創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ.私の池田大作-22

2016-10-31 08:54:39 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 
    ------(124P)---(以下、本文)-------
7 、私が見た創価学会  大渕 清子
      昭和二十七年一月七日東京都生
      昭和二十八年四月十日入信
      都立赤羽商業高校卒
      元板橋区女子部本部長
      現在、財団戦員
<3-3>
◆ 私のがん闘病記
 最後に私のガンの闘病体験を報告します。平成八年の大腸ガンは再発がないので省きます。平成二四年十一月十四日、日曜日の明け方のことです。
 身の置き所がない位の下腹全体が痛みで目が覚めました。
 痛くて起き上がることが出来ません。私はかかりつけの気功の先生に電話で病状を訴えました。すると遠隔施術が効いたのでしょう。やがて痛みも治まり無事善福寺に参詣することが出来ました。
 気功の先生から「下腹全体なので内科がいいと思うが、膀胱と子宮あたりも痛かったというので、膀胱炎の疑いもあるからまず泌尿器科に行きましょう」と言われました。ただちに泌尿器科に行きました。
  先生はエコーでとても丁寧に診てくれました。「膀胱、腎臓は何でもありませんよ、あ、腸に便が溜まっていますね、便秘だね、早く出した方がいいでしょう」と言われ、「なあ~んだ便秘だったのか」私は安心して帰路につきました。出るものが出ると、その後通常の何も無い日々に戻りました。それでもまだ腸に残つているような感じが取れません。
 十月二十八日、日曜日、大石寺に参詣しました。御開扉前に又例の痛みが襲って来ました。
「あれ、今回は便秘していないのにおかしいなあ。でも痛い!」
 気功の先生が脂汗をかいている私を見て、直ぐに施術をして下さいました。痛みはやがて治まり無事戒壇の大御本尊様の御開扉を受けることができました。気功の先生から直ぐに専門医のところに行くように言われたので、早速消化器専門のクリニックに行きました。
 この先生は内視鏡の権威で、東大にも講師として教えに行っています。(平成八年大腸がんの時にも手術をしてもらいました)先生は丁寧にエコーで何回も診て「腸に炎症の跡がありますよ。でも治っています、治療したあとがありますね。腸は心配ないでしよう。
 それより膵臓に腫瘍があります。CT検査をした方がいいですね」との診断です。
 そのことを話すと気功の先生はCT検査前日、長時間の施術をして下さいました。
 検査のデ-タが、十一月一日パソコンの画面いつぱいに膵臓を映し出しました。
 先生は、隅から隅まで問題のところを何度も繰り返し見ています。先生は何も言いません。私は、年度初めから新法入移行申請書類の作成や数百名の青年の船の受け入れ等のお金関係の処理で、かなり無理をしていました。「大腸がんの経験もあるし、腫瘍はガンかもしれないな、でも何があっても私は御本尊様で治してみせる」と思っていました。
 先生は変わらずCTの画面を繰り返し見て沈黙しています。私にどのように説明しょうか言葉を選んでいるのかも知れないと思い、「先生、私は何を言われても信仰を持っているから大丈夫ですよ」と言いました。すると先生は、やっと口を開き「無いんだよ。膵臓にあったものが無くなっているんだよ」と一言。
 先生としては見落としではないかと思い何度も繰り返し見ていたのだと思います。納得いかないような顔をしていましたが私はにこにこしていました。念の為、再度の血液検査をしたところ数値には何の問題もありませんでした。
  やったー!  第一関門突破!
  先生は「次は内視鏡で胃と大腸を診てみましょう」と明るい声です。
 十一月十日、その内視鏡検査で、大変なことがわかりました。
 画面いつばいに気味の悪い色と形状をしたものが映し出されました。先生は「『食道がん』ですね」と言いました。直ちにレーザーメスの手術。無事切除されました。危機は回避されました。
 私は妙法の不思議さをしみじみと思いました。

◆ おわりに
 私は人の言う事を聞かない頑固なところがあります。もし便秘の腹痛がいままで通りの痛さだったら私は病院にも行かなかったでしよう。そうしたら大腸ポリープ、膵臓の腫瘍を経て食道がんの発見切除という危機克服はできなかつたと思います。歌舞伎役者中村勘三郎さんの例でわかるようにがんの中でも食道がんは生還の難しい病です。食道がんを教えて下さるため、あの激しい腹痛だったのかと改めて御本尊様の慈悲の深さを知りました。あのまま池田創価学会のままでいたら邪信から偽本尊へと進み、いかなる厳罰の人生を送つていたかと考えると心底恐ろしくなります。学会員の皆さんには早く池田大作の謗法の酔から覚めて、速やかに総本山大石寺の戒壇の大御本尊様に参拝されんことを願って稿を終わりたいと思います。
    ----この項おわり----(128P)----つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-21

2016-10-30 08:43:03 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 
    ------(119P)---(以下、本文)-------
7 、私が見た創価学会  大渕 清子
      昭和二十七年一月七日東京都生
      昭和二十八年四月十日入信
      都立赤羽商業高校卒
      元板橋区女子部本部長
      現在、財団戦員
<3-2>
◆ 政教一致の衆院選と参院選のダブル選挙
 我が家は昭和二十八年四月十日、日蓮正宗常在寺で御受戒を受け創価学会に人りました。きっかけは母の病気です。
 母は四人姉妹の末っ子である私を出産すると心臓、腎臓他内臓の様々な病気が発症し、治したい一心で沢山の宗教に関わりました。しかし病状は一向に良くならず、たまたま近所の創価学会の方から話を聞き、藁にもすがる思いで入信致しました。
 真剣に朝晩の勤行、唱題に励むと、数ケ月もしないうちに全ての病気が治ってしまったのです。母はもう嬉しくて、嬉しくて一人でも多くの人にこの仏法の偉大さを話したいと乳飲み子の私を背負って報恩感謝の思いで毎日、毎日折伏に歩きました。母と私はいつも一緒でした。戸田先生の池袋の豊島公会堂で開かれる金曜御書講義には私は、母に背負われて毎回参加をしていたようです。薄暗い照明の事しか覚えていませんが、お山で戸田先生の質問会のことは、はっきり覚えています。
 当時の学会は貧乏人と病人の集まりと言われていました。しかし座談会はいつも功徳と活気に満ち溢れていました。まさか創価学会がこんな謗法の団体になつてしまうとは誰が想像したでしよう。

 創価学会にかげりがはっきりみえたのは、昭和五十四年四月「池田大作突然創価学会の会長を辞任」からです。私が、この辞任の本当の理由--つまり、「お詫び登山」以後も改まらない学会の教義逸脱の謗法路線を御宗門から指弾されて、池田が責任をとっての辞任であった、と知ったのも、学会を離れてからのことです。
 さらに、『懺悔滅罪のために』(暁鐘編集室)で、その会長辞任の直後に、「池田大作は、まず、首脳や最高幹部を締め上げました。五月三日(*「本部総会」の日)の直後、『創価学会は俺そのものだ。私が創価学会の魂だ。お前達は、私の全財産をただ預かっているに過ぎないのだから、“一時お預かりいたします”という一札を書くべきだ。また、私を“水遠の師と仰いでいく”ということも、誓約したらどうだ』と言い、皆から誓約書を取りました。会長を退いたといっても、全てはそのまま、第一庶務も特別室も専用施設も全く変わりません」と書かれていたのです。私はあきれてしまいました。あらためて池田の権力欲のすさまじさに驚いた次第です。
 そんなことはつゆほども知らなかつた昭和五十五年、学会挙げての総力戦を余儀なくされる参議院選挙の年を迎えました。しかも、直前の衆議院解散により、創価学会にとって一番苦手な衆・参同時選挙を戦うことになったのです。参議院選挙は東京地方区と全国区かありますから、実際はトリプル選挙です。
  五月に入ると、六月二十二日の投票日に向けて、秋谷副会長(当時)から、選挙戦について、次のような指導がありました。「三種類の候補者名をいかにおぼえさせるかが鍵だ。F(=フレンド票。非学会員の公明党支持者)は、三人も名前を覚えなさいと言われると、三番目あたりでだんだんイヤになるだろう。それでも、なんとか仕上げていってもらいたい」「東京全体で団結して、このトリプル選挙を勝ち取っていこう。衆議院の一区と八区は、辛勝がやっとで、参議院の票まで手が回るかどうかわからない。そこで余力のある選挙区がカバーして、参議院を押し込んでゆく戦いを展開してもらいたい」「池田先生からは、『大変だけど、北条、秋谷を中心にして、公明党・創価学会は異体同心で戦っていきなさい。お互いに護り、励まして、この戦いを乗り越えていこう』とのお話がありました。最大のチャンスが来たと思って、遮二無二でも突っ込んで、現場の白兵戦で勝利をもぎ取っていきましょう」(以上、趣意)
 引責辞任したはずの池田大作は、舌の根も乾かぬうちに、選挙戦の号令を掛けていたのです。
 板橋区には一一本部があり、一本部が一人の区議会議員を当選させる組織割りになっています。板橋区の女子部本部長だった私は、そのダブル選挙でウグイス嬢の担当幹部でした。板橋文化会館の二階和室で、選挙力ーに乗るウダイス嬢の細かい技術を教え、遊説別のウグイス孃の人選などをします。それが済むと一階に降りて街頭遊説の場所の確認などをします。板橋文化会館の一階の会議室では、全国主任部長の小川頼宣氏(*現在は法華講員)ら、担当の大幹部が詰めて、選挙戦の指揮を執っていました。ビラ、ポスター、チラシ、選挙はがき、(証紙貼りも含む)などがここで割り振られ、一一本部が受け取りに夜遅くやつてきます。
 後に「政教一致問題」の象徴として、非課税の特権を受けた宗教施設が選挙の際の公明党の根城になつていることを他党から追及されました。創価学会は苦しい言い逃れをしましたが、平成二十年、矢野元公明党委員長が「会館が選挙のために使われており政教一致と疑われても仕方がない」と週刊誌誌上で創価学会を告発しました。私の経験に即して言えば、これは本当のことであり、私達にとっては当たり前のことでした。当時の私は何の疑問も感じるどころか使命感に燃え、いそいそと選挙活動に頑張っていたのです。

法華講員として幸せな結婚、そして家族の明暗
 創価学会破門後、平成三年十二月四日私は、“テープ仲間”である大渕両平さんと結婚しました。法道院で観妙院日慈上人の御導師を賜り、福島源次郎・和子御夫妻の媒酌です。式が終わった後、観妙院上人が振り返り「福島さん良かったですね。日蓮正宗は御戒壇様と猊下につきますから」と言われたことがとても印象的でした。主人は十一・一六のテ-プを録つてからドンドン出世し、大手通信社の部次長にまでなりました。高学歴ではないにもかかわらず考えてもしなかつた功徳をいただきました。
 やがて平成四年十月父が亡くなりました。一年前の結婚披露宴の時はあんなに嬉しそうに福島さん、小川さんと話をしていた母が、通夜で訪れた小川さんらを激しく拒絶しました。やむなく小川さんが唱題して家を出ると、家の外には地元の青年部で見たこともない人相の悪い人たちが、ビデオと写真を撮りまくっていました。
 それからというもの、母は私の活動に対して狂ったように反対しました。その母が病で倒れました。入院中の平成二十年、やはり学会員だった姉が交通事故で亡くなりました。
 青信号の横折歩道を歩いている最中に、トラックに胸を礫かれて即死したのです。姉は睡眠時間を削ってまで偽本尊に手を合わせていました。厳然たる罰が出たのです。母はとてもショックを受けた様子でしたが、私は思い切って、「まじめ一方の姉ちゃんがこんな死に方をするなんておかしくない? 成仏とは程遠いよね。これは罰だと思う」と言うと母は茫然としながら素直にうなずきました。猛反対をし続けた母がうなずくなんて、こんなことは初めてです。一五年近く閉ざされていた母の心が開かれ始めたのです。この時ほど御本尊様のお力をありがたく思ったことはありません。
「お母さん、昔、総本山にも何度も連れって行ってくれたよね。もう一度戒壇の大御本尊様にお目通りに行こうよ」というと反対ばかりしていた母は「うん」とうなずいてくれました。「又元気になって一緒に折伏に行こうね」と言うと力強くそして嬉しそうに「そうだね」と返つてきました。
 折伏は一言で決まることもあれば、何十年とかかることもあります。先輩から入信しなくとも折伏の功徳にかわりはないよ」励まされ、折伏し続けてきた甲斐がありました。
       ---------(124P)-------つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-20

2016-10-29 09:26:01 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 
    ------(111P)---(以下、本文)-------

7 、私が見た創価学会    大淵 清子
        昭和二十七年一月七日東京都生
        昭和二十八年四月十日入信
        都立赤羽商業高校卒
        元板橋区女子部本部長
        現在、財団戦員

<3-1>
◆ 「十一・一六」の池田スピーチは私が録音!
 はじめに十一・一六の池田スピ-チ録音について述べます。
 創価学会は、平成三年に日蓮正宗から破門され、今では完全に邪教集団となってしまいましたが、破門に至る過程で、日蓮正宗に反逆しょうとする池田大作の本音が明るみに出たのは、いわゆる「十一・六」平成一一年十一月十六日の本部幹部会における池田スピーチでした。
 ところが、創価学会側は、この録音テープを「出所不明の代物」だと言い張り、池田の問題発言に対する指摘を“言い掛かり”であるとしたのです。しかし、あの「十一・一六テ-プ」は当時学会の女子部本部長であった私が、会場で生録音したものなのです。
 今、その時の経緯を明らかにしたいと思います。

◆ 学会内部からの改革を決意
  私が小川頼宣さん(元・学会本部広報部副部長)に連れられて福島源次郎さん(元・学会副会長)のお宅を訪問したのは、平成元年のことでした。
 その当時の私は、原島嵩氏(元・教学部長)や山崎正友氏(元・学会顧問弁護士)らの内部告発によつて次々に明るみに出た池田大作の女性スキャンダルを耳にし、学会幹部の言う“素晴らしい池田先生”と“スキャンダルまみれの池田大作”のあまりのギャップに、頭の中は混乱していました。
 福島源次郎さんは、私達に対し、池田の妙法観、本尊観、師弟論の誤りを真剣に話してくれました。 そして、執筆中だった『蘇生への選択』の内容にも触れて、「池田の邪義邪説から学会員を目覚めさせる、信心覚醒の戦いをやろうと思う」と、内部からの改革を志していることを打ち明けてくれたのです。
 私達はその場で、一緒に戦うことを決意し、「蘇生の集い事務局」を立ち上げました。
『蘇生への選択』が発売されると同時に『月刊アサヒ』で「池田大作のウソとカネ」という特集が組まれました。読者からは賛同の声、批判の声か寄せられました。そうした中で、小川さんと後藤さんを中心に、賛同者に声を掛け、池袋の区民センタ-で池田の邪義を正す勉強会を開催しました。第一回の受講者は二〇人でしたが、やがて関西、中部、九州、北海道まで広がる全国的な勉強会となりました。池田の邪義から解放されていくごとに、不思議と気分がすっきりと晴れるのです。
 一方、学会の妨害は激しく、会場の出入り口には毎回学会員の車が駐車し、参加者の顔写真を撮ったり尾行して自宅をつきとめ、勉強会参加を阻止したり嫌がらせをするなど大変な日々でした。我が家にも、玄関先にゴミ袋が散乱した状態で置かれたり、玄関の扉には汚物が塗られたりしました。

◆ 「池田の問題発言を録音しょう!」
 福島さん小川さんが大阪や北海道の勉強会に行った折、御住職様から、「池田は間違っています。でも証拠がありません。“五十二年路線”の時は、聖教新聞や大白蓮華で池田の邪義ぶりが公然と書かれていましたから、私たちも攻めやすかつたのです。証拠がほしいですね」と言われたそうです。「よし、じゃあ池田と学会幹部が、何を話しているかテープに録ろう!」平成二年、実際に本部幹部会での池田大作のスピーチをテープに録りに行くことにしました。
 まず機材が必要です。私達は、秋葉原に行き高性能のワイヤレスマイクなどを買いました。
 第一回目は、私が一人会場の渋谷文化会館の中に入り、他のメンバーは録音機材をセットして受信のため近くのホテルで待機していました。私は会合を終えて意気揚々と皆の所に戻りました。バッグの中をふと見ると、機械の入力ランプが消えているではありませんか。スィッチが入っていないのです!
 もう頭の中が真っ白になってしまいました。会場では何度も何度も、スィッチが入っているかどうか点検したはずだったのですが、緊張感のあまり逆にスィッチを消してしまったのです。私はコソコソと帰りました。
 次こそは、と二回目に臨みました。今度はうまくいつた、と胸をなでおろしたのですが、高性能の機材が医者の聴診器のように心臓の音を拾ってしまい、肝心の池田のスピーチが聞こえないのです。落ち込むことばかりです。とにかく唱題をして頑張ろうと次に臨みました。
 三回目はマイクの位置を変え録音をしました。とてもきれいに録音されたのですが、またも操作ミスで、テープの片面のみしか入っていません。
 森田理事長、秋谷会長の話だけで、肝心の池田のスピ-チはほんの少ししか入っていません。福島さんもテ-プを聴いてため息をついて残念がつていたそうです。

◆ 「十一・一六の池田スピ-チ」録音に成功
  そして、平成二年十一月十六日、四回目の挑戦です。場所は、これまでと同じ、渋谷文化会館です。 この時は念のため、もう一人〈大渕両平さん)がテープレコーダーを持ち込むことになりました。私は、入場券を準備してもらっていましたが、万一、そこから名前が判ると危ないと思い、どさくさに紛れ、入場券なしで入ることにしました。
 私はうまくいつたのですが、大溯両平さんは、受付で止められ、ちょっと問題になりました。何とかうまくその場をつくろい、大事には至らなかったそうです。今思うと、やはり魔が強かったのだと思います。この間、ずっと小川さん、後藤さんは蘇生の集い事務局で唱題をしていてくれていたそうです。
  録音テープは、両方とも、きれいに入っていました。小川さんから、「池田の音声もクリアだ。これで複数本のテ-プが入手できた。証拠能力としては十分だよ」と嬉しそうです。私は、ホッとしてその場に座り込んでしまいました。その夜のうち、小川さんはテープを福島さんに届け、福島さんは録音テープと反訳文にお手紙を添えて、それを重大な覚悟で総本山第六十七世日顕上人猊下に送られたそうです。
  私は、「よかった、お役に立てたんだ」心から御本尊様に感謝のお題目を唱えました。
 それから、学会の警戒がとても厳しくなりました。一方、録音するメンバーも増え渋谷文化会館の他、戸田記念講堂や杉並文化会館等、録音活動も上手くできるようになりました。テープはそのつど、小川さんから福島さん経由で提出し続けました。時には危ないこともありました。大渕両平さんが戸田記念講堂にはいった時、受付で取り囲まれて別室に連れ込まれ、数時間にわたって軟禁状態にされたのです。警察を呼んでやっと開放されましたが、録音機に入っていたテープを没収されました。大渕さんは、「蘇生の集い」の勉強会の役員をやっていたことから、学会に写真を撮られていて、その写真が戸田記念講堂の創価班までまわされていたようです。
 それにしても、「十一・一六」のテープがこんな大きな影響を与えるとは、当初は想像もつきませんでした。まして池田大作の総講頭資格喪失から創価学会の破門に至るとは思ってもいないことでした。
 今でも渋谷を通るたびに、あの時の「ドキドキ感」が鮮やかに思い出されます。私にとって十一月十六日は一生忘れられないテープ記念日です。
 それから一四年経ちました。「御法主日顕上人猊下御登座二十五周年奉祝行事の砌」のお言葉の中に、平成一一年は大石寺開創七百年の年なのです。この時に創価学会の謗法が具体的にはっきり出てきたのです。そのはつきりした最初が「十一・一六」なのである。あれも非常に卑怯な形がありました。 どうして学会が卑怯かというと、衛星放送を使って全国の会館に池田のスピーチを流したのです。日本国中、津々浦々の会館に会員をみんな集めて、池田のスピーチを聞かせて、会員を宗門から離させる洗脳を図っていたのです。しかも会館に入る時に、参加の婦人部員のハンドバッグのなかを全部、青年部員に改めさせたのです。なぜ、そのようなことをする必要があるのか。そのなかに、いわゆる盗聴マイクとか、テープレコーダーなどが入っていないか調べるのです。要するに池田大作の言葉が録音されないようにするのです。そのようなことをいちいち調べているのです。創価学会は表面上は「人権だ、平和だ」などと偉そうなことを言うけれども、裏ではいかに汚い策略をまわしているかということなのです。
 池田大作は自分のスピーチの内容を宗門に聞かれてはまずいから、そのようなことをさせるのです。
 ところが不思議に「十一・一六」の池田大作のスピーチの全部が録音されたテープが手に入ったのです。ある人が命懸けでなかへ潜入して、ある所で初めからしまいまでのスピーチを録つてくれたわけです。それがこちらの手に入つたので、創価学会に『どういうことですか』とそのテープ提示して聞いただけなのです。ところがそれに対して創価学会は荒れ狂いました。なぜそんなに荒れ狂う必要があるのか。堂々と言っていることなら、それに対してまた堂々と返事をしたらよいではないか。けれども、彼らは言ったことはどうだ。『こんなテープは、ウソなのだ』と全部、ウソだと言うのです。いかに彼らの考え方の表と裏とが違つているかということが色々な形で解るだろうと思うのです。
 そういうことから、どうしても創価学会は直らないので、はっきりとけじめをつけて、平成三年に破門にしたのです。(大日蓮平成十六年九月号)と有難いお言葉を頂戴いたしました。誠に勿体ないことです。
 話は戻ります。私達は創価学会を脱会して、日顕上人猊下の御慈悲により、晴れて法華講員となりました。なんとありがたいことでしょう。
 法華講になってからの話は後で述べるとして、その前に私の選挙活動について述べたいと思います。
    --------(116P)----つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-19

2016-10-28 08:54:07 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 
    ------(105P)---(以下、本文)-------

6・池田大作の邪義に気づき内部改革!  後藤順子
      善福寺信徒
      佐賀市生まれ
      昭和四十一年八月十五日、入信
      県立佐賀北高、東海大学工学部建築学科卒
      元女子部大B長
      現在「慧妙」社長、銀座のクラブを経営
<4-4>
◆ 「日本を護る市民の会」の闘い
 二〇〇九年七月二十五日、小多仁伯・小川頼宣共著による「池田大作の品格パート2」が日新報道から発売されました。新橋の烏森口にある会場で、小川さんが講演会をしました。そのとき手作りの名刺を差し出した若者が「日本を護る市民の会」代表黒田大輔さんです。右翼団体ではありません。「話を聞いてこれまでの池田大作論と違う観点に驚きました。私達にもぜひビラを配布させて頂きたい」と申し出がありました。
 黒田さん達は、これまでも反創価学会の運動を続けてきていますが、日蓮正宗と関係のない市民団体です。「政教分離を考える会」の作成した「大作ビラ」を一日で八〇〇〇~一万枚戸別配布する驚くべき実行力を示しました。そればかりか池田創価学会の執拗なビラ配布妨害のさまを、ビデオ録画して「『きもカルト』撃退記創価学会員やシンパとのお笑い真剣バトル全記録」として、日新報道から出版しました。
 読んでみると「ポスティングをする場合の注意点」「カルト批判のビラを投函する場合の注意点」「警察に通報された場合の対処法」など、写真を交えて具体的にケーススタディがされていてとてもおもしろいものです。
 なお、「日本を護る市民の会」とは各地で一緒にデモを行いました。
 新宿区でのデモはこんな具合です。
 新宿、靖国通りの大繁華街を、街宣車を先頭に立て、デモ隊二百数十名が後に続きます。大音量のマイクで黒田さんが、「新宿の皆様お騒がせしております。我々は日本を護る市民の会による『反創価学会、反池田大作』のデモ行進でございます。創価学会は、平成三年に本家の日蓮正宗から破門され、宗教的な正当性を完全に失いました。宗教的権威を保つため、池田大作はいわゆる『偽本尊』を作らせました。池田は、宗教的な正当性と権威が全くない偽物を使って、純真な一般信者を騙しているのです」
 と落ち着いた声で道行く人に訴えます。そのあとデモ隊が、「池田大作は偽本尊の作成を信者に謝罪しろ! 公共性のない学会施設には固定資産税を課税しろ! 創価学会の非課税特権を剥奪しろ! 聖教新聞の経費を使つた池田大作の飲食費疑惑を解明しろ! 池田専用の女性集団、『第一庶務』の生活費の出処を説明しろ!」とシュプレヒコ-ルをします。
 すると街頭だけでなく、ビルの中からもデモ隊を見ようと窓際に集まつているのが見えます。
 創価班らしき人はただ表情をかたくして尾行してくるだけですが、街角の若者はけっこう真剣に聞いて拍手などを送ってくれました。後日このデモを見て脱会した学会員もいました。生の声、生の反応。手ごたえは楽しいものです。
 そのほかインターネットを使つて学会本部前からの生放送をしたことは数え切れません。小川さんが出ると画面に「コネリ-おじさんだ」と書き込みが入ります。人気は同じ善福寺信徒の子安潤さんが一番で、書き込みも沢山です。私も「憚りながら」(後藤忠政、宝島社)第四章「創価学会との攻防」などの記事を何回も朗読しました。いつも学会本部のある信濃町は、駅の改札を出るとすぐ尾行がつき、ビデオで撮影しまくられます。
 私達もこの異様な雰囲気が嫌ですが、古くからの商店街の人たちも本音を聞くと不気味がつているのには驚きました。

 ◆ 自公壊滅戦勝祝賀会
 平成二十一年八月三十一日、衆院選の投開票で自公政権が壊滅しました。選挙速報を見ながら、公明大物三人が次々に落選するたびに胸が高鳴り、とくに太田代表の落選には、本当に公明壊滅! こんなことが起きたんだ、御本尊さますごい! 蘇生の集い以来二〇数年間、学会破門からずっと御祈念してきたことが叶った喜びで胸が熱くなり、御本尊様に感謝申し上げました。御書に「あつわらの者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なしと申す事は外典三千余卷に定まりて候。殷のちゅう王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ」(異体同心事)との仰せを、このときほど実感したことはありません。
 同年九月二十三日「自公壊滅戦勝祝賀会」を主催。東京湾に屋形船を浮かべて、反学会ジャ-ナリスト、週刊新潮、週刊文春、週刊ポスト、週刊現代等は編集幹部も含めて八〇名を越すマスコミが参加。みなで一〇年におよんだ自公連立政権壊滅を心から祝いました。それはもう夜更けまで続く底抜けの盛り上がりでした。

◆ 私への攻撃 池袋で暴漢に襲われ肋骨を骨折
 池田公明党の妨害とおぼしき事件は長年にわたり、しかも後を絶ちません。最後に私自身が暴漢に襲われた事件をお話しします。
 平成二十四年九月三十日、私達は池袋でお寿司を食べていました。古いなじみの店です。台風一七号がはげしさを増そうとしたので、早めにのれんを入れました。すると見知らぬ客が入ってきて、ビールを口にするより早く私達にからみ、「お客さん止めて下さい」というお店の大将は、壁まで突き飛ばされました。小川さんがー一〇番する間も乱暴はやまず、私と大渕清子さんはとっさに二人の間に割って入りました。その暴漢の強いこと。四人はあっという間に店外に引きずり出されました。小川さんは一間半ほど路上にふっとばされて、首、肩、腰部打撲。私は肩の打撲と右の第七肋骨を骨折させられました。その痛いことといったらありません。息をするのもつらいぐらいで、寝るのも右の肋骨をかばいながらです。寝返りもまったく打てません。二ヶ月ほどは眠るのが一仕事でしかけつけた刑事に、犯人は逮捕されました。小川さんと私はその足で池袋署に行き暴行事件として暴漢を告訴。私は後日診断書を添えてさらに暴行傷害罪として告訴しました。
  担当検事に呼ばれて、初めて東京地検に入りました。検事さんは、「犯人は、前の店で焼酎を二〇杯飲んだので何も覚えていない。先様がそういうならそうでしょう。全部認めます」と言っています。暴行は酔ったあげくであり犯意はない、過失と言っていたのです。犯意がなければ罪は軽くなります。「犯人の言葉は明瞭で、ろれつは回っていました。足もふらついていませんでした」と話し、厳罰を求めました。
 なんだか警察に逮捕されたときのことも考慮して、弁護士と綿密な打ち合わせをしたのかと思わせる暴行事件でした。
  私は学会が恐れる破折の新聞、「慧妙」の社長と、銀座七丁目並木通りで小さなクラブのママをやっています。池袋での襲撃事件をお店のお客様に話すと、即座に「創価学会のやらせじやないの」と口をそろえて心配してくれます。

◆ おわりに
 先の衆議院選挙で自公は再び政権に帰り咲きました。七月の参議院選挙でも自公が勝てば(多分勝つでしよう)、安倍自公政権の低姿勢は手のひらを返すように変わるでしよう。憲法が改正され、自衛隊が専守防衛のくびきから放たれたら、戦争は現実のものとなりかねません。フセインを殺したイラク戦争でわかるように、戦争状態になれば、アメリ力でも言論、集会の自由は大幅に制限を受けるのです。
  これまで私達に加えられている妨害が、広く国民に及ばないともかぎりません。国家中枢に宗教権力が居座るのは近代国家の原則に反しています。自公政権は強力すぎる相手ですが、それでも私達は「立正安国論」におおせの「悲しいかな数十年の間、百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷へり。謗を好んで正を忘る、善神怒りを成さざらんや。円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」とある「一凶を禁ぜん」闘いを続けたいと思います。
    ----この項おわり----(110P)----つづく--

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サヨナラ.私の池田大作-18

2016-10-27 09:00:43 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 
    ------(98P)---(以下、本文)-------

6、池田大作の邪義に気づき内部改革!  後藤順子
      善福寺信徒
      佐賀市生まれ
      昭和四十一年八月十五日、入信
      県立佐賀北高、東海大学工学部建築学科卒
      元女子部大B長
      現在「慧妙」社長、銀座のクラブを経営
<4-3>
◆ 妙観講員不当逮捕事件と抗議活動
  平成二十年三月下旬、妙観講の婦人講員二名が野方署に逮捕されました。
 仏壇から学会製の偽本尊をはずしてはさみで切断したというのが理由で、住居不法侵入、強要、器物破損の疑いがあるというのです。
 偽本尊はその学会員が自分ではさみを人れました。本人がかいた「勧戒願」もあります。普通は事情聴取が先でしょう。自宅を訪れていきなり逮捕というのは道理に合いません。
 三月二十五日たたみこむように、フジテレビが妙観講の名前、逮捕された二人の名前、年齢を二ュース報道しました。野方署の有無を言わさぬ逮捕、フジテレビの一方的な報道。ここから見えてくるのは全国の末寺の法華講員を逮捕したら即ニュ-ス報道という危ない図式です。「違法な謗法払いをする法華講、それを放置する日蓮正宗総本山の責任を問う」という作られたキャンぺーンが懸念されます。
 私達は古谷球子さんを代表とする「不当逮捕された生田さん伊藤さんを支援する会」を結成し、四月二日、「なぜ事情聴取なしに逮捕したのか」と野方署に抗議申し入れをしました。警察は「こんな大勢の人と話せない」というので古谷さんと小川さんが応接室に通されました。こんな内容が話されたようです。
「ところで今回の不当逮捕は公明党筋から圧力がかかったという話を聞いていますがどうなのでしょう?」と聞くと「そのようなことはないと思います」。すかさず「そうですか。公明党の藤井富雄元東京都議会議員が『立件方お願い』で伺ったときいておりますがどうですか?」と切り込むと「それもないと思います」と無表情で課長は答えたが、隣席の課長補佐の目が激しく動いた。「やっぱり図星だつたんだ」と思って応接間を辞したそうです。野方署の刑事さん達はいきなり核心にふれられたので虚を突かれたようです。

◆ 公明党のドン藤井富雄が野方署に圧力
 藤井富雄が野方署に圧力をかけていた事実は、前日「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」を受賞したジャ-ナリストから確認が取れていました。
 その足でフジテレビに抗議へ向かいました。ゆりかもめに乗ったのはこの時が初めてです。受付で、社長か報道局長にお会いしたいと言うと、総務部長職の名刺を持った人が現れました。古谷さんが抗議書を渡し、小川さんが口頭で抗議内容を補足しました。
 四月三曰、弁護士会館で記者会見。
 八社一一名の記者の中に昨日のフジテレビの総務部長職の人もいます。硬い表情です。
 古谷さんが事件の経過と抗議主旨を話した後、小川さんが公明党のドンの介入を示唆しました。会見終了後、週刊新潮が敏感に取材を始めました。
 四月八日、不当逮捕拘留されていた生田和子さんと伊藤奈津美さんが警視庁から釈放されました。釈放された二人の話の中で、特記すべきことがいくつかあります。
 ひとつは家宅捜査した際に名簿と組織図をほしがっていたこと、担当の内藤検事は、班長、幹事、部長、支部長、講頭の関係を繰り返し聞いていたそうです。更に「ご供養はどこへ行くのか」との質問があり、「妙観講から本山理境坊へいく」と答えたとのことです。前者は組織の指示系統を追っているものであり、後者は、資金ルートの流れを追っているものです。これらは今回逮捕の理由である住居侵人罪、器物損壊罪、強要罪とは無関係な捜査です。検察の狙いがこの事件に名を借りて、最終ターゲットが日蓮正宗総本山であることをうかがわせるのに十分です。
 週刊新潮は発売前日に広告を出します。四月九日、丸の内線の中吊り広告に「『公明党のドン』が警察に圧力をかけた『創価学会』脱会工作事件」とでました。記事を読むと、藤井富雄の実名入りです。「やったあ!」と快哉を叫びました。

◆ 「政教分離を考える会」で池田公明党を攻撃
 この経験から私達は、権力と一体になって妨害を加えてくる創価学会そのものと闘う必要があると感じました。これまで活動してきた「日本カルト研究協会」を発展的に解消し、「政教分離を考える会」を設立しました。事務所は引き続き磯村千恵子さんの自宅をお借りすることになりました。磯村さんは蘇生の集い事務局の草創からのメンバーです。
 平成二十年十月のことです。
  自公政権にくさびを打つには、創価公明党の「政教一致」疑惑を追及することが効果的でしよう。来るべき衆院選挙にむけて、目標は政権中枢にいる公明党の議席を減らし、下野させることです。池田大作のコント口ール下にある政党が政権中枢にいることは、憲法違反の疑いが濃厚なのです。
 この目的を達成するためには出版活動とビラの作成と配布です。大新聞とテレビはすでに大半が創価学会の間接的検閲下にあるようなもので、本当のことを言つているのは週刊誌ぐらいなものです。もっと自由にものを言いたければ本を出版するかビラしかありません。
 ビラは何度も弁護士にみてもらい、池田公明党からの妨害に備えました。十一月一日に刷り上がると、ホ-ムぺージからもビラのプリントアウトができるようになりました。ただちに全国からビラの注文が殺到。反応の速さに驚きました。十一月三日には第一回目の大量配布。
 すると間髪を入れず公明党は十一月五日、警視庁と大阪府警に刑事告訴をしました。公明新聞によれば、虚偽内容が記載された極めて悪質なビラで、名誉棄損に該当するというのです。五日に起訴されたというのであれば、四日中には訴状ができていなければなりません。
 つまり四日の午前中には弁護士が配布されたビラの文案を検討し、問題箇所を訴状に作成し、その決済を太田昭宏代表に受けたと言うことです。(その後告訴は七つ増え、それからの告発はいちいち数え切れません)
 なんと過敏な……。私はあきれ顔でしたが、小川さんは「公明党の保証する言論の自由は、一日が限度らしい」と笑って弁護団を結成しました。
  ビラは池田大作を国会に喚問しましょうといっているのになぜ公明党が告訴するのでしょう。池田公明党は政教一体を自ら認めたようなものだと思いました。

◆ 妙観講有志の闘い
 各地で百万枚単位でビラが配布されました。いろんな団体と個人の方ががんばってくれましたが、妙観講有志と「日本を護る市民の会」の戦いぶりは突出していました。まず、妙観講有志について述べます。彼らは配布枚数も群を抜きましたが、被害も群を抜きました。
 西葛西署管内でビラを配布していた妙観講員である大学生二人が、学会幹部らに二度にわたつて暴行傷害事件をおこされました。二度目は傷害現場をビデオで収めることに成功しました。何故犯人が学会幹部といえるのかというと、小川さん宛に訴状を送ってきたからです。
「ビラに使われている暴行シーンの写真は目隠し処理をしてあるが、まぎれもなくそれは自分だ。だからこれは肖像権侵害と名誉棄損に当たる」と、損害賠償請求をしてきたのです。なんだか学会幹部は思いつきりトンマなことをします。この裁判では東京地裁と東京高裁で小川さんの全面勝利の判決がおりました。
 また西新井署管内では、配布中の妙観講員の伊藤さんが傘で目を刺され、一時は「失明か」と心配された暴行事件も起きました。そのとき被害者は直前に学会員らしき男たちが、三月に不当逮捕された人の名前をだし、「あいつの旦那だ」と発言しているのを聞いてています。
 いずれも弁護団を結成、ただちに暴行傷害事件として起訴、告発しました。このような暴行傷害事件に遭いながら、学会幹部の脅しにびくともしません。堂々と配布し続ける妙観講員有志のファイティングスピリツトにはおどろきました。
       ---------(103P)-------つづく--

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