創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

しんぶん赤旗の戦い-15

2016-02-26 10:03:32 | Weblog

(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
               新日本出版社  800-  2000/3
    -------(P84)--以下、本文--

窮地の池田氏と創価学会守り“権力に影響力”保つ
 自公(自自公)連立を決めた創価学会・公明党の事情。それをもっとはっきりさせるため、主として九〇年代前半の創価学会を取り巻く状況がどうなつていたか、見ておくことにしましょう。

◆ 宗門から破門 小沢氏と組み……
 日蓮正宗(総本山・大石寺)の一信徒団体にすぎない創価学会が、さまざまな面で総本山と対立、宗門(日蓮正宗)から破門されたのは九一年十一月のこと。
 窮地に立った創価学会が考えたことは、自民党を割り、政界再編による“天下取り”をもくろんでいた小沢一郎氏(現自由党党首)と組み、公明党を政権入りさせることでした。
 これこそ後に詳しく見るように、創価学会の政界進出し公明党結党の目的にも合致するもの。
 入閣し、大臣の二~三人でも出そうものなら、二度も設定して果たせなかった「広宣流布の達成年」が、今度こそ第一歩を踏み出した、と強弁できるからです。
 実際、公明党会派から四人の大臣を出した細川連立内閣の発足前夜(九三年八月八日)、創価学会・長野研修道場で開かれた本部幹部会での、池田大作名誉会長のはしゃぎぶりは大変なものでした。
「婦人部長、ご主人は来てる? すばらしいご主人。これは労働大臣ね。または総務(庁)長官、または郵政大臣になってもいいくらいのご主人です」「皆さん方も頑張ってくれた。すごい時代に入りましたね。そのうちデェジン(大臣)も何人か出るでしよう。ね、ね、もうじきです。まあ、明日あたり出るから。あの、みんな皆さん方の部下だから。そのつもりで」
 この「予言」が、翌日、ほぽその通りになったのですから、公明党の真の支配者がだれかを示した動かぬ証拠です。
 ところが、それもっかの間。細川内閣に次ぐ羽田内閣(九四年四月)では、公明党から六人も大量入閣したのに、わずか二力月--細川内閣から通算しても一年足らずで連立は崩壊。自社さ連立の村山富市内閣にとって代わられます。
 池田氏の落胆ぶりは、先に見たマスコミとの「オフレコ」会見(九四年九月、六九頁)で、小沢氏を、「少し性急だ」「功を焦るからだろう。性格だろうね」と酷評したことにも示されています。

◆「票の力」武器に他党派を脅す
 興味深いのは、このとき、池田氏が新・新党への選挙協力についてのベた次のくだり。
「よそはみんな、うち(創価学会)をあてにしているんですよ。昔からそうだ。......だけど、これからは甘くはない」「自民党を推してもいいし、まあ公明党は全員、応援するがね。それ以外は人物本位でやります」
 巨大教団の、資金と「票の力」を武器に、政党・候補者を選別するぞ、という露骨な脅迫……。この「選挙支援」の脅しこそ、竹下、小沢氏ら田中派以来の“大物政治家”が、ひたすら“学会もうで”をする一つの大きな理由です。
 ところで。小沢氏の「失敗」に不満を表しつつも、池田氏が次に選択した道も、やはり“小沢頼り”でした。公明党のうち、次回非改選の参院議員と地方議員を「公明」に残しつつ、衆院議員および改選組の参院議員を、九四年十二月十日結成された新進党に合流させたのです。
 その最初の国政選挙となった九五年七月の参院選で、創価学会は文字通りの「教団ぐるみ選挙」を展開。新進党は改選十九にたいし四十人を当選させました。
 その直後におこなわれた英BBC放送のテレビインタビュー。新進党は政権をとる見込みがあるのでは、との問いに、池田氏はこうのベています。
「あるといえば油断します、新進党が。ないといえば、今度はみんなが自信を失います。そういう意味において、あるかも知れない、ないかも知れない。こう答えましょう』(九五年十月十四日)
  一教団の「名誉会長」にすぎないはずの池田氏の、この尊大さ。これこそ、公明党を新進党に合流させ、政教一体で“政権人り”を狙った池田氏の野望の表明にほかなリません。

  ◆ 池田氏喚問や課税問題が……
 ところが、この年の暮れ、オウム事件をきつかけにして、国会で宗教法人法改正論議が巻き起こります。とくに、一時とはいえ下野させられた自民党の攻勢はすさまじく、池田氏の証人喚問を執拗に要求。論議は宗教団体の非課税見直しにまで及びました。
 喚問は、秋谷会長の参考人招致(九五年十二月)で収まったものの、創価学会にとって池田喚問、課税問題などが「いつ落ちるかわからぬ頭上の剣」となって覆いかぶさり、「それらを阻止することが、当面の至上命題となった」(評論家の故内藤国夫氏)のです。
  この翌年、創価学会は、国政レベルでも、政権党=自民党と公然とかかわるようになり九六年十月の総選挙で、比例区では新進党を推すが小選挙区では「ケースバイケース」(秋谷会長)と表明。いわゆる旧公明党のAランクは別として、四選挙区では公然と自民党候補を推薦、七十五選挙区を「自主投票」にしたのです。「自主投票」区には二十二区で新進党候補が立ったものの、当選はわずか一人。自民の圧勝でした。旧公明党で数えても、前職が十一人も落選し、七議席減……。
「聖教新聞」が、先に見た「池田-佐藤会談」(六六年、六四頁)の模様を大々的に報道、いよいよ自公連立へのムードを盛り上げるのは、ちょうどこの一年後の九七年十月のことでした。
 こうしてふり返るとき、公明党の連立参加が、窮地の池田氏と創価学会を守り、“権力に影響力”を保つためであることは、だれも否定できません。
       ---------(88P)-------つづく--

 

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