<サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
これでもあなたは信じますか 内藤国夫 (日新報道 1989/06)
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◆ 野崎 勲・至亮
兄弟京大卒パワーもいまいち冴えない
兄弟そろって京都大学の出身。兄は一浪して入学。弟は現役でのストレート合格。学会内で頭角を現わしたのも、弟の勲の方がずっと早い。弟が表舞台向きであるのに対し、兄の至亮は裏舞台でコツコツと仕事をする苦労人タイプ。
勲の得意なセリフは「私が創価学会の後継者です」「学会の将来の仕事は全部私がやります」などの勇ましい宣言。事実として、池田から新弟子証の№1を賦与された。若手幹部の中では“野崎コレクション”という言葉がはやった。勲が四十九年、三十二歳の若さで青年部男子部長に就任した際に、各方面から優秀な人材を集め、自分を中心にした人材グループを作り始めたことによる。野崎コレクションの有力メンバーとしては、後の青年部長の太田昭宏、男子部長の溝ロ隆三、同書記長の松島規、石黒東洋らがいる。
勲は“意気天を衝く”タイプの男。一時は学会の若手活動家の殆どを糾合しかねない勢いだった。
先輩の原島嵩、桐村泰次、上田雅一らで結成されていた特別書籍(池田のブレーン的機関で、著作物の代作を一手に引き受ける)にも参加。学会の機関誌『大白蓮華』誌上で池田の相手役となり“仏教対話”を連載するパフォーマンスぶり。
しかし“好事魔多し”。ハッスル坊やは四十代半ばにして胃ガンを患い、パワーをまたたく間に失った。野崎コレクションも、空中分解した感じである。後継者の夢はあっけなく潰えさった。
☆
兄の至亮は、特別書籍のメンバーに加わり、婦人部の教学部長を務め、婦人部内に至亮ファンをふやした。『法華経を語る』と題する池田著作物を始め、多数の代作を引き受けた。一時は、弟に大幅に遅れて“池田病”の重症患者になったかの感じがした。
しかし、至亮の心中深くには池田批判の思いが秘められており、先輩の原島嵩教学部長が師匠批判に踏み切った際には、資料持ち出しや池田批判文書の作成に協力した事実もある。心底、池田病に酔える弟と違って、兄の方は酔ったフリをするだけ。師匠の池田は、その辺りの複雑な心境を見抜いており、聖教新聞社の一家、満座の前で至亮を怒鳴りつけたり、教学研究室という窓際族ポストに追いやったりして、警戒心を解いていない。
学会内にあっては珍しい兄弟京大卒パワーは、結局のところ不発に終わるようだ。
◆ 松島 淑・規
名門・松島一族の悲喜劇の体現者
親子や夫婦、兄弟などの関係と、池田の説く師弟の関係と、実際にどちらが強いか。師匠を絶対視する池田は、師弟関係が何にもまして強いし優先されるべし、と常々説いてやまない。
実際には師弟関係が強い場合もあれば、家族関係が強いこともある。一概に、どちらが強いと明確にはいいきれない。 その難しさを身を以て示すのが、学会の名門とされる松島一族である。
松島勇・ふく夫妻の間には、郁子、通子、淑、規の四人の子供が生まれた。昭和二十年代の後半から三十年代にかけて、埼玉・大宮を拠点とする松島一家は、それこそ学会員が群れ集う座談会や作戦会議の場として、活況を呈した。会長に就任する以前の参謀室長・池田大作も足繁く松島家通いを続けた。
四人の子息は、長じて今は熟年世代になりつつある。
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長女の郁子は藤原行正と結婚し、三児の母となり、今や孫までいる身である。
次女の通子は渡部一郎と結婚し、一時はおしどり国会議員として騒がれた。池田とのスキャンダル相手の代表、第一人者(?)である。
長男の淑は、聖教新聞社の論説委員長を長く務める。つい最近、副会長にも起用された。学識の深さ広さでは学会№1と評価が高い。
そして次男・規。かっては男子部書記長として鳴らし、野崎勲とともに池田の親衛隊組織である「伸一会」を結成した。しかし皮肉なことに、昨年五月の伸一会総会で、野崎は規の伸一会からの除名を発表した。師匠・池田大作に背き、藤原軍団の一員とみなされたのが、除名の理由とされる。
藤原行正・郁子の次男・範昭は、松島規にとって甥・叔父の関係になる。そして、規が将来のニューリーダーとして甥の範昭を擁立しょうとしたのは事実である。しかし、規が伸一会を除名された時点では、すでに「元」藤原軍団員と化した。藤原行正・範昭親子の戦略戦術に違和感を覚えたのか、グループとの接触を絶って、既に一年余が経過する。といって、もちろん、再度、池田派に寝返ったわけではない。“一人信心”に近い状態になっているようだ。
師匠・池田と松島一族がどういう関係にあるかをまとめてみよう。
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両親の勇・ふくは大の大作嫌いであった。勇は四年前の六十年、高齢のため死去したが、その葬式に大作が寄せた「名誉本部長賞」を遺族は祭壇に飾らず、奥にしまいこんだ。
ふくは夫・勇の死去一週間後、大宮を離れ藤原行正・郁子夫妻と同居するようになった。八二歳と高齢ながら、読書を楽しむなど元気いっぱいである。「娘二人のうち一人は池田大作に盗られたけど、行正さんのお陰で一人は助かってよかった」と義理の息子に感謝する。大作に盗られた娘、つまり渡部通子は老いた母に会おうともしない。夫の渡部一郎に至っては、義父の法事に顔さえださない。
娘二人のうち姉は、池田の意に従わないことで三十年に渡り、すさまじいイビリを受け、精神的には大いに悩みながらも、母や夫の家族関係を優先し続けた。
妹は池田と深い関係になりながら、渡部の求婚を受け入れ、二君にまみえた。その結果、夫婦そろつて国会議員にしてもらえたものの、親や兄弟柿妹の関係を自ら切って捨てた。
では、松島の兄弟二人はどうしたか。
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兄の淑は師匠・池田に従い、それなりの待遇を得ている。しかし、甥の範昭から破折された際には何の反駁もできず、その場は平静を装ったものの、精神的ショックは大きく、持病を再発させてしまった。頭はシャープだが、肝っ玉が小さいのである。
弟の規は、師匠宣揚派から批判派に転じた。政治学者の丸山真男教授を尊敬し、リベラルであろうと努力する。学会幹部であっても、知的で楽しい会話を交わせると知った点で好印象を私はもっているのだが、近頃のもぐりっぱなしが気にかかる。師匠を捨て、同時に親・兄弟の仲も清算してしまったのだろうか。“グループS”の浮上、活躍を願うと同じように、規にも「出るべき時、出るべき所にきちんと出てこい」とここに要望しておこう。
-----(134P)----つづく--
〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉