◎ 池田大作と原島家 原島昭 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 2014/3
池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
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三、戦後、価値論の復権
石田氏はさらに戸田理事長を次のように擁護します。
「出獄後、戸田先生は、学会を純粋に〈日蓮正宗の信仰そのものだけ〉の創価学会として再建なさいました。会名の中の『教育』の二文字も捨て、価値論も〈完全に捨て〉て、新生再出発をされたのであります。『戦前の学会は教学が無かったので潰れた』『価値論は〈九重の劣〉だから、ハッキリ捨てたのだ』と常々言っておられました。
これに従って・学会は始めて〈名実共に〉日蓮正宗の信徒団体に成ったのであります」(同前)--と。
右の文章のうち、「会名の中の『教育』の二字を捨て」たのは事実ですが、「『価値論』を捨て」「名実共に日蓮正宗の信徒団体になった」というのは、事実に反します。
たしかに、戸田氏は、出獄後の数年は「生命論」や法華経の講義、御書の講義などに力を入れ、『価値論』を表面には出しませんでした。しかし、『価値論』の使用を禁じたわけではなく、弟子たちには好きなように『価値論』を論じさせていたのです。
私は、戦後も両親が相変わらず座談会や折伏の時に、「価値論」を中心に話を組み立てているのを聞いていました。小泉氏や辻氏らも同様にしていたと思います。
そして、昭和二十八年の牧口氏の十周忌の前後の頃ともなると、『聖教新聞』の、それも第一面に、堂々と『価値論』の賞賛記事が載るようになります。
たとえば、二十八年十一月二十二日付『聖教新聞』第一面に、「戸田会長先生追悼講演」「牧口学説を全世界に」「十周年を期に価値論を認めさせん」という見出しが躍っていました。
その記事から、戸田氏の講演の一部を紹介しますと、--
「私は弟子として、この先生の遺された大哲学を世界に認めさせる。先生は我が子が可愛いのと同様に、価値論に偏よられた点はあった。私も天台に流れて大罰を受けたが、あくまで御本尊が中心であり価値論は流通分として用いるのである」--と。
「『価値論』を流通分として用いる」と言うなら、まず、『価値論』の中の邪義を正してから用いるべきではないでしょうか。日淳上人の仰せられた「仏法は本来・本有であって、価値創造とは関係ない」とのお言葉を、まずよく肝に銘じて思索すべきでありました。後に日達上人も仰せのように、正法でないものがいかに広まっても、けっして、広宣流布とはいえないからです。
しかし、その後も、学会内で自由に価値論を批判できる空気は全く起きませんでした。
絶対者である会長の著作に異議を申し立てることなど、常にタブーだったのです。
それだけに、タブーを破った、あの若い小林君の発言に、私は新鮮な驚きを覚えたのです。私は、その一年余り後に聖教の記者を辞め、それ以降、彼とは一度も会っていません。
●ある日の戸田理事長
昭和二十四年か五年の夏だったと思います。私は、雑司ケ谷の自宅付近の道路で、夏の日射しの中、友達とボール投げをして遊んでいました。
そこへ戸田理事長が突然現われ、私の母に案内されながら、丁雑貨店に入って行きました。丁雑?店は間口が3間(約5・45m)以上もある大きな店で、そこの主人は二年ほど前に母の紹介で日蓮正宗の信徒となり、熱心な創価学会員として活躍を始めていました。
戸田氏は、店先で鳥打ち帽を軽く脱ぎ、笑みを浮かべて店員に会釈をしてから中へ消えました。私は、その愛想のよい戸田氏の笑顔に強い印象を受けました。といいますのも、それまで何度か座談会などで戸田氏に会っていましたが、いつも厳しい顔をしていて、気に入らないことがあると、にわかに怒りの表情となり、対話の相手を叱責したりしていたからです。
その時の戸田氏は、信仰上の会合で丁雑貨店を訪れたのではなさそうでした。店の内にも外にも、学会員の集まつている様子はまったくなかったからです。
後で母に聞きますと、「先生は大切なお仕事のご用があって、いらっしゃつたのよ」 との答えでした「私は、その母の答えを聞いて、「それなら、戸田先生はA化粧品店も訪ねたに違いない」と思いました。
当時、私の住居のある界隈で、母の紹介で熱心な学会員となった人の中に、生活に余裕のありそうな人はほとんどいませんでしたが、A化粧品店と丁雑貨店は、数少ない例外で、金持ちに見えたからです。
それからしばらく月日が流れて、私の両親が支部長,婦人部長を務める文京支部内に不思議な活動をするグループが現われ、両親を困惑させました。
その人達は、頻繁に会合を開いては、戸田先生や学会の悪口を言っている、とのことでした。そのグループの中心には、かの丁雑貨店やA化粧店の店主らが名を連ねていました。
●戸田氏の金融業
昭和二十四年の秋、戸田氏の経営する「日本正学館」は、大変な危機に陥っていました。
その年の二月から施行されたドッジ・ラインという政府の経済安定計画のために銀行の超貸し渋りにあって、中小企業の倒産続出という惨状になりました。日本正学館もその深刻な影響を免れなかった上に、大手出版社が次々と雑誌を廃刊する事態となり、競争に負けた戸田氏は、まず『ルビー』を十月に、次いで『少年日本(冒険少年)』を十二月に廃刊し、日本正学館も廃業しました。
しかし、その一方では、八月頃から某元高級官僚をダミーの理事長に据えて、自分は専務理事として金融業を再開しました。
「再開」という理由は、戸田氏は戦前に出版業と共に、長く金融業を営んでいたからです。それが昭和十八年に治安維持法違反容疑で、牧口会長と共に逮捕され、二十年七月まで獄中にあった間に事業は壊滅し、金融業も破綻して、250万円余り(※現在の貨幣価値に直すと10億円を超える)の巨額の借金が残ったといいます。
戸田氏の再開した金融業の名を「東京建設信用組合」といい、『ルビー』と『少年日本』を編集していた日本正学館の社員は、廃刊とともに金融業の方へ横すベりさせられました。
『ルビー』の最終号となった昭和二十四年十月号の裏表紙には、次のような広告が載せられています。
まずひときわ大きな字で「物より金の時代へ」とうたい、次いで「皆様の定額貯蓄の受付」「資金の運営、資金の貸付の相談に応ず」とあり、「保証責任」として「東京建設信用購買利用組合」とあります。
住所も電話番号も日本正学館、つまり当時の創価学会本部とまったく同じ、「千代田区西神田2の3、電話九段33の4179」です。(ちなみに、『ルビー』の奥付の住所・電話番号も、まったくこれと同じでした。ということは、怪文書『フェイク』が、いかに「『ルビー』は、戸田氏や池田氏と無関係である」と強弁しても無駄だ、ということです。)
ところが、この発足したばかりの東京建設信用組合が、一年も経たないうちに、資金不足でつまずいてしまうのです。
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