創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と原島家-11

2015-09-30 08:29:28 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 原島昭 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------59--本文
三、戦後、価値論の復権
 石田氏はさらに戸田理事長を次のように擁護します。
「出獄後、戸田先生は、学会を純粋に〈日蓮正宗の信仰そのものだけ〉の創価学会として再建なさいました。会名の中の『教育』の二文字も捨て、価値論も〈完全に捨て〉て、新生再出発をされたのであります。『戦前の学会は教学が無かったので潰れた』『価値論は〈九重の劣〉だから、ハッキリ捨てたのだ』と常々言っておられました。
 これに従って・学会は始めて〈名実共に〉日蓮正宗の信徒団体に成ったのであります」(同前)--と。
 右の文章のうち、「会名の中の『教育』の二字を捨て」たのは事実ですが、「『価値論』を捨て」「名実共に日蓮正宗の信徒団体になった」というのは、事実に反します。
 たしかに、戸田氏は、出獄後の数年は「生命論」や法華経の講義、御書の講義などに力を入れ、『価値論』を表面には出しませんでした。しかし、『価値論』の使用を禁じたわけではなく、弟子たちには好きなように『価値論』を論じさせていたのです。
 私は、戦後も両親が相変わらず座談会や折伏の時に、「価値論」を中心に話を組み立てているのを聞いていました。小泉氏や辻氏らも同様にしていたと思います。
 そして、昭和二十八年の牧口氏の十周忌の前後の頃ともなると、『聖教新聞』の、それも第一面に、堂々と『価値論』の賞賛記事が載るようになります。
 たとえば、二十八年十一月二十二日付『聖教新聞』第一面に、「戸田会長先生追悼講演」「牧口学説を全世界に」「十周年を期に価値論を認めさせん」という見出しが躍っていました。
 その記事から、戸田氏の講演の一部を紹介しますと、--
「私は弟子として、この先生の遺された大哲学を世界に認めさせる。先生は我が子が可愛いのと同様に、価値論に偏よられた点はあった。私も天台に流れて大罰を受けたが、あくまで御本尊が中心であり価値論は流通分として用いるのである」--と。
「『価値論』を流通分として用いる」と言うなら、まず、『価値論』の中の邪義を正してから用いるべきではないでしょうか。日淳上人の仰せられた「仏法は本来・本有であって、価値創造とは関係ない」とのお言葉を、まずよく肝に銘じて思索すべきでありました。後に日達上人も仰せのように、正法でないものがいかに広まっても、けっして、広宣流布とはいえないからです。
 しかし、その後も、学会内で自由に価値論を批判できる空気は全く起きませんでした。
 絶対者である会長の著作に異議を申し立てることなど、常にタブーだったのです。
 それだけに、タブーを破った、あの若い小林君の発言に、私は新鮮な驚きを覚えたのです。私は、その一年余り後に聖教の記者を辞め、それ以降、彼とは一度も会っていません。

●ある日の戸田理事長
 昭和二十四年か五年の夏だったと思います。私は、雑司ケ谷の自宅付近の道路で、夏の日射しの中、友達とボール投げをして遊んでいました。
 そこへ戸田理事長が突然現われ、私の母に案内されながら、丁雑貨店に入って行きました。丁雑?店は間口が3間(約5・45m)以上もある大きな店で、そこの主人は二年ほど前に母の紹介で日蓮正宗の信徒となり、熱心な創価学会員として活躍を始めていました。
 戸田氏は、店先で鳥打ち帽を軽く脱ぎ、笑みを浮かべて店員に会釈をしてから中へ消えました。私は、その愛想のよい戸田氏の笑顔に強い印象を受けました。といいますのも、それまで何度か座談会などで戸田氏に会っていましたが、いつも厳しい顔をしていて、気に入らないことがあると、にわかに怒りの表情となり、対話の相手を叱責したりしていたからです。
 その時の戸田氏は、信仰上の会合で丁雑貨店を訪れたのではなさそうでした。店の内にも外にも、学会員の集まつている様子はまったくなかったからです。
 後で母に聞きますと、「先生は大切なお仕事のご用があって、いらっしゃつたのよ」 との答えでした「私は、その母の答えを聞いて、「それなら、戸田先生はA化粧品店も訪ねたに違いない」と思いました。
 当時、私の住居のある界隈で、母の紹介で熱心な学会員となった人の中に、生活に余裕のありそうな人はほとんどいませんでしたが、A化粧品店と丁雑貨店は、数少ない例外で、金持ちに見えたからです。
 それからしばらく月日が流れて、私の両親が支部長,婦人部長を務める文京支部内に不思議な活動をするグループが現われ、両親を困惑させました。
 その人達は、頻繁に会合を開いては、戸田先生や学会の悪口を言っている、とのことでした。そのグループの中心には、かの丁雑貨店やA化粧店の店主らが名を連ねていました。

●戸田氏の金融業
 昭和二十四年の秋、戸田氏の経営する「日本正学館」は、大変な危機に陥っていました。
 その年の二月から施行されたドッジ・ラインという政府の経済安定計画のために銀行の超貸し渋りにあって、中小企業の倒産続出という惨状になりました。日本正学館もその深刻な影響を免れなかった上に、大手出版社が次々と雑誌を廃刊する事態となり、競争に負けた戸田氏は、まず『ルビー』を十月に、次いで『少年日本(冒険少年)』を十二月に廃刊し、日本正学館も廃業しました。
 しかし、その一方では、八月頃から某元高級官僚をダミーの理事長に据えて、自分は専務理事として金融業を再開しました。
 「再開」という理由は、戸田氏は戦前に出版業と共に、長く金融業を営んでいたからです。それが昭和十八年に治安維持法違反容疑で、牧口会長と共に逮捕され、二十年七月まで獄中にあった間に事業は壊滅し、金融業も破綻して、250万円余り(※現在の貨幣価値に直すと10億円を超える)の巨額の借金が残ったといいます。
 戸田氏の再開した金融業の名を「東京建設信用組合」といい、『ルビー』と『少年日本』を編集していた日本正学館の社員は、廃刊とともに金融業の方へ横すベりさせられました。
『ルビー』の最終号となった昭和二十四年十月号の裏表紙には、次のような広告が載せられています。
 まずひときわ大きな字で「物より金の時代へ」とうたい、次いで「皆様の定額貯蓄の受付」「資金の運営、資金の貸付の相談に応ず」とあり、「保証責任」として「東京建設信用購買利用組合」とあります。
 住所も電話番号も日本正学館、つまり当時の創価学会本部とまったく同じ、「千代田区西神田2の3、電話九段33の4179」です。(ちなみに、『ルビー』の奥付の住所・電話番号も、まったくこれと同じでした。ということは、怪文書『フェイク』が、いかに「『ルビー』は、戸田氏や池田氏と無関係である」と強弁しても無駄だ、ということです。)
 ところが、この発足したばかりの東京建設信用組合が、一年も経たないうちに、資金不足でつまずいてしまうのです。
  ----------------改頁------65---つづく--

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池田大作と原島家-10

2015-09-29 06:56:20 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 原島昭 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------53--本文

二、ある聖教記者の発言
 一ヶ月にわたる総本山大石寺の大講堂落慶法要も終盤になった、昭和三十三年三月二十八日、私は『聖教新聞』の記者として、一年ほど後輩の小林宏君と理境坊の一室に待機していました。
 私は小林君に、「『価値論』には、真理は価値ではないと書いてありますが、あなたはどう思いますか」と尋ねてみました。すると、小林君は「それは定義の違いでしょう。価値を“人生にとって必要なもの”と定義すれば、真理も人生になくてはならぬものですから、価値といえるでしよう」と答えました。私は、なるほど、そのような見方もあるのか、と感心しました。
 小林君は、さらに続けて、「価値は見出すべきもので、創造できるものではありません」と言いました。
 これは、牧口氏の説とは逆行するもので、私は驚嘆の思いで、大学を卒業したばかりの目許涼やかな青年を見つめました。彼は数ヵ月後、自らがまかされたぺージに「若き群像」という囲み記事を連載し、その紙面は清新の気を漂わせて好評でした。
 当時の学歴が高校卒だった私は、「自分も大学に入って勉強し、小林君のようになりたい」と切実に思うようになりました。
 私は初め、小林君の言った「価値は創造できない」の意味がさつばり分かりませんでした。しかし、後に大学に人り、また日蓮大聖人の御書を勉強したことによって、『価値論』で最高価値とされる仏性は、衆生の生命に本来、具わっているもので、それは正境たる御本尊に相対する時にのみ顕現する、ということを知りました。
 ということは、仏性は、無から創造されるものではないのです。
 しかし、牧口会長も戸田二代会長も、「価値創造」に由来する「創価」の二文字を会名に付けて、良しとしていたのです。私は、何とも釈然としない思いでいっぱいになりました。

●石田元編集長“価値論”批判
 『聖教新聞』の初代編集長で、小平芳平氏と共に戸田氏の教学を支えた石田次男氏は、後年、次のように述べています。
「牧口氏が学会を創立するために会名を宗門に届け出た時、宗門側は『創価教育』の四文字に反対しました。その中心者は堀米泰栄尊師(後の第六十五世日淳上人)であり、仏法は本来・本有であって、価値創造とは関係ない、との御意向でありました。
 戸田理事長は当時から、『価値論』を法華経から見たら“九重の劣”と認識していましたが、当時それを表明できなかった弟子の苦悩を察するべきであります」(石田次男著『内外一致の妙法 この在るべからざるもの』)--と。
 石田氏は、牧口氏の『価値論』を「世迷い言」とまで言って批判しつつも、戸田氏についてはかばっています。しかし、戸田氏は、なぜ、このような有害な書を、ただちに廃棄するよう、表明できなかったのでしょうか。しかも、戸田氏は、自らの手でこの書を印刷・出版していたのですから、その責任は重大です。
 私が思いますのに、戸田氏には、敬虔な宗教家としての一面と、利潤を追求する事業家としての一面の、相反する二つの顔が共存していたのではないでしょうか。
 事業を維持・拡大するには、強固な組織が不可欠です。だから、自分たちの組織を危うくするような価値論批判を、あえて行なわなかったのだと思います。
 後年、戸田会長は次のように言いました。「創価学会の組織は戸田の命よりも大事だ」
 その大事な組織を、より強固にする条件は、組織の頂点に立つ人を神格化・絶対化することでした。しかし、所詮、欲界の衆生である俗人の一人を絶対化すれば、いつか必ず、どこかに無理や亀裂が生じ、それを覆い隠すためにさらに無理に無理を重ね、しまいには、醜い姿を露呈することになります。
  ----------------改頁------59-つづく--

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池田大作と原島家-9

2015-09-28 08:19:04 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 原島昭 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------53--本文
その3 学会における会長絶対化の悲喜劇
      --『価値論』から始まった創価思想
 創価教育学会(終戦直後に創価学会と改称)の初代会長であった牧口常三郎氏(1871~1944)は、昭和三年に日蓮正宗に入信してから二つの志を抱くようになったといいます。その一つは、自らがかねがね研究し、小学校校長として教育現場に応用してきた「創価教育学説」を世の中に普及させること、そしてもう一つは、日蓮大聖人の仏法を広宣流布することでした。
 私は、その中にも、今日の創価学会が謗法団体に至る萌芽があったのではないか、と考えておりますので、今回はその点にスポットを当てたいと思います。

一 、牧口会長の愛した『価値論』
 創価教育学説の基礎となる「人生の目的は価値創造にある」との理論は、牧口氏の著作である『創価教育学体系』第三編の『価値論』として、昭和六年に刊行されています。
 牧口氏は、元来の自説である価値論に日蓮正宗の教義を採り入れて解釈し直し、自らの折伏系統の人々(主に教職関係者)にそれを伝授して、従来の日蓮正宗法華講とは異質な「創価教育学会」を設立しました。会長は牧口常三郎氏、理事長は戸田城聖氏(1900~1958)です。
 牧口会長は、『価値論』を広めることが、そのまま正法の広宣流布になる、と信じていたようです。そのために、自分を折伏して日蓮正宗に入信させてくれた法華講の三谷素啓氏が、「『価値論』は正宗の教義とは異質のもので、折伏などに用いてはいけない」と忠告したことがきっかけとなって、二人は絶交状態になった、と聞いたことがあります。
 さて、私の父・原島宏治は、『価値論』を、亡くなるまで大切に自分の本箱に所持しておりました。
 私の両親や父の教員仲間の小泉隆氏や辻武寿氏らの間で、しばしば『価値論』が話題となっておりましたので、私もこの書に與味を抱き、手にとって読み通そうとしたことがあります。

●“真”ではなく“利”こそが価値
 ところが、なかなか難解な書で、高校を卒業したばかりの私の学力では、読了はとても不可能でした。仕方がないので、父から解説してもらいました。
 それによれば、カントなどの西洋近代の学説では「真・善・美」を価値とするのに対して、牧口氏は「真(真理)」は価値ではなく、物事のありのままを表現したものにすぎない」として、「利・善・美」こそが価値であり、価値は創造できるが真理は創造できない、と主張している、と説明されました。
 また、「善は、社会的な広がりをもって利の価値が多人数に及ぶことだから、“大善生活”といって、自ら正法を受持して他人にも伝え、最高の価値を創造していくのだ」とも教えられました。
 そういえば母は、私が幼い頃から、“大善生活”を実証するのだとばかりに、昼間から家事の一切を家政婦にまかせて一日中外出していました。時には私の手を引き、弟を背負って折伏に回りました。
 この「母親不在」の状況は、戦時中から戰後に至るまでずつと続き、“大善生活”以外の世間の小善には、関わっている暇がない様子でした。
 『価値論』では「大善に反する小善は大悪となる」と教えます。しかし、大善に反しない、世法的な意味での小善ならば、むしろ大切にするべきではないでしょうか。それも実証のうちだと思うのですが……。
 今、私の暗く淋しかった少年時代を思う一方、牧口会長の指導を純粋に受け止め、戦時中でさえも折伏に励んだ母の姿もまた、なつかしく思い出されます。
 さて、当時の私は、父の解説を受けながら『価値論』を読めば読むほど、疑問が雲のようにわき起こってきて、困惑しました。
『価値論』では、美を一時的で低い価値とします。「好き嫌いにとらわれて、利害を忘れるのは愚かだ」とも言われました。
 しかし、私は考えました。たとえば、「侘、寂」などの日本の美意識は世界からも高く評価されているが、その美は加齢と共に深まっていくのではないか、と。そして、美醜を忘れて利害・損得の勘定ばかりして生きている人は、とても賤しく見えました。
 さらに『価値論』では、真理を「私達の幸福に直接関係ない」として、価値に比べて軽視するかのような記述が目立ち、その影響によるものか、創価学会首脳の言動は、年と共に、真理の追究を忘れ、利益を追い求めるものになっていきました
 ────────────────改頁──────56--つづく──

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池田大作と原島家-8

2015-09-27 09:32:54 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 原島昭 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------48--本文
●できごとを故意に歪める編集責任者
 次に、①の「『ルビー』は後年、坊主になり下がって学会を批判するようになった矢島周平が編集していた」ということですが、当時の矢島氏は、創価学会の理事たつたはずです。しかも、平成二十一年一月九日付の『聖教新聞』の「若き指導者は勝った」という記事中に、昭和二十五年八月のこととして、「(理事長職の)辞意を伝えた戸田城聖は、後任に理事の矢島周平を指名し」た、と記述しています。
 戸田氏が“創価学会理事長”の後任に抜擢するほど、当時の矢島氏は戸田氏の忠実な部下だった、ということでありますから、むしろ、“『ルビー』が戸田氏のもと、創価学会で作られていた”という傍証になりこそすれ、何ら食い違いはないではありませんか。しかも、矢島氏は、創価学会の機関誌である『大白蓮華』(昭和二十四年七月創刊)の編集責任者を兼ねていました。
 後に矢島氏が学会を批判するようになったからといって、当時のことまで無関係扱いするとは、歴史改竄も甚だしい、卑怯な話であります。
 なお、『フェイク』は、“編集責任者が矢島周平氏であったから、池田大作は『ルビー』に関わっていなかった”と言いたいようでありますが、それも無理があります。
 と言いますのも、『ルビー』を編集していた神田の建物は、3階建てとはいえ、間口2間ほどの狭小な建物で、一階が事務所、二階が4畳半・6畳・8畳の和室があって創価学会本部─その一部が編集室、中2階、そして3階(屋根裏)はよその出版社に貸していました。

●池田大作と『ルビー』の一蓮托生
 その狭い中で、少人数が『冒険少年』『ルビー』『大白蓮華』の編集に当たっていたのですから、いちおうの担当はあったとしても、それぞれが互いに協力し合っていたことは容易に察しがつきます。それは、矢島氏が『大白蓮華』の編集責任者を兼ねていたことからも窺い知れるところです。
 なおまた、雑誌が刷り上がれば、当然、皆でそれを手に取って眺めたり読んだりしたことでしよう。
 そうした中で、池田大作だけは『ルビー』にまったく関係なかった、とは考えられません。学会が言うほど、池田が入信当時から立派な人物であったのなら、なぜ、あの低劣な内容の『ルビー』を、「宗教者が作る雑誌としてはふさわしくないから、刊行を止めるベきだ」と師匠に諫言しなかつたのでしょうか。
 諫言どころか、『ルビー』の最終号となってしまった昭和二十四年十月号の、「恋愛と避妊」という特集記事の横に、次のような広告のあることも注目されます。
「本誌姉妹誌面白く為になる“冒険少年”改題“少年日本”十月号--皆様のお子さま弟さん妹さんの好き友に--」
『フェイク』によれば、『冒険少年』の編集長は池田大作だったとのこと。その『フェイク』は、『ルビー』の編集責任者だった矢島周平氏のことを、「矢島も変質者だったのだろう」とこき下ろしていますが、その“変質者”が作ったとするポルノもどきの雑誌に、池田編集長は『冒険少年(少年日本)』の広告を出しているのです。それも、「姉妹誌」と謳って……。
 池田と『ルビー』の一蓮托生を示して余りあるではありませんか。

 最近、私は昭和二十四年七月に創刊された『大白蓮華』第一号を手に取り、なつかしさもあって眺めていると、なんとここにも、裏表紙に『少年日本』(八月号)と『ルビー』(八月号)の広告が並んで載っていました。第二号にも『少年日本』(十月号)と『ルビー』(十月号)の同様の広告が載っていました(※もっとも、『ルビー』はその「十月号」、『少年日本』は十二月号をもって、不本意の廃刊となってしまうのですが)。
 このような一連の広告には、当時立て続けに創刊された『ルビー』『冒険少年』、そして『大白蓮華』の三誌を、家族ぐるみ--つまり「皆様のお子さま、弟さん、妹さん」で購入させようという戸田氏の商魂が透けて見えてきます。
 学会の信者一家がこれらの宣伝どおり、素直に購読し続けたならば、さぞかし立派な息子と大変な姉妹が同居する--きっとそのような家庭を持つに至ったことでしよう。
 以上で、『フヱイク』に対する反論はひとまず終わります。

 きちんと根拠を示した批判、間違いの指摘は大いにけっこうなことでありますが、単に内容が意に染まぬからといって「地獄に堕ちた」「虚言症」などと決め付けるのは、書き手の品性が疑われる中傷であると言わざるをえません。『フェイク』発行所が「メデイア・アカデミー」などと名乗る以上、ジャーナリズムのスタンダードくらいはわきまえてもらいたい、と切に望む次第です。少なくともこちらは、文責を負う気構えで名乗り、執筆をしているのです。
 以後、「私が見た創価学会」のテーマに戻って、私が創価学会の中で見たまま.感じてきたままの事柄を書いていこうと思います。
  ----------------改頁------52-つづく--

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池田大作と原島家-7

2015-09-26 09:35:26 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 原島昭 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------42--本文
●いかがわしい内容を覿かせる目次
 では、『フェイク』が触れずに済ませようとした、『ルビー』の内容はどうか、と言いますと--私は今回、念のため、都内のある公共図書館で、あらためてその本を確認してみました。
 創刊号は、昭和二十三年十一月一日の発行。目次を一瞥するだけでも、『明治侠艷伝』『女体鱗光』『人肌地獄』等と、いかがわしい内容を窺わせるものばかりです。
 そして、卷頭を飾ったのが『星の流れに』という絵物語で、敗戦直後、生きていくために売春婦となった女の悲しみを歌った当時の流行歌の一節、「こーォんなー、女に、誰がしーた」という文字がまず目に飛び込みます。その後、女と客の会話に移ります。その会話たるや、あまりに品位がないので紹介をはばかられるのですが、さわりだけ記しますと「あんた、私と遊びたいの?」
「え、」
「高いよ。ショートで八百円。オールナイト千五百円。ある?」
「え、、いいです」(中略)
「それから、ヤサ(宿)代と……」
と続いていくのです。これ以上はとても紹介する気になりません。
 また、翌年の二月号では、『恋の素肌』という題の小説で、次のようなくだりもあります。
「『人肌であたためてやるのが一番なんです。』(中略)するすると自分の帯を解きながら、男の前では解いたことのない帯、そう思ふとやっぱり恥ずかしくて、嚇と体中の血が燃えてきた。……お蘭は自分の白々とした豊かな胸をはだけながら、おほいかぶさるやうにぴ
つたりと抱きついた。」
 また、『明治侠艶伝』は山岡荘八氏の作で、「明治の毒婦」と言われた高橋お伝の生涯を綴ったもののようですが、その紹介口上は次のようなものです。
「そのお伝の生涯を今までとはまるで変った角度から社会ローマン派の闘将が描いてゆく。これはまた愛欲と侠気と紅涙で彩られた悲しい宿命の女の一生!」

●『ルビー』の猥雑な内容--戸田氏への不信
 こうした読み物が、挿絵を多用しながら満載されているのです。その挿絵も、男女が抱き合うシーンが散見され、同年四月号からは、さらにタガが外れたように妖艷な裸体画(胸をはだけた画も含む)が増えていきます。
 そして、創刊から一年も経たずに最終号となつてしまつた昭和二十四年十月号は、二大特集として「未亡人と性」「恋愛と避妊」というテーマでの様々な記事が、誌面の大半を占めています。
 ちなみに、『フェイク』が引用した“奥付”はこの号ですから、さすがに内容には触れられず、「『ヌード写真で占められていた』はウソ」のひと言で済ませるしかなかったのでありましょう。
 現代でこそ、性の描写は巷に溢れているでしょうが、当時は、昭和二十五年に『チヤタレー夫人の恋人』の全訳本が「わいせつ文書頒布罪」として起訴されたように、あからさまな性描写はタブーとされていたのです(※その『チヤタレー夫人の恋人』の性描写も、今になれば大したことがないように見えますが)。
 まだ十代の多感な年頃だった私が『ルビー』誌に目を背け、戸田氏に不信の眼を向けたのも無理からぬことと、読者の皆様には納得していただけると思いますが、それはさておき、私が今なお、『ルビー』に納得できないのは、当時の感覚でいけば、じつにいかがわしい娯楽雑誌を、戸田氏のもと、創価学会本部と同所に置かれていた編集部で作っていた、ということであり、それをまた、創価学会の正規機関誌である『大白蓮華』にまで広告を出して、学会員に売りつけようとしていた、ということであります。

●反論されても強弁し続ける『フェイク』
 私は前に、学会系怪文書『フェイク』の苦しい言い逃がれに対し、“ポルノ雑誌まがいの『ルビー』誌はたしかに戸田二代会長のもとで作られていた”という証拠を、次の点から述べました。
 1.『ルビI』の奥付に記載された発行元は別会社・別住所とされているものの、その同じ奥付に記された「編集部」の所在地は、創価学会本部および日本正学館と同じ「千代田区西神田二の三」(註・当時の住所)になっている。
 2.池田大作著『人間革革命』にも、戸田氏が立ち上げた日本正学館の話として、「『冒険少年』を創刊し、やがて、婦人雑誌『ルビー』の刊行も始めた。日本正学館の編集室は、にわかに活発な動きを呈してきた」と記述されている。
 この二点だけでも、『ルビー』誌が、戸田氏のもと、創価学会において作られていた、と証明するに充分でありましょう。
 その後の『フェイク』は、読者の目を他にそらそうとして、私の母や弟の悪口中傷を乱発し続けているものの、当の『ルビー』に関しては、いたくトーンダウンさせてしまったようです。
 『フェイク』(十二月七日付)に辛うじていわく、
 ①「『ルビー』は後年、坊主になり下がって学会を批判するようになった矢島周平が編集していた」
 ②「『ヌード写真で占められていた』もウソ」
 ③「昭の駄文は定価も出版社も違う。発行は大道書院、定価は六十五円」
 と。これらをもって「邪推と妄想と勘違いで文を書いている昭は、死んだ嵩と同じ虚言症だ」というのだから、呆れます。
 何が呆れるか、というと、まず、③の「発行」について。「発行所名は大道書院でも、作っていたのは日本正学館だったでしょう」と、証拠を挙げて教えてあげたのに、『フェイク』はなおかつ同じことを強弁するのですから、“ウソも一〇〇遍言えば真実になる”式の典型です。
 「ヌード写真」云々については、『フェイク』編集子は『ルビー』の中味を見て言っているのでしょうか。見たのでしたら、ぜひ、「ウソ」の一言で済ませないで、その挿絵や記事の見出しを余すところなく列挙してみせていただきたいものです。恥ずかしくて、とてもできないでしょうが。
 ちなみに、そのごく一 部を、『慧妙』紙(平成二十一年十二月一日号)で紹介しましたら、それだけでも読者の方々から「こんないかがわしい雑誌を創価学会が作っていたのか--驚いた」との声をたくさんいただきました。
 念のため、「ポルノ」という言葉について説明しておきますと、広辞苑には「性的興味をそそるような描写を主とした文学・書画・写真・映画の類」とあります。
 その定義からすれば、『ルビー』は、まさにポルノ雑誌であります。
 次に、「定価も違う」ということですが、『フェイク』が挙げてきた「定価六十五円」とは、『ルビー』最終号となってしまった昭和二十四年十月号のもの。
 この「定価」云々については、期せずしてインターネット上に、どなたかの反論が出ていましたので、以下に引用させていただきます。
 その方は、「昭和二十四年二月号の裏表紙には『この号に限り五十五円』とある」とした上で「公定物価指数がー〇〇倍にもなつた狂乱物価の時勢下、『人間革命』で戸田社長が指示しているとおり、毎号のように定価が改定されていたことが窺える。
 フェイクは原島昭氏が言う『定価は二、三〇円』に難癖をつけているが、創刊当初はそれくらいだったのではないか。
 ちなみに、『主婦と生活』という雑誌は昭和二十~二十四年の間に、四円五〇銭から六〇円まで十三倍も値上がりしている」と。
 まさにそのとおりだと思いますす。なお、私は、「当時は雑誌一冊が二、三〇円くらいの値段」と一般論を述べたにすぎないのに、『フェイク』は、私をウソつき呼はわりする根拠として、再三にわたって「定価が違う」と挙げてきているのですから、そのあたりにも『フェイク』の欺瞞性が滲み出ています。
  ----------------改頁------48-つづく--


 

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