創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

闇の帝王・山崎正友-20

2016-02-09 09:48:34 | Weblog

私は山崎正友を詐欺罪から救った! -- 2002/05
   --アウトローが明かす巨額“手形詐欺”事件の真実--
    -------(前回、169P)--以下、本文--

5 事件の後遺症
 私は山崎の恐喝事件と取り込み詐欺事件を湮滅するために、山崎の依頼で逃亡を図り、警視庁の呼び出しにも応ぜずに拒否した。
 さらに別件逮捕の時も、ツッパリ通して山崎を庇った。山崎を庇った行為は、いわゆるお上に逆らって捜査を妨害してしまったことになる。
 事件の初期の頃、私が警視庁の呼び出しを拒否した時、担当の刑事はこう言った。
「生意気な奴だ。今後はお前が箸を転がすようなことをしても逮捕する」
 私はいつの間にか、その事を忘れてしまっていた。また、山崎も実刑判決が確定して服役中で、付き合いが途切れていた。
 そうしたある日の早朝のことだ。警視庁・五日市警察の刑事と名乗る警察官が、突然私の自宅に逮捕状と家宅捜査令状を持って乗り込んで来た。
 逮捕容疑は、旅券法違反であるという。旅券法違反というのに、私はまったく覚えがなかった。
 それでも逮捕状を突き付けて、寝込みを襲って意気込んできた刑事に逆らってもしょうがなく、私自身が身に覚えのないことなので、逮捕されたとしても警察に行ってから調べてもらえれば無実が証明されると思い、一切逆らわずに家宅捜査させて、五日市警察署に連行されて行った。
 五日市警察署は警視庁の管轄内だが、東京の一番西の外れに位置する警察署である。私の住居は大田区で、二十三区の一番南の端にある。
「なぜ大田区に住んでいるのに、遠くの五日市警察が担当するの」
「なぜって、五日市も譬視庁の管轄だよ」
 こう言うだけで、刑事は何の説明もしなかった。
「いずれにしても、警察に着いてから話すよ」
 五日市警察署に着いたが、その日はまるで私を焦らすように何の取り調べもせず、留置所に留置したままであった。翌日、午前十時ごろようヤク刑事の取り調べが始まった。
 海外旅行をするのに必要なパスポートを取得する時、申請書類に必要事項を記載する。
 必要事項の中の一つに、刑事事件での逮捕歴が「ある,ない」の記載欄がある。
 私はパスポートの申請を、海外旅行を斡旋してきた旅行会社の社員に一切を任せていた。
 この社員は、申請書に必要な記載事項もすベて代筆して作成してくれた。私がしたのは本人署名と押印だけである。そしてパスボートを取得した。
 この旅行会社の社員の代筆では、私の逮捕歴の有無の欄で「なし」にチェックをしてあった。警察は逮捕歴に「偽り」があるとして旅券法違反だというのだ。まったく微罪な法律違反であった。
 これが「箸が転んでも逮捕……」と言った警察のシッぺ返しと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。こんなところにも、山崎事件の後遺症が残っていたのであった。

6 山崎の出所
 平成五(一九九三)年四月二十七日、山崎は刑期満了まで半年を残して、栃木県の黒羽刑務所を仮出所した。それから数日後のことである。山崎は、私の自宅に電話をかけてきた。
 この時、なぜか山崎が名乗ったのは偽名であった。確か「山本です」と言ったはずである。しかし、私はピンときて電話に出ると同時に、「なんで、偽名なんか使うの。先生でしょ。声を聞けばわかるんだから」と言うと、案の定、山崎であった。
 実は、山崎は私よりも先に、私の事務所にいた山田某のところに連絡をしていたので、私は山崎の仮出所を事前に知っていたのであった。この山田は、私が浜大水産という会社をやっていた当時からついてきていた仕事師である。彼はヤクザではなく仕事師専門で私がケツを持つという関係である。
 そして私が山崎と組んで、シーホースを舞台にした取り込み詐欺を計画した時、他の仕事師仲間を集めるのも山田がほとんど一人であったのであった。
 山田はまた、人当たりも大変によかったことから、山崎も好感をもっていたらしく、シーホースの事件当時は「山崎事務所」の名刺を持ち歩くほどの関係になっていた。そうしたこともあつて、山崎は仮出所するとすぐに山田に連絡をしたようである。
 それはともかく、山崎が「出所したので、ぜひ一度会いたい」と言うので、近々、会おうということになった。
 その頃、山崎は新宿区の薬王寺の賃貸マンションが住所となっていたのだが、本人の話によると、刑務所の中で脱税で服役していた中瀬古某と知り合いになり、中瀬古が赤坂に所有していたマンションに寝泊まりしているということであった。
 この平成五年は政治的に激動の年であった。七月の総選挙で自民党が単独で過半数に届かず、八月六日に細川連立政権が誕生した。
 はじめて下野の悲哀を味わった自民党は、あの手、この手を使い、細川政権を潰そうと画策した。特にこの連立政権の要ともいえる公明党とその支援団体である創価学会への攻撃に焦点を合わせ、着々と準備を整えていた。自民党にとって、このときに元創価学会顧問弁護士が出所してきたことは、まさに渡りに船である。
 山崎は山崎で、「昔の名前で出ています」よろしく、逮捕前にこれでもかとばかりに攻撃した創価学会批判を続けて、大儲けできるチャンスが眼前に広がっていたのである。
 山崎は、刑期満了の同年十月二十七日を待たずに、『週刊新潮」(平成五年十月十四日発売)で創価学会への宣戦を布告していた。
       ---------(174P)-------つづく--

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