会の組織づくりは自民党の専売特許であり、これが派閥をつくると同時に、政党の規律をみだしており、大いに問題があるものとして批判されているが、この個人後援会づくりを公明党もいよいよやりだしたようである。労働組合もつくれば何でもつくる。組織づくりのためにはハレンチにも何でもやるといっても過言ではないかもしれない。
もっとも、「王仏冥合」の実践からすれば、「国民の二分の一の支持」をうることも必要だから、そのためには手段を選ばないということなのかもしれない。これまでの公明党に対する支持はほぼ創価学会員に限られ、会員以外の支持にほとんどえられなかった。そればかりか、むしろ会員外の人を敵にまわすようなかたくななやり方をやってきたために敵のみ多くなり、学会員外を味方にするということは実質的に不可能に近かった。こういうことでは議員の大量当選は不可能であることを悟ったか、せっせと自民党顔まけの後援会づくりを手がけ、会員外からも広く支持をえようとしてきている。これは自民党の“マネ”である。良い“マネ”か悪い“マネ”かは別として、ここに公明党の性格がよく現われているといえよう。見方によれば、こうでもしなければ一般有権者からほとんどというより、一票も獲得できなくなりつつあるということかもしれない。後援会をつくることによって地域住民との連繋を強め、彼等の利益も考え、なんらかの同調、共鳴を求め、かくして創価学会・公明党と一般有権者との距離をちぢめ、いわば一種の同質化をはかろうとするものである。学会員の獲得をするとともに、公明党の支持者獲得のために駒をすすめてきたということであり、ある意味においては正学会員でないもののシンパサイザー化をねらってきたわけである。裏をかえせば、このことは創価学会員、信者獲得の伸び率が鈍化してきたために、新らしい手段による拡大策を考えてきたとみられよう。
しかし公明党の後援会なるものは、自民党、社会党のそれとははなはだニュアンスが違うようである。自民党、社会党の場合はまさに個人の後援会であるが、公明党の場合は選挙戦にみられるように、あくまでも党を中心として組織づくりが行なわれているわけで、個人よりも党の支持層拡大が主眼である。その意味においては共産党と非常に類似している特色をもっている。
ところで話をかえて、ここで共産党との一面における類似性、そして他面における異質性によって生じている問題を少し述べておこう。共産党とは前述のように一面では類似性があり、そのため選挙戦ともなると、末端においては衝突不祥事件とでもいえるものをたびたび起こしている。犬猿の仲の公明党-共産党の“サルカニ合戦”は、まことに賑やかな様相を呈している。
今回の都議達(一九六九年)でも、お互いに“ビラ”のハギトリ合戦をやっているし、中傷とパクリと陰謀という、低劣きわまりない手段を弄したとお互に誹謗しあっている。しかし、それ自体一種のなれあいだ、という説もある。その根拠として、公明党と共産党の張り合う選挙区は、必ずといっていいほど両党の地盤の固まっていない脆弱なところでだということが指摘されている。したがって、そこで張り合えば張り合うだけ両党の地番が固定化し、ともに自党の団結を固め、運動員をひきしめる。ハッスルさせるために張り合わせる戦術をとっているのだという見方があるわけだ。
このことは日本の選挙戦の末端における実質的な競合としてじゅうぶん考えられるが、そのことが事実かどうかはともかくとして、そうしたことがいろいろといわれるほど、公明党と共産党の合戦は激烈をきわめているということである。これは両党の支持層が社会の底辺に存在するということと、他面において表面上の幾つかの類似にもかかわらず、基本的には同質の違いがあるためといえるだろう。
その違いとは何かというと、一方の公明党は宗教政党であり、他方の共産党は「宗教は阿片である」というマルクスの言葉を信奉する宗教否定政党であるということである。公明党がいくら唯心論と唯物論とを弁証法的に止揚して、「新らしい理念だ」といっても、結局は一種の精神主義をかざす宗教政党にほかならず、共産党にいわせれば、まさに資本主義的イデオロギーのプロパガンダ政党ということになる。だからギリギリの点では異質のものなのである。その意味において、末端における公明党と共産党の“サルカニ合戦”のような争いは理論闘争というよりも、究極点における違和感からくる争いといえよう。そこでは物理的な力で押しまくる以外にはないということになろう。これが暴力不祥事件すらも発生させかねない背景になっているわけである。
もっともこのような両党のエネルギーは、それなりにたいしたものだという見方もできる。
もしこれが政策論争として生かされていけばスジも通ろうというものだが、「王仏冥合」をたてにとる公明党と、「マルクス主義」を金科玉条とする共産党とでは政策論争をする共通の場がないといえる。
ともあれ、創価学会・公明党は会員の伸びの鈍化とともに、一方では共産党的細胞から、他方では自民党的個人後援会の組織にいたる方法まで多角的に使うことにより、党勢拡大の新らしい波をつくろうと必死になっていることは、それなりに注目する必要があろう。
---------(221P)-------つづく--