創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-2

2021-03-09 07:06:46 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
 


 続・創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道・1971年(昭和46年)
   ----------(以下、本文)----------5

◆ まえがき--真実こそ闘う勇気の源泉である-2
 あの事件が起こって二年……。いったい日本はあの事件の意味するものをどれだけ認識しているのだろう。マスコミや政治はあの事件をどれだけ正しく整理し、問題の所在を明確にし、再びあのような事件が起こってくる背景を根絶したかどうか、あの事件以後のプロセスを辿ってきたものとして、改めて大いなる疑問とせざるをえないのである。 ^

 創価学会・公明党が何故によろめき、よろめきのなかから転換の方向を打ちだした社会的背景との対決を無視しては何にもならないということである。しかも、当の創価学会・公明党すらも、そういう外見的変化、見せ掛け的偽装的変化に対して無原則的ともいえる寛容性を示す日本の政治、文化、社会の反応のうえにけっこうアグラをかき、内容的、実質的にはほとんど変わらないにもかかわらず、変わったという幻想のうえに自ら酔っているという気がするのだ。今や私はこのような偽善的ポーズに対し、非常な怒りを感じている。その意味において『創価学会を斬る』が投じた問題は、政治的にも、社会的にも、文化的にもまだまだほとんど解決されていないと断ぜざるをえないのである。

 時あたかも昭和四十六年九月二十一日、公明党竹入義勝委員長が暴漢によって刺されるという事件が発生した。
 私は言論によって創価学会を斬った。その“斬る”という表現があまりにもラディカルであるということで、多くの信者から抗議が来たものだ。そして出版取次店は一時、取次を拒み、広告代理店は広告の取扱いを拒否し、しかも当初一部の大新聞はその広告掲載を拒否する理由として“斬る”という表現を取上げたものである。
 “斬る”といい“刺す”といい、それはあくまで言論を通じての表現であるに過ぎない。しかも私の本はそれなりに事実を調べ、きびしい表現はとっているけれども、決して言論の道義に反するような形で書かれたものではない、にもかかわらず言論の批判を拒否して、さまざまな妨害をし、しかもことが明るみに出た場合にシラを切って逃げ回り、ヌケヌケとした弁明を行ない、一度は辞職するといいながら辞めず、醜態そのものであったといっていい竹入委員長が、創価学会は「金儲け主義の団体」であるといって憤概する熱烈な日蓮宗信者、立正大学出身の青年の手によって刺されたということに、やはり私は私なりに感慨無量なものがあった。

 私が暴力を否定することはいうまでもない。私が言論をもって創価学会を“斬った”のはまさに自由な言論を実力をもって阻止しようとする創価学会・公明党の暴力的体質であったといわねばならない。言論を直接暴力スレスレの組織的実力をもって抑圧しょうとしたものが、今や実力のなかのもっとも尖鋭な形態としてのテ口によってその指導者を刺されたということ、この事実の重みのなかに私は二年の歳月をへて「創価学会問題」とでもいえるものがますますねじれた形で社会に展開されていることに対する憂慮を憶えざるをえない。その意味でも事実の展開はまこと皮肉といわなければなるまい。

 あのテロ事件で、さらに皮肉な実感を受けたことは咋年(四十五年)の五月、政治と宗教の分離を池田会長自らの言葉で天下に誓っているのに、この犯人でさえ創価学会・公明党は少しも分離していないと、受取っていることであった。池田大作会長でも、竹入委員長でもというテ口の同一方向性こそ、創価学会・公明党がいまだに分離していないと多くの人々に受取られていることをもっとも素朴で、愚かな形で、社会に示したといえなくもないのだ。
 竹入委員長刺傷事件が起こったとき、公明党はいち早く声明を出し、暴力こそ「民主主義の敵」であるという表現をつかった。ちょうど二年前、私は創価学会・公明党の自由を抑圧する態度こそ、まさに「民主主義の敵」であると言った。民主主義の敵は暴力であり、暴力的行動であるという点ではまったく異論がない。その公明党の党首がテ口にあうという段階になって、私のつかったとまったく同じ表現をつかったことに、奇妙な感慨と追想をおぼえたものだ。

 ところでニクソン・ショックとさえいわれた突然の二クソン訪中声明に先だって、公明党はこの一年くらいで驚くべき左旋回をしている。数年前に訪中して文化革命時における毛沢東の神格化、紅衛兵運動等々を見て、創価学会の大会と紅衛兵運動と奇妙に類似するなどといってきた私としては、公明党の中国接近、これに対する中国の反応をみていると、ここにもまたそこはかとなき皮肉の感慨をもたざるをえない。

 ともあれ創価学会・公明党問題はもっともっと掘り下げねばなるまい。一年前まではファシズムであるといって痛烈に創価学会・公明党を非難していた中国系新聞が、今や公明党五原則を日中国交回復の基本条件として拳げてきている歴史の変転のなかにあるものは何か。歴史の歯車は、政治の場合とくに微妙に屈折するものである。正しいとみえるもののなかにもしばしばインチキなもの、不純なものは混在する。そういう点もふくめて、学会・公明党の政治姿勢の根底にあるものについてさらに考えてみる段階にきているのではないかとも思っている。

 この『続・創価学会を斬る』は、あの事件以後、私なりに創価学会・公明党の動きを監視してきた結果、本質的には何ら変わらず、旧態依然としてそのマキャベリスティックな願望を別な形で実現しようとしていることに対する憂慮を、国民への警鐘として書いたものである。
 そしてあの言論出版問題が少しも解決されてないことをさらにつよく世に訴えたいのだ。あの問題と事件に少しでも関心を持たれた学会員をふくめて多くの人々に対し、問題は決してまだ終わってないことを改めて考えていただくとともに、創価学会・公明党の本質にひそむさらに深刻な問題に目を閉じないでほしいことを訴えたいのである。
 真実はまあくまでも明らかにされねばならないし、これを故意に蔽ぅものとの闘いはやめるワケにはいかないということである。
  一九七一年十一月十日           藤原 弘達
     ----------(つづく)---------8


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1 コメント

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Unknown (George Walker)
2021-11-06 10:33:53
言論出版妨害事件の当事者が間接的ながら妨害の実態を認めた。藤原氏が存命だったらどんな感想を抱いただろうか。ただ一人池田だけが反省せずに臭い息を撒き散らし続けてきた。そんな池田だが物理的終焉が確実に近づいている。「そのとき」になっても創価学会はホッ被りを続けるのか。
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