創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田の真実-4

2015-03-31 08:52:18 | Weblog
○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429\…購入
   誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
   曰本に君臨する男・池田大作の正体
   宗教界を冒浣する教団・組織の実態
   会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
 ────────────────改頁──────27
2 創価学会と公明党は政教一致でこそ存在する
山村…当時、小沢と市川は選挙の大勝利で気をよくして、将来の政界再編に向かって
  突っ走るわけですが、実は小沢は党内の軋櫟を抱えており、また、市川は政教分
  離という、頭の痛い問題を抱えていたわけです。とくに、公明党にとっては政教
  分離問題は、アキレス腱ですからね。
原島…そうです。公明党は結党以来、政教分離問題で揺れてきました。しかし、一党
  独裁を政治の最終スケジュールにしている創価学会ィコール公明党は、自ら、政
  界に空白地帯を作り出して、徐々に権力中枢を侵蝕し「政教一致」を合法化。政
  界に池田独裁体制を仕上げることが同党の野望なんです。勿論、後ろで糸を引い
  ているのは池田ですがね……。 
山村…おっしゃる通り、創価学会の最終の目的は「政教一致」ですね。しかし、現行
  憲法では特定の宗教団体が政治権力を利用して布教することを禁じています。そ
  れが、政教分離の原則です。と、同時に憲法でも国民の権利として信教の自由を
  認めています。それが、二十条ですよ。
 「(信教の自由)
 ① 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から
   特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 ② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 ③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。」
原島…憲法の原則は、確かにそうです。しかし、池田の頭に政教分離なんてありませ
  ん。かって、池田が師と仰いだ戸田会長は『我らが政治に関心をもつ所以は、三
  大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。即ち、国立戒壇の建立だけが目的な
  のである』と、弟子達に遺言しました。
   これには少し説明を要します。
   戸田会長の主張は、理念としては政教一致ですが、日蓮大聖人の教えに基いた
  宗教者の側からの主張でした。
   この「国立戒壇」というのは、東大寺の戒壇、伝教大師最澄が死後、勅許を得
  た戒壇がベースにあると思います。
   奈良時代には、僧侶が、ちょうど今の医師のように、国の許可なしには正式な
  僧侶(官侶)になれませんでした。その僧侶の登竜門が戒壇における受戒だった
  のです。最澄は、初めは東大寺の戒壇で受戒僧のワクを貰っていたんですが、人
  数の制限もあり、せっかく比叡山で育てた僧侶が法相宗にクラ替えすることもあ
  って、それなら比叡山に自前の戒壇を建てようと、大乗教・法華経という教法の
  違いもあって、朝廷に戒壇建立の許可を願い出たのです。
   日蓮大聖人仰せの戒壇は、本門戒壇の大御本尊安置の霊場ということで、僧侶
  の国家試験場という意味はありません。いわば、天下の戒壇よりもスケールが大
  きくなつて意義も重要化したものと言うことができます。
   池田の時代になつて衆議院にも議席を得るようになると、この国立戒壇が憲法
  違反ではないかという議論が出て来ました。
   そこで池田は、宗門に、当時建設中だった正本堂がその戒壇の意義を持つこと
  や、国立戒壇の名称を使わないことを宣言してもらう一方、公明党を、国立戒壇
  建立を目的とする党から、国の平和と国民の生活を守る、近代政党に衣替えさせ
  たのです。
   そうして池田は政教一致の批判をかわしましたが、公明党を本当に近代政党に
  生まれ替らせたのではなく、票集めのために近代政党の衣を着せたに過ぎません。
  実質的には池田は、宗教を票集め、金集めに利用し、公明党を使って権力を奪う
  ことしか考えていません。
   これは政教一致ですが、池田はそれが悪いとは全く思っておりません。
  しかし、私どもの考える王仏冥合は一見、政教一致のようですが、政治は船の如
  く仏法は大海の如きもので、政治は政治、宗教は宗教でありながら根本的なとこ
  ろでは合一しているという「王仏冥合」の精神なのであって、池田の「王仏冥合」
  とは全く違います。ところが池田は「創価学会は宗教団体であり、公明党は政治
  団体である。ともに日蓮大聖哲の教えを奉じ、王仏冥合を目指す私どもの同体異
  名の団体であります」と、池田会長全集の中で発言しています。
   山村さん、この一言でもお分かりになると思いますが、池田は学会を使って公
  明党を動かし政治権力を掌中にしょうとしていることが明明白白でしょう。
────────────────改頁──────31--つづく──

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池田の真実-3

2015-03-29 16:41:40 | Weblog
○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429\…購入
   誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
   曰本に君臨する男・池田大作の正体
   宗教界を冒浣する教団・組織の実態
   会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
 ────────────────改頁──────23
〈著者・原島嵩VSジヤーナリスト・山村明義〉
第一章 池田大作、日本乗っ取りの野望いまだ消えず
 前承 長年、池田大作氏の側近として学会の中枢で働いてこられた原島氏は、創価
学会が本来の信徒団体の活動から逸脱して、政党結成、言論弾圧、宗門攻撃、裁判へ
の不当干渉、人権侵害等数々の反社会的な行為を成してきた事実を、直接、間接に見
聞してこられました。そして、学会の頂点に立つ独裁者の素顔を、最もよく知る立場
におられました。
 対する山村氏は、日本のサンクチユアリ(知られざる闇の部分)の深奥を取材して
こられた硬派のジャーナリストで、創価学会にも造詣が深く、学会ウォッチャーとし
て「池田帝国」解体の論陣を新聞、雑誌メディアに発表されています。
 第一章は、両氏による創価学会総括の〝闘論〟です。創価学会は過去に何をやって
来たか、また、現状分析、そして、将来の学会像についても忌憚のない意見を交して
もらいました。本稿はインタビュー構成になっています。山村氏の鋭い質問に対して
原島氏は、躊躇なく論及しています。長時間の闘論のなかで、二人は日本の未来を直
視して激論しました。そして、その結果が、迫真のインタビュー内容になったのです。
まずは、本書をお読み頂く前に問題提起としました。(日新報道・編集部)

1 仏道を踏みはずした池田大作
原島…山村さん、貴方のお書きになった学会批判論は何時も読ませて頂いてます。論
   旨は明快で、ズバリ核心を衝く内容には感心させられます。さすが、学会ウォッチャー
   として長年、政治と学会の関わりを取材してこられた実績は、説得力があります。
山村…イヤ(照れながら)、元学会の理論指導者だった原島さんからお誉めの言葉を頂
   いて光栄です。ところで、原島さんは脱会してもう、だいぶ、時間が経っていると思
   いますが、いまでも、学会の動向には関心を寄せられてますか。
原島…それは勿論、そうですよ(言葉に力が人る)。私の半生は、学会と共に歩んできた
   訳で、かっては、身も心も池田に奉じた体(笑い)。しかし、今は、仏道を踏みはずし
   た池田に鉄鎚を下す、反池田の一言家を自負しています。
山村…そうですか。原鳥さんは反池田の闘士というわけですね。となれば、気骨のあ
   る、シャープな答が期待できますね。では、お聞きしますが、池田氏の日本支配の最
   終目的は一党独裁(公明党)による政権構想にあると思いますが、永田町への浸透を
   どのようにお考えですか。
原島…公明党の単独政権実現は池田の最終目的で、政権奪取のスケジュールは進んで
   いると思います。しかし、現状はスローダウンで、当面は、連立政権に足場を置いた
   創価内閣実現を視野に入れて、神崎代表を永田町で画策させていると、私は見ていま
   す。しかし、代表と言っても神崎は池田の分身で、永田町の政界工作も「天の声」で、
   すべて決まることですから……。工作は実弾(現金)の配給でしょう。代表といって
   も、所詮は池田のロボットに過ぎません。
山村…なるほど、連立政権構想ですか。平成五年の総選挙で公明党は、小沢の新生党
   と組みましたが、この工作にしても資金難の新生党に『実弾を渡したのは創価学会」
   と、選対本部の関係者が話していたことがあります。結果は、新生、公明両党合わせ
   て一一〇議席という大勝利に終わりました。そして、このグルーブに民社党と社会党
   右派がくつついて連立政権が誕生したという、公明党の政治プログラムがありました。
原島…そうですね。新生党の大勝利。当時の小沢代表幹事は政権構想まで自信たつぶ
   りに語っていましたね。しかし、新生党と公明党の共闘は事前に小沢と市川書記長の
   密約があって、社会党と民社党を抱き込んでしまったわけです。で、その後の政界予
   想図は、ご存知でしょ。公明党と新生党が合体して「新・新党」を結成する、しかし、
   それは実現しませんでしたが、公明党の存在はいつも「政界の台風の目」で、金と組
   織票で与する相手に擦り寄ってゆくわけです。
────────────────改頁──────27--つづく──
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池田の真実-2

2015-03-28 08:46:38 | Weblog
○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429\…購入
   誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
   曰本に君臨する男・池田大作の正体
   宗教界を冒浣する教団・組織の実態
   会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
 ────────────────改頁──────13--ヨリ
目次
はじめに
第一章 池田大作、日本乗っ取りの野望いまだ消えず
     〈著者・原島嵩VSジヤーナリスト・山村明義〉
 1 仏道を踏みはずした池田大作 
 2 創価学会と公明党は政教一致でこそ存在する 
 3 政権の中枢に直結していなければ不安な池田 
 4 マスコミ・文化人を巧妙に金で釣る 
 5 宗教法人は所詮隠れミノ 
 6 日本乗っ取りの野望、いまだ消えず 
 7 公明党は今後「自民党経世会」の亜流的役割を果していく 
 8 池田のスキャンダル・カネと女と名誉欲 
 9 虚像の下に隠された人間池田の本質とは 
第二章 私がみた池田大作の本性 
I 池田大作の本性をハツキリとみた 
 言論出版抑圧問題 
 池田との訣別
 正法への回帰
Ⅱ つくられた池田の入信神話 
 池田式血脈論
 池田の入信
 二セの遗言
 池田の野心
Ⅲ 嘘で飾った会長就任 
 エレべーター相承
 大阪事件の真相
 会長就任への布石
 遺品の刀
Ⅳ 破綻した池田構想 
 池田の生い立ち
 天下を取ろう
 池田のマキャベリズム
 昭和四十一年の創価学会規則
 池田の広布観
 名誉、権力への妄執
第三章 日本乗っ取り--創価学会・公明党の陰謀
I 常軌を逸した出版妨害事件 
 出版妨害事件の口火
 謝罪の草案
 池田大作の天下盗り
 政界進出の目的
 王仏冥合
第三章 日本乗っ取りの総体革命 
 政教分離宣言の実態
 折伏停止宣言の本質
 池田批判封じ
 池田の情報収集
 池田を守るいざ鎌倉
 増え続ける創価インベ—ダI
 創価王国
Ⅲ 昭和五十二年の暴走 
 池田本仏論
 創価学会の信心
 闇に葬られた民社党の「質問主意書」
Ⅳ 公明党が揺れる真意 
 自民党との連立
 自民党を最大限に利用
 公明党紆余曲折の歴史
 政策転換の裏事情
 公明党の陰謀「二階堂擁立劇」
第四章 池田の天下盗りのシナリオとその挫折 
I エスカレートする財務の悲劇 
 貧しい会員からさえ収奪
 目的のためには手段を選ばず
 財務はすべて池田の意のまま
 宗教法人法の悪用
 フランス下院、創価学会に警告
Ⅱ 天下盗りの挫折 
 P献金
 池田の金脈
 池田の狙い
 池田の天下盗りのシナリオ
Ⅲ 創価学会の謀略と暴力 
 汚い手段をすすめる池田
 あらゆる謀略を使う創価学会
 投票所襲撃事件
Ⅳ 本仏を粧ぅ池田の本質 
 宗門支配の画策
 『真実の証明』の池田破折
 醜い本仏の演出
第五章 ウソと演出でつくられた池田神話 
I 池田の策略とウソ 
 金を集めないというウソ
 大きな建物を造らないというウソ
 事業に手を出さないというウソ
 墓苑を経営しないというウソ
 政界の诤化が目的というウソ
 際限のない池田のウソ
Ⅱ 仏教用語で飾った池田の狂信 
 数珠さすり
 池田式感応
 池田の師弟観
 創価学会仏
Ⅲ 池田の謀略性 
 武闘班の役割
Ⅳ 池田大作側近秘録 
 池田神話づくり
 池田夫人としての香峯子
 「世襲制否定」
 演出されたひ“裸の人間交流”
第六章 独裁者・池田の腐敗 
I 「月刊ペン事件」--池田流の謀略 
 裁判所からの召喚
 池田流の謀略─私はしかと見た
 そして学会の策略
Ⅱ 「月刊ペン事件」--金と女と権力 
 池田の目、耳になった人たち
 池田の“女性たち”
 金と女と権力しか信用しない
Ⅲ 「月刊べン事件」--絶対的権力は必ず腐敗する 
 池田の女性問題
 池田の出廷
 池田本仏論の誤り
 本尊模刻
 内部告発
あとがき
────────────────改頁────── 23--つづく──
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池田の真実-1

2015-03-26 19:40:16 | Weblog
○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429\…購入
   誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
   曰本に君臨する男・池田大作の正体
   宗教界を冒浣する教団・組織の実態
   会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
 ────────────────改頁──────3
◆はじめに
 私の家庭は戦前、創価学会がまだ「創価教育学会」と呼ばれていた時代から、両親
が幹部として学会活動に専念していた学会家族で、私は〝学会つ子〟として育てられ、
御受戒を受けたのは満一歳(昭和十四年十一月)の時でした。
私は生まれつき病弱で、そのために両親が日蓮正宗に入信したのです。三歲から五
歳ぐらいまでの間に、三度死にかけたそうです。何回目の病気の時だったかは記憶に
ありませんが、一度、私が胸が苦しく話すこともできず、数珠を持ってお題目を唱え
ようとしましたが呼吸困難で、声も出なかった時、母が唱題してくれたことを思いだ
します。お数珠を持ってお題目を唱えようとしたことを記憶しているのですから、四、
五歳の時のことだったと思います。その呼吸困難の苦しさは、はっきりと覚えており
ます。きっと、喘息か、急性肺炎だったのか(どちらもやったので)どちらかでしょ
う。医者がかけつけ、「明朝の四時頃がヤマである」と言われ、親戚一同を呼んだと、
母から聞きました。かけつけてくれた医者は、かかりつけの町医者だったと思います。
 その時、父や母は一心不乱にお題目を唱えてくれたとのことです。後に、私は信仰
の力によつていずれも克服して行きました。
 母は私を背負い、折伏に専念いたしました。当時、私の家は矢口の渡しにあり、隣
の家は白木薫次さんの家で、そこには少なくとも男の子が二人、女の子が二人いまし
た。その女の子の妹の方が「かね」といい、後に池田大作夫人となる人です。私たち
は「かねちやん」と言っていました。かねちゃんの家には裏木戸があり、私たちはそ
こをとおつてしよつちゅう遊びに行きました。
 私の父や母の折伏によって、白木家はみな入信しました。昭和十五年頃のことです
私の父母はよく折伏していました。父の紹介で小泉隆、小泉の紹介で辻武寿等が次々
と入信しました。父と小泉、辻は教員仲間であり、〝蒲田の三羽烏〟と呼ばれていまし
た。私の家の近所には入信者が多くぶ〝妙法村〟と言われていました。そのうち父は学
童疎開で、御殿場やまた遠くは秋田にまで行きました。父は幹部だったので、「会員が
神札を焼く」ということで、取調べのため刑事がわが家にやってきたこともありまし
た。父母は信心強盛で逆に刑事を折伏していました。また父が中心となって、小泉、
辻等と『開目抄』の輪読をしていたこともあります。父は剛復で、官憲によって逮捕
されることも辞さず、母と共々、折伏をやめようとはしませんでした。
 しかし、太平洋戦争の雲行きが怪しくなり、官憲は創価教育学会に監視の目を光ら
せるようになりました。会合のおりには必ず特高の警察が監視し、少しでも不穩な発
言があると、話の途中でもストップさせられました。昭和十八年になると官憲の創価
教育学会に対する監視はますます厳しくなり、ついにその年の六月、牧口常三郎会長
戸田城外(後の城聖)理事長等、二十一名の幹部が投獄されました。私の父も名簿の
上に二重丸がつけられており、逮捕される立場にありましたが、当時、教員数が少な
いとの理由で逮捕をまぬがれました。父は、同志を募り、わが家で「開目抄』を輪読
し、法難を乗り切る覚悟を決めていました。
 そのうち父は学童疎開で地方に行ったため、母と兄と私、それに妹の四人の生活が
始まりました。東京は危ないということで、私たちは、父の実家である奥多摩の氷川
(現在の奥多摩町)に疎開しました。私は、そこで氷川小学校一年生に入学しました。
そこでも、母は近所を折伏に歩いていました。父の実家には何人住んでいたか記憶に
ありませんが、みなこの信心には猛反対で、母につらく当たるのでした。母は毎朝早
く天秤棒に桶二つをつるし多摩川の水を汲みにいつたり、いろいろな仕事をさせられ
ました。嫌がらせもずいぶんあったように記憶していますが、知人が私を自転車に乗
せ坂道を下りた時、足が前輪にひっかかり、怪我をして入院したことがあります。不
思議なことに、母も胃かいようを患い同じ病院に入院しました”その時、母が「この
ままでは身体がまいってしまう」と言い、母の実家のある宇都宮に引っ越そうという
ことになり、母と私たちの四人は宇都宮に移りました。今度は母方の親戚と暮らすよ
うになりました。そこの家では時計屋をやつていたように記憶しています。
  私たちは、この宇都宮で大空襲に遭い、九死に一生を得たのです。警戒警報のあと
すぐに空襲警報が発令され、焼夷弾が投下されました。母は、一番先に逃げた者(兄
だったと思います)に御本尊を託しました。実家の人は皆逃げましたが、残った母と
私と妹は、近くの防空壕にも行けませんでした。妹を背負い小学一年生の私の手を取
り、どうするかを素早く判断しなければなりません。焼夷弾はどんどん落ちてきて、
その度に火は広がり、私たちはもう身動きができなくなりました。
 結局、家からほんの近くにある掘つ建て小屋に飛び込みました。そこに焼夷弾が落
ちるのも時間の問題でした。後でわかったことですが、この小屋は干瓢などの食物の
貯蔵庫で、下に地下水が流れていました。この水が私たちの命を救ったのです。妹の
負ぶいひもが切れて妹が落ちた時に、地下水の存在に気付いたのです。喉はからから
になり、煙で苦しくなつていました。母は腰のあたりまで身体を折り曲げ、負ぶいひ
もを水に浸して私と妹に水を含ませてくれました。また火が追ってきたのを見て、母
は私に毅然として言いました。「さあ、最後の勤行をしましょう。大聖人様の許に行く
のです」と。いざという時の母の強さを、まざまざと知りました。お題目をあげてい
るうちに風向きが変わり、火が遠のいていきました。母はその時、五時間唱題をした
そうです。ずいぶん時間が過ぎていました。やがて消防団のような人が小屋を硯いて
「よく助かったなあ」と連発していました。その時ちようど、父も秋田から戻ってき
て、「御本尊のお力はすごい。〝火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わず〟という
のは本当だな」と感激し、しきりに語っていました。私も外に出て驚いたのです。あ
たりは一面焼け野原で、その中で、私たちの飛び込んだ小屋だけがポツンと残ってい
たのです。小学校一年の私は、「本当に御本尊様のお力はすごい」と、しみじみ感じま
した。また、その時トラックで運んできてくれた握り飯のなんとおいしかったことか、
その味が未だに忘れられません。
 母と私たちにはもう戻るべき家もありません。母が折伏し、入陰させた益子さん一
家が那須の両郷村に住んでいる、そこに行こうと母が即座に決めました。何時間歩い
たでしょうか。ようやく益子家にたどり着きました。
  益子さん一家には、四畳半の別棟がありました。電気もない,ラジオもない、まつ
たく何もない家でした。そこにはホタルが沢山飛んでいて、それをビンにいれて灯り
にしたこともあります。また、松の木の根っこを取ってきて、灯りにしたこともあり
ます。小学校一年生の私は、小学校二年生の子数人に待ち伏せされて、いじめられた
ことがあります。東京からきた子はよくいじめられるのですが、そのため、回り道を
して学校から帰つたこともあります。時には土手まで連れて行かれ、「ここから下へ落
とすぞ」と脅迫されたこともあります。そんな時、三年生の兄がほうきを持っていじ
めつ子をけちらしてくれました。
  那須では冬を一回過ごしましたが、その年は、真冬に麦踏みをやらされました。そ
の時の冷たさは、言いようのないものでした。そんな貧乏のどん底でも、母は折伏を
止めませんでした。提灯をたよりに、幾山河を超えて折伏に行ったこともあります。
 やがて戦争が終結し日本は敗戦となりました。翌年、東京文京区の雑司ケ谷に移転
しました。父も疎開先から帰ってきました。二階には母の弟夫婦が住み、私たちは六
畳と二畳の部屋で生活するようになりました。そのうち弟二人が生まれ、母方の別の
夫婦も住み、私の父が連れてきた足の悪い女の子も引き取り、一時は十数人が住むよ
うになりました。私の母の母(おばあちやん)もいました。地下は防空壕になってい
て、一階は歩くと上下に動くのです。苦しい時代でしたが、当時は夢と希望に溢れて
おり、御本尊に対する絶衬的な信仰と日蓮正宗に対する帰依心(信頼)があつたれば
こそ、飢えや困難にも耐えることができたのだと思います。
 私の父について「偉い」と思ったのは、父は朝の勤行のあと必ず、御書の拝読をし
ていたことです。その御書は「御義口伝」でした。初めのうちは父が拝読するのを聞
いていましたが、後には私が代読するようになりました。
 また、玄関を兼ねた二畳は、いつも新来者がくる座談会の会場となりました。父が
中心となって、いつも笑いの絶えない座談会でした。新来者は、一人また一人と入信
していきました。それがいつのまにか支部となっていました。時には二畳では間に合
わず、階段までが座談会会場となっていたのです。今振り返ると、人々の喜びの体験
は広い会場でなくてもできるのです。もっとも、いい会場に越したことはありません
が、二畳と階段が会場となると、なにか家庭的な雰囲気が生まれるのでしようか。
人々の顔つきは生き生きとしていました。大会場で何かをやることも大切ですが、小
さな会場で人が人りやすく、みんなが話しやすく、本音で語り合える世界が、信心の
場としては重要な役割を担います。今、学会の会場は大きくなりすぎ、人間と人間の
卒直な触れ合いをなくしているのではないでしょうか。
 その後、私は学会の中で純粋培養されてゆきました。昭和三十四年に教学部助教授
に任命されたのを機会に、二年後には学生部常任幹事、そして学生部副部長職に就き、
昭和三十九年には本部職員として、当時、第三代会長職にあった池田大作(現名誉会長)
の講演や著述のゴーストライターのグループ「特別書籍部』の局長という、学会の中枢
に配置され、日蓮正宗の教義を広宣流布をすべく、池田に仕えていました。
 なにしろ、私は純枠でした。そして、池田の言葉を信じていたのです。それは、池
田が第三代会長に就任した昭和三十五年五月三日の翌日、池田は父を送るためわが家
を訪ねて来て「君は弟子第一号だ」と言って真新しい名刺をくれ、さらに厳しい顔つ
きになって「弟子というものは、たとえ師匠が地獄の相で死んだとしても、疑わずに
就いてくるものだ。君にそれができるか!」と言ったのです。そのとき私は感激して、
会長のためなら「地獄でもどこでも一蓮托生」と、深く心に誓ったものです。
 学会内での役職はさらに昇進し、昭和四十三年には教学部長、四十四年に総務、そ
して四十五年には宗教法人創価学会の責任役員にまで登りつめ、池田の側近として創
価学会に君臨する『池田の絶対化』を推し進めてきた、張本人の一人が私でした。
 しかし、責任役員に就任した年に起きた故・藤原弘達氏の著作「創価学会を斬る』
の出版を阻止するために、学会と公明党が連携して実力行使とキャンぺーンで出版を
妨害した、いわゆる「出版妨害事件」で、学会の組織的な言論弾圧を目の当たりにし
た私は、独裁者・池田の素顔に接して、池田に対する絶対的信頼感が崩れたことを今
でもハッキリと覚えています。そして、池田に諫ましたのが昭和五十五年二月二十六
日。その日、私と池田は余人を交えず六時間、徹底的に「本尊模刻」や「本門の戒壇」
等の問題を議論し、私は池田の謗法を諫めたのです。そのとき池田は、懺悔している
と語りました。しかし、その後の私は地獄の毎日で、近くの新宿文化会館に軟禁状態
のような形で出勤するようになりました。それ以来私は、日蓮正宗の教義を歪めて
フアツショ的体質に変質して行く創価学会の行動理念に疑問をもち、四十数年間身を
置いた学会と訣別して、継命新聞社(正信会の機関紙発行所)に勤め、現在は、日蓮正
宗本来の信仰を実践する団体の法華講妙縁寺支部に所属させて頂き、正法の下で、日
蓮大聖人の教えを戒めに、安寧の信仰生活を続けています。
  本書は、私の四十数年にわたる学会活動を内部から観察した、元側近の赤裸々な歴
史証言として上梓するもので、時代背景や登場する人物はすべて実名としました。ま
た、文中、一部を除いて敬称は略させていただきました。
 今日、『池田教』の独裁者として創価学会に君臨する名誉会長.池田大作も、かって
は、純粋に日蓮正宗の信徒として、また、若き指導者として学会の輝けるる未来を牽引
する時代があったことが、昔日の思い出になつてしまいました。
 池田に「君は弟子第一号だ」と言われた私が、何故、信濃町の「奥の院」に秘めら
れた、創価学会のタブーに挑戦してまで手記を書くに至ったのか、その動機と心境を
読者の皆さんが本書から斟酌して頂ければ望外の喜びです。
 なお最後に、第一章に、創価学会問題に造詣の深く、学会ウォッチャーとして「池
田帝国」解体の論陣を新聞、雑誌メディアに発表している山村明義氏と私との間で、
創価学会総括の討論を行い、池田大作及び創価学会の今日的テーマを問題提起として
その内容を掲載しました。
          二○○二年初夏   寓居にて原島嵩
──────────────改頁──── 12───つづく─
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池田の妄想50年-12

2015-03-23 20:10:22 | Weblog
○「創価学会・公明党をブッた斬る」…S60/10…〈日新報道〉
    いま,なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか     藤原弘達
────────────────改頁────── 234
◆あとがき
 現在の日本、戦後四十年を経過した日本、ともかくも経済大国でケッコウなことである。し
かも、その経済大国として世界をリードしているものは先端技術である。コンビュータであ
り、エレクトロニクスであり、バイオテクノロジーであり、超LSIである。日本の経済はま
さに、世界で史上空前のベストコンディションにあるといっていい。では、この国は今後どう
なるのか。私は、こういう経済大国的繁栄の中にある大いなる盲点、精神の空洞化、これを絶
えず問題にするという角度で、言論を展開してきた人間である。その私が今『創価学会・公明
党をブッた斬る』という本を書き、今その“あとがき”を記そうとしている。
 たまたま、「文藝春秋」六十年八月号で塩野七生氏─フィレンツユに在り、マキヤベリにつ
いて書き続けているユニークな女性作家─が、織田信長を書いた文章が目にとまった。
 私は、しばしば先端科学技術は二十世紀のトップ水準をゆき、労働運動の形態は十九世紀ヨ
ーロッパ並み、議会政治、政党政治のレベルは十八世紀イギリス並み、そしてさらに自民党派
閥政治のあのいやらしさは、十七世紀イタリア並みである、というような表現をもちいてきた
ものである。その十七世紀イタリアの権謀術数うず卷くマキャベリズムの時代、その言葉の由
来するマキヤベリの生きた時代を、丁寧に資料を駆使して分析解明しながら日本に伝えて下さ
つている塩野七生さんの仕事におしては、絶えず敬意をもって見守ってきた一人である。
 この塩野女史が織田信長論を書いて、信長が日本人に与えた最大のプレゼントは、四百年前
に比叡山焼打ち、長島越前の一向宗徒との対决、さらには石山本顔寺攻めに示されたような
狂信の徒の皆殺しである、といっているのである。彼女は、この狂信の徒を皆殺しにしたとい
う、まさに信長の暴挙ともいえる行動を通じて日本人に宗教への免疫性ができた、ともいつて
いる。ともかく、宗教の守備範囲の外にまで顔を出し、権力、政治にクチパシを突っ込みたが
る宗教に対しては、殺されて当然という免疫になったというベきかもしれない。
それは、ただに信長が皆殺しにした仏教だけではない。キリスト教だって、そういう扱いを
受けた。塩野女史は、信長の、まさにムチャクチャといっていいやり方を通じて、宗教が改治に
チヨッカイを出すことの方が不自然になってしまった、とみているワケである。そうみると、
キリストのいった、カイザーのものはカイザーに、神のものは神へという言葉をまさに文字通
り実践したのが、世界でもユニークな日本ぐらいではないかという評価にすら連なってくる。
 神がない、ちゃんとした宗教がないから要するに日本はダメなんだというような表現が戦後
日本ではとられているが、わが国はまさに、そういう宗教の限界と守備範囲に対する痛烈な皆
殺しをやるような玫治家によって一つのルールを確立した、という見方でもある。しかも塩野
氏は、面白いことをいっている。信長の皆殺しの特色は徹底的ということにもあるけれど、狂
信者が狂信者を殺したのではない、信長の心中には大義名分とか、正義とか、理論とか、イデ
ォロギーはない、ということをハツキリと指摘している。
 例えば、「信長公記」から引用しながら、「やれやれこれで胸のつかえがおりた」というこ
とだという。つまり、ムナクソが悪いから叩き殺した、ということである、簡単にいえば……。
 おれの方が正しいとか、おれの方が正義だなど、そんなことを信長はいってはいない。こう
いうやり方に対しては、生身の宗教者の方がかえって参ったのである。おれの方が正しいから
相手をやっつける、こちらが正統で相手が邪教だからやっつける、というのではない。ムナク
ソが悪いから片づけたということ、それで胸のつかえがおりた、これは宗教論争のゲップでは
ない。何らかの宗教信仰があってやったことではない。
 流転常なき世に比ぶれば、所詮、人の生はさらに無常である。一個の武将として、権力者と
して、まさに宗教的中世の魔術に囚われない近代的人間の第一歩を、信長は最も激しい形で印
したともいえるであろう。
 信長の死とともに、彼のイデオロギーはもはや残らず、波の信仰がどうかとか、その思想が
どうであるとかいうことは何も問われない。彼は、神も仏も怖れず、バチも考えず、ムナクソ
が悪いから皆殺しにしたと自分でいいきる男なのである。
塩野七生氏は、こういう男の美学ともいえる存在は女の中にはないということを、そのエッ
セィの中でもふれている。信長の魅力は、まさに中世のクソタレ坊主どもの、口先だけでは神
だ、仏だといいながら、権力には口を出し、カネ儲けに狂奔し、背徳、乱倫の行ないをやる、
こういうでたらめのゴキブリ野郎はぶつ殺す以外にはないと考えたが故に、断乎として彼はこ
れを実行したということであろう。
 それはまさに中世的魔術、宗教的呪縛から解放された近代的人間像なのである。近代の人間
は、こういう絶対君主的専制の主体的人間を歴史に登場させない限り、宗教の奴隸になること
から政治を解放することはできなかった。ヨーロッパの歴史が、何よりもこれを証明してい
る。日本におけるそのユニークな役割が、まさに信長の真骨頂たるところなのである。
もちろん、私は自分の役割を信長のそれになぞらえたりしているのではない。私は、戦後の
日本で敢えて政治や権力の世界に進まず、ただ大学で政治学を学んだので、その角度から日本
の敗戦の原因をさぐり、再びあのような悲惨な事態に日本がならない途をひたすら求めながら
学問し、学問の社会への普及・啓蒙のためにマスコミの仕事もやつてきた人間である。
 そういう私の学問と言論の仕事の真正面に立ちはだかり、政治を利用し、しかも、いってる
こととウラが全く違い、カネ儲けには狂奔し、弱い者はいじめ、大きな伽藍だけはおっ建て、
背徳乱倫に等しい横暴の限りを重ね、マスコミを買収し、やることなすこと、なっていない。
 この創価学会・公明党の行動は、いずれは斬らねばならない、しかも言論をもって斬らねばな
らぬ対象であったし、それが『創価学会を斬る』という形で世に問うことになつたのは、既に
述べた通りである。
 今度『創価学会・公明党をブッた斬る』というこの本の,あとがき,にあたりいっておきた
いのは、次のことである。それは、創価学会は創価学会、大石寺は大石寺、それぞれ勝手にや
りんさい、ということ。所詮、信者の望む価値を奪い続ければ創価学会の“ご利益”は薄ら
ぎ、それに対応して信者もやがては減っていくだろう。己れのみ日蓮正宗だといっておったと
ころで、他を総て邪教視する狂信だけで突き進んでいくものは、ひっきょう、ごく少数の信者
しかえられないはずである。放っておいても、おそらくダメになるだろう。
しかし公明党の方は、そういう宗教の政治別働隊として、この方がだんだんと肥大し、自民
党との連合政権の一角にでも入るという段階になると、黙視すべからざる事態になる。このエ
ィズにも似た政教混濁のいかがわしき病菌が日本の改治にまき散らされるという憂うベき状況
をどうしても、私は連想せざるを得ないのである。
 現代社会においては、信長の皆殺しのようなことができるはずもない。暴力は行使してはな
らない。また、私は暴力を否定し、暴力とは無縁の一個の言論人なのである。私にあるのはぺ
ンと舌、文字通り筆舌のみである。この筆舌をもって、信長のやったと同じような役割を戦後
日本において果たさんとすれば、その皆殺し的機能とはなんであるのか。それは、公明党に対
する集中砲火を全国民監視の中に実行し、現代社会の基本的原則が活性化されることを通じ
て、創価学会問題、公明党問題をともどもに克服することである。創価学会・公明党を征伐す
ることによつて日本の民主主義は生き生きと甦るとすら、私は極言して憚らないものである。
 この本が、公明党の政治進出によつてたまらない苛らだちと悩みをもつ多くの政治リーダー
たちに熟読され、彼らに劣らざる日常活動、キャンペーンのテキストとして最大限に活用され
ることを望んでやまない。そういうことを通じて、ゴキブリないしカビの如き公明党というも
のを確実に掃除することができるのだと私は確信するし、また、できなければならないという
ことを敢えて提言しておこう。
 なお、今度の著作に当たって、深甚な協力をいただいた日下熙氏と日新報道の遠藤留治氏
に、改めて謝意を表しておきたい。
昭和六十年(1985)秋    世田谷の自宅において
                        藤原弘達
────────────────改頁────── おわり--239

◆日蓮系(見延・創価・正宗・立正・法華等)の全ては「《日蓮の妄想!・妄説!・妄言!》
   宗教を語る=源濁れば流れ清からず=

◆池田創価教は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
   その親分は、カリスマ・おぞましさで、史上類なき--化け物・池田大作

◆これまでも、これからも--池田・創価狂=公明党
  池田創価の脱税不問・証人喚問なしを…自民支持119名…政教一体……で六十年。
  大聖堂・池田会館の建設、お城の購入に勲章・博士号でギンギラ偽善の化け物!!
  1000万円の供養・財務……池田の“食事会”“感謝状”で歓喜の体験発表ダ!!
  共産党と昔の恩人日顕宗、橋下・松井は‥魔だ・第六天の魔王だ、提婆達多ダ!!
  戸別訪問・替え玉投票‥法戦だ!!‥国法違反で法難賞もらって歓喜の体験発表ダ!!
   (森田・佐藤・田原・鳥越・etc、有名電波芸者にテレビ・新聞・マスゴミは買収完了)
  財務・選挙・会合・折伏・新聞啓蒙・ストーカーと、人生の全てを池田に捧げて感動!!
  師匠の池田を守れ!!、悪は多けれど一善に勝つことなし!!…諸天善神の加護で大勝利!!
  偉ぶりで ああ偉ぶりで 偉ぶりで--池田・創価狂=公明党
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