--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
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(創価学会)
池田大作をブッた斬る 藤原弘達(日新報道)1988年(=昭和63年)
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◆ 擬似宗教・創価学会の権力構造
創価学会は、言論出版妨害でつまずいた昭和四十五年、あたかも緊急避難の如く「政教分離」を公約した。事実は、これも戦術的退却にすぎず、公約そのものは反故にされている。高らかに政教分離を謳うと同時に、学会は公明党への干渉を続けている。単なる口先での文句というより、人事から総てについての実質決定である。
国立戒壇の否定、国教化の否定、政治進出は宗門・学会の事業とは無関係であくまでも大衆福祉のためである、という池田発言がボンボンと出てくる。「国立戒壇」の否定は教義に関することで、一信徒団体が決定するものではなかったはずだが、創価学会はあえてこれをやった。既に、教義は創価学会流ということの何よりの証しなのである。
もっとも、日蓮の時代の国立戒壇といい、国教化といっても、マイナーからメジャーになりたい願望程度のものとみていいのだが、教義の解釈権をもたない信徒団体が勝手にこれをやったことになる。本尊は本山(大石寺)の持ち物、教義はこちら流というわけで、擬似新興宗教・創価教ムキダシである。
基本的に新興宗教であるし、それも戦後派であるからには、それにふさわしい教祖が存在する必要がある。狂信的法華経信者・牧口常三郎の「狂」も、二代目・戸田城聖の「信」も、創価教教祖として神格化するには、既に時代が離れすぎていた。
牧口、戸田ともに、戦後社会で教祖として祭り上げるには、それにふさわしい“神話”が不足していた。
その点、池田大作は三代目会長を継いで以来、学会発展の先頭に立ってきた。池田の戦後史が学会の歴史というわけだ。新興宗教の教祖として死後に神格化される例があるのと異なり、池田の場合、会長就任十年足らずで神格化が始まっているところにも一つの政治的意味があろう。いわゆる神がかり的創唱宗教の教祖でなくして、生存型神格化パーソナリティとしては、あまり類例がなかろう。戦前においてというより明治維新以来、薩長藩閥勢力などにオミコシとしてかつがれた天皇がそうであったが、戦後社会においてはやはり異例中の異例である。
生存型神格化も、それなりの“神”が必要である。池田自身の名で昭和四十年から書き始められた大河小説『人間革命』(東西書院社長・篠原善太郎の代作という)が、創価学会“池田神話”になる。学会内では、これを現代の“御書”ともちあげる者もでてきた。日蓮正宗に限らず、日蓮信者にとって日蓮“御書”は聖典だが、『人間革命』は“池田神話”であると同時に、創価教の聖典になろうとする。
このように池田神格化が意識的に進められたワケであるが、池田自身がこうした一種の神格化、個人崇拝の対象になることをどうしても必要と考え、自分の意志でそうしたのかどうか。それとも、池田をとりまく人間どもが彼を祭り上げ利用しようとしたのであろうか。それは恐らく、両者が相関的に作用しながら進んだものであろう。
組織としても、池田神格化、「絶対君主」化が必要になっていたのである。なぜなら、牧口創価教育学会や戸田創価学会時代の如く、教祖的カリスマ性だけでは創価学会組織の維持運営が難しい。牧口の「狂」と戸田の「信」、この二つは、信仰組織のシンボルになりえても、「権力」として機能するまでに至らない。戸田の「信」、つまり戸田の信仰は牧口の「狂」といささか異なり、会員を奮い立たせる世俗的パイタリティを発揮した。
戸田の世俗的バイタリティが創価学会を“ご利益”宗教として大衆を惹き付け、その大衆を利用して学会の営利追求が行なわれたのである。田中角栄方式に似ているところがある。つまり、戸田は創価学会の営利虚業組織の基本計画もしくはモデルを完成し、池田がその遺産を継いだ。しかし、それ以後の学会は教祖的カリスマ性がそのまま一種の権力であることを強く求めて動くこととなった。
池田神格化は、創価学会統合の象徴としてではない。それなりの絶対君主的権力者としての神格化、つまりは神権説的人格づくりなのである。もちろん、このことは公明党による政界進出においても赤裸々に現われる。
こうして底辺大衆を組織し、そこから集めた金は大衆の救済に向けられず、組織の富、ないしは「軍資金」として、会員大衆をまさに支配する専制的権力のキメ手となった。
営利虚業集団は宗教法人という無税経営団体を最大限に活用し、その結果手にした社会的、経済的、政治的パワーを、小ピラミッド型「王国」中に組み立てていったのだ。新興宗教の中で、最も徹底して中世的手法をもって底辺層を組織したところに、創価学会の異常な伸び方があったといえるのである。そこから、「池田天皇制」「現代王国」というべきものが生まれたのである。
池田大作を頂点に典型的なビラミッドを形成した学会組織は、言論出版妨害事件を契機として、見せかけだけでも外の「梯型社会」に合わせようとする動きもでたことがある。それはしかし、あくまでも見せかけにすぎなかった。「梯型社会」のことを、私は旧著の中にこう書いた。 (『新・創価学会を斬る』曰新報道)
「……この『梯型社会』の特色は、政界、官界、マスコミ界、学界というような新しいエスタブリッシュメント層、ないしは支配層とでもいえるものができたことをあらわす。もっともそういう支配層は私がかって『日本の椅子』(昭和三十七年、文芸春秋刊)の中でも描いたような相互依存の循環的無責任体系とでもいえる関係にあり、支配系列の中核をもたないルーズなもので、何だか『知恵の輪』にでもたとえられるようなものなのだ。しかもそういう新支配層と被支配層との間は多分に流動的である。上下の貧富の差もそれ程顕著なものではない。指導層といってもそれ程威張れるような社会状況にはなってはいない。縱の権威の序列は依然として崩れたままであり、その限りにおいては平等性というものはある程度までこの社会のなかに貫徹されている社会という意味をふくめて、『梯型社会』として……」
池田創価学会が見せかけだけでも組織原理を外の「梯型社会」に合わせようとしたのは、「民主的外見」を装ったのだ。そうしたペンキ塗りかえのようなインチキ合理主義は、私が既に幾度か暴きだしてきたのだが、本質的なところは一貫して少しも変わってはいない。
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