創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価.池田大作をブッた斬る-44

2019-06-30 07:10:59 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------P.179---(以下、本文)-------
<エピロ一グ> 
 創価学会・公明党は、戦後日本民主主義の様々なる虚妄の中でも最も底辺社会に広がり、精神において低劣で醜悪極まる集団として、その第一に指名するに価しよう。それを一身に具現している人間が池田大作にほかならない。
 その低劣さと醜悪さが少なくとも常識をこえ、まさかと思うシロモノだったために、世間の判断を大きく誤らしめた、という表現すらできよう。政治と宗教の分離を謳う新憲法を逆手にとってむしろ一体化の私利私欲を追い続け、権力を使っての言論出版の自由侵犯を通じて、議会制民主主義のみならず、政党政治の構図を下から触んだ大犯罪の様相は余りにもひどい。
 
 私は二十年以上も前から『創価学会を斬る』をはじめとする批判をやりだして以来、学会・公明党問題は私の仕事の周辺から一日も離れることがなかった。むろん、この二十何年という年月、私は学会・公明党ばかりに日本政治の問題を追ったわけでもなかった。にもかかわらず、私は彼らから瞬時も目を離すことができなかった。それほど、創価学会・公明党という存在は、取り扱い厄介きわまる、病毒細菌入りのビンか爆発物のようなものだった。その知能犯総元締をやってきたのが、池田大作という「同時代人」なのだ。言論出版妨害事件当時から、かえって悪辣でいよいよ危険なものへと変身していった。総ての批判をうけとめながら、これを吸収し、全く逆の方向にねじまげていく知能犯罪性でも№1といえる。
 
民主社会を蝕むハッ力ー
 その池田大作を「絶対君主」のように神格化する「池田創価党」ともいうべき存在は、今の時点において一体何に譬うべきなのか。
 単なる新興宗教でもない。いや、宗教とさえ呼べない、ともかくケッタイな集団である。日本国憲法の下において信教は自由なのであるから、その成り立ち、教義を云々するつもりはない。
 日蓮正宗・大石寺派は江戸期以来、日蓮宗ー派としての歴史がある。創価学会は、日蓮正宗にとりつき、これを変質させて、今では本山・大石寺を実質支配している存在と私はみる。
 
 つまり、日蓮正宗を信者組織と経済力で乗っ取ったワケである。
 牧口常三郎を始祖、戸田城聖を二代目、三代目を池田大作として以後は新興宗教でもなく、公明党の看板を出し(というより、公明党は創価学会のダミーとなった)厚顔にも政治に登場してきた。つまりは、創価学会という名の政治的秘密結社が宗教法人の隠れミノをきたといってよいのだ。
 昭和前期の大不況時代に、貧乏寺・大石寺と創価<教育>学会が法華経を媒介として結びつく。戦後のことは知られすぎている。私は学会・公明党に、コンピュータの世界でいわれるハッカーを連想するのである。ハッ力ーは、パスワードを使って他人のプログラムに潜入し、勝手にそのシステムを利用し破壊する。
 
 日本でも最近、キャッシュ・ディスペンサーのシステムで、他人の預金口座からカネを盗み取る犯罪が発生している。コンビュータ時代ならではの犯罪である。コンビュータ通信にも、プログラムを消してしまう、コンビュータ・ウィルスが問題になっているという。
 創価学会・公明党は、戦後民主主義というプログラムに侵入し、その虚妄につけこみ、民主主義社会システムそのものの破壊者、つまりはハッカー的存在にまで変形した。学会・公明党がハッカーとしていかなる破壊を行なうかは、政教一体の宗教・政治活動の一事を指摘すれば、既に十分であろう。
 
 ファシズム、ファシストが、いつも暴力的に、威圧的に立ち現われるとは限らない。「微笑のファシスト」だっているのだ。 創価学会・公明党は平和と民主主義を盛んに口にするが、その笑顔も、もはや醜く歪み、暗い邪悪の本性を隠しきれなくなった。街中を軍歌を騒音にして走り回る装甲車まがいのトラックに乗った連中ばかりがファシストだとみてはなるまい。
 私が学会・公明党に新たなファシズムの予兆をみて危険を警告したのは、彼らが戦後政治や社会にあえて持ち込んだ「変形」の思想、人間を狐にしたり、力ブト虫にしたり、時に石かカベにかえてしまうような凶悪な精神の作動を覚えるためである。
 
 信仰の内面的自由はこれを侵してはならない、と憲法に明文化されている。創価学会が頂く日蓮正宗の教義に関しては、他の総ての宗教と同じように、これを信ずる自由がある。しかし、信仰の自由と外的強制力を背景とする政治とは、明確に区別されなければならない。それが、近代社会の大原則だ。この大原則が破られる時、言論の自由も信教の自由も合わせて死ぬ。
 創価学会・公明党がハッカーとして民主主義社会において犯罪的であるのは、右の政教分離の大原則をふみにじり、民主的社会のシステムに内からの破壊をもたらすからである。
     ----------(つづく)---------182
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価-池田大作をブッた斬る-43

2019-06-29 06:20:43 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------(P.175)---(以下、本文)-------
 
▼ 「創価学会売ります、貸しもします」
 私は創価学会・公明党に対して、毒舌言論の限界ギリギリまで悪罵を浴びせてきた。卑劣で、金権万能主義の成り上がり者的奢り、こんなものは池田大作の属性の一部にすぎない。学会・公明党もまた同じくらいに卑劣で、成り上がり者であり、ともかく「卑」にして「賤」なのだ。
 ところが、創価学会を支えている無名会員たち、実は、これらの人々こそが、日蓮の弟子であり、信徒組織・創価学会のいわば主人公であろう。
 
 私は、池田大作と学会・公明党を批判するのに、宗教改革者の立場をとってはいない。このごろの宗教および宗教家に対して私は、禁欲的で高潔な人格者を期待しょうとも思わないのである。
 創価学会が池田大作の私利私欲の道具となったことに怒りを抱くが、人間が私利を求めて動くことのみを咎める気は、私にはない。
 但し、池田大作も、創価学会も、私利の追求に極めて闇屋的であったことと、組織の中で人間を自立した人間としての誇りを麻痺させ、ついに奴隸のように隸従させるに至るその手口の卑劣さを弾劾するものである。
 私利の追求を、信仰と政治の理想にスリかえた創価学会こそ、戦後社会体制にひそむ虚妄を最大限に貪り食った、まことにペテンのモンスターといわねばならない。
 
 私の創価学会・公明党批判は、宗教論争に踏み込むのを避けて、あくまでも言論の自由、政治と宗教の分離という近代国家の大原則に立つことを原点としてきたものである。しかしまた私は、日蓮がもし現代に生きたとして、日蓮の立場からすれば、池田大作の在り方は最も非日蓮ということになるのではないかと考えるものである。
 日蓮の教えを、それほどご都合主義で勝手にねじまげ、創価学会流にこねあげたということだ。元学会員の声を集めた『私はこうして創価学会をヤメた』(曰新報道)にこんな記述がある。
 
 「…学会に、人間同士が助け合い、励まし合い、生きていく仲間と一緒に仏の教えを求めたのです。ところが、学会は会員を狂った“教義”で組織し、会員たちが本当に求めたのとは違った道へ引きこんだのです。(中略)
 公明党は学会員騙しから、国民全体--日本人騙しのたくらみを学会員にかつがせてきたのです。
 私たち庶民のカンでは、公明党が、もう学会だけでは生き延びる望みのないのを知って焦っているのだ、と分かります。やがて学会員の公明党離れが始まっても、おかしくはないのです」
 
 創価学会の運動が今後どのように拡がって行き、改革の実をあげることができるかは、私の論評する限りでない。ただ、少なくとも、最末端の会員たちから不満と怒りが爆発しない限り、学会組織が土台から揺らぐことはまだまだ当分はあるまいとみている。
 「共和国に自由をうちたてるばあいにせよ、専制政治を確立しょうとするばあいにせよ、まず自分のおかれている情況をよく考えたうえで、仕事の困難さを判断しなければならない。なぜなら、奴隷としてあまんじて生きている人を解放しょうとすることは、自由を渇仰している人を奴隷の境遇に落とすのと同じくらいに困難で危険な仕事だからである」(会田雄次訳「マキァヴュリ」中央公論社)
 
 創価学会・公明党が、造反者続出からやがて改革運動が組織されるかも知れない。私は学会・公明党が政教分離を果たしてそれぞれに再生することも、やはり難しいと思う。学会・公明党は政教一体化をもって、今日まで強引に押しきってきた。そして、今やそれが自縄自縛となって、まさに典型的な自滅の構図に入ったというほかない。
 「ローマは燃えている。滅びるものをして滅ばしめよ」。私としては、はるかに対岸から燃える炎を眺めるのみである。さしもの繁栄を誇ったローマ帝国の最後と同様、創価学会・公明党が崩壊する日を、私はそんなふうなスタンスをとって冷然としてみているであろう。
 
 その後、「創価学会売ります」「創価学会貸しもします」と、落首のように貼り紙が出るところまではなんとなく想像できるというものである。歴史の上での連想が重なって浮かんでくる。
 「法王レオーネ十世の死の翌日、ローマの庶民が落首を張り出す場所となっている、バスクイーンの石像の胸に、こんなことを書いた紙切れが張りつけられていた。
 『ローマ、貸します』」(塩野七生「神の代理人』中公文庫)
       ---------(178P)-------つづく--
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価-池田大作をブッた斬る-42

2019-06-28 07:53:29 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------(P.168)---(以下、本文)-------
 
媚びを売り、虚名を求める“売春夫”精神
 パナマの独裁者ノリエガを利用する池田大作は、富士市にノリエガ記念庭園まで造る親交ぶりをみせた。しかし、その独裁者が米国から国際的犯罪者として断罪されると、池田はにわかに狼狠、恐怖にかられてノリエガ庭園の存在を隠そうとする。池田大作あたりに、米国の世界戦略の網の目がどう拡がっているかなど、まだまだとても理解できるわけもない。
 パナマの独裁者も米国の傘の下にいたのだと知るや、たちまち、米国の不興を買うのを恐れて、ノリエガ隠しへひっくり返ってみたりするのである。
 
 SGIの布教が頭打ちで伸び悩みの一方で、SGIの海外資産ふやしにはぬかりがない。米国、フランス、イタリア、イギリス各国には創価学会会館を造っている。米国にはロサンゼルスに、創価大学分校用の建物まで買収した。このごろ盛んな不動産屋の海外投資と全く変わるところがない。
  あれもこれも、総て池田創価学会が汗を流して稼ぎだしたものではない。財務という名の“年貢”取立て制度があって、できることなのである。
 
 創価学会海外会員数の正確なところは掴んでいないが、米国、ヨーロッパを合わせても二万前後ではないか。布教の現況から想像しても、海外不動産の買入れは異常というほかない。学会本部では、こんな不動産投資も「平和のため……」という。「平和」を口にすれば、なんでも正当化できると考えているらしい。
 もっとお粗末なのは、「池田先生が世界を歩かれると、国際緊張がゆるんだ」などというのが出てくる始末だ。池田が国連栄誉貰をもらったのは今年(六十三年)の六月。国連平和賞は、“人類みな兄弟”の家元で、ボートレースの元締め会長さんと一緒に既に受賞済みというから、さすが!である。二人で競って国連へ寄付を励んだ結果とはいうものの、ホントのところは、寄付の取次ぎにすぎないという、厚かましさだ。
 
 あとはもうノーベル平和賞受賞だけだ、といっているそうだ。いささかノーベル賞が気の毒に思えてくる。もっともノーベル賞の権威に関しては、あえてノーコメントとしておく。
 ノーベル平和賞めざしてなのか、池田大作・平和の旅は、ひたすら名を売ることに向けられる。虚名を得るためとあらば、最大限に媚びへつらうのである。
 創価王国の絶対君主として、「私が仏法の指導者だ」という傲岸不遜な池田が外国知名士に会うために日本の在外大公使には平身低頭し、対談相手の知名士を拝み倒さんばかりなのだ。キッシンジャー元米国務長官、ライシャワー元米駐日大使、イギリスの歴史学者A・トインビー、フランスの作家、文化相A・マルローと、まことに錚々たる顔ぶれには違いない。
 
 キッシンジャーとの対談では、二千万円の謝礼を含め、来日の旅費、滞在費すべてで四千万円以上と噂される。
 売名のため、虚名を得るためには金に糸目をつけず、世界的“名声”に札束積んで便乗する、なりふり構わずスリ寄る様は、単なる有名病では必ずしもない。相手を利用して虚名を手に入れんものと、これはもう、一種の売春精神なのだ。
 そういえば池田は、モスクワ大学、北京大学をはじめ外国七大学から名誉博士、名誉教授の称号を受けているが、いずれも多額の寄付で得たものといわれる。
 つまり、池田大作の、金で虚名を買おうとした“売名”行為は、金に身も心も売ってしまったからできたことである。世界「平和」の旅は、ついに「売春の旅」というわけだ。
     ----------(つづく)---------170
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価-池田大作をブッた斬る-41

2019-06-27 06:53:52 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------(P.164)---(以下、本文)-------
 
▼ 池田大作の海外セールスは限界だ
 まず、池田は池田でも、所得倍増、月給二倍をキャッチフレーズにした内閣総理大臣・池田勇人のことだ。池田内閣から、日本は高度経済成長期へ突入していく。その池田は、海外では「トランジスタのセールスマン」などとからかわれた。
 日本がようやく“戦後”から抜けだし、国際社会の中で地歩を固め始めた時代である。日本の総理大臣もヨーロッパあたりではその程度に軽くみられていた、ということなのであろうか。
 時代は昭和三十年代の後半であった。
 
 さて、池田大作のほうだ。所得倍増内閣の誕生は、池田大作が創価学会第三代会長になった昭和三十五年である。この年以後、学会の会員増はさらに弾みがついた。学会も日本の高度経済成長の波にのったのは事実だ。
 池田は会長になってから、海外旅行を頻繁にするようになった。アメリカに総支部ができたのは昭和三十五年秋で、学会の海外布教が盛んになるのもこの年からである。池田の海外族行は学会の海外布教のために始まったのであるが、現在では、布教のためより池田の顔見世興行といっていい。
 
 しかし、この顔見世興業、お客の要望に応えたわけでは決してない。むしろ、押しかけ顔見世なのだ。ローマ法王のむこうを張ったつもりでも、所詮は、日本仏教の一派にすぎない。ところが、池田の諸国巡りは、ドル稼ぎでなく反対にバラ撒き旅行だから、さすが経済大国日本のソーカガッカイということになる。
 SGI(創価学会インターナショナル)は広宣流布のための国際的組織だが、これまた完全に池田の私物化している。海外布教のために各国各地にある施設や資産もSGIが握っており、その意味では、池田の海外資産管理本部である。
 
 池田の海外“巡業”がバラ撒きだとしても、なに、一方で海外ソーカガッカイは日本と同じように財務でカネ集めをやる。日蓮正宗(創価学会に対するフランス下院の報告書が発表されたのは三年前のことだ。(「赤旗」60・4・16号=パリ特派員発)
 報告書は、「公明党と関係をもつ創価学会」として、「このエセ仏教セクトはフランス仏教協会からたえず非難される特殊性をもって」いると述べている。そして、フランス仏教会プラン会長から創価学会インターナショナル・池田会長あて一九八二年十二月の書簡を引用している。
 「今日、私はフランスでのあなた方の組織の金銭に関する『いかがわしい』関係について、あなたに注意を喚起します。
 三つの点をとりあげましょう。
 一、会員に金を払わせるための圧力
 二、集めた資金の管理を要求する会員に対する暴力
 三、日蓮正宗欧州協会とフランス日蓮正宗の間の会計上の混同」
 
 米国では「創価学会」イコール「公明党」。政治団体にされるので、NSA(ニチレンシヨーシュー・オブ・アメリカ)の名称を用いる。さすが米国ともなると、創価学会程度の新興宗教は珍しくもない。もっと恐怖的な狂信が猖獗を極めるから、ご利益、バチ教ではとても太刀打ちできず、全くの伸び悩みだ。
 
 中南米諸国で創価学会が伸びたのは、唯一、パナマである。パナマにおける軍事的独敎者・ノリエガにうまくワタリをつけたものだ。独裁者ノリエガは、麻薬密輸の黒い噂にも包まれているが、池田はノリエガ懐柔にたっぷり金を貢いだ。
 ノリエガに、ブラジル入国斡旋をやらせるためである。保守的な日系人が多いブラジルの政府は日本仏教布教活動を警戒していたが、ノリエガ工作は功を奏した。
 しかし、中南米も、パナマ、ブラジルどまりで、それ以上、布教活動は展開できないでいる。
 この辺がやはり限界なのだ。
 
 池田の海外戦略も、到底、世界宗教の規模にはなりえない。ひところ池田は、国内がうるさくなれば創価学会本部をアメリカに移せばいい、なとど呑気そうにいったらしいが、現実はそう甘くないのである。
 世界宗教の法王は、行く先々で神へ祈りを捧げながらチャンと喜捨をうける。集金旅行だ。
 池田大作は、結局のところ、SGIのキャンペーン、池田の“売名”キャンペーンを続けてきた。
 
 池田は、“売名”キャンペーンを「平和の旅」と称し、国際的平和運動にみせかけるが、実態は、かなり恥多きものといわざるをえない。
     ----------(つづく)---------167
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価・池田大作をブッた斬る-40

2019-06-26 06:43:36 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------(P.160)---(以下、本文)-------
 
▼ 連合論、解党論、連合党をいう公明党のダマシにのるな
 野党連合により比重をかけるなら、公明党の行動は社公民三党共闘に熱を入れそうなものだが、事実は、その気配など一向に現われてこない。
 たとえていえば、昭和六十三年の臨時国会である。税制国会とよばれるこの国会では、政府・自民党は抜本的税制改革法案成立をめざしたものだ。政府・自民党税制改革法案は、中曽根内閣で失敗した消費税導入を柱にしていたが、召集前から、明電工事件、リクルート株讓渡問題など、前途多難を予想させたものだ。
 
 自民党はじめ社会党の現職、前職代議士の名前が飛び出した明電工事件、リクルート株讓渡問題では竹下、宮沢はじめ政府高官、民社党委員長,塚本三郎の名まであがる始末。公明党は砂利汚職で前参議院議員・田代富士男がひっかかるし、ついに池田克也の名前まで出てくる。
 無キズは共産党のみといった具合で、何やら与野党ともにモタつく混迷の条件だけができてしまった。そして、こういう時ほど、公明党の突っ放したりスリ寄ったりの駆引が最も活発化するのだ。
 
 公明党としては、せっかく世間的には政教一体問題が風化しかかったと思う時に、党員議員の池田告発で足元に火がついた。連鎖反応の如く創価学会内が騒然となると、公明のみせかけの野党色はすぐさま玉虫色に変わってしまう。これまでの例でみても、公明党の玉虫色は、反自民か自民寄りかの間を、乗り心地のよい方を求めてきまって往きつ戻りつするだけである。
 矢野は六十二年の中曽根内閣の売上税のことを「去年、名誉会長は、売上税は悪税とおっしやった。わしらもそう思ってたんだから、わが意を得たり、勇気百倍という感じだね……」といっているのだが、今度の消費税導入の税制改革に池田名誉会長の意見が出るまでは公明の動きは流動的だったが、どうやら自民すり寄りのサインが出たとみていたが、自民単独の強行採決を境として、選挙を意識しての強硬突き放しに変わったり、ともかくめまぐるしい変転ぶりである。
 
 社公民三党共闘なんて、もうないのだ。社公民なんぞ、矢野公明党は眼中にない。公明党からすれば、目下のところ、社会党の議席は公民を合わせたものより下回る以上、野党連合構想の主導権も社会党にはないといいたいらしい。「連合」プラス市民無党派をいいだす(「週刊朝日」インタビュー)のは、そこだ。
 得体の知れぬ市民無党派などを持ち出してきたところをみると、これも、すこぶるつきの池田大作発想に間違いない。選挙戦におけるフレンド票集めの新手である。
 野党連合や連合党に、創価学会フレンドを組織しようなど、まことにネオ・ファシズムくさい。野党連合にプラスするなら、市民連合だろう。無党派と限定するのが、ゴマ化しの証拠だ。
 
 私は、矢野公明党が、野党連合の実現を、その先に連合新党を構想する自己否定とやらで日本の政治状況を変えるなどと、まことに壮大なビジョンを語る(前記「週刊朝日」)のを読み、初めから眉ツバだと思っているものだ。矢野のいう自己否定なんか、要するに単なるお喋りなのだ。政権交代可能な二大政党の状況をつくるべしとプチながら、「名誉会長も将来は二大政党時代が望ましいと発言してはる」と付け加えるのを忘れない(同前)矢野の発言などに、「天下の公党」としての自主性など全く認められない。
 つまりは、池田腹話術師が、矢野という“操り人形”を使って喋っているだけのことである。
 
 そういえば、ある公明党員は、こんなことをいった。「公明党の委員長は、池田名誉会長のように、片目を細くみせる。竹入委員長がそうだった。矢野委員長も、近頃は片目を細くする」と。
 ウソかホントか。顰みにならう、というわけだ。
 矢野を池田の腹話術人形に譬えたが、“公明党総裁”は池田のかねてからの願望で、昔も今もそれだけは変わらない。ただ、現在は既にその道は閉ざされてしまったたけだ。
 
 『創価学会を斬る』の中から引いてみる。
 「……今度、この本の出版にあたって、創価学会からさまざまな圧力があったが、そのなかで『池田大作会長のことについての批判は許さない』という注文もつけられた。そこで私は、『政界にのりだしたらどうだ』といったところ、『それは非常に結構です、どうかそういうように池田会長が政界に出馬できるような論陣をはって下さい』というようなことを、私のところに(出版妨害に)やってきた公明党都議会議員が強調していた」
 
 右の都議会議員とあるのは、今日の“反池田軍団”の総帥(?)といわれたりする藤原行正である。藤原行正が、今年になって雑誌の対談で私に語ったところでは、当時、池田大作が「将来、公明党委員長になれるように書くことを、藤原弘達に話してこい」と執拗に命じたんだそうである。
 矢野発言に出てきた、自己否定のことに戻る。矢野の連合構想は、「最終的には、公明党を発展的に形態変化させ、連合の中の一つの部分になる……」というものだが、創価学会との政教分離が大前提でなかったら、とても信用できたものではない。
 
 事は簡単である。公明党は自前の選挙をやること、創価学会は学会員の政党支持の自由を認める、つまり、学会組織として公明党の選挙運動をやめることである。公明党が自前の選挙の洗礼を受けぬ以上、野党連合に動き、二大政党時代をいうのは思い上りも甚だしいというものである。創価学会という集票マシーンから離れて、独り立ちの政党として存立し得るのかが、まず公明党に問われている。
 創価学会は、学会員の政党支持の自由を、世間から信用され得る形式と方法で保障すべきである。学会員に、自民党支持も社会党員も民社党員も、或いは共産党シンパがいても、一切問題は起きない政党支持の自由だ。
 
 以上のような条件は、学会・公明党にとって実行可能と思われるものは、何一つとしてない。
 しかし、公明党には、あえてこれらの条件を“踏み絵”として突きつけねばなるまい。いや、“踏み絵”はキリシタン宗門改めだった。ここは、大石寺の戒壇の“大御本尊”(板マンダラ)をもじって、“踏みマンダラ”としておこう。
 “踏みマンダラ”を踏んだ公明党でなければ、いつさい信用すべからず。学会・公明党のダマシに乗せられるな、である。
     ----------(つづく)---------164
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする