創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-33

2021-01-31 08:26:42 | Weblog

    --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
(28) アメリカの大統領選挙 - YouTube  ・アメリカの自由と民主主義?
・創価公明にも、贈収賄事件(大阪の戦い)や、住民票移動、練馬区投票事件等があった。
・大阪事件は、学会員二〇数名罰金・除名(後に法難賞)、池田三年後冤罪!!
・後、法難・国難の聖人・池田が三代会長となり、全国尊称の対象“常勝関西”の大発展!!
・自公一体の創価・公明に、自由と民主主義はあるのか? 米国に言われたくない!!


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
 ◆ 他人を「ノロウ」ものの罪 
 ◆ はなはだしい人間性への冒涜
 ◆ 人を惑わす八方美人の罪
 ◆ 著るしい虚妄と方便 
 ◆ 体質は保守--宗教は元来保守的てある 
 ◆ 思考停止、愚民化誘導の罪     
 ◆ いつもお祭リ騒ぎの“演出”と“施策”-1  (~以上、前掲 P.140~)
◆ いつもお祭リ騒ぎの“演出”と“施策”-2
 公明党が現在、国会の舞台で、あるいは学会それ自体が真剣にやろうとしている運動は、小選挙区制反対、個人以外の政治献金の禁止、選挙運動の自由化、腐敗の追及、この四点だけだといってもよいだろう。

 小選挙区制は、現状では公明党を壊滅させるおそれがある。公明党には小選区制のもとで当選者を大量に出す実力がない。したがって、この問題に関しては、ともに天を戴かないはずの共産党と共闘してでも、阻止に死力を傾けるというわけなのである。

 政治資金規制法を改正して、政治献金を個人に限り、それにも限度額をもうけて、やがては政治献金全面禁止にもっていこうとするのは、他党の息の根を資金的にとめようとする政策である。
 財界や労組からの政治献金を禁止すれば、自民、社会、民社の三党は手痛い打撃をこうむることになる。この三党は公明党にくらべると途方もなく莫大な金を選挙につぎこんでいる。その資金源をおさえられたら、まずはたまったものではないということにもなるだろう。
 個人献金を禁止すれば、公明党以外の政党が、党費などでまかなえる額はまず問題にならないくらいに小さい。末端組織が確立してないからである。共産党といえども、多額な金を使う選挙運動、政治運動をしているのであるから、たしかにこれも参ってしまうことになる。共産党も党費納入党員は、実際問題として、たいした数ではないのである。これらに比べて、ひとり公明党だけは、選挙に大した金も使わず、しかも党員はいつでも何百万人という数にすることが可能な融通無礙な政党なのであるから、党費でまかなうだけにしても少しも痛手をこうむらない。創価学会が、ちゃんとそういう意味における資金源は引き受けてくれるということでもある。

 選挙運動の自由化とは、戸別訪問の自由化、宣伝の自由化、連呼の自由化などである。公明党の選挙運動の主要方法は戸別訪問にあるわけで、それを折伏とならべて日常的に展開しているところにミソがある。選挙期間中だけでもそれがしにくくなるということは、目下のところかなりの痛手である。だから、選挙運動をともかく自由化したい、戸別訪問を自由にしたいという主張が全面に押し出されてくるのである。

 最後に、腐敗の追及とは政界粛正である。公明党は、新らしい政党であるために、腐敗の誘惑は少ない。その意味ではまず安心して政界粛正に乗りだすことができる立場にある。そういう立場にあるから他の政党に対しては、それなりに若干の傷を負わせることもできる。政界粛正要求はまずは公明党に有利である。

 そして問題の小選挙区制については、……
 一、死票が多くでる、
 一、一党独裁になる可能性が大きい、
 一、党利党略のゲリマンダーが行なわれる、
 一、派閥争いがはげしくなる、
 一、選挙が腐敗する、
 一、地方ボスが有利になる、
 一、選挙運動が激烈になる、
 ……等々の反対理由をズラリと並べて反対している。
 こういうような弊害があるにもかかわらず、小選挙区制を推進しょうとするのは、自民党が一党独裁をねらい、憲法を改悪し、再軍備を促進しょうとする以外の何ものでもないといった調子で反対が行なわれ、最後に再軍備にまで結びつける点は、社・共両党とまったく同じということである。小選挙区制に反対する限りにおいては、いつでも、どの政党とも組むということにもなってくるのである

 こうしてみると、公明党の政治誘導の手ぐちはまことにエテ勝手なものである、といわなけれぱなるまい。これほど党利党略を露骨に現わしている政治勢力はちよっとないということである。しかもなりふりかまわずの党利党略である。最後にこれをアブリシェートしてくれるのは国民でなくともよい、極端にいえば池田会長が誉めてくれればよいということにもなるのだから、なりふりかまわずやるということにもなってくる。
 会員の政治意識を向上させることを目的とした政治指導はほとんど行なわれていない。むしろ、彼等の愚民化を欲している。もっともっとバカになれ、バカになって黙ってついてこいということを欲しているといえなくもない。愚民のままで黙ってついてこい、組織のいうままに票だけをかき集めよ、というふうにリードしているといっても、決して過言ではないということである。
 民主主義は、一歩誤まると愚民政治に転落する可能性がある。創価学会が、宗教勢力のままで議会へ進出している傾向のなかにひそむ一つの問題は、民主主義の愚民化にある。
 大衆化ではなく愚民化の尖兵が学会・公明党であるとすれば、これもまた大きな問題といわなければならないであろう。
     ----------(つづく)---------143

 

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創価学会を斬る-32

2021-01-30 07:42:19 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
 ◆ 他人を「ノロウ」ものの罪 
 ◆ はなはだしい人間性への冒涜
 ◆ 人を惑わす八方美人の罪
 ◆ 著るしい虚妄と方便 
 ◆ 体質は保守--宗教は元来保守的てある 
 ◆ 思考停止、愚民化誘導の罪     (~以上、前掲 P.136~)
◆ いつもお祭リ騒ぎの“演出”と“施策”-1
  創価学会を現わすスローガンとしては次の十項目ほどのものがあげられている。
 ・日蓮正宗の創価学会
 ・日蓮大聖人御遺命達成の創価学会
 ・王仏冥合の創価学会
 ・広宣流布の創価学会
 ・世界の生命哲学・創価学会
 ・東洋仏法の真髄・創価学会
 ・利善美創造の創価学会
 ・慈悲と哲理の創価学会
 ・二十一世紀の思想・創価学会
 要するに、これを学会員に徹底的に叩きこもうというわけである。飼主の意思通りに徹底的に飼育しようとしているといってもよいだろう。宗教の何たるかを教えるよりも、スローガンを羅列し、言葉の魔術で全員を掌握し、その意のままに動かした方が学会幹部にとっては手取り早いのである。
 スローガンだけ示し、あとはすべて幹部に白紙委任である。批判を知らない会員にとっては、ス口ーガンの内容は問題でない。スローガンなどはどうでもよいといっていい。どうせ内容などろくすっぽ知らないのだから、体裁だけととのっておればそれで十分ということにもなるわけである。

 日蓮正宗によって洗脳されてしまうと、その会員は、創価学会そのものが魅力の対象である。だから、スローガンはすべて創価学会に結ばれる。創価学会万々歳である。
 幹部の仕事は、彼等自身の勤行よりも、まずこうしたスローガンの周知徹底にある。会員にとってはこのスローガンと南無妙法蓮華経をひたすらとなえることにその生活がある。しかも宗教をただちに生活の損得に結びつけ、仏法は生活上の勝負であるとし、つねに他宗教を邪宗呼ばわりし、闘争心をむきだしにし、あわただしくその日その日を終っていくのである。

 宗教の本来的使命は、人類を教済するところにあるはずである。しかし、創価学会の日常活動は、まことに多忙のうえに多忙を重ねることをもって本分としている。損得めざして、不断の闘いをくり返すということかもしれない。スローガンのいっているところとは、まことウラハラな関係になっている。そうしておいて、学会の幹部は口を開けば「学会を支えるのはあなたがた会員である」というような表現をとる。しかし、創価学会をここまで支えてきたのは、むしろ会員でなく幹部である。
 だから、会員のなかで不祥事を起こしたりする者がいると「多数の会員の中には、お粗末な会員も多少おりまして……」と、あたかも兵隊の中にはお粗末な者もいるが、下士官、将校になるとそんなお粗末な者は一人もいない、というような答えを平気ですることにもなるのである。
 いうならば、会員は幹部の使い走りのために存在するに過ぎない。強いて支えているというならば、学会が出版するおびただしい出版物を、金を出して消化してくれることと、学会を維持してゆくに必要な資金を提供してくれるということであろう。つまり、御賽銭提供者として尊重されているということなのである。

 だいたい創価学会の功徳は、信心の方便功徳よりも、団体としての功徳が常に優先するシステムになっている。つまり組織の維持と、力の培養が第一義になっているということである。
 このなかで会員は、折伏につぐ折伏を要求され、その中のある者は班長なり、部隊長になることができる。一般社会の中では、「長」という字にまったく縁のなかった人が、創価学会のおかげで「長」という名誉と責任をいただくことができるのであるから、その感激たるやまさに想像を絶するものがあろう。立身出世欲の刺激と、一般社会に対する欲求不満とを適度にあおりながら、スローガンに結集する創価学会幹部の演出は、その意味においてはなかなか巧みなものであるということができる。こういう会員に対する刺激と愛撫、つまり緩急自在なやり方は、選挙時に最高度に発揮されることになるのである。

 「勝利は青年部の手で」「勝利は婦人部の双肩にかかっている」「会員の結集で大勝利へ」などといういかにも勇ましい言葉が幹部の口からつぎつぎと飛びでてくる。ましてこれが池田会長の口からでようものなら、会員は感激し、一層コマメに、バカ正直に、選挙違反すれすれの選挙運動に飛びまわるということになるのである。
 会員にとっては創価学会は絶対であり、政策がどうであるかというようなことを知る必要はないということでもある

 私の友人がイタズラ心を起こした。それは「公明党侯補へ投票してくれ」という依頼の電話が創価学会員からかかってきたときのことだ。
 友人「この電話は、あなたの自発的意思でかけたのですか。それとも頼まれたのですか」
 会員(やや間をおいて)「私の意思でかけたのです」
 友人「それでは、その候補者の政策をご存じですか」
 会員「はい、知つております」
 友人「では、〇〇さんの政策を教えて下さい」
 会員(誰かと相談している様子)「政界浄化、清潔な政治の確立です」
 友人「それは、どの候補もいっています。ほかにありませんか」
 会員(誰かとしばらく話し合っている)「憲法と平和を守ることです」
 友人「それもどの党もいってます。何かほかには」
 会員(また相談する様子)「税金と物価を下げます」
 友人「それもどの党もいってます。何かほかには」
 会員(しばらく応答なし)「福祉経済、大衆福祉です」
 友人「それは民社党の政策とどう違うのですか」
 会員「.........」
 友人「何か、〇〇さん特有の、〇〇さんだけが打ち出している政策はないのですか」
 会員「.........」
 しばらくしてガチャン。

 友人のイタズラはやや度が過ぎていたかもしれない。しかし、この程度の質問にも答えられないで、東奔西走の運動をしている会員もまこと困ったものであり、また見方によれば、哀れというほかはない。
     ----------(つづく)---------140

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創価学会を斬る-31

2021-01-29 08:52:15 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
 ◆ 他人を「ノロウ」ものの罪 
 ◆ はなはだしい人間性への冒涜
 ◆ 人を惑わす八方美人の罪
 ◆ 著るしい虚妄と方便 
 ◆ 体質は保守--宗教は元来保守的てある (~以上、前掲 P.130~)
◆ 思考停止、愚民化誘導の罪
  第五の罪は愚民化誘導の罪である。つまり、だんだんと国民大衆がバ力になるように誘導していく罪と表現してもよいであろう。
 創価学会・公明党の主義主張、政策には、さまざまな疑問がある。各方面から、これだけ疑問視されているにもかかわらず、学会の内部からは批判らしい批判が起こっていないということは、まことに不思議な傾向であるといわなければならない。いったい、創価学会会員の政治意識はどうなっているのか、この点を考えてみなければならない。

 たとえば、日本が今後展開していかなければならない外交政策という点では、「中立政策」二七%、「日米協力」一五%、「中ソと友好」一一%、「日本独自の防衛力強化」八%「その他」六%、「わからない」三三%、というような結果が彼等会員の反応としてでている。これが学会員の政治意識なのである。
 どこで、「地球民族主義」や「軍備撤廃」につながるのであろうか。いささか唖然とせざるをえないような実情といわなければならない。
 さらにいえば、「憲法改正」については「賛成」が二三%、「反対」が三一%、「その他」が四%、「わからない」が実に四二%もあるということである。
 「憲法改正反対」という公明党のかかげる政策にしても、ほとんど会員の中には吸収されていないし、会員をまとめる力になっていない。まさに、てんでバラバラである(拙著『保守独裁の底辺』)。見方によれば、政党としてはデタラメである、といわざるをえないということである。さらにいえぱ、デタラメでほとんど何もわかっていないが故に、むしろ一度号令をかければ右でも左でも向くわけで、たとえば「安保反対」を、かりに至上命令として出せぱ、全員が異口同音に「安保反対」と言いだすことを指摘しておかなければならない。したがって調査時によっては一八〇度の転換もありうるわけだ。

 それはそれとして、彼等の政治意識のうえでは、国家、社会という観念がはなはだしくうすれており、マイホーム主義的な私的傾斜が著るしい。これは日本全体をおおう戦後の一般的傾向ではあるが、ことに創価学会会員についてそのことがいえるのである。入信の動機自体にしても、まず全部といっていいほどにプライべートな問題が動機になっており、公的な問題のために入信してはいないということが無視できない。プライべートな悩みでおろおろしていた連中が、「幸福製造機」とでも称しうるものに幻惑され、私的幸福、私的救済のみを期待して信仰に入っているのであるから、それもまた当然の結果といわなければならないかもしれない。利を追うものは利をもって離れ、金を追うものは金をもって離れる。幸福に対する満足感があれば、創価学会が与えてくれる幸福と、自分で追求できる幸福とのバランスシートを考え、それが崩れたときには、この巨大に見える創価学会の組織も、がたがたと崩れる可能性なしとしない。

 創価学会の教義にしても、ともかく「御本尊様」をひたすら大切にし、そして池田会長の言葉に盲目的についてゆきさえすればあとは、たいしたことはない、というような態度がみられるのである。まことに奇妙なことといわなければならない。
 池田会長は、一九六七年一月の衆院選にあたって、公明党なるものの“ピジョン”を述べている。
 「私の方針に賛成できえない人もいるかもしれない。あるいは反対に、他党の政策のほうに、自分の利益がつながっているという人もいるかもしれない。そういう人には、どこに投票しても、とうぜん、やむをえないと私は申し上げておきたいのであります」(「公明党のピジョン」.『第三文明』一九六七年二月号)
 
 外見的には、まことこの衆院選にあたっての公明党のピジョンについては、レッセフェール、レッセパッセ、あなたのいいように、つまり、自分の利益につながっているのならどこでもいいだろう、そうしなさい、それはそれでやむをえない、というようなことになっている。
 しかし、実際の選挙にあたっては、熱心に投票依頼に狂奔しているのは末端の学会員であり、その人たちは何がいいのかもしらないで、ともかく動員された限りにおいては、一生懸命創価学会の候補のために奔走している。そうした面では、いかにもレッセフェール、レッセパッセと寛大にみえる池田会長の言葉と、末端運動員との間には、あまりにも大きな隔たりがあるといわなければならない。

 このように政治意識がまことバラバラであることは、一般会員のみならず、公明党の国会議員、県会議員レベルにおいてもいいうる。これでは、公明党とて困るわけで、全国の国会議員、県会議員の研修をしているが、研修をしなければ統一的な行動がとれないくらい、その政治意識はお粗末で、バラバラになっているということなのである。したがって、池田会長の示すビジョンなるものは、抽象的であり、漠然としていなければならない。まさに、きれいごとだけを並べたオジヤ的表現でなければならない。ウソのような本当のようなものでなければならない。はっきりウソになるようなことをいったのでは困るし、はっきり利害関係が対立するようなことをいっても困る。つまり、具体的なものになれば、会長の方針に反対する者もでてくるかもしれないし、反対せざるをえないケースもでてくるかもしれないのである。

 会長はそういう計算済の演説ばかりすることになる。いわく「清潔な民主政治」「不信と対立抗争を断て」「犠牲なき進歩の革命」「相互扶助の立場で」「人間のための政治」「地球民族主義で」「平和こそ諸問題解決」「国民利益に立って」といった漠とした調子にならざるをえないということである。それは一種の“お経”である、といっても決して過言ではなかろう
 会員ははじめから批判的検討を加える立場を放棄しているから、池田会長の方針に賛成するも反対するもない。池田会長の方針自体が検討に値いする内容をもっていないともいえる。内容がないのにこれを批判したり、検討することはできない。

 かくて、それぞれ勝手な政治意識をもったまま、会員たちは投票所におもむくことになるのだ。ただその票を公明党侯補者に投ずることだけはほぼ全員一致しているということである。まことに不可思議なる政治行動といわなければなるまい。まさに批判を忘れた一〇〇〇万の力ナリヤということかもしれない。
 批判なきところに進歩はない。一〇〇〇万の唄を忘れた力ナリヤでは、その行く末がまことに思いやられるといわざるをえないのである。創価学会は、青年部を戦力とし、誇りとしているようであるが、本来、青年は批判あってこそ、その存在意義があろうというものである。その青年部が、他を批判するのあまり、自分の身辺を批判することを忘れ、しかもなおかつ革新の中の革新を叫ぶありさまは、まことおこがましい限りといわなければならない。

 ともあれ、池田会長の言葉のみを絶対として、これを鵜呑みにし、独りよがりの実践哲学をふりまわし、創価学会に身命を賭す青年部、そして学会健児として羽振りをきかしている青年部、かかる猪突猛進的青年部が存するのみで、若き青年会員から批判らしい批判がでてこないというのは、この組織自体が健全な成長をしていないということを物語るものにほかならない。その意味においても、この学会の未来には、大きな問題がたちはだかっているといえるであろう。
     ----------(つづく)---------135

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創価学会を斬る-30

2021-01-28 06:48:59 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
 ◆ 他人を「ノロウ」ものの罪 
 ◆ はなはだしい人間性への冒涜
 ◆ 人を惑わす八方美人の罪
 ◆ 著るしい虚妄と方便  (~以上、前掲 P.127~)
◆ 体質は保守--宗教は元来保守的てある
  創価学会・公明党の政治姿勢をさらに曖昧なものにしているものに、果たして公明党は“保守か革新”かという問題がある。
 池田会長は「保守か革新かといえば、革新のなかの革新」というようなキザッぽい表現をしているが、宗教は元来保守的なものといえよう。宗教の教義を根底にすえる公明党は、体質的には保守側に立つものと断定して差支えないだろう。とくに共産党に対しては究極的には絶対あいいれないものなのである。

 もっとも、進歩的な宗教家もいるように、数ある公明党員のなかには、たしかに進歩的、革新的な信者もいることはいる。これは公明党員、創価学会員に対してこころみた実態調査からもいえることであり、まさに各種各様のイデオロギーの人が公明党の中に人っていることは否定できない事実である。
 しかし、宗教そのものは集合体として、大きくなっていっても、それ自体革新的なものに発展していくという体質のものではない。もし革新的なものに発展してゆくとするなら、今までの教義を否定することになり、分裂か解体せざるをえなくなるともいえよう。

 たしかに創価学会・公明党は、現状打破的なスローガンをかかげ、保守政党たる自民党を批判、攻撃している。一見したところでは、革新的な政治運動を展開しているかにみえる。しかし、各党の政策をゴチャマゼにしているように、その政治行動はしばしば右顧左ベンし、実はとらえ難いものとなっている。だが、よくみるならば、これはいうところの革新性と保守体質との相剋にほかならない。つまり、創価学会の基盤となっている層からくる当然の制約であるともいえるのである。

 ただ、創価学会・公明党の政権への順序からすると、当面打倒すべきものは他の宗教、宗派であり、それらの権威、権力であろう。政治権力は、まだ全面攻撃の段階でないとも受けとられる。したがって、自民党との間にはしばしば政治的妥協がこころみられており、そういう政治的妥協のやり方の中に、彼等の自民党に対する攻擎にもかかわらず、それ自身の体質の中にある保守性はいかんともしがたいことが表現されている。つまり、彼等は会員のエネルギーを宗教次元に集中し、宗教界を征覇することを第一段階の目標においており、第二段階は全国民への日蓮正宗の広宣流布であり、第三段階が政権獲得、というコースであるといってもよいだろう。
 それまでは、会員のエネルギーを第一、第二段階にとどめ、第三段階への布石は公明党が担う、というのが創価学会・公明党の戦略のようである。もっとも、第二段階と第三段階は順序が前後することも十分ありうるものと考えられている。

 したがって、そのためには宗教的には既存の宗教、宗派の打倒に主眼がおかれ、政治的には革新を標榜しながら、実際はいいかげんなところがある。
 だから、創価学会・公明党にとっては、保守も革新も、それ自体はたいした意味をもっていない。その意味では、公明党のいう「真の革新」も単なる主観的表現に過ぎない。池田大作のいう革新の中の革新、そのおうむ返しである公明党の「革新の中の革新」という主張も、国民が公明党の政策に疑問を抱き、ジャーナリズムに突っ込まれて、大あわてにあわて、保守だ、革新だという議論を会員相互の中でさんざんやったすえ、「革新の中の革新」という表現に落ちついただけのことらしい。最終的には池田大作が意見をまとめたということかもしれない。
 しかも、それに尾ひれがついて「公明党のいう革新とは、従来の保守、革新とは次元の違う革新」ということになった。まあ言葉の遊戯にしても、いささかバカバカしいといわざるをえないだろう。

 だから、公明党がいかに声を大にして「革新の中の革新」を叫ぼうと、それ自体は南無妙法蓮蓮華経と同様に空念仏にすぎないものなのである。しかしながら、保守的体質にもかかわらず表面的にに革新を志向していることは事実なのである。とくに、最近になって、創価学会・公明党の幹部に小市民的インテリ層が登用されつつあり、彼等は学会の発展の原動力であるし、現体制の変革をのぞみ、それなりに激しい行動の尖兵となってきたものが少なくないだけに、これを創価学会・公明党の政治運動の中枢にしようとする傾向があることは否定できない。

 創価学会・公明党自体の宗教勢力としての保守的な傾向に、彼等が果たしてそれなりの体制変革的な傾向を盛ることができるかどうか、それは当然彼等による池田体制自体に対する大きなゆさぶり、ないしは創価学会体制内の変革につながり、その結果いかんにかかってくることになろう。その意味においては、創価学会・公明党の政治進路も彼等の動きによってだんだんと変化していくこともあるかもしれないが、そのような創価学会内変革の傾向、体質の変化も見方によれば、ファシズムをささえた旧中間層のもつ観念的革新性の次元を出るものではないということもできるであろう。
     ----------(つづく)---------130

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創価学会を斬る-29

2021-01-27 05:19:41 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
 ◆ 他人を「ノロウ」ものの罪 
 ◆ はなはだしい人間性への冒涜
 ◆ 人を惑わす八方美人の罪  (~以上、前掲 P.123~)
◆ 著るしい虚妄と方便
  公明党は、資本主義と社会主義、唯心思想と唯物思想、こうした対立を止揚した高次元の生命哲学に基づく政治理念として中道政治なるものをあげている。
 『公明党の歩み』によれば、「中道政治で平和と繁栄の新杜会」を建設する、「大衆福祉で豊かな生活」を実現する、「戦争のない平和な世界」をつくりあげる等々が、公明党のピジョンとしてずらずらとあげられている。

 ところが、これまでの同党の主張からいうと、人間個人とは、日蓮正宗を信仰する創価学会員にかぎるのではないかという感じがしてくる。これまでの彼等のイデオロギー、彼等の言動からして、そういう傾向は十分にあるといわざるをえないのだ。だからこそ、王仏冥合の達成のために、恐ろしいまでの広宣流布、折伏がつきまとう。種々雑多な世界観や信仰や思想をもつすベての国民が幸福になり、すべての国民からなる社会が繁栄することを願っているのかどうか。学会流でいけば、中道政治でいうところの「個人の幸福と社会の繁栄を一致させ、真の大衆福祉を実現する」ためには、全国民の創価学会員化が必要不可欠の条件になる。

 逆説的にいえば、理想社会の実現は創価学会会員のみが利益をえ、幸福が与えられるということになるということになりはしないか、会員以外は、その資格すらないということにならないか、それどころか、邪教の徒は法をそしる“謗法の徒”として罰が与えられるのが当然である、ということになりはしないか。学会を批判した罰として「佐木氏の不幸」の例をあげるまでもなかろう。
 したがって、中道政治なるものからでてきたさまざまな主張も、そうしたことが前提となっていることを十分認識して、その政策主張のねらいなるものをよく確かめていかなければなるまい。少なくともそういうものは、あくまでも一種のおざなりの主張以上のものではないということを知る必要がある

 ところが、「公明新聞」一九六七年元旦号を見ると、中道主義によって「資本家であろうが、労働者であろうが、人間性という共通の立場に立って、保守と革新、東と西という現在の対立を克服し、信頼と調和による新しき社会を建設」(傍点・引用者)することができるといっている。要するに「人間性という共通の立場」に立てば、何もかも解決できるものであるということである。この趣旨そのものについては異論はない。だが問題は、創価学会・公明党がこのような主張をしているところにあるのだ。
 学会員以外の人間性とか人間の尊厳性を否定しておいて、なおかつこれをいってはばからないところに、精神的欺瞞性があり、この団体の異常性を糾弾せざるをえない所以がある。

 中道政治という表現は、これまでよく民社党がひきあいにだされるが、創価学会・公明党は民社党をどのようにみているだろうかという疑問もでてくる。
 池田会長は作家の松本清張との対話の中で、民社党を意識してか次のように述べている。
 「戦前は、極左か、極右にかたよっており、真の中道はなかった。西洋には極左、極右の他に中道派があった。戦後は、保守、革新の葛藤をみるにつけ、へーゲルの弁証法ではないけれど、時代は中道を欲していることは否定できない。とくにわれわれの中道主義は、民衆から盛り上がったものである。仏法の中道主義という哲学を裏付けにしたものだ。したがって抽象的な軽薄な中道とは全然ちがう。」(『文芸春秋』一九六八年二月号)

 この池田会長の言葉と公明党の従来の主張から判断すると「民社党の場合は中道ではなく中間政党だ」ということになる。
 しかし、矛盾対立を止揚して高次元の別のものを作るという発想は、公明党にかぎったことではなく、少しも珍しいものではない。
 ユートピア思想家は、いずれもそうした理想社会を何らかの形で描いたものだ。日本の戦前右翼の中にもこういう発想をした人はきわめて多く、天皇親政に、資本主義と社会主義を超克する「新らしい世界理念」を夢想したものがいたことは記億に新らしい。
 西田哲学、田辺哲学の発想の中にもこれと類似したものがあり、そういうものから一歩も出ていない、ということがいえるであろう。世界観ないし社会観として、ユニークなものはほとんどないといわざるをえないということである。

 それにしても公明党の経済政策は、資本主義を是認しながら、それにイギリスや北欧三国の福祉政策の薬味をきかし、宗教というコロモをかぶせて、これを煮えたぎった創価学会という油の中で天ぷらにしてあげたようなものである。大同小異であり、コロモはやがてはげるであろうし、あまり高熱の油の中であげた天ぶらなので、中味まで油がしみすぎ、食えたものではないという表現もできなくはない。
 内容的にいえば、旧中間層の一部や観念的で野心的な疑似インテリ向きの政策であり、実効性に欠けているといわざるをえない。
     ----------(つづく)---------127

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