創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価を斬る.41年目の検証-88

2020-11-30 09:27:26 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
    (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


藤原弘達 創価学会を斬る 41年目の検証 
      言論出版の自由を守る会編 日新報道 2012=平成24年
    人権侵害・政権簒奪・歴史改竄
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
         --目次は第3回目に掲載--
   ------(P.225)---(以下、本文)-------

【第3章】言論出版妨害事件
      =歴史の改竄を図る池田大作・創価学会
・言論出版妨害事件とは
 ◆ 憲法違反と歴史の書き換え
(1) 言論出版妨害事件の経緯
 ① 言論出版妨害事件は池田大作の指示と命令で起きた /山崎正友
 ② 座談会「事実無根」は真っ赤なウソ 業務命令で書店に圧力をかけた
(2) 言論出版妨害事件の歴史的事実の改竄図る池田大作・創価学会
 ① 偽造される「開かれた教団」の言論弾圧史 /段勲 
 ② 池田大作怨念のフレーズ「宗教弾圧」 /乙骨正生
 ③ インタビュー /塚本三郎・元民社党委員長に聞く
 ④ ウソにウソを重ねる「新・人間革命」--政教一体は骨がらみの体質 /溝口 敦
 ⑤ 言論出版妨害事件の淵源    (~以上、前掲 P.326~)
 ⑥「池田発言」に見る政教一致--本部幹部会発言が示す支配構造 /乙骨正生
 昭和四五年五月三日に東京・両国の日大講堂で行われた創価学会の第三三回本部総会の席上、池田大作会長(当時)は、創価学会と公明党の政教分離を宣言した。
 この政教分離宣言は、創価学会・公明党が引き起こした言論出版妨害事件に対する厳しい社会的批判を背景になされたものであり、池田会長自身、政教分離宣言の冒頭で、「今度の言論問題を通じて、さまざまな問題が浮かび上がってきました」として、創価学会と公明党の政教分離が言論出版妨害事件を契機とするものであることを自認している。

 だが、平成一五年現在、「聖教新聞」に連載中の「新・人間革命」では、創価学会と公明党の政教分離は言論出版妨害事件とは関係なく、創価学会の組織的発展に基づく機構改革の一環としてなされたものと主張している。
 すでに、政教分離宣言から三三年が経過し、政教分離宣言の記憶は希薄なものとなってきている。
 そうした事件の風化を幸いとして、池田は創価学会と公明党の政教分離について、歴史改竄を図っているものと思われる。
 そこで、言論出版妨害事件を契機としてなされた政教分離とはいかなるものだったのか。そして社会的公約である政教分離は履行されたのかどうかを測る一つのサンプルとして、昭和四五年五月三日の池田氏の政教分離宣言と、政教分離を宣言した当の池田氏の東京都議会議員選挙と衆議院総選挙のあった平成五年一月と七月の本部幹部会での発言の抜粋を紹介する〔()内は編集部・注〕。

 ● 昭和四五年五月三日・創価学会第33回本部総会での池田会長講演(政教分離宣言)要旨
  「今度の言論問題を通じて、さまざまな問題が浮かび上がってきましたが、ここに将来のためにも、はっきりさせておかねばならないのは、創価学会と公明党の関係であります。
 私としては、公明党結成のことを発表した昭和三九年の本部総会の講演でも、創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である、とはっきり政教分離の出発をめざしておきました」
 「もとより、公明党誕生の母体は、創価学会であることは間違いない。しかし、いくら母体といっても、いつまでもそれに依存するようなことがあっては、党の健全な発展はない。たとえていえば、賢明な母は、子がひとり立ちできることを願うものであります。

 いつまでも自己の支配下におこうとして、かえって成長を妨げてしまうのは、愚かな母親であります。子は、いつまでも幼児ではない。体の成長にともなって、精神的にも、一人前の社会人として、活躍できるようにならなくてはなりません。
 いままでは、創価学会と公明党は、この母と子の関係にあるとみられてもやむをえなかった。
 それにしても、われわれは、愚かな母親であってはならない。この愚かさは、結局、重荷となって自らにおおいかぶさってくるでありましょうし、子供も社会に貢献できない大きい赤ん坊として社会の笑い者になってしまうでありましょう。
 われわれは、これまで、公明党のために一生懸命応援し、守り育ててまいりました。だが第三党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒をみなければならないとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判をうけるのもとうぜんの理でありましょう。

 そこで、これは提案になりますが、創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のうえで、明確に分離していくとの原則を、更に貫いていきたいのであります。もちろん、理念においては、ともに冥合するものでありますが、実践面においては、それぞれの目的に向かって将来も進むことはとうぜんであります。これは、特に党幹部からの強い要望もあり、学会でもとうぜんのこととして、理事会でも決定したことでありますので、皆さん方のご賛成をいただきたいのであります。
 今後、たとえ票が減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方であるならば、近代政党として、当然の道であります。具体的には、議員で、学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念していただくために、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい」
 「また、学会は、公明党の支持団体ということになります。とうぜん学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は日蓮大聖人の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、まったく干渉するものではありません」

 「また、選挙にさいしても、公明党は党組織を思いきって確立し、選挙活動もあくまで党組織の仕事として、明確に立て分けて行っていただきたい。むろん、創価学会も支持団体として従来どおり地域ごとの応援はとうぜんしていきたい。党員についても、学会の内外を問わず、幅広く募って、確固たる基盤をつくっていただきたいと、公明党に要望したい。また、党がひとり立ちしたことに対し、皆さん方もあたたかく見守っていただき、応援もしていただきたいのであります。
 以上のように、創価学会と公明党を分離していくことを提案いたしますが、賛成の方は挙手ねがいます」

 ※ もともと創価学会と公明党は宗教団体と政治団体であり政教分離をめざしていたと、言い訳じみた弁解をしているが、宣言では制度の上で明確に分離することを公約。また、学会員の政党支持の自由についても、「会員の自由意思にまかせ、まったく干渉するものではありません」と、明確に政党支持の自由を約束している。
 だが、実際には池田氏が先頭に立ち、学会員を宗教活動に名を借りた選挙活動に動員、使役していることを、以下掲載の平成五年の池田発言は示している。
     ----------(つづく)---------329

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創価を斬る.41年目の検証-87

2020-11-29 06:59:45 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
    (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


藤原弘達 創価学会を斬る 41年目の検証 
      言論出版の自由を守る会編 日新報道 2012=平成24年
    人権侵害・政権簒奪・歴史改竄
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
         --目次は第3回目に掲載--
   ------(P.225)---(以下、本文)-------

【第3章】言論出版妨害事件
      =歴史の改竄を図る池田大作・創価学会
・言論出版妨害事件とは
 ◆ 憲法違反と歴史の書き換え
(1) 言論出版妨害事件の経緯
 ① 言論出版妨害事件は池田大作の指示と命令で起きた /山崎正友
 ② 座談会「事実無根」は真っ赤なウソ 業務命令で書店に圧力をかけた
(2) 言論出版妨害事件の歴史的事実の改竄図る池田大作・創価学会
 ① 偽造される「開かれた教団」の言論弾圧史 /段勲 
 ② 池田大作怨念のフレーズ「宗教弾圧」 /乙骨正生
 ③ インタビュー /塚本三郎・元民社党委員長に聞く
 ④ ウソにウソを重ねる「新・人間革命」--政教一体は骨がらみの体質 /溝口 敦
 ⑤ 言論出版妨害事件の淵源
   --「水滸会遺戒置文二十六箇条」を検証する /小川頼宣
2-1        (~以上、前掲 P.321~)
2-2
 水滸会遺戒置文二十六箇条に記載された「言論機関の使い方」には、次のような記述がある。
◇ もし読売が学会に挑戦してきたら
 もし読売が学会に挑戦してきたら、必ずつぶすという自信がある。それには、青年部を使えばよい。金もかかるがな。元来、読売の記事には誤りが多い。だから一力月ぐらい前から読売と朝日、毎日とを比較して、誤っている部分を新聞を作って載せるのだ。そして読売を取っている家庭に無料で配布する。それには青年部が必要なのだ。これに対し、読売が書いてきたら、またこちらで出す。これを徹底的に繰り返せば、読売を読む者はなくなってしまう。発行部数が5万部減ればつぶれる。
 新聞で、学会のことを文部省が取り消すような事を言っているが、どうすることもできるもんか。学会を調査するなんて、全国的にまたがっているので、調べきれるものではない。悪いこともしないのに。(毎日新聞)朝日新聞は、比較的正確だから、ケン力しない方がよい。しかし、読売はダメだ。
 読売は半年あればつぶすことができる。百万ぐらいかかるかな。

◇ 現代の新聞の役割
 昔は不便で、報道は局部的であった。現在は通信網が非常に発達しているから新聞などの報道は、社会民衆を指導していく重要な役割がある。

◇ 政界と新聞社
 政界に縛られない新聞社は強い。

◇ 言論界への進出
 言論界の重要ポストへの進出を、大いに図るべきである。

  一連の発言は、昭和三一年に展開された読売新聞による立正佼成会批判キャンペーン(読売事件)を前提としているものと思われるが、ここで述べられている戸田の発言の特徴は、
 1、学会に批判的な記事を書いた新聞とは対決する。例えば読売新聞が攻撃してきたら潰すまで戦う。ただし、言論戦を以てする。
 2、これからは新聞が重要である。朝日と毎日は大事にする。政界に縛られない新聞社は強い。
 3、そのための言論界への重要ポストへの進出を図る。
   などに集約できる。
 「読売が挑戦してきたら必ずつぶす」という発言からは、「言論の自由」を尊重する姿勢は窺えない。批判的言論や対抗言論を「つぶす」という発言は、戦後の民主主義社会の中で、「信教の自由」や布教における「言論の自由」を保障されて宗教活動を行っている宗教者としては、極めて不穏当であり、創価学会の排他的で独善的な体質が、こうした発言に起因していることが分かる。

 もっとも戸田の発言はあくまでも「言論戦」を想定しており、後年の池田による言論出版妨害事件のような暴力性を帯びたたものではないとも理解できるが、戸田は「狸祭り」と呼ばれる日蓮正宗僧侶に対する吊し上げ事件で、自ら率先して僧侶を暴行し刑事告訴されるなど、青年部に対して暴力的な攻擎をたびたび仕掛けさせていること。また青年部を使って読売を潰すとする手法は謀略的であることから、戸田の発言を聞いた社会性の低い青年部員が、批判者に対する攻撃は暴力性と謀略性を排除するものと理解したとは言い切れない。
 そのことは宗教学に暗く宗教における非妥協性と、政治における不寛容性の区別を認識することができたとは思えない池田が、本書で詳細に検証している言論出版妨害において、暴力性と謀略性を排除しなかったことからも明らかである。

 国家が常にマスコミをコントロールしてきたように、政党や労組、宗教団体や圧力団体も、マスコミをコントロールしようとする。マスコミを使えば、一気に自分たちに都合の良い世論を作り上げることができるからである。
 本来、作られた世論などクソくらえ!! といいたいところだが、マスコミによって報道されると、人々は報道された“事実”を基準に話を始める。仮に報道された事実がウソであったとしても、そのウソが基準となつて世論が形成されていく。要するに人心はマスコミによって簡単に操作されるのである。

 池田や創価学会も、マスコミをそのような観点から分析していた。「水滸会遺戒置文二十六箇条」にもその雛形が示されているが、自らに都合の良い世論を形成するために、新聞(全国紙・地方紙)、月刊誌、週刊誌などが、創価学会について批判的な記事を書くと、多大な労力と予算を使い、猛烈な抗議や投書を殺到させた。同時に機関紙誌媒体『聖教新聞』『大白蓮華』『潮』『第三文明』などを使い、精力的に反論した。また数百万単位の会員の力を背景に不買運動を仕掛けた。

 その結果、創価学会批判をタブーとするいわゆる「鶴のタブー」が醸成されたが、マスコミが創価学会の不買運動を恐れた事実は、読売新聞・西部本社のある総局長が私に「いざとなったら学会の不買運動は怖いですからね」としみじみ語ったことからも分かる。
 その一方で創価学会は、組織的購読や書籍等の大量広告、さらには機関紙誌の印刷というアメを駆使してマスコミ界のコントロールを図っている。その手法の淵源に「水滸会遺戒置文二十六箇条」が記載された「言論機関の使い方」があるのだが、池田大作の側近として、創価学会の基盤整備や各種の工作・暴力に携わった山崎正友元顧問弁護士は、創価学会のマスコミ対策と「水滸会遺戒置文二十六箇条」の関連について、かって次のように言及している。

 「(「水滸会遺戒置文二十六箇条」の)マスコミ対策の基本は、いまも忠実に受け継がれている。
 創価学会にとって不利なことを書けば、青年部が、入れ替わり立ち替わり抗議に行く。組織的に動員された抗議の手紙や電話が殺到する。『聖教新聞』『創価新報』等で、徹底的に攻撃する。
 そして、いまでは数百万人を数える学会員による不買運動で脅かす。学会員だけでなく、広く一般に向けて不買運動を展開する、と言って脅かすのである。
 最近では、さらに手が込んでいて、大手出版取次店や書店(二割近くが学会系によって占められたという)に圧力をかけて、批判書籍が店頭に並ばぬようにする。テレビやラジオは、多額の広告費や、民音の圧力で動くプロダクションなどの圧力で批判を封殺する。
 新聞社や出版社には、広告と、“池田本”の出版、聖教新聞の印刷発注などで、批判を書かせない」
 今日、創価学会はアメとムチを駆使してマスコミを膝下に組み敷いているが、その淵源が「水滸会 遺戒置文二十六箇条」にあることは、山崎の指摘する通りである。

  ところで、創価学会もタテマエとしては言論の自由は保障している。ただし、池田大作に対する自由な言論は、全く保障されていない許されるのは称賛の声だけだ
 アドルフ・ヒトラーは国民を家畜化する手段として、マスコミによる宣伝を最重要視した。ヒトラーがナチス第三帝国を確立する過程での戦略や戦術、そしてその基盤となった思想を描いた「我が闘争」には、大衆を扇動しマインドコントロールするための情報宣伝の手法が、多数散見される。例えばその一端は次のようなものである。
 「国家や社会や指導者を批判する者に対して、動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数派や異端者は悪だ、と思い込ませよ。皆が同じ事を考えるようにせよ。皆と同じように考えない者は国家の敵と思わせるのだ」
 「大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである

 若い時分から「我が闘争」を愛読していた池田は、このヒトラーの手法を真似て、学会員をマインドコントロール下に置くことに腐心し、これに成功した。
 しかし、積年の野望である「日本乗っ取り=天下取り」を果たすためには、日本国民そのものを洗脳ないしは懐柔する必要がある。そのためにはマスコミを取り込む必要がある。その対策に触れているのが「水滸会遺戒置文二十六箇条」の「言論機関の使い方」であるといえよう。
 戸田の発言をまとめた「水滸会記録」をべースに策定された、池田の「日本乗っ取り=天下取り」のためのテキスト「水滸会 遺戒置文二十六箇条」。自らに批判的な言論を「潰す」というDNAは、その手法と形は時代によって変えつつも、創価学会の体質の中に連綿と受け継がれている。言論出版妨害事件はそのDNAが具現化した事件に他ならない。
     ----------(つづく)---------326

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創価を斬る.41年目の検証-86

2020-11-28 07:58:37 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
    (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


藤原弘達 創価学会を斬る 41年目の検証 
      言論出版の自由を守る会編 日新報道 2012=平成24年
    人権侵害・政権簒奪・歴史改竄
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
         --目次は第3回目に掲載--
   ------(P.225)---(以下、本文)-------

【第3章】言論出版妨害事件
      =歴史の改竄を図る池田大作・創価学会
・言論出版妨害事件とは
 ◆ 憲法違反と歴史の書き換え
(1) 言論出版妨害事件の経緯
 ① 言論出版妨害事件は池田大作の指示と命令で起きた /山崎正友
 ② 座談会「事実無根」は真っ赤なウソ 業務命令で書店に圧力をかけた
(2) 言論出版妨害事件の歴史的事実の改竄図る池田大作・創価学会
 ① 偽造される「開かれた教団」の言論弾圧史 /段勲 
 ② 池田大作怨念のフレーズ「宗教弾圧」 /乙骨正生
 ③ インタビュー /塚本三郎・元民社党委員長に聞く
 ④ ウソにウソを重ねる「新・人間革命」--政教一体は骨がらみの体質 /溝口 敦
                   (~以上、前掲 P.315~)
 ⑤ 言論出版妨害事件の淵源
   --「水滸会遺戒置文二十六箇条」を検証する /小川頼宣
 「水滸会遺戒置文二十六箇条」と題する内部秘密文書が創価学会に存在する。いわば池田大作会長(現・名誉会長)の「日本乗っ取り計画」のテキストである
 もともと同書は、太平洋戦争後に創価学会を実質的に創設した戸田城聖二代会長(※創価学会は前身の創価教育学会の会長である牧ロ常三郎を初代会長と位置づけていることから)が、将来の創価学会を託す男子青年部の幹部を育成・訓練するために設けた「水滸会」(※日本でも人気のある中国の古典「水滸伝」に因み、英雄豪傑の集まった梁山泊を模した)での戸田発言をはじめ、「支部長会」や「部隊長会」などの各種会合での戸田の発言を、戸田の死去後に「水滸会」に出席していた青年部幹部らがまとめた「水滸会記録」をべースにしている。

 この「水滸会記録」は、「いよいよ編集へ 水滸会と華陽会戸田先生のご指導の記録」(昭和三四年一月三〇日付「聖教新聞」)とあるように、昭和三三年の暮れから三四年にかけて整理・編集されたもの。完成後は「男子部隊長は、男子部長を中心に墓前に並び、精魂こめて集成し終わったばかりの水滸会記録を先生の御前に供えて唱題した」(昭和三四年四月一〇日付「聖教新聞」)との記事が示すように、戸田の一周忌法要に際して戸田の墓前に供えられたが、刊行されることはなく、その後、所在も不明となっていた。
 「水滸会記録」が刊行されなかった理由は、同文書が出版されれば宗教団体である創価学会が「日本乗っ取り=天下取り」を企図していることが明白になり、厳しい社会的批判と監視に晒されること。また水滸会での戸田発言は、戸田の死去直前の昭和三三年二月一四日付「聖教新聞」に掲載された戸田の闘病記と、担当医の所見に「重篤な肝臓病(肝硬変症)」とあるように、大量飲酒をくり返し、しばしば飲酒したまま指導や講義を行ったことで知られる戸田の、酔いにまかせた“ホンネ”や戯れ言が散見され、刊行が憚られたからとも推測される。

  そして戸田の指導の記録を提案した池田が、昭和三五年に創価学会の会長に就任した後にも「水滸会記録」の出版に踏み切れなかった背景には、今日、創価学会の「永遠の指導者」(創価学会会則)として、創価学会に絶対的に君臨する池田の姿からは想像することのできない、池田の権力基盤の脆弱さもその一因だったと考えられる。
 周知のように戸田は、昭和三三年四月二日に死去した。池田はその著作とされる小説「人間革命」(※ゴーストライターの故・篠原善太郎【創価学会の外郭出版社・鳳書院の社長】が執筆)において、自らを戸田の正統な後継者と位置づけているが、池田が会長に就任する昭和三五年五月三日まで会長が二年余にわたって不在だった事実が示すように、戸田は後継会長の指名を行わなかった。
 したがって池田は会長就任後、戸田会長の晩年から会長空位期間中に理事長の職にあった小泉隆をはじめとする先輩幹部らを斥けて、早急に権力基盤を確立する必要に迫られていた。そのために池田は、戸田の遺言や構想を実現すべく行動することで自らを戸田の正統な後継者であると位置づけることに腐心した。

 また同時に、早くから創価学会内部にあって「天下取り」を公言していた池田は、勢力伸長と戸田の遺言や構想の実現を背景に、戸田を凌駕する絶対的宗教指導者の地位の確立を企図。その宗教上の権威と権力、そして勢力伸張の結果もたらされる組織のカネと票の力を基盤に国政に進出し、天下に覇を唱えることを夢想した。
「水滸会遺戒置文二十六箇条」には、政界進出は地方議会と参議院までとしていた生前の戸田の主張とは異なり、「君等が衆議院に出てやらなければ駄目である。君等が覚えておいて戦うときに広宣流布のキッカケとなる」と記載されており、戸田が「水滸会」に出席していた青年部幹部らに、衆議院への進出を指示していたことになっている。
 池田にとって都合の良い「水滸会記録」を作り、それを戸田の遺訓・遺言だとするには、創価学会において絶対的な権力基盤を確立する必要がある。仮に「水滸会」に出席し、戸田から直接、指導・薰陶を受けていた戸田門下生が多数存在し、創価学会内部において一定の影響力をもっている状況下において、改変・改竄した「水滸会記録」を出版すれば、池田が戸田の意志や遺訓を改竄・捏造している事実が発覚してしまう。したがって池田は、創価学会における絶対的な権威と権力を確立するまでは「水滸会記録」の出版に踏み切れなかったのである。そのことは、池田が戸田の正統かつ正当な後継者であることを自己宣伝する小説「人間革命」の、「聖教新聞」への連載開始が昭和四〇年だったことからも窺うことが可能だ。

 昭和四〇年に小説「人間革命」の連載が開始されたのは、池田が創価学会において絶対的な権威と権力を把握したことの証左に他ならない。昭和三七年の参院選で戸田時代(昭和三一年参院選で三名当選)を凌駕する九名の当選を果たした池田は、「政党は作らない」「衆院には進出しない」との前言を翻して、昭和三九年に公明党を結党し、昭和四二年の衆院選に公明党を出馬させた。
 その結果、公明党はいきなり二五議席を獲得し、世間を驚かせた。

  会員の増加という勢力の着実な伸張とともに、戸田が成し得なかった衆議院進出を果たしたという実績を背景に池田は、創価学会内部における絶対的な権威と権力を掌握。「戸田先生が出来ないことを私がやったのだ!」と有頂天となり、年来の夢想だった「天下取り」に向けて前進を開始した。
  昭和五五年に創価学会から造反した池田のゴーストライター部門(特別書籍部)の責任者だった故・原島嵩元教学部長は、生前、「水滸会遺戒置文二十六箇条」は、池田の指示で、副教学部長だった佐久間昇が「水滸会記録」を、池田の意志に沿うものへと改変したものである旨、発言している。
 実際、創価学会の外郭印刷会社のひさご印刷の原稿用紙に書かれた「水滸会遺戒置文二十六箇条」には、池田の指示によるものと見られる加筆・修正跡があることから、おそらく池田は、自らの「天下取り」の野望を達成するために、「水滸会記録」を「水滸会遺戒置文二十六箇条」へと改変したのだろう。そしてその際に、自らの積年の野望である「天下取り」や衆院への進出を戸田の意志によるものと位置づけたものと推測される。
 だが得意満面の時、人は得てして躓き、高転びする。組織内における絶対的な権威と権力を把握したことで創価学会内部に批判者のいなくなった池田は、「天下取り」の阻害要因となる外部の批判者をも駆逐しょうとした。その結果、生じたのが言論出版妨害事件だった。

 言論出版妨害事件は、創価学会・公明党に対する厳しい社会的批判、政治的批判を招いた。特に憲法が規定する言論の自由や出版の自由、さらには政教分離規定への抵触が大きな問題となった。昭和四五年五月三日、池田は創価学会の第三三回本部総会の席上、言論出版妨害の事実を謝罪すると同時に、創価学会と公明党のいわゆる政教分離を宣言した。これによって池田の「日本乗っ取り計画=天下取り」のテキストである「水滸会遺戒置文二十六箇条」は永遠に出版の機会を失うこととなったのである。
 その「水滸会遺戒置文二十六箇条」の存在が世間に明らかとなり、注目を浴びたのは、前述の原島が、昭和五四年に創価学会から造反した際に持ち出して公表した資料の中に同文書が含まれており、しかもその内容が、池田大作による「日本乗っ取り=天下取り」のテキストだったことによる。

 前述のように「水滸会遺戒置文二十六箇条」は、池田の手によって改変されているものと見られるが、同文書には「水滸会」における戸田発言の趣旨が色濃く残されていることは確実である。その意味で、戸田・池田の二代の会長にわたる政界や官界さらにはマスコミ界等に対する基本的な概念や姿勢が投影されていることは間違いない。
 そこで言論出版妨害事件を再検証する本書出版の意図に基づき、本稿では、同文書中にある「言論機関の使い方」と題する章を紹介する。ここには「天下取り」を推進するために、マスコミ等の言論機関にどう対処するかの姿勢、ノウハウが記されており興味深い。
 戸田・池田と二代にわたる創価学会会長の言論に対する基本的な姿勢を読みとることで、創価学会の言論抑圧体質の淵源・要因も浮き彫りになるものと考える。
     ----------(つづく)---------320

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創価を斬る.41年目の検証-85

2020-11-27 08:57:45 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
    (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


藤原弘達 創価学会を斬る 41年目の検証 
      言論出版の自由を守る会編 日新報道 2012=平成24年
    人権侵害・政権簒奪・歴史改竄
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
         --目次は第3回目に掲載--
   ------(P.225)---(以下、本文)-------

【第3章】言論出版妨害事件
      =歴史の改竄を図る池田大作・創価学会
・言論出版妨害事件とは
 ◆ 憲法違反と歴史の書き換え
(1) 言論出版妨害事件の経緯
 ① 言論出版妨害事件は池田大作の指示と命令で起きた /山崎正友
 ② 座談会「事実無根」は真っ赤なウソ 業務命令で書店に圧力をかけた
(2) 言論出版妨害事件の歴史的事実の改竄図る池田大作・創価学会
 ◆ 世間欺く方便だった謝罪講演  
 ◆ 歴史の改竄企てる「新・人間革命」
 ◆ 政教一致批判も政治的謀略と主張 
 ◆ 故人・藤原弘達を激しく誹謗中傷
 ◆ インタビューで開き直る池田大作 
 ① 偽造される「開かれた教団」の言論弾圧史 /段勲 
 ② 池田大作怨念のフレーズ「宗教弾圧」 /乙骨正生
 ◆ 熾烈な塚本元民社党委員長への誹謗中傷 
 ◆ 言論出版妨害の被害者だった塚本代議士
 ◆ 証人喚問を怖れる池田大作  
 ③ インタビュー /塚本三郎・元民社党委員長に聞く
 ◆ 歴史的事実を無視した不見識な誹謗だ /塚本三郎
 ④ ウソにウソを重ねる「新・人間革命」--政教一体は骨がらみの体質 /溝口 敦
 ◆ 矛盾を糊塗するためウソを上塗り (~以上、前掲 P.312~)
 ◆ 真実の軽視が生む不毛
  国立戒壇も同様である。池田氏自身がそれまで国立戒壇や創価学会による独裁を広言していた。
 「国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民のものである。宗教にあっても、最高の宗教(つまりここでは創価学会の意味)が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ」(池田『会長講演集」四)
 「広宣流布の時には参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少くとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じやないの着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじやないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布出来やしませんよ。一つ天下を取るまで諸君は大事な体だからうんと修行して行きなさいよ」(池田「遺戒置文講義」「聖教新聞」五七年九月六日付)

 他宗の恐れや批判は根拠のあることであった。が、「新・人間革命」はそれを「甚だしい誤解」と退ける。こういうウソ論理の延長上に「池田お詫び講演」が歴史上の事実としてある。代作者は「お詫び講演」をどう描き出すつもりか。言い方としては、池田氏はお詫びしなくてもよかったのだが、池田氏の寛忍大度と良識がしなくてもいいお詫びにあえて踏み切ったぐらいだろう。
 「新・人間革命」は池田氏の「偉大さ」を顕彰する目的を持つ。間違っても創価学会や池田氏が誤りをおかしたと記してはならない。そういう限定がある以上、たえず歴史的な事実に背を向け、「ウソも方便」を繰り返すしかない。要するに真実が持つ力や説得力を小説の力にすることはできず、単に会員や会員候補に向けたプロパガンダ小説に低迷するだけである。

 およそ新宗教も誕生後五十年も経って一定の地位を占めれば、社会的にも通用する文化や価値を生み出すのがふつうである。天理教や金光教、立正佼成会など、教団内はもとより一般社会にも通用する文化や「作風」を成立させている。
 だが創価学会だけは戦後の再出発後半世紀以上を経て、しかも最大の教勢を誇りながら文化的に価値ある何ものをも生み出していない
 たとえば創価大学に学術的な業績はあるのか、富士美術館に誇るべき収蔵品の体系はあるのか、民音は会員に芸能文化の面で何かを定着し得たのか、潮出版社や第三文明社は胸を張って誇れる出版物を持っているのか、聖教新聞に報道や論説面で何かを期待するのは木を見て魚を求める類だが、せめて特筆大書できる催事や刊行物、システムなどはあるのか。

 これらの問いに対しては、いずれも否と答えるしかなかろう。創価学会・公明党は不思議なほど文化的に不毛の組織である。多数の人員を抱え、巨額の経費も用意できる。にもかかわらず教団外に通用する何ものも生み出していない。
 不毛であることの原因は種々あるだろうが、先の「新・人間革命」に明らかなように、真実の無視、軽視が根本に横たわっているとは指摘できる。すなわち創価学会は歴史的な事実から何も学ばず、その路線を修正できない。いつまで経っても成熟できず、組織外の社会を敵視だけしている。会外からの批判に対しては、ああいえばこういうで、つねに自陳を正しいとするから、体質改善を進めようがない
 
 ◆ ヒットラーと同列
 戦後の創価学会では初代・牧口常三郎の「価値論」を意識に上らせることはほとんどなくなったが、真理の無視の淵源は牧口・価値論にあるのではないかと思えるほどである。
 牧口・価値論は人生の目的を幸福の追求にありとし、幸福の追求とは価値の創造獲得だとする。
 新カント学派は価値を真・善・美の三価値としたが、牧口はこのうち真は状態であって価値ではないとして除き、かわりに利を加えて美・利・善の序列とした。美は人間の部分的な価値の対象、つまり感覚などにかかわるから個人の利より低く、善は公利だから単なる利より高く、最上位の価値になるとする。
 つまり牧口は、真実なしに価値はあり得ると考えた。だが真実の裏づけなしに価値があり得ると考える方が奇怪である。この立場からはウソも百回つけば真実になるといったヒットラーのマキャべリズムを批判できない。ばかりか真実の無視、軽視という点でヒットラーと同列である。ヒットラーは最終的には敗れた。真実から力を得ることも、真実を味方にすることもできなかったからである

 ヒットラーが残したのは人種差別、選良主義、民族抹殺、オカルティズム、全体主義など、いずれも後世が批判するものでしかない。唯一、正の面の遺産はアウトバーンとされるが、池田氏の場合、気の毒なことに正本堂という大建築物もすでに破壊されて後世に伝えようがない。
 真実を無視することの結果は悲惨である。
 「新・人間革命」が出版妨害・言論抑圧に関してできることは歴史の偽造であり、その結果が恥の上塗りになることは自明の理である。なぜなら池田氏がお詫び講演で約束した政教分離はその後の推移に見るように反故となり、ウソとなった
 こうしたウソつきの事実を小説で取り上げ、再構成することはウソつきにウソつきを重ねることでしかない。ウソにウソを乗じたところで真実になる道理はなく、単に二重のウソになるだけである。

 創価学会が相変わらず政教一体の選挙活動を展開し、会員票や、会員が必死になって獲得した外部票を公明党の候補ばかりか、上部が指示するまま他党の候補にさえ投票して、票を商っていることはご承知の通りである。
 不在者投票の制度も会員が外部の老人や病弱者を連れ出し、目当ての候補者に投票させることに使われている。
 創価学会は会員の選挙への取り組みを原動力とする公明党の政治力に依存し、すでに公明党なしには本体の組織さえ維持できない依存症に罹患している。政教一体は骨がらみの体質であり、池田氏の一片のお詫び講演などで左右されるものではない。

 「新・人間革命」の代作者はせめてものことに池田氏の死後、出版妨害事件を扱うべきだったが、すでに事件にさしかかった以上、支離滅裂なまでにウソにウソを重ねるしかない。
     ----------(つづく)---------315

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創価を斬る.41年目の検証-84

2020-11-26 08:50:55 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
    (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


藤原弘達 創価学会を斬る 41年目の検証 
      言論出版の自由を守る会編 日新報道 2012=平成24年
    人権侵害・政権簒奪・歴史改竄
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
         --目次は第3回目に掲載--
   ------(P.225)---(以下、本文)-------

【第3章】言論出版妨害事件
      =歴史の改竄を図る池田大作・創価学会
・言論出版妨害事件とは
 ◆ 憲法違反と歴史の書き換え
(1) 言論出版妨害事件の経緯
 ① 言論出版妨害事件は池田大作の指示と命令で起きた /山崎正友
 ② 座談会「事実無根」は真っ赤なウソ 業務命令で書店に圧力をかけた
(2) 言論出版妨害事件の歴史的事実の改竄図る池田大作・創価学会
 ◆ 世間欺く方便だった謝罪講演  
 ◆ 歴史の改竄企てる「新・人間革命」
 ◆ 政教一致批判も政治的謀略と主張 
 ◆ 故人・藤原弘達を激しく誹謗中傷
 ◆ インタビューで開き直る池田大作 
 ① 偽造される「開かれた教団」の言論弾圧史 /段勲 
 ② 池田大作怨念のフレーズ「宗教弾圧」 /乙骨正生
 ◆ 熾烈な塚本元民社党委員長への誹謗中傷 
 ◆ 言論出版妨害の被害者だった塚本代議士
 ◆ 証人喚問を怖れる池田大作  
 ③ インタビュー /塚本三郎・元民社党委員長に聞く
 ◆ 歴史的事実を無視した不見識な誹謗だ /塚本三郎 (~以上、前掲 P.309~)
 ④ ウソにウソを重ねる「新・人間革命」--政教一体は骨がらみの体質 /溝口 敦
 ◆ 矛盾を糊塗するためウソを上塗り
  法悟空名による『新・人間革命」は一九七〇年創価学会・公明党による「出版妨害事件」の項にようやくさしかかった。同年五月三日池田大作氏の「お詫び講演」がー時しのぎの詐術にすぎなかったことは、その後の歴史が証明している。
 「新・人間革命』が「お詫び講演」に対してどうウソにウソを塗り重ねるか、きわめて興味深いが、連載はまだ「お詫び講演」には達していない。そこに至る助走の段階でごまかしと言い訳のための足踏みをしている(平成一五年七月八日現在〕。

 考えてみれば、「新・人間革命」の代作者が誰であれ「お詫び講演」を合理化し、美化して描き出すことは難事である。なぜなのかは順を追って考えれば自ずと明らかだろう。
 ① 創価学会・公明党は池田氏を批判する著作に対して出版妨害し、言論抑圧した。
 ② 社会世論は彼らによる出版妨害に対し糾弾の火の手をあげた。
 ③ 池田氏はそうした世論と糾弾に酎えきれず、過去に行った数々の出版妨害について詫び、再発させないための約束ごとをした。「国立戒壇」の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏活動の停止などがその内容である。
 ④ だが、それ以降、こうした約束ごとをなし崩しで骨抜きにし、反故にした。
 創価学会は会員を選挙活動に動員し、票を結集することで公明党を一定の勢力に仕立て、与党体制のー角に食い込んだ。池田氏は公明党の政治力を背景に「天下を取る」ことを完全には諦めきっていない。

 --こうした機会主義的な流れ自体に一貫性も整合性もない。しかも「新・人間革命」がやろうとすることは①③④を全て「善」として描くことである。たとえば…
 一、①の出版妨害を善とすれば、③の池田氏のお詫び講演は間が抜けてしまう。
 一、③のお詫び講演を善とすれば、④の骨抜きは何なのかと批判を招く。
 互いに矛盾した①③④の動きはこちら立てればあちら立たずの関係にある
 丸ごと美化するのは不可能なのだが、「聖教新聞」で連載するからには丸ごと美化が使命になる。

 矛盾をクリアする唯一の方法はそのときどきウソをつくしかない。通して読めばウソとその場しのぎは自明となるが、どうせ読むのは創価学会員だけである。会員がそのときどきのウソと虚飾のレトリックに喜ぶなら、それでよしとするしかない。 要するに「新・人間革命」は他の創価学会関連の出版物と同様、真理を無視することでようやくその場を糊塗できる著作でしかない。それ以上のレベルを求めていないし、求めてもムリというのが宿命である。

 一例を挙げよう。
 「新・人間革命」二五〇五回(「聖教」紙、平成一五年六月二三日付)に次の記述がある。
 「各教団が恐れていたのは、公明党の衆議院への進出であった。
  そこには、甚だしい誤解があった。公明党が将来、政権を担うようになったら、日蓮正宗を国教にし、国立戒壇を建立して、ほかの宗教は権力によって排斥されてしまうと思い込んでいたのだ。
 そんなことは、学会としては明確に否定しているにもかかわらず、頑なにそう信じ込んでいたのである」

  一九七〇年以前、創価学会は公明党をして衆議院に進出させていた。それ以前の六四年五月、池田氏はそれまでの「それらは政党ではない。すなわち創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものではない」をあっさり否定していた。
 「衆院に出さない」を否定して「出す」に切り換え、現実に衆院に進出しているにもかかわらず、公明党の衆院進出に対する他教団の「恐れ」をなぜ「甚だしい誤解」と否定できるのか。盗人も裸足で逃げ出す居直りであり、黒を白といいくるめるウソでしかない
     ----------(つづく)---------313

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