創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明のスキャンダル-21

2018-08-31 08:12:01 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.129)---(以下、本文)-------

野崎 勲・至亮
     兄弟京大卒パワーもいまいち冴えない
 兄弟そろって京都大学の出身。兄は一浪して入学。弟は現役でのストレート合格。学会内で頭角を現わしたのも、弟の勲の方がずっと早い。弟が表舞台向きであるのに対し、兄の至亮は裏舞台でコツコツと仕事をする苦労人タイプ。
 勲の得意なセリフは「私が創価学会の後継者です」「学会の将来の仕事は全部私がやります」などの勇ましい宣言。事実として、池田から新弟子証の№1を賦与された。若手幹部の中では“野崎コレクション”という言葉がはやった。勲が四十九年、三十二歳の若さで青年部男子部長に就任した際に、各方面から優秀な人材を集め、自分を中心にした人材グループを作り始めたことによる。野崎コレクションの有力メンバーとしては、後の青年部長の太田昭宏、男子部長の溝ロ隆三、同書記長の松島規、石黒東洋らがいる。
 勲は“意気天を衝く”タイプの男。一時は学会の若手活動家の殆どを糾合しかねない勢いだった。
 先輩の原島嵩、桐村泰次、上田雅一らで結成されていた特別書籍(池田のブレーン的機関で、著作物の代作を一手に引き受ける)にも参加。学会の機関誌『大白蓮華』誌上で池田の相手役となり“仏教対話”を連載するパフォーマンスぶり。
 しかし“好事魔多し”。ハッスル坊やは四十代半ばにして胃ガンを患い、パワーをまたたく間に失った。野崎コレクションも、空中分解した感じである。後継者の夢はあっけなく潰えさった。
                      ☆
 兄の至亮は、特別書籍のメンバーに加わり、婦人部の教学部長を務め、婦人部内に至亮ファンをふやした。『法華経を語る』と題する池田著作物を始め、多数の代作を引き受けた。一時は、弟に大幅に遅れて“池田病”の重症患者になったかの感じがした。
 しかし、至亮の心中深くには池田批判の思いが秘められており、先輩の原島嵩教学部長が師匠批判に踏み切った際には、資料持ち出しや池田批判文書の作成に協力した事実もある。心底、池田病に酔える弟と違って、兄の方は酔ったフリをするだけ。師匠の池田は、その辺りの複雑な心境を見抜いており、聖教新聞社の一家、満座の前で至亮を怒鳴りつけたり、教学研究室という窓際族ポストに追いやったりして、警戒心を解いていない。
 学会内にあっては珍しい兄弟京大卒パワーは、結局のところ不発に終わるようだ。

松島 淑・規
      名門・松島一族の悲喜劇の体現者
 親子や夫婦、兄弟などの関係と、池田の説く師弟の関係と、実際にどちらが強いか。師匠を絶対視する池田は、師弟関係が何にもまして強いし優先されるべし、と常々説いてやまない。
 実際には師弟関係が強い場合もあれば、家族関係が強いこともある。一概に、どちらが強いと明確にはいいきれない。 その難しさを身を以て示すのが、学会の名門とされる松島一族である。
 松島勇・ふく夫妻の間には、郁子、通子、淑、規の四人の子供が生まれた。昭和二十年代の後半から三十年代にかけて、埼玉・大宮を拠点とする松島一家は、それこそ学会員が群れ集う座談会や作戦会議の場として、活況を呈した。会長に就任する以前の参謀室長・池田大作も足繁く松島家通いを続けた。
 四人の子息は、長じて今は熟年世代になりつつある。
                      ☆
 長女の郁子は藤原行正と結婚し、三児の母となり、今や孫までいる身である。
 次女の通子は渡部一郎と結婚し、一時はおしどり国会議員として騒がれた。池田とのスキャンダル相手の代表、第一人者(?)である。
 長男の淑は、聖教新聞社の論説委員長を長く務める。つい最近、副会長にも起用された。学識の深さ広さでは学会№1と評価が高い。
 そして次男・規。かっては男子部書記長として鳴らし、野崎勲とともに池田の親衛隊組織である「伸一会」を結成した。しかし皮肉なことに、昨年五月の伸一会総会で、野崎は規の伸一会からの除名を発表した。師匠・池田大作に背き、藤原軍団の一員とみなされたのが、除名の理由とされる。

 藤原行正・郁子の次男・範昭は、松島規にとって甥・叔父の関係になる。そして、規が将来のニューリーダーとして甥の範昭を擁立しょうとしたのは事実である。しかし、規が伸一会を除名された時点では、すでに「元」藤原軍団員と化した。藤原行正・範昭親子の戦略戦術に違和感を覚えたのか、グループとの接触を絶って、既に一年余が経過する。といって、もちろん、再度、池田派に寝返ったわけではない。“一人信心”に近い状態になっているようだ。
 師匠・池田と松島一族がどういう関係にあるかをまとめてみよう。
                      ☆
 両親の勇・ふくは大の大作嫌いであった。勇は四年前の六十年、高齢のため死去したが、その葬式に大作が寄せた「名誉本部長賞」を遺族は祭壇に飾らず、奥にしまいこんだ。
 ふくは夫・勇の死去一週間後、大宮を離れ藤原行正・郁子夫妻と同居するようになった。八二歳と高齢ながら、読書を楽しむなど元気いっぱいである。「娘二人のうち一人は池田大作に盗られたけど、行正さんのお陰で一人は助かってよかった」と義理の息子に感謝する。大作に盗られた娘、つまり渡部通子は老いた母に会おうともしない。夫の渡部一郎に至っては、義父の法事に顔さえださない。
 娘二人のうち姉は、池田の意に従わないことで三十年に渡り、すさまじいイビリを受け、精神的には大いに悩みながらも、母や夫の家族関係を優先し続けた。
 妹は池田と深い関係になりながら、渡部の求婚を受け入れ、二君にまみえた。その結果、夫婦そろつて国会議員にしてもらえたものの、親や兄弟柿妹の関係を自ら切って捨てた。
 では、松島の兄弟二人はどうしたか。
                      ☆
 兄の淑は師匠・池田に従い、それなりの待遇を得ている。しかし、甥の範昭から破折された際には何の反駁もできず、その場は平静を装ったものの、精神的ショックは大きく、持病を再発させてしまった。頭はシャープだが、肝っ玉が小さいのである。
 弟の規は、師匠宣揚派から批判派に転じた。政治学者の丸山真男教授を尊敬し、リベラルであろうと努力する。学会幹部であっても、知的で楽しい会話を交わせると知った点で好印象を私はもっているのだが、近頃のもぐりっぱなしが気にかかる。師匠を捨て、同時に親・兄弟の仲も清算してしまったのだろうか。“グループS”の浮上、活躍を願うと同じように、規にも「出るべき時、出るべき所にきちんと出てこい」とここに要望しておこう。
  -----(134P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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創価・公明のスキャンダル-20

2018-08-30 08:25:35 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.122)---(以下、本文)-------

山崎 尚見・良輔
     兄弟が敵同士になリ競争させられる
 石田兄弟と違って、こちらは兄弟揃って池田のご機嫌とりを競い合う。ただし、池田から用いられる時期が、兄と弟で決定的に異なる。早い段階では兄の尚見が羽振りを利かし、一時は秋谷の次の会長候補と目された。ただ、若い頃は「一万人に一人の頑健な身体」と自慢していたのに、今は持病の糖尿病が悪化し、体力、気力ともに衰えた。お気の毒だが、今は下りコースである。
 兄と交替するようにこのところ急速にのしあがつているのが、弟の良輔。池田の側近有力副会長であるほかに、聖教新聞社の専務理事(事実上のトップ)、創価学園の理事長を務め、池田の代弁役を果たす。池田もまた「今、私が信頼できるのは長谷川と良輔ぐらいのものだ」と漏らしているとか。ごく最近では、秋谷会長の決裁した案件を後からひっくり返すほどの権勢をもつ。
 兄弟揃って学習院大学の卒業。兄の尚見は在学中、落語研究会に入り、話術を勉強した。そのせいか話はソフト夕ツチで上手だし、腰の低さもあって、人ウケがいい。男性でありながら、婦人部長のポストについたことがある。婦人部員のウケもよかった。
                      ☆
 学会にとっても尚見個人にとっても大きな不幸だったのは、人ウケの良さを高く評価され、広報担当の最高責任者(広報室長、広報担当副会長)に用いられたこと。
 広報担当者には人当たりの柔らかさも必要であろうが、より重要なのは、組織の内と外の両方にしっかり足を置くこと。わかりやすくいえば、組織内の意見を外に伝えるだけでなく、組織の外にある意見に耳を傾け、これを内部に持ちこみ、トップの判断、行動に役立たせる、勇気ある姿勢が欠かせない。
 尚見はドン・池田大作の意向を外に伝えようとするばかりで、外が学会をどう見ているか、何を批判しているかを、ドンに知らせようとしなかった。ゴマスリ人間の限界である。そういう人間を広報責任者に起用した池田に人物を見る目がなく、また、マスコミの役割への理解と自覚が足りなかつたといえよう。
 同じ山崎姓でも、山崎正友の方がマスコミ担当者としてはるかに適しているし、才能がある。
 両山崎に接した私なりの人物論であり、学会のために惜しむものである。
 尚見は、とにかく広報担当者として落第であった。尚見の最近のやつれようを見て気の毒に思いはするが、広報担当者がもつべき姿勢のイロハさえ知らなかったことを、この機会にあえて明らかにしたい。
 池田は、そんなことへの理解をまるでもたず、今は兄から弟・良輔への乗り換えに懸命である。自分の三人の息子にさえ忠誠心を競わせる人物であるから、兄弟、夫婦の仲を裂くぐらいは何でもないのだろう。

竹入 義勝・央迪
     老兵は死なず 淋しく舞台を去るのみ
 党首を二十年間も続けて務めながら、委員長のポストを離れたとたん実力ゼロに転落したという不思議な人物が、竹入義勝である。肩書としては、一応、最高顧問になっているが、何の権限も与えられていない。中執に出席し、発言する資格もない。池田によって番犬の親分として用いられ、散々に利用されたあげく、あっさりと使い捨てられたわけだ。腹の中で煮えくり返る口惜しさに溢れているだろうが、といって、今さら反池田で立ち上がる気力と体力がなくなった。衆院議員の身分を失ったら、出身地の長野県にさっさと隠居するつもりらしい。
 池田の眼鏡にかなったからといってしまえばそれまでだが、三、四十代でのこの人の躍進ぶりはすさまじかった。入信後六年、三十三歳で文京区議。翌年の池田大作会長就任式では、栄光の旗手を務めた。以後、三十七歳で都議会議員、すぐに都議会公明党の幹事長就任。四十一歳で代議士、直ちに党委員長に指名された。その後、二十年間に渡って委員長職を続投。与野党を通じて、これだけのキャリアのある人は少なかろう。
                      ☆
 ただし、これをご立派と高く評価できないのは、自ら築きあげたものではなく、雇われ委員長にすぎなかったからである。別名を番犬委員長という。池田大作と創価学会を守るのが最大の使命であり、政党活動はつけ足しか、カムフラージュの域を出なかった。
 池田からは「竹入が最も忠誠である」とお誉めの言葉を貰ったことがあるが、党創設者とのうるわしい仲が続いたのは委員長前半の十年間だけ。後半の十年間は、互いに蔑みながら、利用だけするという関係が続いた。
 落ち目の兄に代わって、池田から取り立てられているのが弟の央迪。創価学会の連絡局で事件処理の仕事を担当する一方で、埼玉県の総責任者を務める。央迪は池田のボディガード役の特別警備出身。知性派に非ずして肉体派。兄・義勝の“七光”でのしあがってきただけ。威張り散らしてばかりいるので、職員の評判はあまりよくない。
 それでいて、からきし意気地がない。埼玉県では現役中堅幹部の間に大勢の反池田派が続出中であるが、それらの造反者が県の最高責任者の央迪を突き上げ、面会を求めると、何かと口実を設けては逃げ回ってばかりいる。
 結局、竹入兄弟は、兄が公明党内で、弟が学会内で同じような仕事、事件処理を担当させられたが、二人揃って大した成果をあげられず、淋しく舞台を去っていくということになるようだ。

二見 伸明・紀久夫
     これまた兄と弟の明暗くっきり
 いい意味でも悪い意味でも、学会が巨大な人間集団であることは間違いない。そこで当然、外部から眺めれば“池田”一色であるかのように見える学会本部、聖教新聞社をはじめとするいわゆる本部職員の中には、様々な考え方や個性をもった人間がうごめいている。
 学会を支える人材群の奥深さを見せつけたのが“グループS” の存在である。
 昭和五十九年の五月号から『週刊サンケイ』誌上で「小説聖教新聞」が連載された。筆者は“グループS”と称する匿名者集団。翌年には単行本として出版された。小説の形をとっているとはいえ、北条浩会長の死去から筆を起こした内部告発は、学会関係者、特に幹部や職員に大きな衝撃を与えた。
 登場人物は仮名だが、内部の人間が読めば、殆どは誰だか特定できる。しかも聖教職員、それも相当の幹部でなければ知りえない学会内の出来事が、正確な夕ッチで展開されている。特に聖教社内で起きた事件については、身近にいる人間でなければ不可能な、微妙な描写が随所にみられた。
 激怒した池田は、犯人探しに躍起となった。聖教、本部はもとより、潮出版社、第三文明などの外郭も含めた職員から容疑者をリストアップ。CIAもどきの身辺調査と追及をしたが、結局は、人物を特定できずに終わる。
                      ☆
 ただ、その際、グループSの中心者と目されたのが聖教新聞社外報部長の二見紀久夫。「小説」には村越剛の仮名で登場する。兄の伸明は公明党衆院議員であり、副書記長の要職を務める。
 灰色容疑ではあったものの、二見は露骨なイヤガラセを受けた。その後、大宮支局長に左遷されて数年を過ごしたのち、さらに広島に飛ばされた。二見は健康を理由に赴任を拒否し続けた。周囲からはいよいよ公然決起かと期待され、警戒もされたが、昭和六十三年夏、突然、聖教新聞社を退職した。
 関係者の思惑をよそに、現在の二見は兄・伸明の私設秘書を務める一方、寿司屋を経営していると伝えられる。
 「小説聖教新聞」事件は、学会が抱える人材の多様性とそれなりの健全さを垣間みせた。匿名でのインパクトはイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』を思わせるものがあった。ベンダサンはやがて山本七平として姿を現わしたのに、グループSの方は、この肝心な時にもう五年間も沈黙したまま。意外と勇気がないようである。山本七平のように姿を出せ!
  -----(128P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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創価・公明のスキャンダル-19

2018-08-29 09:13:41 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.115)---(以下、本文)-------

Ⅱ シガラミはここまでも
◆ 秋山 富哉・栄子
      妻子まで池田に奪われた寂しい死
 昭和六十三年三月二十五日付けの「聖教新聞」は社会面の片隅で、一人の男の死を簡単に伝えた。学会総務で総合国際部長を務める秋山富哉が「二十四日、入院先の横浜赤十字病院で肝不全のため死去した」というのである。
 この記事には、二つのウソが隠されている。死因は肝不全ではなく、膵臓ガン。死んだ場所も病院ではなく、学会の神奈川文化会館内にある池田専用施設であった。
 池田は常々説いてやまない。
 「夫婦よりも親子の方が関係は深くて強い。そして親子よりさらに大切なのが、師弟の関係だ」
 池田のいいたいのは、夫婦や親子の情に流されるよりも師匠である私を大切にせよとの、師弟関係最優先論である。
 その教えを文字通り実践したのが、婦人部長の秋山栄子である。そういう妻をもつと亭主がいかに苦労し悩むかを地で示したのが、秋山富哉である。あげくに、病院で死ぬことさえ許されず学会施設に隔離され、監視されて五十九歳の呆気ない最期を迎えた。死期の近いことを悟った富哉が、妻と池田とのスキャンダルを暴露するのを学会から警戒されたのである。
 「池田名誉会長の専用施設で、ご本尊に見守られながら死ぬなんて、最高の栄誉」
 まことしやかな“美談”が婦人部幹部の間で伝えられたが、実際には池田スキャンダル情報の流出防止のため、死の二、三週間前に病院からムリヤリ連れ出されたのだった。
                      ☆
 秋山栄子は、夫の富哉よりも師匠の大作を愛し、かつ大切にした。しかも、そのことを学会内で誇示する始末だった。池田は栄子を学会婦人部長に起用し、長い間“女王蜂”“女大作”として振る舞わせた。
 栄子の亭主無視は、富哉の死後まで続いた。富哉の葬儀の席上で、栄子女史はご亭主の遺族(母親や兄弟姉妹)を完全に無視して、ただの一度も言葉を交わそうとしなかった。複雑な家庭関係を知る会葬者たちは、あまりの異様さに「これでは、死んでも浮かばれない。気の毒なことだ」と囁きあった。
  秋山夫妻には二入の娘がいた。いずれも学会本部職員に採用された“師匠派”である。娘たちは葬儀の席上で母親と行動を共にし、父親側の遺族は「そうか、富哉さんは妻をとられただけでなく、子供まで奪われていたのか」と改めて涙した。
 まさに“創価学会残酷物語”そのものである。

◆ 秋谷 栄之助・明子
      行動の自由も奪われて、さぞや息苦しかろう
 そういえば、学会の最高責任者のはずの会長の紹介を忘れていた。第五代会長の秋谷栄之助である。戸田城聖二代会長時代には秋谷城永と名乗っていた。会長とは名ばかりで、実態は便利屋の事務総長にすぎない。
 責任だけ負わされて、権限は何一つ与えられていない。学会の会則では「会長が統理する」と定められているものの、実権は総て名誉会長に吸いあげられたままだ。
 秋谷は、池田訪中に同行して帰国直後の昭和五十九年六月、腸閉塞で倒れ、慶応病院にかつぎこまれた。手術を受け、一応回復したものの、転地療養が必要と診断された。
 池田大作であれば、大勢の主治医やボディガードにとり囲まれ、数台の高級乗用車を連ねて療養地先まで大名旅行をするはずである。 秋谷会長は、しかし、自動車一台を使う権限さえ与えられていなかった。義弟(妹の亭主)である山川義一の弟が見かねてマイ力ーを自ら運転し、療養地まで送り届けたというのである。その山川も、四年後の六十三年八月に肝不全のため病死した。
                      ☆
 秋谷は奇跡的に回復し、会長業務に復帰したものの、往年の元気さが感じられない。ただ、周囲の人間に対しては「名誉会長よりも一日でも長く生きたい」と漏らしている。
 先に死んだら、後でどんな悪口をいわれるかわからない。頑張って生き残り、会則どおり統理する会長を務めあげたいとの、秋谷なりの密かな思いである。
 秋谷会長の妻の明子は石田次男の妹である。秋谷にとっては、池田批判急先鋒の石田が義兄に当たる。石田の妻の栄子と秋谷明子はともどもに学会婦人部の活動家仲間。義理の姉妹ということもあって、仲良しグループ。互いに往来があった。
 しかし、石田が池田批判を鮮明にしたここ数年間は、栄子が明子を訪ねると「夫が、もうつきあうな、とうるさくいうので」と言い訳しながら、辛そうな表情を見せるという。親類付き合いもままならないのである。
 他に、秋谷の実弟としては秋谷武史がいる。学会本部の管理局長を務め、池田の財産や所有物を管理する。武史の妻のとみよは学会の第一庶務出身。池田との“臭い仲”が取り沙汰される。
 秋谷夫妻の結婚式の仲人は和泉覚が務めた。公明党新委員長の石田幸四郎とも姻戚関係にあるなど、秋谷の周辺には学会・公明党の要職にある人がひしめく感じだ。学会が伸び盛りにある時は大いにプラスに働いたが、池田批判が増大するにつれ、秋谷個人は行動の自由を奪われ、息苦しいようだ。蛇のように冷たい人間と酷評もされるが、胸のうちは、さぞ複雑なことだろう。

◆ 石田 次男・幸四郎
     兄弟の仲を割かれ、池田の思うがままに
 戸田二代会長時代の初代婦人部長を務めた石田ツカを母にもつ次男、幸四郎兄弟は、母に折伏されて入信。兄の次男は戸田会長にその才能を認められ、入信した翌年にはもう聖教新聞の編集の仕事を任されている。
 さらに、三十四歳で理事に登用されるというスピード出世ぶりだった。
 戸田会長から「オレの次の会長は次男だ」と何度も後継者の指名を受けた。
 偽悪家で無欲、かつ一本調子の次男は、「オレのような人間に会長なんて難しいポストが務まるかい」と、殆ど取り合わなかった。そのため、戸田会長は臨終の際の遺言として「次の会長は幹部の皆が話し合って決めたらいい」と小泉隆理事長以下の幹部に申し渡した。
 当時の学会内で衆目の一致した後継者有力候補はまず石田次男であり、次いで参謀室長の池田大作であった。やる気のない人とやる気満々の人とのポスト争いだから、勝負は簡単についた。厳密に評すると、ポスト争いさえなかった。池田一人が勝手に根回しをし、戸田からの禅譲神話をでっち上げた。
 石田は「勝手にやれや」という感じで相手にもせず、その代わり、池田新会長に取り入ろうともしなかつた。
                      ☆
 だが、負い目を感ずる池田は、お得意の分断統治戦術に力を入れた。兄の次男を徹底的に千しあげ、弟の幸四郎を反対にとことん優遇したのである。
 幸四郎も兄と同様、無欲の好人物。おっとりとして、他人と競い合うのが苦手である。池田会長の指示で愛知六区から衆院選挙に立候補・当選を重ねて、矢野委員長のもとで筆頭副委員長を務めるほどの大物になった。矢野体制が短期に終われば、次の委員長の最有力候補とみられたとおり、とうとう第五代委員長に就任した。欠点は選挙に弱いこと。そして兄と違うのは池田会長の体制下に入り、すっかり手なずけられたことである。
 池田は、自分に従う者に対しては厚遇し、従わぬ者に対しては冷遇する。露骨なまでの使い分けをして、組織内にその違いを見せつける。どっちがトクをするか、どっちを選ぶかと、無言のうちに問いかけるのである。
 石田兄弟は見せつけの材料に使われた。
 兄の次男は戸田会長の命令に従い、参院議員(全国区)になったが、健康を害したこともあって、一期限りで池田により降ろされた。後は“飼い殺し”同然の扱い。次男はこれを不満に思うよりも、仏法を勉強し、研究する好機とばかりに読書生活に眈溺した。そして最近の十年間ほどは、池田批判に力を傾ける。といって、徒党を組もうとはせず、池田の外道ぶりをひたすら文筆活動で実証しようと試みる。
 弟の幸四郎は、矢野委員長の一番信頼する相談相手となった。池田の覚えも目出たい。兄・次男の池田批判がわからないわけではないが、耳を傾けようとはしない。兄弟の関係よりも師弟を重視し、兄との交流を絶ってでも、池田の機嫌を損じないように気を配る。その結果、党のトップへとのしあがれもしたわけだ。苦労するのは、これからである。
 兄と弟。どちらの選択が正しかったか。最終結論はこれから出されるだろう。
  -----(122P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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創価・公明のスキャンダル-18

2018-08-28 08:13:24 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.110)---(以下、本文)-------

辻 武寿・敬子
     池田に身も心も翻弄されたあげくに
 “蒲田三羽烏”の一人・辻武寿。昭和二十九年頃の序列は、辻青年部長、牛田男子部長、池田参謀室長の順だった。戸田会長の命令により早い段階で参議院議員となり、原島宏治初代委員長の急逝後、短期間ながら公明党の二代委員長を務めた。そして学会にあっては、教学面での最高指導者を長らく務めあげた。
 経歴といい、肩書といい、いかにも紳士然とした容姿風貌といい、文句のつけようがないほどに立派である。
 “ミスター創価学会”というべきこの辻が今は出社を禁止され、自宅に閉門蟄居の身という。
 表向きの理由は“辻教学”があまりにも脱線しすぎて、他宗派から批判・非難を受けかねないために“口封じ”処分を受けたというのである。
 辻副会長の説教ぶりは、確かにちょっとひどすぎる。会合での発言をこっそり録音テープに収めて、私の家に送り届けてくれた親切な学会員がおられ、これが教学最高指導者、師範会議の議長を務める人の教学指導なのかと呆れてしまった。一部をここに再録・紹介する。
                      ☆
 「じゃぶじゃぶ雑巾をゆすぐように、お題目で身体全体を磨いていく。脳味噌を磨けば、脳腫瘍が治る。ノイローゼも治る」
 「大切なことは、頭のてっぺんから足の爪先まで全身を南無妙法蓮華経漬けにしちゃうこと。
 そうすれば、欲しいものが、なんだつてスーッと呼び寄せられる。一万円札だって、ヒラヒラーッと舞いこんでくる。自然にお金が儲かる。健康に恵まれる。功徳が湧いてくる」
 「お題目は、ポパイのホウレン草と同じようなものだから、病弱の子供の身体にお題目を染みこませるようにしなさいって教えたら、本当に健康な身体に直ったと『辻先生、ありがとう』つてお礼の手紙が寄せられた」
 「ピカピカゴロゴロの雷に感電したら、感電死で即死する。だけど、御本尊と感電すると即身成仏(笑)。もう、願って叶わざることはなくなる」
 この後、なんと百以上の病名があげられ「全部治っちゃった」との自慢話が続く。
 “辻説法”とはまさに“拝み屋宗教”そのもの。
 辻副会長は、以上のような辻教学で知られる外に、再婚した婦人の敬子さんのことでも学会内では陰口され、有名である。
 旧姓を鈴切敬子といい、池田のお気に入り女性の一人であった。辻との結婚が決まったあとも池田は一緒に連れ歩き、人前をかまわず「敬子、敬子」と呼び捨てにし、クツ下をはかせたり食べかけのアイスクリームを食べさせたりして、睦まじいことを誇示した。
 因みに、大橋敏雄代議士を除名処分にした統制委員長の鈴切康雄代議士は敬子の実兄。学会組織内部では「妹の七光で国会議員にしてもらえた」と評判になった。
 「先生から『学会組織を利用して遊んでいるね』と厳しく指導された。この先生の一言こそが、私の「生涯の支えになった」--鈴切から辻姓へと変わつた後も「先生」への想いを捨てられない敬子が学会機関誌に寄せた告白である。

太田 昭宏
    池田のご機嫌を損じ卜ゲのある花を贈られる
 学会・公明党の両組織を通じて、今、最もドラマチックな人生を歩んでいる人である。どうドラマチックかといえば、ほんの二、三年前までは学会のエリート中のエリートとして、青年部長を務めた。今は、次の総選挙で東京八区から公認候浦として立侯補すべく、東奔西走の毎日である。四十二歳の若さで、公明党の代議士になれるかもしれないのだから、世間的には“出世のチャンス”とみられがちである。だが、実際には“みせしめの刑”を受けているのと同じ。太田はハラハラ、イライラする思いで票集めに走り回っているのである。
 太田は『公明新聞』の編集者出身。学会の中では飛び抜けてのインテリで、包容力があり、話し上手で、勉強熱心と、人物評はプラス評価ばかりの珍しい人間である。
 若い頃から、いずれは公明党を背負って立つ逸材、何代か後の委員長有力候補とまで期待された。池田にも特別に目をかけられ、学会本部職員に引き立てられた。野崎勲、市川雄一ら先輩幹部のウケもよく、青年部の中の男子部長、さらに青年部長、総合青年部長と学会主流コースをかけあがっていった。
 学会幹部として主要ポストを歴任した後は、竹入元委員長の後を継ぎ、東京十区から衆院選に立候補、当選を重ねて、党幹部、さらに書記長、委員長のコースを歩むに違いないと、もっばらの評判だった。東京十区は定数五人区で、竹人が何度もトップ当選を果たした、公明党候補にとっては当選指定席と同じ絶対安全選挙区である。
                      ☆
 だが、公明党が次の総選挙に備えて六十三年秋に発表した第一次公認候補氏名によると、ポスト竹入の十区には山ロ那津男という全く無名の若手弁護士が充てられた。太田は東京の十一ある選挙区の中で公明党にとって当選が一番厳しい東京八区からの立候補と突然、変更された
のだ。
 八区は定数三人区で自民党の鳩山邦夫、深谷隆司の二人が上位当選し、残る一議席を公明と共産両党が奪いあう。しかも、共産党候補は現職書記局長の金子満広。公明党が当選する可能性は極めて低い、といわざるをえない。
 十区から出るのと八区から出るのとでは、月とスツボンほどの違いがある。
 公明党内でも「山口…フ-?」と疑問をもたれる無名の新人が十区をあてがわれ、“学会きっての”という形容詞が幾つもつく実力者が八区に回されたのは、どういう理由からか。公明党・学会は何も説明しない。
 理由は、しかし、はっきりしていた。
 太田が単なるイエスマンではなく、時として自分の意思で動く人間であったからだ。具体的には、求められるままに藤原範昭という問題人物と会って話をしたのが、池田の耳に人ったのである。太田としては「噂の範昭君がどんな人物か」と軽い気持ち、好奇心で会ったにすぎない。あるいは、ポスト池田時代に備えての、太田なりの計算があったのかもしれない。
 これがしかし、池田のご機嫌を損じ、「太田の野郎」となった。「苦労が足りない。もっと汗をかいてみろ」ということで、八区からの立候補という“トゲのある薔藪の花”を贈られたわけである。
  -----(114P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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創価・公明のスキャンダル-17

2018-08-27 07:40:09 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.106)---(以下、本文)-------

小泉 隆
    たぶん池田を恨みながら死んだろう
 数少ない戦前の牧口会長時代からの最古参幹部であった。昭和二十七年、池田大作と白木かねが結婚する時に仲人を務めた。
 牧口時代の創価教育学会は、東京・蒲田が最大の中心拠点だった。その蒲田で三羽烏と呼ばれた活動家が、原島宏治、小泉隆、辻武寿の三人である。
 そして小泉は、戸田二代会長から命じられ学会の理事長を務めていた。だから、戸田会長逝去後、次の会長が登場するまでの二年間ほどは、文字通りの№1であった。次期会長を選ぶ責任と権限をもっているのが、この人を中心とする古参幹部であった。
 後継会長の有力候補は、教学担当理事の石田次男と事業担当で参謀室長の池田大作の二人。
 小泉理事長は二人とも、三十代の前半で若すぎる。牧口会長から戸田会長登場まで七年間の空白期があった。三代会長を決めるまでも七年間をおき、誰が会長に最もふさわしいかを皆で考えよう」と主張した。
 結果的には、この主張が小泉にとって後々の大変なマイナス材料として働いた。
 第三代会長就任に意欲を燃やす池田が「オレの仲人のくせに会長就任の邪魔をするのか」と激しく反発したのである。
 池田はまず理事の上に総務というポストを作り、自分でさっさと就任した。
 ライバルの石田が「会長になるなんて、まっぴらご免だ」と“我が道”を行くのをよいことに、池田は青年部を中心に多数派工作を展開。 三十五年五月三日、さっさと念願の第三代会長の座についた。
                      ☆
 小泉にとっては、それから二十八年間、六十三年十一月、失意のうちに逝去するまで、悪夢のような日々が続いた。
 池田から、事あるごとにいびり抜かれたのである。大作の先輩いびりは、手を替え品を替えして、すさまじいほどに繰り返し行なわれた。 中でもひどかったのが小泉、和泉、辻三人への個人攻撃。三人は“いびられ三代表”と化した。
 小泉が池田会長からいじめられるのを見て、学会の反応は二つに分れた。一つは、「可哀そうに。大先輩であり、仲人を務めてくれた入を叱りつけるとは、大作さんもやりすぎだよ」という批判的意見である。もう一つは、「いい気味だ。小泉さんは酒癖がとっても悪いし、周り
に威張り散らす。元理事長で偉い人かもしれないけれど、先生がお灸を据えてやるのはいいことだ」との喝采派である。
 戸田前会長存命中の三十年、都道府県レベルでただ一人、小泉だけが都議に選ばれた。都議会ではやがて副議長に選ばれ、学会では参事会議長というポストに長く就いた。六十三年十一月に死去した際、池田はどういう理由からか、「創価学会名誉会長」という称号を贈った。そ
して、通夜にはちょこっと顔を出したものの、葬儀・告別式は欠席した。
 「第三代会長選出の真相はこうだった」と小泉が遺書を書き残さなかったのが、なんとも残念である。

和泉 覚・ミヨ
      池田にいびり回され今や流浪の身
 坊さん以上に坊さんらしい人である。頭はつるっぱげ。根太い声で朗々とお経を読む姿は、これで袈裟を着ければ、立派な高僧として通用しそうである。説教がまた飛び抜けて上手だ。
 仏の教えを説く。人気投票をしたら、この人の右に出る人はいないだろう。
 戸田前会長時代の筆頭理事。戦前からの幹部会員で、牧口門下生。第三代会長を誰にするか、小泉理事長と並んで影響力をもっていた。
 池田を会長に推すムードが次第に強くなる中にあって、和泉は数少ない石田擁立派。「オイ、会長になる気があるのかよ」と石田に打診して「あるわけがない」とスッパリ断られた体験をもつ。
 組織内に情報網を張りめぐらす池田に、この動きはすかさず伝えられた。大作サンの怒るまいことか。三十年後の今日に至るまで「和泉は石田を推した」との昔話が忘れられず、ネッチリといびりぬく。和泉副会長はテカテ力に光る頭を畳にこすりつけるようにして後輩会長のご
機嫌をとるのに懸命である。
 大きな会合になると、話し上手の和泉副会長が前座を務め、最後に登場する池田が和泉を指さし「オー、まぶしい」と冗談をいって会場を笑いの渦に引き込む。「和泉坊の頭はほんとによく光る。電気がいらないぐらいだね」と池田は会場のムード盛り上げに、いつも決まって
“和泉坊のハゲあたま”を利用するのである。
 しかし、裏に回れば、こんな冗談話では済まない。夫人のミヨともどもに徹底的にしごきにしごく。やれ、信心が間違っている、常識がたりない、高慢だ、着ているものが派手すぎる…。
 それこそ、箸の上げ下ろしの一つ一つに文句をつけ続けた。
                      ☆
 和泉の夫人,ミヨは戸田二代会長時代の秘書部長を務めていた。大作より格が上の上司だったのである。顎でこき使われたのが、新入りの大作さんであったわけだ。
 三代会長就任で、上下関係がひっくり返った。そのとたんに、元部下による元上司いびりが始まった。立場の悪さを十分に自覚する和泉夫妻は元部下殿に贈り物攻勢をかけたり、無理して百万円、二百万円の大金を貢いでは、なんとか昔のことを忘れてもらおうと努力した。
 それでも、三代会長は和泉夫妻いびりをやめなかった。とうとう、ミヨは精神的に異常が生じ、精神病院に通う羽目になった。やがて入院し、正気に戻らないまま、黄泉の国へと旅立った。つい二、三年前のことである。黄泉の世界で今頃、戸田前会長に“いびり人間・大作”の
ことを告げ口しているかもしれない。
 最愛の妻をこのようになぶりものにされて“和泉坊”の心が穏やかでないのは当然だ。しかし、せっせと大金を貢ぎすぎて、ふと気がついたら老後の貯蓄が何もなかった。虚しくて口悔しい内心をしまいこみ、老後の身体にムチ打つようにして、和泉坊は東奔西走、説教話を繰り
返しては人を笑わせている。和泉坊、明治四十四年まれ、当年とって七十七歳である。
  -----(109P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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