創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

闇の帝王・山崎正友-17

2016-02-06 09:12:42 | Weblog

私は山崎正友を詐欺罪から救った! -- 2002/05
   --アウトローが明かす巨額“手形詐欺”事件の真実--
    -------(前回、148P)--以下、本文--

2 ヤクザからの引退
 昭和五十六(一九九一)年二月のことだ。新しい隠れ家に移り住んだとはいえ、逃亡中の身である。何らのシノギをすることもできなかった。山崎の逮捕を境に、ただ山崎の取り調べの結果と、警視庁の動きに気を揉むだけの生活であった。
 案の定、刑事部捜査第四課が担当となり、マル暴の刑事が、私の家内や私の所属する組の兄貴分(大嶋)のところにも圧力をかけてきた。
 この時の刑事は、山崎と知り合う約一年前に、兄弟分の恐喝事件に絡んで私が逮捕された時に担当した、目黒警察署のマル暴の刑事であった。この刑事が言うには、塚本の逮捕が目的ではない、だから逮捕状も出ていない。山崎の事件での証言が欲しいだけなので協力してほしい、という任意での出頭要請であった。
 この時、私は所属する菅谷組の兄貴分の大嶋からも厳重な注意を受けた。私は山崎と付き合いだしてから、大嶋のあねさんの経営する赤坂のクラブで、彼を大嶋に引き合わせたことがあった。それで大嶋も山崎を見知っていたのだった。
「マル暴(四課)に協力して恩を売れ。自分たちヤクザは、マル暴を敵に回した場合は、何かにつけてやりにくくなるぞ。山崎が先に逮捕された以上、もうこれでお前のシノギは終わりだ。
 これ以上、山崎を庇って逃げていても金にはならない。そのわけはお前にもわかるだろうが、山崎はパクられる前に創価学会のことを内部告発している。それをよく考えてみろ。
 あれでは、もう恐喝はできない。山崎はただ、創価学会に攻撃をかけているだけだ」
 大嶋に言われるまでもなく、確かにそうだった。脅すネタがあってこその恐喝だ。それなのに週刊誌などで書きまくった後では金など出すわけがない。大嶋はキッパリと言った。
「俺の言うことが聞けないのなら勝手にしろ。今まではお前のシノギに協力してきた。金にもならないことでツッばるのはお前の勝手だが、そのために組に迷惑をかけることは、これ以上認めない。毎月の当番(組事務所の当番)もきちんと務めろ。それもできないというなら堅気になれ、他の連中にもシメシがつかない。
 また、これは別問題だがボスがもうじき出所する。そのことはお前も知っていると思うが、一日でも早く出てきてもらいたい。警視庁のデコスケ(刑事)は、お前が協力してくれれば、ボスの仮釈放にも協力すると言ってきている。そのことも含めよく考えろ」
 返答に困っていると、さらに続けてこう言った。
「お前の気持ちもわかるが、山崎という男は駄目だぞ。奴には二、三度しか会ってないが、奴の目は死んでる。自分のことしか考えない奴だ。
 そんな奴のことで自分を犧牲にするな。このままでは、お前のめがなくなってしまうぞとにかくお前は山崎が逮捕されるまで、よく庇った。だが、これ以上は無駄だと思う。
 また、お前が警視庁に協力しても、それでお前が山崎を裏切ったことにはならない。山崎が逮捕されたことで、この仕事は終わりだ」
 と、厳重な注意とアドバイスを受けた。私は逃亡資金のこともあり、山崎の弁護士K氏に連絡をとり、再度の確認を取った。
 この時のK弁護士の返事は、逃亡資金については今まで通りには出せないというものだった。
 逃亡資金は三十万円、五十万円などとその都度渡されており、私自身の生活費や家内の生活費も含めて、それまでに千二百万円ほどは受け取っていた。それがこれ以上出ないとなると困ることになる。
 深刻な事態に直面したが、山崎からはこれから先のことについて、K弁護士を通じて次のような伝言があった。
「塚本の良心に任せる。また、これまで通り自分を庇ってくれれば、この裁判でも自分は勝てる。自分も頑張るから、塚本も頑張って欲しい」
 この期におよんで、良心などとは一体どういう料簡だ、と思ったが、とにかくヤクザとして「一宿一飯」の義理を重んじ、自力でこのままもう少し逃亡を続けることにした。
 私は兄貴分の大嶋と会い、このことを告げた。そして、この場で自分を堅気にしてくれと頼み込んだ。そして、大嶋も私の義侠心を読み切って、何も条件をつけずに堅気になることを許してくれた。
 その後にK弁護士から聞いた話によれば、私への逃亡資金の打ち切りは、山崎の逮捕とともに、警視庁が彼の預金のすべてを差し押さえてしまったからだという。
 私は逃亡を続けるために、自分の生命保険を解約してまで逃亡資金に当てていたが、昭和五十六年六月には、とうとうカネも底を突き、逃亡生活を中止せざるを得なくなった。
 私は、約十一力月間に及んだ逃亡に終止符を打ち、自宅に帰った。
 一方、警視庁に逮捕されていた山崎は、私が逃亡を続けていることを弁護士から聞いて、取り調べを優位に導こうと、手形犯罪や取り込み詐欺を否定、恐喝事件についても否認し続けていた。
 否認を続ける山崎を前に、警視庁や検察は起訴処分の最終段階で、私の証言がどうしても必要となったのだろう、ついに、別件で私の逮捕に踏み切った。
 その別件というのは、この事件の二年前、埼玉県鳩ケ谷市で建て売り住宅を販売した際のトラブルである。
 この地権者が、私に対して民事訴訟を起こしていた。地権者の地元が北区内であったため、警視庁は所轄の王子警察を経て逮捕させたのだが、民事訴訟事件を逮捕理由にするという、まったくの別件逮捕であった。
 逮捕後の取り調べも、あくまでも山崎が犯した創価学会への恐喝事件についてであり、狙いは見え見えだった。私はどうしても山崎の事件で私の証言が必要なら、別件逮捕などと汚いことをせずに、山崎に関係する事件で私を逮捕しろ、そうでなければ一切の証言は拒否すると言い張った。
 私は、この別件逮捕では絶対に起訴はできないと判断し、二十日間の辛抱だと覚悟を決めて、ツッパリ通した。そして、私の予測通り、検事拘留期限いっぱいの二十二日間で起訴猶予処分で釈放され、私の逃避行は完全に終止符を打ったのである。
 こうして私の証拠湮滅と逃亡や別件逮捕でのツッパリが、山崎の思惑通りに功を奏することになる。
 警視庁や検察は、取り込み詐欺や手形犯罪の事実を立件できず、山崎の逮捕時の容疑である恐喝・恐喝未遂・詐欺・詐欺未遂・外為法違反・弁護士法違反のうち、恐喝及び恐喝未遂事件だけの罪で起訴、そして公判に持ち込まざるを得なかったのである。
 起訴そして公判。七月になって山崎の保釈申請が許可され、逮捕後約六力月ぶりにようやく彼は娑婆に出てくることができた。山崎は逮捕期間中の取り調べにも、私が約束を守った取り込み詐欺や手形事件の証拠湮滅を最大限に活用した。
 そして保釈後は、恐喝事件も創価学会の陰謀であり、自分は無実で冤罪であると言い張り通していた。その後は保釈を許されたことで、逮捕以前にも増して図々しくなった。厚顔無恥も甚だしくマスコミを欺き、自分は創価学会の悪を糾すために内部告発している「正義の士だ」と唱え続けるようになる。
 それもこれも、私が別件で逮捕されてもなお山崎を庇い通したからだが、おかげで彼は反創価学会勢力にも信用を失うことなく、マスコミを欺き通すこともできたのである。そして、山崎が一番怖がった「引かれ者の小唄」を歌わずにすんだのであった。
 この間に山崎が仕掛けたことの一つに、「日本公明党」事件というのがあった。このエセ政治団体が結成されたのは、昭和五十七(一九八二)年十二月。山崎の入れ知恵で、古賀隆助という右翼系のぺテン師が立ち上げたものであった。
 古賀隆助と山崎との出会いは、拘置所内でのことだ。山崎が小菅拘置所に未决勾留されている時に知り合った、いわゆるムショ仲間というもので、私は後に山崎から古賀を紹介された。
 ムショ仲間のワル同士は、街宣車に「日本公明党」の名称を掲げ、本物の「公明党」に似せた。
 そして昭和五十八(一九八三)年十二月の総選挙直前、街宣車に積んだスピー力ーのボリュームを最大に上げてお題目を唱えさせ、公明党や創価学会の池田名誉会長を罵詈雑言で誹謗する脅迫事件を引き起こしたのであった。
 このエセ政治団体を作らせたのも、山崎による学会攻撃の一環であったのだ。
       ---------(155P)-------つづく--

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