創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

しんぶん赤旗の戦い-11

2016-02-22 05:54:26 | Weblog

(政教一体)公明党・創価学会 政権参加を問う しんぶん赤旗・特別取材班
               新日本出版社  800-  2000/3
    -------(P58)--以下、本文--

池田氏の新年会発言 
◆否定できない“創価学会主導”
 一九九九年一月二日、東京・八王子市にある富士美術館で、公明党幹部も出席して開かれた創価学会の幹部新年会。
 池田大作名誉会長の誕生日に当たるこの日は、以前から、学会・公明党幹部が「P献金」と呼ばれる多額の“祝い金”を持参、新年のあいさつを聞くのが習わしでした。
 公明党がこの年の出席予定者に配った「ご案内」と題した文書があります。
「1月2日9時30分から45分までに」美術館前の「創美レストランの入口」に集合し、「5階の会議室で待機」せよなどの指示。午前十時半の開会予定が「早まる可能性」があるとも書かれており、池田氏の登場を全参加者が緊張して待つ姿が目に浮かびます。
 ジャーナリストの二木啓孝氏は、この会合の開係者から、次のような話を聞いたといいます。

◆市川雄一氏を名指しして……
「新年のあいさつの後、池田名誉会長が市川雄一(元公明党書記長、元新進党政務会長)を名指しして『君にはだまされた。小沢一郎と組めば政権がとれるといったじやないか。 小選挙区なんてのはだめだ。ちゃんとやってくれ』という内容の話をした。市川は顔を真っ赤にし、他の議員も自分たちが怒られたと感じた」
 テレビ番組(テレビ朝日系「朝まで生テレビ」九九年九月二十四日)で、創価学会広報室長とも激しい論争になったこの池田発言について、二木氏はいいます。
「池田氏の発言には、三つのメッセージがあったと参加者は受け止めた。一つは、本当に政権をとれということ。二つはそのためには野党でなく、自民党と組め、ということ。三つ目は小選挙区から中選挙区制にしろ、ということ。 創価学会と自民党の水面下の接触は続いてきたが、池田氏が衆参の国会議員の前で公然と号令をかけたことで、公明党の急転換が始まったとみると、この間の経緯がよくわかる」
 この直後の政界での“夜の動き”を、先に見た「毎日新聞」連載はこう描写しています。
「今年(九九年)1月13日夜。東京・赤坂の料理屋に野中氏、古賀誠自民党国対委員長、神崎氏、冬柴鉄三公明党幹事長らが顔をそろえた。自自連立の協議が決着し、連立政権が発足する前夜の宴だった。
『自自連立ができたが、ほとほと疲れた。本当にやりたいのは自公なんだ』と野中氏はしみじみ語った。神崎氏らは……『約束どおりクッションを作った。早く(自公)連立に向けての党内調整をしてほしい』とのメッセージだと受け取った。公明党内でも、政治路線をめぐる深刻な議論が始まった」(九九年七月二十五日付)
  時期といい、場所、顔触れといい、自自連立の陰で、公明党への働きかけが、いかに深く進行していたかがうかがえます。
  こうして、表舞台での、小渕首相の訪米中の自自公連携発言(九九年五月二日)、秋谷学会会長の「自民との連携も選択肢の一つ」との発言(「聖教新聞」九九年六月八日付)、自公党首会談での連立参加の公式要請(九九年七月七日)をへて、公明党は九九年七月二十四日の臨時党大会で、連立参加を正式に決定します。                   
 この間、まだ連立政権が発足もしていないのに、自自公三党により、戦争法、「国旗・国歌」法などの悪法が、国会でのまともな審議もなしに、つぎつぎとゴリ押しされてきたことは、まだ記憶に鮮やかです。
 自公(自自公)連立で、公明党がやっきになって喧伝している問題の一つに「連立参加」は「党が決断」したのであり、「創価学会主導説は一部マスコミの『誤報』」(「公明新聞」九九年九月三日付など)だとのいい分があります。

◆真の支配者を竹下氏も熟知
 しかし、「毎日新聞」が報道した竹下-秋谷会談といい、池田氏の新年会での発言といい、公明党の主張は、どこからみても成り立ちません。
 加えていうなら、九九年七月七日の自自公党首会談の直前に、小渕首相みずからが秋谷学会会長と密談していた、との週刊誌報道(『週刊現代』九九年九月四日号)もあります。
 先国会の会期末、衆院の定数削減問題で自由党が態度を硬化、「連立離脱」をいいだした際も、小沢党首の足が向いた先は公明党ではなく、やはり創価学会--秋谷氏でした(「小沢氏、秋谷創価学会会長と会談」=「毎日新聞」九九年八月五日付)。
 これら数々の事実は、何より公明党を「必要」とする相手自身が、この特異な政党の真の支配者がだれであり、どこをおさえれば事が進むかを熟知していることを示しています。
 そして、それを最も知る人物こそ、いまは病床にありながら、「闇将軍」田中元首相の下で身につけた周到な根回しで“子飼い”の小渕氏を総理の座につけ、中曽根元首相、亀井自民党政調会長らの支持も得て、陰で自自公連立誕生の舞台回し役を演じ、政界に隠然たる力を保持する竹下登氏その人です。
 しかも、竹下氏にすれば、秋谷氏といえども単なるパイプ役--代理人にすぎないことは、いうまでもありません。

  禁じ手破った自民 
◆動機は“数の力”と反共
 竹下元首相が一九九八年「春先」に、決定的に重要な会談をしている、との小渕首相周辺からの情報があります。
 九八年「春先」といえば、たしかに奇妙な動きがありました。
◆突然の謝罪劇政権絡みか……
 自民党機関紙「自由新報」(現「自由民主」)が九六年一月から翌年十月まで、評論家の俵孝太郎、内藤国夫(故人)両氏の執筆で連載した「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」。そのうち、池田名誉会長にかかわる係争中の女性スキャンダルを取り上げた四回分について、自民党が、創価学会からの抗議申し人れを全面的に受け入れ、九八年四月、突然、謝罪したのです。
 自公両党機関紙と「聖教新聞」は、それを大々的に報道。創価学会は、池田氏も出席した九八年四月二十日の本部幹部会(東京・八王子)で、秋谷会長が経過を報告。橋本龍太郎首相(当時)らから「お世話になりました。名誉会長にもよろしく」との電話があったなどと紹介し、その模様は、全国のおもな学会施設に衛星中継されました。これを「あらかじめ連絡を受けた衆参の公明系議員らが、神妙に見入った」といいます。
 突然の謝罪劇に、反創価学会の宗教団体を支持基盤にする自民党議員らは猛反発。政界には「学会と太いパイプを持つ野中が、橋本から竹下まで根回ししてやらせた“歴史的な手打ち式”」「自民の狙いはもっと深く、社民党が参院選を前に政権離脱をいいだしたなか、政権絡みだ」などとの観測が流れたものです。
 この謝罪劇が「春先」にあったとされる竹下氏の「重要会談」と、何らかの関係があるのか--。九八年春出版された『佐藤栄作日記』第二卷に、「池田大作会長と六時半に会ふ。夜食を共にしながら約三時間ばかり話して別れる。公明党との協力関係出来るか」(六六年一月八日分)との記述が登場。
 それを事前に紹介した「朝日新聞」報道を受け、「聖教新聞」(九七年十月五日付)が、佐藤-池田会談の模様を一面から三面まで使い大々的に再現してみせた後の動きだけに、見過ごせません。
 これまで見てきたように、自自公連立は、国民の予想を超える周到な準備と、政界深部での不透明なうごめきのなかで生み落とされたものです。いま隠されている事実も、時の流れとともに、かならずや光が当てられていくでしょう。
 ところで--。
 これまで自民党は、創価学会・公明党を事あるごとに利用しながらも、この政党と政権を共にすることは決してありませんでした。創価学会・公明党とある意味では命をかけてたたかい、九九年七月、六十二歳で亡くなった評論家の内藤国夫氏(元「毎日新聞」記者で言論出版妨害事件の被害本『公明党の素顔」の著者)などは、「ー部の派閥が手を握ったとしても、自民党が全体として創価学会・公明党と組むことは絶対にない。自公政権などあり得ない」と語るのが常でした。
 けれども、自民党は今回、みずから禁じてきたことをついに破りました。
 その直接の動機は、宮沢内閣を最後に九三年以来、自民党単独政権が困難になるなか、参院選での深刻な過半数割れが直。揺らぐ政権基盤の立て直しを緊急に迫られたことです。同時にそれは、裏を返せば、「日本改革論」を掲げ、唯一の革新野党として選挙のたびに国民の支持を広げる日本共産党を、何とかして封じ込めようとのねらい-反共・封じ込め戦略でもあります。

◆自民党政権の“反共の先兵”
 創価学会・公明党は、その特異な教義から、かっては共産主義を「憎悪の哲学」と呼び、日本共産党を、仏道修行の妨げとなる“障魔”のうちでも最も悪質な「天魔」呼ばわりし、「撲滅」の対象にしてきた勢力。そればかりか、自分から会談を申し入れ、「ファシズムの攻撃」から「相互に守りあう」などを内容とした共・創協定(七四年十二月調印。
 翌年七月公表)を結んだのに、発表直後から秋谷現会長らが死文化を画策。竹人義勝公明党委員長(当時)にいたっては、「共産党は、軍国主義的全体主義とは形を変えた全体主義政党でないと言い切れない」「この十年間、日本共産党とは血みどろの戦いを続けてきたし、後も全力をあげて戦う」とまで言い切った歴史を持っています。
  その意味では、政権党にとって彼らは、単なる「数の力」を超えた、かっこうの“反共の先兵”なのです。
 今回の連立の過程でも、野中氏ら自民党首脳は、創価学会・公明党幹部に「野党共闘までならいいが、その先、共産党と政権を組めるのか」と、何度も決断を迫ったといわれます。他方、迫られた学会・公明党も、参院選で「共産党に、議席とともにとくに比例票で追い抜かれたことが、七二年総選挙で(曰本共産党に)野党第二党の座を奪われた以上の銜を受け、強烈な反共意識にー気に火がついた」(新聞記者出身の政治評論家)といいます。
 こうした反共・自公(創)連立の源流は、どこにあるのか。少しふり返ってみることにしましょう。
 自民党田中派と創価学会・公明党とのただならない関係の始まり。それが六九年暮れに表面化した言論出版妨害事件の際、当時の田中角栄自民党幹事長が、評論家・藤原弘達氏(故人)を東京・赤坂の料亭に呼び出し、同会を批判した『創価学会を斬る』の出版を思いとどまるよう圧力をかけた--田中氏いうところの「おせっかいをやい」た件にあることは、広く知られています。
 その田中元首相が、創価学会・公明党について、思わず本音を語ったことがあります。
       ---------(66P)-------つづく--

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