創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ.私の池田大作-52

2016-11-30 08:33:49 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

おわりに--最強の「婦人部」を検証する
創価学会・公明党を糾すOB有志の会事務局長  古谷博
                                          宣徳寺総代
   ------(P275)---(以下、本文)-------
<3-2>
◆ 何故、婦人部は最強と言われるのか
 何故、婦人部は最強と言われるのか?それは池田大作との強固な結びつきによる。
 一九六〇年、池田大作が三代会長に就任し、更に「婦人部」への期待が高まっていった。
 池田は、婦人部幹部会の席上、戸田会長が指導された「広宣流布は婦人部の手で」をしきりに使い、「婦人部は信心強盛で一家の太陽である」などと宣揚していった。また、いろんな会合で婦人部員をくすぐるような言辞が多用した結果、婦人たちは次第に池田神格化路線へと傾倒していくのである。
「女たちの決別」に寄稿された婦人たちの体験にあるように、毎日の会合の度に「今日も元気で」の中の「先生♪ 先生♪ われらの先生♪~」と歌うことにより、池田に対する思いが募り、感動すら覚えるのである。
 知らず知らずのうちに、MC(マインドコント口-ル)による催眠状態となり、身を焦がすような状態となり、学会婦人たちにとっての池田の存在は、亭主よりも子どもたちよりも大事な人となる。
  それでも一般人の感覚のように、生理的に池田を好ましく思えない人やただの小太りのおじさんと感じる人には、「とにかく池田センセーはすばらしい」と目を輝かせて話をする学会婦人部の姿は異邦人にしか思えないようだ。

◆ 婦人部に対する池田語録を少し列記する
・創価学会にとって最も大切な五月三日を「創価学会母の日」とした。
・「婦人部が健在であれば、学会は健在である」
・「婦人部は学会の柱である」その「婦人部を大切に」と繰り返し指導。
・十二月三日「妻の日」にちなみ「“微笑みの妻”の皆様に心から感謝を捧げたい」
・「学会活動は、自分が幸福になるのはもちろん、人も幸福にする。一家一族をも無量の福徳に包んで行く」
・「広宣流布のために、祈り、語り、動いた分、大功徳を受けることは間違いない」
・「創価の女性--なかんずく婦人部が盤石なところが勝つ。繁栄していく。それが勝利の方程式である」
 これは一部の池田指導であるが、婦人部はその言葉に酔い、池田との共戦を誓うのである。“池田命”の婦人部は、「もし池田センセーが地獄に行くならば喜んで地獄に行きます」と胸を張る。また、池田会長講演集十二卷に「国会前で会長が“"死ね”といえば死にましょう。“生きろ”といえば生きましょう。」とあり、会員を“死”まで教唆していく手法こそがマインドコントロ-ルなのである。婦人部のマインドコントロールの呪縛の深さは計り知れないと思う。
 もはや、信仰の世界ではなく盲信・狂信の世界に侵されているといえよう。オウム真理教や統一協会が反社会的活動をしたことで、マインドコント口-ルという言葉が一般的に知られるようになった。創価学会がカルト団体と定着してから随分経つが、学会員に対するマインドコント口ールの手法は、オウム真理教や統一協会の比ではない。
 力ルト問題に精通する国際ジャ-ナリストの広岡祐児氏は「人の心の隙間につけ込んで、その人の精神に影響を与えていく手法です。つまり、相手を自分の影響下に取り込むんです」とマインドコント口-ルの手法について述べている。創価学会の最強軍団婦人部の実態は、“池田命”によるマインドコント口-ルの成果であると断言できる。

◆ 「香峰子(カネコ)」という大奥の支配者
 いつの頃かというより、いつの間にか、何の役職もない香峰子夫人が、最高幹部や本部職員そして婦人部から「奥さま」と称され、名誉会長とは別格に崇められている。婦人部の中では特別の存在であり、その影響力は絶大といわれる。
 ある地方に行った折、そこの方面長から飲みながら愚痴を聞いたことがあった。方面長は、同じ方面婦人部トップとの折り合いが悪く、その婦人から香峰子に些細なことを告げ口され、池田が来訪した時、万座の中でそのことを叱責された苦い経験を持つ。担当だった秋谷副会長(当時)に善処を相談しても、顔をゆがめるだけであったという。香峰子は池田への告げ口を地元婦人部に奨励していたのである。方面幹部は虎の威(池田)を借りているので、香峰子には必要以上の神経を使っているとの話しであった。
 その香峰子が創価学会の会合など表に登場してきたのは、一九七五年頃からといわれている。海外に出かける池田に随行したり、組織の会合に参加していたが、その内、記念撮影などにも登場しはじめ、婦人部最高幹部たちを脇に押しのけ、中央の椅子に座るようになった。

◆ 私兵である公明党が国税に圧力
 元来、創価学会の組織の伝統は、活動歴を最優先事項にしてきた歴史でもある。例外はほとんど皆無であり、それが美徳でもあった。
 戸田会長も「戸田の命より大事な創価学会」と言わしめた組織の伝統を池田自らが破ったのである。私物化の典型は、ファミリーを学会幹部に登用させたことである。何の経験もない息子博正を副会長に抜擢したりしている。
 そもそも「奥さま」という役職など学会内には存在しない。聞かれても誰も答えられないし、学会本部も何ひとつ説明責任を果たしていない。
 私の後輩に本部事務総局の幹部H君がいた。H君は、経理に堪能な副会長であり常々、池田ファミリーに関する金の使い方を心配(国税が人ること)していた。ある会食会の席上、H君は担当の立場から池田夫妻に対して、金銭の流れについて意見を述べた。
  池田の前で発言することにより、香峰子に注意してもらう腹積もりが、逆に池田から叱責を受け、その夜から失踪してしまった。池田大作は大慌だったが、行方不明になったH君は一年有余で戻り、やがて学会の外郭企業で仕事を与えられ、養われてしまった。いわば飼い殺しにされたのである。そんな例はあまりにも多い。
 この事件などに代表される池田ファミリーの学会の私物化は、予てより国税から狙われていたが、矢野絢也元公明党委員長の「乱脈経理」にあるごとく、私兵である公明党が国税に圧力をかけて難を逃れている。
       ---------(279P)-------つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-51

2016-11-29 08:53:45 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

おわりに--最強の「婦人部」を検証する
創価学会・公明党を糾すOB有志の会事務局長   古谷博
                                           宣徳寺総代
   ------(P271)---(以下、本文)-------
<3-1>
◆ 複雑な創価学会組織を概説する
  創価学会組織は、わかりやすく言えば、ピラミッド型といわれる。公称会員数八百万世世帯を有し、その頂点に、最大の権力者、池田大作名誉会長がいる。
 全体の本部機構・事務機構は、会長や理事長が統括しており、基本的な組織構図は半世紀を経ているが、変わっていない。
 創価学会本部の下に、地域としての組織体制があり、日本全国を十三方面(北海道、九州など)に分け、方面の下に県単位があり、更に第一県、第二県、第三県と分割されている。各県の下には、圏、本部、支部、地区、ブロックと称された組織があり、その組織ごとに長,副の役職者が任命される。
 県長、副県長にはじまり、末端の副ブロック担に至る夕テ組織があり、学会員にそれらの役職を与えることは、一種MC(マインドコント口ール)の方策の一つである。
  また、本部中枢機関として壮年部・婦人部・青年部(男子部・女子部・学生部・高等部・中等部・少年・少女部)、教学部、文化本部、社会本部等がある。網の目のような複雑な組織形態は、長年にわたる創価学会のノウハウであり、組織防衛の戦術とも言われ、一般人には分かり難いであろう。

◆ 創価組織最強の「婦人部」とは何か
 婦人部の存在なくして学会を語ることはできない。
 第二次大戦のおり、アメリカのダグラス・マッカサー将軍は、「婦人陸軍部隊」一五万人の活躍もあって戦争に勝利したことについて、「女性たちは一生懸命働き、男性よりも規律正しい。」「私の一番の兵士」と、最大限の賛辞を贈った。
 それ以上に、創価学会の「婦人部」は、ことの善悪はともかくとして数の多さと活動の濃密さでは戦場の兵士をも凌いでいるといえる。
 婦人部員たちを一生懸命にさせた源泉は、本来の絶対的な信仰を基盤として、それぞれ人生を戦い抜いてきたからにほかならない。寄稿された一八名の体験からもそのことが伺い知れる。
 彼女たちは家庭を守る主婦であり、家族を支え、子供たちを育てる母の立場であるが、それすら犠牲にして学会活動に全身全霊で邁進してきたのである。選挙になれば、友人知人宅の訪問、電話による公明党候補者への投票依頼に必死になり、また、センセーのお手紙である「聖教新聞」の啓蒙を精力的に推進し、自らも多部数を取って活動に使う。
 財務では、食費や交通費などを節約をし、中には保険を解約してお金を捻出して納める婦人部員たち。このような女性が何十万人もいるのだから、最強組織と言われる所以である。世界のどこを探しても、こんな凄まじい女性活動家を見つけることは困難であろう。
 エセ指導者の甘言にだまされてはならない
 永遠の指導者・池田大作は、公の場に既に三年有余、現れていない。
 池田大作の時代と支配は終わったのである。
 創価学会婦人部は、本書一八名の赤裸々な体験を読み、真摯に受け止めていただきたい。池田大作の呪縛からぬけ出す機会が今であることを知り、速やかに創価学会から脱会すべきである。
 そして、本来の日蓮正宗の信仰に立ち返り、一生成仏を目指し幸せな人生の再スタートを切つていかれることを切に願うものである。

◆ 婦人部の組織と歴史
  創価学会に「婦人部」の組織が登場するのは、「創価教育学会」(一九四〇年)の時代に遡る。初代牧ロ会長が中心となった教育者の集まりから、日蓮正宗・総本山大石寺の信徒団体を結成し、そこで「教育研究部」「折伏指導部」「青年部」「少年部」、そして「婦人部」が作られた。総会員数は五〇〇名ほどであった。
 昭和二十六年五月、東京向島の常泉寺に於いて、戸田城聖氏が第二代会長に就任した。
 名前を「創価学会」と改称し、折伏大行進の号令を発した。その総会で戸田会長は、婦人部への思いを講演している。
「終戦後、牢より出てきたときは、東京は焼け野、学会も荒涼、そのときにきたのが、柏原、和泉の両女史であり、このとき、広宣流布は絶対にやることを決心したのであります」(戸田講演集上から)と。翌六月、青年部・壮年部に先駆けて「第一回本部婦人部委員会」を開催しているところから、「婦人部」が創価発展の重要なセクションと位置づけられたのである。
 婦人部の特長は、仕事に従事している男性よりも比較的に時間が自由であり、理論的に物事を考え動くというより、感性で受け止めて動くという傾向がある。本部から打ち出されたことに真面目に取り組む姿勢は、組織活動の原動力となり、婦人部の強化こそが組織運営の要となったのである。
 その後、折伏の進展とともに、青年部による“邪宗撲滅”の戦いなどが華々しくなるが、戸田会長は「婦人部長」を組織の第一線に立たせるように常に配慮している。戸田会長が他界した翌年、学会本部の機構が改められ、池田大作総務ら青年部幹部4名が理事に、本部婦人部長に柏原ヤス、青年部長に秋谷栄之助が就任している。
 この年、柏原ヤスが東京地方区から参議院選挙に立候補して当選。国会議員と創価学会の婦人部長を兼任した。
       ---------(275P)-------つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-50

2016-11-28 08:26:07 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

18.学会の公認通訳として見た池田氏の姿  後呂 聖子
      理境坊所属妙観講
      埼玉県出身
      元学会公認通訳
      創価大学・文学部 英文科第十期生
   ------(P265)---(以下、本文)-------
<2-2>
◆ 異常な「恋愛禁止」へのこだわり
 その後、大学を卒業した私は、池田センセーから認められた最年少の「公認通訳」に任命され、本部でも池田センセーの通訳になるべく、どんどん訓練を受けていきました。国際部長からも女子部長からも後押しを受けて、センセーのもとへ、センセーのもとへと連れていかれました。
 その間、同じようにセンセーの通訳になるベく訓練を受けていたポルトガル語の通訳者は、彼氏を作ったことで池田センセーの逆鱗(げきりん)に触れ、「目的が違う!」と怒鳴られて、通訳を降ろされました。池田センセーの通訳になるには、彼氏を作ることは御法度(ごはっと)だったのです。
 私もそれは厳重に注意を受けていました。「彼氏ができると、そちらに心が奪われて、センセーの通訳に集中できないから」というのが矢倉涼子さんから聞かされた理由です。
 これもまた、私にはどうしても納得のいかないことの一つでした。「本物の信心というのは、周りにどんな誘惑があろうが魔の働きがあろうが、それらに影響されない強い自分を築いていくことではないのか。そうでなければ、センセーの通訳は一生結婚できないことになる」と。
 その「恋愛禁止令」がセンセーの意志であることを、強く認識させられたのは、私が通訳の仕事でアメリカに長期出張していた時のことです。その時、たまたまセンセーも訪米してきて、矢倉さんを始め数名の通訳と共にセンセーに再会する機会があったのですが、センセーは、まずは会って早々、私を指さして、「えーと、これは誰だっけね、これは?」
と、まるで物扱いするかのように聞いてきました。
 私はセンセー本人の目の前で任命された公認通訳であるのに、すっかり忘れられていることにショックと戸惑いを覚え、何も答えられずにいると、周りの人が私の立場を説明してくれました。すると、センセーは急に、「彼氏はいるのか?」と何の脈絡もなく聞いてきたのです。二、三回、畳みかけるように同じ質問をしてきましたので、私が「いいえ」とだけ答えると、センセーは「イヤー心配だ! 心配だ!」を連発し、側にいた第一庶務の女性にすぐさま何か指示を出していました。
 後日、その第一庶務の女性から、私がアメリカにいる間に葉書が届き「定期的に後呂さんと連絡を取っていくように」先生から言われたのだそうです。まるで私に彼氏ができないようにを監視役をつけられているかのようでした。

◆ 「身代わり勤行」に呆然!!
 私がアメリカに行く二年くらい前、学会本部でセンセーと会食を共にする機会がありました。海外から来た婦人部のメンバーも交えた、六人ほどの席でした。
 その時、第一庶務の若くて綺麗な女性に色々と世話を焼いてもらつているセンセーの姿を見て、私は素朴に、「どうして、ご飯を食べるくらい自分でできないのか」と不思議に思ってしまいました。
 しかも、間近でセンセーが食べる姿を見ていると、何だかとても下品なのです。平気で口を開けたままゲップはするし、くちやくちやと音を立てて食べるし、という感じでした。
 また、矢倉涼子さんの口から、こういうことを聞きました。
「センセーがソ連に行く時は、共産圏で勤行ができないから、私がセンセーのために朝晩二回ずつ勤行をするの」と。
 共産圏といえども、ホテルの部屋で勤行することはできるはずです。私は、センセーが勤行をしないという事実を知った衝撃が大きくて、信じられない思いでしたが、二度にわたって矢倉涼子さんから同じことを聞きました。
 尚、あれ程センセーの信頼が厚く、近年に至るまでずつとセンセ-の側に仕えていた矢倉涼子さんは、四年ほど前、大麻所持で逮捕されるという事件を起こしてしまいました。

◆ 大麻所持逮捕の衝撃
  先にも触れましたが、創価学会の公認通訳という立場は、常にセンセ-と海外の著名人との対談や表敬訪問の際には絶対に欠かせない存在でした。センセーと一緒に映像や聖教新聞に掲載される機会も多くあります。
 よく言われることですが、池田センセーのスピ-チは、「意味不明」「言語脈絡のなさ」そして時には品性を疑いたくなるような話をされます。相手が日本語を理解していないから失礼な話でも分かりません。
 それでも、矢倉涼子さんや公認通訳者は、対談相手に不快感や非常識な印象を与えないよう編集してお伝えしているのです。
 矢倉涼子さんが優れていたのは、先生の下品で支離滅裂な日本語の行間をうまく繋ぎ、オプラートに包んで訳す事に長けていたからであり、それは、センセーも認められていました。最終的には、学会芸能人で当時人気のあったミュージックグループのM氏と結婚されました。
  学会員から祝福され、人も羨む幸せな人生から、突然の「大麻所持で逮捕」と新聞、テレビで報道されたのですから、学会内の衝撃は計り知れないものでした。
  池田センセーの代わりに勤行したり、センセーから絶大の信頼を得ていた人が、何故なの? という思いにかられるショッキングな事件でした。
  他にも有名な学会幹部達が、常識では考えられない状態で事件を起こしたり、巻き込まれたり、若くして亡くなられたりしています。
  紙数の関係で、これ以上は申し上げませんが、センセーが仰っていた「仏罰」の現証が次から次へと起こつています。
 この現実が、今の池田創価学会の実態を如実に物語っている気がしてなりません。

◆ 通訳に困つたアドリブ暴言
 さて、私がセンセーの口から宗門攻撃の言葉を初めて聞いたのは、一九九〇年(平成二年)の八月頃でした。学会本部に海外メンバーが集った時に、いきなり宗門の悪口を言い始めたのです。
 しかも何の脈絡もなく、「みんな騙されちやいけない!」という檄(げき)を何度も飛ばし、矢倉涼子さんも通訳に困っていました。
 一度、次のようなことがありました。
 センセ-は、講演直前に通訳の所に原稿を届けさせました。矢倉涼子さんがー人で全てに目を通すことは不可能だったので、皆で手分けをして翻訳文を書き込みました。
 それを、センセーのスピーチに合わせて矢倉涼子さんが読み上げようとしたのですが、何人もの人の手書きで読みにくかつたことに加え、センセーがアドリブで言う宗門攻撃には脈絡がないので、彼女は途中で言葉に詰まりながら、ものすごく苦労していました。後で彼女が、「もう、泣きたかった」とこぼしていました。
  センセーの口から怨念のように宗門誹謗が繰り返され、あげくは「五座の勤行はしなくていいんだ」などと言い出したのを聞いて、私は、学会は完全におかしい、と思うようになっていました。そして遂に、大石寺参詣の帰りに勤行のために寄らせて頂いた日蓮正宗寺院の御僧侶から「今の学会にいたのでは、どんなに信心をしても功徳はありませんよ」
との御指導を頂き、そのお導きにより、平成三年の三月晴れて家族揃って脱会することが出来たのでした。
    ----この項おわり----(270P)----つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-49

2016-11-27 11:35:30 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 

18.学会の公認通訳として見た池田氏の姿  後呂 聖子

      理境坊所属妙観講
      埼玉県出身
      元学会公認通訳
      創価大学・文学部 英文科第十期生
   ------(P260)---(以下、本文)-------
<2-1>
◆ 学会への献身
 私は学会っ子二世として、創価学会員の両親のもとに生まれました。
 両親は、学会の活動拠点として我が家を提供し、広布のためにと、より広い会場を目指して引っ越したり、家を建て替えたり、百畳敷きの会館を提供したり、熱心に活動を行なってきました。
 父は、昔から、創価学会戸田二代会長をとても尊敬していました。それは、戸田氏が、日蓮大聖人の教えである折伏を実践し抜いた人だったからです。
 そうした関係で、我が家は、自然と日蓮正宗の教えに素直に従うことができ、それはとてもありかたいことでした。

◆ 池田センセーの愛人問題
 私が静岡の高校にいた頃、母がN子さんと大親友になり、その女性が池田センセーの愛人であることを知りました。
  その女性は、結婚していて夫も子供もいます。御主人は、自分の妻とセンセ-との関係を承知していて、何も言わない御褒美として、センセ-から大幹部に任命されたというのです。
  N子さんの母親は私の母の前で、センセ-との親密な関係について話してくれたそうです。「先生のためなら娘がヴァージンを捨てることは名誉なことだ」と母親が語っていたと聞かされ、あまりの異常さに信じられない思いでした。
 当時高校生だった私は、おかしいのは、N子さんの母親なんだと判断し、池田先生を疑うことなどしませんでした。そして、中学時代からの夢であった通訳になるために勉学に励み、第二志望の創価大学に入学することになりました。
 そして、在学中に「通訳になりたいのは、単なる自己満足ではなく、世界中に日蓮大聖人の仏法を求めている人達がいて、その人達に仏法を正しく伝えるためであり、少しでもその人達が幸せになるお手伝いをさせて頂くためである」と自覚してからは、さらに一心不乱に英語の勉強と信心活動に打ち込みました。

◆ 「御本尊模刻事件」に衝撃
 そうした中で池田大作不信への決定打となったのは、池田センセ-によるご本尊模刻事件でした。
 昭和五十四年十一月七日、池田センセーをはじめとする学会幹部が、御本尊様を偽造したことに対するお詫び登山を申し上げたことが聖教新聞紙上に掲載され、その記事を読んだ私は「御本尊様を偽造してしまうような大謗法の人間を自分は絶対と仰いできたのか、これからは何を信じれば良いのか」と大混乱に陥りました。当時学会の幹部であった両親からも事の真相を聞き、池田センセ-が御本尊を勝手に作ってしまったことが、本当であったと知るにつけ、自分のこれまでの全人生が否定された気持ちになり、大衝撃を覚えたのでした。この事は、生涯拭うことのできない池田大作不信の根源となったのです。それでもその時に両親の出した結論は、「学会側が御詫びをしたのだから、学会からはとりあえず離れない」ということでした。

◆ 間近に接してショック!
 私は、内心にわだかまりを抱えながらも、「広宣流布のお役に立てる通訳になりたい」という強い気持ちに変わりはなく、勉強を続けていました。当時は、池田センセーの英語の通訳といえば、矢倉涼子さんが活躍中でした。
 その矢倉さんが私の大学在学中に結婚することになり、“ポスト矢倉涼子”選びが始まって、まだ学生だった私に白羽の矢が立ち、私は「涼子部隊」と称される通訳のメンバ-に選ばれました。
 そのグループの目的は、“矢倉涼子に続く、池田センセーのお役に立てる通訳を育てる”というもので、英語以外の言語も含め、全部で七、八人はいたと思います。
 それまでは比較的遠い存在だった池田センセーを、私がすぐ目の前で見たのも、この涼子部隊の集まりの時でした。それまでは、池田センセ-が大学に来た時に、一緒に記念写真を撮ったり、講演を聞いたり、会食会に参加したりということは数多くありましたが、私は大勢の中の一人にしかすぎませんでした。それが、私のすぐ目の前でセンセ-に接する機会ができたのです。
 間近で接したセンセ-に対する私の第一印象は、「ふんぞり返っていて、何と不遜な態度の人なんだろう」という強烈なものでした。しかし、その頃の私の心の奥底では、矛盾を抱えながらも“池田センセ-は、信心の絶対的な指導者”と信じ込むよう教えられていましたので、すぐさま、「自分は何て信心がないんだろう! そんなふうに思うのは、自分の心が汚ないからだ」と思い直し、自分の直感をかき消しました。
 その席では、さらに腑に落ちないことがありました。
 涼子部隊の一人がセンセ-に、「八〇歳を越えた祖母が体も弱っていて、どうしたらよいか」との質問をしたところ、センセ-からは、「もう、そこまで生きたのだから、いいよ」と答えたのです。
 私にはどうにも納得のいかない返事でしたが、それもまた、深く考えないようにして、心の中に封印しました。
 今にして思えば、誰人たりとも、「あなたはもう充分に生きたからよい」とか「悪い」とかなどと判断を下す権利などあるはずがなく、正しい信仰者の言葉としては、「最後まで福徳を積ませて成仏を遂げられるように、家族で助けてあげましょう」と言うべきだろう、と思います。
 いずれにせよ、これが生(なま)の池田センセーとの最初の出会いでした。
    ----この項おわり----(264P)----つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-48

2016-11-26 08:35:28 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

17.創価大学OBの使命は創価を糺すこと    森下正代
      理境坊所属妙観講
      入信 昭和三十五年十一月二十七日
      出身地 大阪府大阪市・堺市
      創価大学法学部九期生
    ------(P254)---(以下、本文)-------
<3-3>
◆ 御親教の日顕上人猊下に感激
 帰阪して両親や弟妹に学会はおかしいと伝えると、両親も戸田先生の時代とは違いすぎていると言い、創価学会とは距離をおき、会合に参加しなくなりました。聖教新聞に御宗門や御僧侶の悪口が頻繁に載る様になった平成二年頃、我が家に送られた妙観(慧妙の前身である学会破折の新聞)や、御宗門と創価学会との往復文書を見て静観を続けていましたが、平成三年六月にこれ以上学会に在籍するべきではないと、家族揃って脱会し、本傳寺様の信徒にならせて頂きました。学会の御宗門敵視と妨害が激しかった平成四年、本傳寺女子部として、大阪に御親教遊ばされた日顕上人様のお姿を間近で拝し、学会の動向をものともなさらず、毅然として御指南下さる御心に触れ、ありがたさともったいなさでいっぱいになり、絶対正しい信心を貫こうと決意しました。
 私が同級生に連絡を取つて学会は変質してしまつたから正宗に戻るよう言うと、「裏切り者! 池田先生の御恩を忘れたのか! 恩知らず! 地獄に落ちるぞ!」と怒鳴らたり、一対一で会うつもりで同級生の所に行くと壮年を含めた五人で待ち受けられ、私の主張を散々笑いものにされたりしたことはありましたが、嫌がらせはありませんでした。
 母には入れ替わり立ち代り学会員の訪問と電話があり、その都度学会の誤りを指摘していた母がかなり疲れてしまうこともありました。
 大学の同窓生達に連絡を取りたく思い、卒業生名簿を取寄せようとしたところ、事務局は「三〇周年版を今作成中ですので、出来たら送ります。」とこちらの住所電話番号を確認してくれたのに、送られてきた名簿には、私の名前はあるものの、住所、電話番号、勤務先、勤務先電話番号は空白になっており、創価学会らしいなと苦笑してしまいました。
 私は自主的には熱心に学会活動はしませんでしたが、一応会会合等には参加し、言われるままに教学も勉強しました。創価学会ではまず「池田先生ありき」だったように思います。
 日蓮大聖人様が御本仏であるという事や、猊下様は大聖人様の御名代であられるという厳然たる事実、歴代猊下様の御宗門を護り抜かれたお振舞等を、きちんと教えられることはありませんでした。

◆ 母の転重軽受の交通事故
 聖教新聞の啓蒙も、選挙運動も、全て仏道修行で成仏に繋がると聞いていました。
 一時期配達をしていた母は、三〇部購読したことがあり、無料で配るにも多すぎて、家に溜まって行く古新聞の山を見て、これも学会活動なのかと疑問に思いました。母は民音のチケットも池田先生が作つてくれた民音だからと積極的に購入し、バレエやオペラに連れて行ってくれました。
  教諭だった母が軽自動車で通勤中、信号待ちをしていると、前方不注意の二トン車が横からぶつかって来るという、貰い事故で「植物人間か、半身不随」と診断されました。私が小学四年、末の弟は一歳になる前でしたので、父は大変に困惑したようです。母は脊椎圧迫骨折で背骨が湾曲する後遺症が残りましたが、御本尊様の御加護で奇跡的に回復しました。
  脱会後、五十二年路線当時、偽本尊が本当に作られていたと言う事実を知り、身の毛がよだちました。また、両親が尊敬していた戸田先生が書かれた人間革命のあとがきに、「一国の存亡は一宗の存亡より大切である」とあるのを見て、戸田先生までもがこんな事をおっしゃっていたなんて、愕然としました。「インドという国は残っていますが、インドにお釈迦様の仏法は残つていません。それと同じことが日本で起きても良いとおっしゃっているのですか!?」と悲しくなりました。
 私は平成十九年に結婚し、今は理境坊所属妙観講員として、先輩方に厳しくも温かい指導を頂きながら信心させて頂いております。

◆ 初めて信仰の基本を知る
「日蓮正宗は最高真実の仏法であること」、
「大聖人様の御金言は全てが真実であること」、
「仏法は道理であり同じ原因を積めば同じ結果が招来されること」、
「ただ勤行唱題の実践という自己満足で信心しているだけでは成仏は難しいこと」、
「御登山、御供養、追善供養、仏道修行は願って喜んでさせて頂くところにより大きな功徳があること」、
「折伏をしない人は本当に御本尊様を信じているとは言えないこと」、
「不自惜身命の折伏をすれば護法の功徳力で大功徳を頂戴できること」、
「その証拠として常識では考えられないような数々の現実の証拠が現れていること」等、それらの信仰の基本は、学会時代には聞くことの出来なかったことや、漠然としか捉える事のできなかった事を明瞭に教えて頂き、ありがたくて仕方ありません。
 自分の罪障に押しつぶされそうな時もありますが、正しいことを正しく学び、正しい実践のあり方で苦しみや不幸を解決する方法を教えて頂いているのですから、何が起ころうと徒に嘆き悲しむ必要はありません。ましてや、同じ信心をしている先輩方が、素晴らしい実証の数々を体験しておられ、お手本を見せて下さっているのですから、こんなに心強い事はありません。

◆ 学会が最悪の謗法団体となる
  創価学会の方と接すると、未だに、お山は桜を切ったとか、正本堂を壊した等と主張しています。桜は今年も綺麗に咲いています。私は解体前に毎月御登山させて頂いており、この目で正本堂の外壁の大理石に浮かぶ赤錆びと大理石が剥がれ落ちていたのを見ました。
 謗法の根拠となる上に、安全性も無い堂宇は撤去されて当然ではないでしょうか。
 でも喜んで御案内致しますので、どうか御自分の目で、総本山を見学なさって下さい。
 今一度、御自分の人生や、周囲の方々の、平成三年以降の状況をご覧になって下さい?
 福徳に満ち溢れていると言えるでしようか?
 創価学会幹部の皆様、御自分の御自宅の御本尊様を学会版の偽本尊に交換なさらずに、会員宅の御本尊を交換するのはおやめ下さい。
 御書根本、大聖人直結と謳うのであれば、三大秘法をきちんと会員に教えて下さい。
「本門の本尊」大御本尊様は大聖人様の御命である。
「本文の題目」は本門の本尊に唱えるお題目であり、「本門の戒壇」は本門の本尊をおまつりする戒壇堂であると。
 御塔婆建立や、御登山の推奨は、他ならぬ日蓮大お人様がなさつておられることもきちんと教えて差し上げて下さい。
 あくまで学会が正しいとおつしゃるなら、その正しい創価学会が公称八百万所帯もおられるのに、日本国に災難ばかり続くのは何故なのか、仏法上の根拠で教えて頂けませんか。
 私には学会が最悪の謗法団体であるから、災難が引きもきらず起こるのであり、紛れも無く依正不二の理だと思います。
 毎月の御登山で、戒壇の大御本尊様に御目通りさせて頂ける身の福運を感謝申し上げ自分自身の一生成仏を目指し、私の周囲の方を祈伏することは勿論ですが、縁ある学会員に、学会の誤りに気付いて正宗に戻つて頂けるベく対話して参ります。
 今年十一月に予定されている御影堂大改修落慶記念法要に一人でも多くの方をお連れすることができるよう、精進して参ります。
(フェイスブックの森下正代にご意見等コメントを頂ければ幸いに存じます)
    ----この項おわり----(258P)----つづく--


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